2.


やがて姉も私も成長した。姉は日本の大学を卒業した後、銀行に勤め始めた。
一方、私は彼らの中で比較的重要なポストに就けた。
故にゆえに彼らから私への目は緩やかになり、私たちは許可さえ取れれば、
彼らの気配のない――少なくとも私は感じない――
場所でお茶や食事を味わえるようになっていた。
が、だからと言って、自由になったわけではない。寧ろ逆だ。
一応大人になった私には、彼らへの畏怖が充分にしみ込んでいた。
もはや彼らが見張る必要はなかったのだ。

姉とする話は、いつも他愛ない物だった。
姉のする仕事や流行の話に、私が相槌を打つのが常だった。
たまに私が研究の話題を述べる時もあるが、話すと数十秒で
姉が呆気に取られたような顔になるので、控えるようにしていた。

だがその日、私は決意を固めていた。
初めて出会った時から感じていた疑問を、今日こそ尋ねようと覚悟していた。
あの時に限らず、姉は時折あらぬ空間を見つめている時がある。
大抵は人の頭上や背後だ。
私はその日までに得た知識と経験を総動員して、この疑問を解く答えを導いていた。
突飛な考えかもしれないが、笑われても構わなかった。

私は尾行されてない事を確かめつつ、姉の職場へ向かった。踏切を越えた、
交差点近くの目立たない建物だ。銀行名の書かれた看板も、心なしか地味に見えた。
大きな金額を扱う事の多い所にしては、というより、扱う事が多いからこそ、
このような外観にするのだろうと私は考えた。

建物の中に入ると、冷房がひんやりと体に当たった。
日付の関係から、それほど混んでいなかった事に私は安堵した。
端の窓口を見やると、制服を着た姉の姿があった。長い髪を一つに束ね、
度の入っていない眼鏡をかけているので、実年齢より幾らか老けた印象を受ける。
その代わりのように、口許を彩る紅が鮮やかだった。

私は窓口へ歩き、姉に呼びかけた。

「お姉ちゃん」

「えっ?」

姉は驚いたような声を発し、顔を上げて言った。

「あら、志保。どうしたの? 今日の待ち合わせは確か」

そこまで言ってから自分の腕時計を眺めて、姉は私に確認した。

「もう少し先の時間よね。ごめん、今忙しくて体空かないのよ」

「分かってる。それじゃ今日は、いつもの時刻に、いつもの場所で」

「オーケー」

姉は右手指でマルを作って微笑んだ。私は窓口から離れた。自動ドアから外へ
出ようとした時、ふと私は後ろに振り向いた。白髪の老人が、姉の窓口に立っていた。

老人は、通帳を取り出して姉に頼んだ。

「あの。お手数ですが、この通帳を新しい物と変えて頂けませんか」

「あ。申し訳ございません、お客様。あちらで整理券をお取りになって、
お席で順番をお待ち下さい」

「ああ、そうか。順番は守らなくちゃいけませんよね」

会話は至ってのんびりとしたテンポで進んでいた。しかし私は見た。
姉は例によって、あらぬ空間を――老人の背後を強張った表情で見つめていた。

姉は顔の強張りを隠しつつ、老人に尋ねた。

「お客様。本日は徒歩でいらしたのですか?」

「いいや、今日は体の調子が良くてね。自転車で来たよ」

「そうですか」

姉は愛想笑いを浮かべて相槌を打ってから、さりげない口調で老人に告げた。

「でしたら、くれぐれもお気をつけてお帰り下さいませ。特に交差点などは」

「はい、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。今日は天気も良いし」

元気な声を張り上げる老人とは裏腹に、姉の表情は硬いままだった。

老人は自分の用事を済ませると、かくしゃくとした足取りで自動ドアへ歩き、
私の横を通り抜けて出て行った。私は足早に老人の後を尾けた。

老人は自分の言葉通り自転車を走らせた。
私は半ば駆け足で老人を追ったが、見失ってしまった。
私が呼吸を整えてから改めて歩き始めた直後、ガラスを擦るような不快な音が、
私の鼓膜に突き刺さった。私は全速力で音の出所へ走った。

目的地に着く前から、野次馬達の叫び声が聞こえてきた。

「事故だ!」

「爺さん、生きてるぞ! 救急車だ」

「おい、降りて来いよ、あんた!?」

あのような光景を見るのは、あの時で何回目だっただろうか。前方が破損している
乗用車と、本来ならありえない形に変わっている自転車と、横たわる老人と。
その時、交差点の角にあったのは、どう見ても交通事故現場そのものだった。

間もなく救急車とパトカーが到着した。私は巻き込まれない内に、その場を去った。

その後、老人がどうなったのか私は知らない。ただ、無事でない事は確かだ。
もっと言えば、十中八九、亡くなっているだろう。私はもう幾度も目撃しているのだ。

姉が誰かの周囲にある空間を見ている時。それは必ず、その相手が死ぬ時なのだ。

かつて一緒にバスに乗っていた時も、やにわに姉は私を連れて途中下車した。
本人は気分が悪くなったからだと言っていたし、そのじつ顔色は悪かったが、
そのバスは次の停留所で事故を起こしたそうだと後日知った。

姉は人の死を知る事が出来る。私は、そう確信した。
そして姉は初めて私に会った時、私の頭上を見つめていた。
これが何を意味するのか、私は認めるのが怖かった。
死ぬのが怖いというより、姉と別れてしまうのが怖かったのだ。

私は真っ直ぐに待ち合わせ場所へ向かった。
駅前広場の中央にある噴水が、私たちの逢瀬の場所だった。
普段なら人通りが多くて疲れる場所だが、その日だけは特別だった。
私は度々、腕時計の針に目をやった。
後四分、後三分と針が進む度、私の緊張は増していった。
出来る事ならば、この時が永遠に続いてほしいとさえ思った。

後何分残っているだろうと、腕時計を見ようとした時、左肩を叩かれた。
私は顔を上げた。私の目の前に、姉が立っていた。
姉は制服から私服に着替え、眼鏡も外し、化粧も落としていた。
私のよく知っている姉だった。

「お待たせ、志保」

「うん」

「もしかして、ずっと待ってたの? さっきも銀行に来ちゃってたし」

問いを投げてくる姉に、私は恐縮して答えた。

「ご、ごめん。昨夜寝つけなくて、今朝も早く目が覚めちゃって、その」

「いいのよ、謝らなくて。私も待ち遠しかったんだもの」

姉は笑顔で応じてから、私の左手を取った。

「さ、それじゃ行きましょ」

「ええ」

私たちは歩き出した。





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