声のない世界

「お医者さんが言うには、丸一日までの辛抱だから。早く治るといいわね」
 香の言葉に、リョウは黙って頷いた。無理がたたって喉を傷めた昨日の夜。下手にしゃべり続ければ、人生が終わる。「一生、元の声に戻らなくなりますよ?」と忠告されたほどだ。


「そういえば、今日のこの夕食どうだった? 香辛料使えないから、あんたの好みじゃなかったでしょうね」
 気軽に尋ねてしまって愚問と気づいた。相手は答えられないのに。焦ってリョウを見ると、思案顔と目が合った。ゆるゆる首を振られる。
「ホント?」
 ゆっくり首肯。
「そう、良かった。じゃ、あたし片づけてくるから」
 立ち上がろうとしたら、手で制止された。
「何? まさか……今日は代わりにやるって?」
 こくり。
「そんな。別に気にしなくても」
 噛みつきそうな目でにらまれた。
「分かったわよ。好きにして」


 夜が更けていく。日付の変わる頃には24時間たって、沈黙すべき時間は終わる。香は手持ち無沙汰に、ソファに何度も座り直していた。日頃は、何かと言ってリョウが騒ぎを起こすのを自分が止めるのが常だが、そのやりとりが無ければ、こんなにも静まりかえる事を、はじめて知った。

 香は、横目で相棒を見た。今夜は夜遊びも出来ないからと、細かい活字の本を読んでいる。黒目がちの双眸。すらりと下りる鼻梁。いつもは緩んでいる口は、今は結ばれている。疲れたのか、眉間を揉み、背中を反らす。年かさにも見える、そんな仕草を見るのは珍しかった。


 違う。
いつも見てた。リョウが目を細める時を。違う。あたしは知らない。違う。あたしは知ってる。覚えてる。もう歳だっていう振る舞いを。それはありえない記憶。遠い過去、それとも未来。ここではないどこか。胸が激しく痛む。笑い声が聞こえた気がした。


「リョウ!」
 考える前に、すがりついていた。リョウはあっけに取られた顔で、本を落としたのも気にかける事なく、香を見下ろしていた。香は努めて冷静に言った。
「どうしよう、リョウ。あたし思い出した。すごく怖い夢、だったと思う。でも、実際にあった事みたいに覚えてる」

 たどるように告げる。
「その夢であたしは幽霊で、呼んでも聞こえないの。リョウは一人で泣こうとしてるけど、声が出ないの。今みたいに。喉をかきむしるように苦しむだけで、何も言えないの。今みたいに。だから周りの人たちも、どうしていいか分からないの。今みたいに!」
 次第に早口になる。

「そのうち、リョウはもっと歳をとって、小さくなって。でもあたしは何も出来ないの。見てるしか出来ないの。あたしは腹が立った。神様を殴り飛ばしてやりたいって思った。でも、そもそもはあたしが居なくなったのが悪くて、リョウは悪くなくて、あの子だって何も悪くないのに!」

 もう自分で何を言っているのかも分からない。香はリョウにしがみついたまま、嗚咽を繰り返した。
リョウは僅かに瞠目し、口を開きかけ、また閉じた。香の髪を指で梳いてから、もう片方の手を自分の服のポケットに差し入れた。

 泣いているのを邪魔するように、香の持っているスマホが鳴った。何もこんな時にと鼻白んだが、依頼だったら困る。香はタッチペンを構え、不得手なスマホを操作した。見た画面にあるのは、受信1件。差出人名は、冴羽リョウ。


『大丈夫』        一言だけの表示。
『夢は夢だから』      すぐに次の受信。
『現実はここだから』     流れていく言葉。
『俺はここにいる』       語りかけるように。
『ずっと一緒に生きる』      声に出せなくても。
『約束する』


 香は画面から目を離し、リョウを見つめた。あるのは、仮面のような無表情。その代わりにか、スマホの画面を見せてくる。香が受け取った文面が確かに書かれている。細工も仕掛けもない証拠。リョウは再び操作しようとして、しかしその手を止めた。スマホを放り出し、香を抱き寄せた。


ここから先を明かすのは野暮。ただ、一つだけ述べるべき事柄がある。リョウが最後に送信しようとして、結局保留となった文言。

『今度こそ』




 その後。無事に復帰したリョウは、香に何度目かの懇願に挑んでいた。
「後生です香様! どうか俺のあのメッセージ消して下さい! あんなもん残すなんて、新宿の種馬の名折れだ!!」
「うっさいぁ、もう……あんた、ずっと黙ってた方が世のためだったんじゃないの!?」





Home


inserted by FC2 system