千の夜を越えて

「リョウ。今日お昼、何にする?」
 自室にいたら質問が来た。
「何でもいいよ」
「そういうのが一番困るの。もう、あの時とは大違いね」
「あの時?」
「お皿洗い代わってくれた時。一体どういうつもりかと思ったわ」 
「理由なんてねーよ。強いて言えば、暇だったから」


「……そうよね。理由なんて要らないわよね」
 一人で納得している。
「はい、コレどうぞ」
 香は後ろ手から腕を回し、包まれた小箱を差し出してきた。半ば反射的に受け取ってから訊いた。
「何だよコレ」
「強いて言えば、お皿洗ってくれたから」


 言い回しを真似されると何となく気に入らない。
「物もらいたくてやったわけじゃないぞ」
「じゃ、そうね。前にあげた腕時計は壊れちゃったから」
「『壊れた』って言うのか? あれ」
「とにかく! もうあげたから。大事にしてね、それ骨董品だからもう買い直せないし」


「へいへい、じゃあ早く飯にしてくれ。これからリョウちゃんお昼寝すっから」
「はいはい」
 香は廊下へ足を向けた。
「やっぱり言っとくわ」
 振り返る。まっすぐな目を向けて。
「ごめん。あたし、気づくの遅くて」
 意図を探る前に、解は出た。
「あの時、皆の前で歌ってくれて、ありがとう」


検出される不正な値。致命的なエラー。ビジー状態。フリーズ。クラッシュ。
再起動不可。シャットダウン不可。想定範囲外。否、無意味な文字列でゴマカすな。
鼓膜が捉えた音声を認識しろ。バカ言うな、そんな事くらい分かってる。
ただ、認めるのが遅れただけ。この間、約0.2秒。


「香……っ」
 呼びかけようと声を出すのは更に遅れた。香は気づかず、部屋を出て離れていく。
いまさら呼び止める事は出来ない。追いかけて問いただせば、きっと今のこの雰囲気は
途切れてしまう。いつも通りの騒々しい日常に戻るだろう。


 持っていた小箱を改めた。慎重に包装をほどく。出てきた物は、何とも古びたオルゴールだった。
ざっと30年程度は昔の物と推測できる。側面に銘打たれた英語と日本語に目を凝らした。
 『Over night / 千の夜を越えて』。表記は異なるが、奇しくも自分が歌った曲の一つと同じ。


 自然な流れで、ねじを巻き、箱のふたを開いた。ベッドの端に置いて、体を長くした。
 お決まりの、か細い音色が流れ始めた。
 聞く内に、妙な気持ちになった。自分はこれを聞いた記憶がある。いや、一度もない。
デジャブというのは既視感だから、これは既聴感と呼べばいいのか。


 ありえない記憶がよぎる時がある。今とは違う景色。会った事のない人たち。想像し得ない悲劇。
先日の夜、香が似たような事を言い出した時は、不覚にも驚いた。
今抱くこの感情もまた、そういった遠いどこかの出来事かもしれない。


 それは、あったはずの歴史。この国のどこかで、ありふれた食卓で、名前を呼ばれ、
ろうそくの火を消し、贈り物を渡される。
その子は意味をまだ分からないけれど、微笑む皆に自分も笑う。
そこに流れる、オルゴールの旋律。子守歌を聞きながら、彼は眠りに落ちる。明日を夢見て。


 司る神々よ。上位たる者たちよ。
 今だけは彼に一時(ひととき)の安らぎを。
 ただ一人除き、何人(なんぴと)たりとも、彼を起こしたもう事なかれ。
 千の夜を越え、風に運ばれ、その心がどこまでも行けるように。


「ほらリョウ、起きて。ご飯冷めちゃうわよ? 早くしろって言っといて寝ちゃうんだから。もう」





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