【1st Day】 (the Latter part)


 その後もしばらく、押し問答のようなやり取りがあった。が、晴美も言い合いしている事自体が
足を引っぱっていると気づいたようで、肩を落として部屋を後にした。
 獠と香は、晴美を送り届ける名目でそれに続いた。
 やっと逃げられると獠が安堵したのも束の間、暗くなった屋外は、冷たい雨が本降りになり始めていた。

「あっちゃー、雨かよ。こんな天気で歩くのはパスしたいね」
「もう少し、保ってくれれば良かったのにね……って、晴美さん?」

 何と晴美は、雨など降ってないかのように、駅の方へ歩き出そうとしていた。どことなく、
よろよろとした足取りで。
 獠がとっさに前に出ようとするのも間に合わず、晴美は案の定、濡れたアスファルトに思いきり倒れこんだ。

「きゃあ!?」
「言わんこっちゃない、大丈夫か?」
「あ、すみません。何か、変に眠くて」
「そりゃそうだろ。さっきの般若の顔で分かるさ。あーこりゃマズいな。全身ずぶ濡れじゃないか」

 晴美を抱き起こした獠は、品定めするような目で彼女を眺め回した。
 かなり童顔だが、実際の歳の頃は20代半ばか。その身は吹けば飛そうなほど細い。
否、肝心な部分の肉付きはなかなかの逸品……。

「って、いつまでベタベタしてんのよあんた!」
「ああ、はいはい」

 やむなく香にバトンタッチとなったが、おかげであの男どもの悪夢から救われたと、獠は独り感謝した。

「でも、ホントこれじゃ大変ね。お家はどの辺なの?」
「平気です。近くですから」

 そう答えた晴美の説明は、彼女自身が考えているより長すぎた。

「そんなに乗り換えするの? 無茶よ。何だか寒くなってるし、このままじゃ風邪ひいちゃう」
「だったら……晴美ちゃん、いっそ俺たちの家に来ないか?」

 これぞ名案とばかりに、掌に拳を打ち合わせる獠に、香も同意した。

「そうね。帰ったらすぐにお風呂用意するわ。じゃあ獠、こっちに車回してきて」
「合点承知!」
「え。え? ……え!?」

 目まぐるしく動く事態に、晴美は口をぱくぱくさせるしかなかった。


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 その後、あれよあれよと言う勢いで、気づいた時にはサエバアパートの客間に
腰を落ちつけていた晴美だった。

「本当にすみません。まさかお風呂いただく事になるなんて」
「いいのいいの。ウチってこういう事、慣れてるから。それより、あたしの服だとちょっと大きいかも
しれないわね」
「香さん、背が高いですものね。私よりスタイルもいいし」
「へっ!? 何言ってるの、冗談よして」

 香は豆鉄砲を食らった顔をしつつ、晴美にタオルの一式を差し出した。

「それで。実は一つだけ注意があってね」
「注意?」
「この家には、恐怖のもっこり男が潜んでるの。だから脱衣所もお風呂もきちんと鍵かけて。
それでも何かあったら大声出して。あたしが天誅を下すから」
「はあ……」

 きょとんとしている晴美に、同じ話をもう一度してから客間を出た。
 問題の場所に差しかかると、香は立ち止まった。

「これが1回目ね」
「へ?」

 何事かと晴美が尋ね返す必要はなかった。答えとして聞こえたのは、猫を締めあげたような悲鳴と爆発音。
見るも無惨に脱衣所のドアが吹っ飛び、床に転がる獠を押しつぶしている。破れた雑巾を晴美は思い浮かべた。

「お前なああ! 何度も言うがお前は俺をどうしたいんだよ!」
「どうもこうもない! ココには近づくなと言っとろーが!」

 言うや否や、香の攻撃が始まる。獠は辛くも回避するも、そこに二撃目が放たれる。
こういう時の香の技は神速の域である。

「安心して晴美さん。お風呂場の平和は、あたしが守るわ」
「は……はい」

 そうは言うけど、これじゃ脱衣所の鍵、かけられないんじゃ……?


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 心配しながらの入浴時間は、やはり心許なかった。30秒に一度は破壊音が、2分に一度は絶叫が炸裂する。
冴羽さんて物凄く猫かぶりしてたのね、と晴美もようやく理解した。無念無想でやり過ごして出た後、
居間からの騒がしい声に足を向けると、二人の追いかけっこが目に飛びこんできた。

「白状しなさい獠! あんた晴美さんのブラジャーどこに隠したの! 全部洗濯しなきゃいけないのに!」
「だから俺それは知らん! それだけは濡れ衣だ!」
「『だけ』って事は、やっぱり服あさってるんじゃない! そこに直れっ!」
「わわわわ、お助けーっ!」
「香さん?」
「お風呂どうだった? ちょっと待っててね、この不埒者から取り返さないといけないから」
「それはあの、違」
「ああいうのは早く乾かさなきゃ。けっこう高いんだし」
「違うんですっ!」

 急に声を大きくした晴美に、獠と香はぴたりと動きを止めた。

「私、ブラジャー、もともと使ってないんです。その、えっと…………小さいから」
「あ……」
「う……」

 何とも言いがたい、間の抜けた声が二人からこぼれた。
 香は顔を赤くしたり青くしたりしながら、晴美に向き直った。

「ご、ごめんなさい晴美さん!」
「いえ、いいんです、私こそ本当にごめんなさい!」

 競うように平身低頭し合う女性二人。そこに、獠は手をメガホンの形にして、歌うように香をからかった。

「やーいやーい。せくはらー」
「おのれにだけは言われとうない!」

 言いざまに、香は獠を張り倒した。


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 かくて入浴が過ぎ、夕食が過ぎ、夜は更けていく。晴美としては、何とものんびりとした時間が流れていた。
 香の作った食事は、店にでも出せそうな味だった。獠があれこれと批評していたのが気になったが、
香は「いつもの事だから」と言って軽く受け流していた。
 食後に(これも香が淹れた)コーヒーを飲みながら、獠は晴美に告げた。

「今日はもう遅いから、泊まっていくといい。
 というより、しばらくはココから会社に通ってもいいんじゃないかな」
「えっ?」
「ちょっと獠……」

 意外な提案に面食らう香を余所に、獠は柔らかい眼差しを晴美に向けた。

「黒田ってのも言ってたろ。今の君に必要なのは休息だ。君の自宅から長時間かけて移動するより、
ココを拠点に行動した方が合理的だと俺は判断する。睡眠時間も確保できるしね」

 やや堅苦しくも聞こえるが、理系タイプにはこういう言い方が効く事を、獠は経験している。
 晴美は数秒考えた様子の後、毅然と獠に頭を下げた。

「分かりました。今手がけてるプロジェクトの間だけお世話になります。モチロンお金は払いますから」
「結構」

 満足げに笑って、獠はカップを乾した。


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 晴美を客間に送ってから香は、居間のソファで体を長くしている獠の前に立った。

「ねえ、あんた一体どういうつもりなの」
「……」
「そもそも今回は、依頼として成り立ってないのよ? あんたがその、『ミックルーク』だっけ、
その人だって名乗れば、話は終わりなんだもの。どうすんのよ、無関係な晴美さんを泊まらせたりして」
「無関係、ね」

 獠は身を起こすと、困ったような顔で頬を掻いた。

「やっぱりこれは、お前じゃ気づけないか」

 獠はポケットから銀色の粒をつまみ出し、テーブルに置いた。

「何コレ。ボタンじゃないわよね」
「発信機と盗聴器を兼ねた電子媒体だ。晴美ちゃんの服に付けられてた」
「えっ!?」
「しかもコレは素人が扱える規格じゃない。プロが使う代物だ」
「それって……!」
「彼女は狙われてる。理由は分からんが。これでも彼女を家に帰せって思うか?」
「ううん、ごめん。まさかそんな事になってるなんて。それで、そのボタン……じゃないけど、どうするの?」
「もう無効にしてあるが、駄目押ししとくか。ほれ、手ぇ出せ」
「手? って、わっ!? いきなり押しつけないでよ」
「こーゆーのはお前に渡しときゃ、間違いなく壊れるからな」
「もう。ひとが気にしてる事言わない」
「これでも当てにしてるんだぜ。じゃ、俺は部屋に行くから。明日からよろしく頼むぞ。パートナーさん」
「……うん」

 香の髪をくしゃりと一撫でしてから、獠はドアを開けて去って行った。香は胸に温かい物を感じていたが、
やがて冷静になって気がつくと、廊下を走って獠の前に回りこんだ。

「ねえ獠、あんた自分の部屋に行くのに、どうしてこっちへ歩いてんの?
 もうココ、客間のすぐ前なんですけど」
「あ、バレた?」
「当たり前だーっ!!!!」

 またも始まった鬼ごっこ的バトルロイヤルの騒音は、夜通しアパート全体に響きわたっていた。




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