Missing Link (Case 2)

灰原哀は、ドアの表示を確認してから中に入った。
壁の鏡を覗きこむ。
そこに映っている物は、しかし自分の顔ではない。
本来の大人の顔でも、薬物によって自ら変えた少女の顔でもない。
黒い髪、黒縁眼鏡、白いマスク。そして、襟には蝶ネクタイ。
帝丹小学校1年B組男子・江戸川コナン。ソレが、今の彼女の外見だった。

「まったく」

人影ない男子トイレで、彼女は誰にも聞こえない小声で独りごちた。

「どうしてこんな事になっちゃったのよ」





最初は些細な話だったのだ。
彼女はとある事情から、コナンが元の姿である高校生・工藤新一に戻っている間の
代役を引き受けた。

背丈が同じくらいだから。ほぼ同じ運命を辿っている身だから。
差し当たっては、そんな事が理由だった。

そしてコレは、昨日の日曜日だけ、彼が人目を忍んで想い人に会う間だけの仕事。
ソレで済むはずだった。

それなのに。あの大バカ野郎は、とんでもない事をしてくれた。

こうして翌日の月曜日も、哀が――コナンとして――小学校に行く羽目になったのが
その結果である。当の新一は、いまごろ高校の方にいるはずだ。

元の姿に戻った彼の無防備さには、言うべき言葉が無かった。
自分たちが命を狙われている事さえも、彼は忘れてしまっているとしか思えなかった。
そんな風に呆れてしまった事もあり、哀は彼に与えた解毒薬についての詳細も
話しそびれてしまっていた。厳密な有効時間なども、伝えておかねばならなかったのに。
でもまぁいいか、とも哀は思う。こちらに尋ねてこなかった、向こうが悪いのだ。

……大人げないかしら、こういう考え方って。

「おいコナン? ――コナン?」

「え?」

教室での哀は、ハッと我に返った。自分のそばの席に座っているクラスメイト・小嶋元太が
睨んでいる。円谷光彦と吉田歩美も不審気な表情を向けている。

「ひとの話、聞いてんのかよ」

「さっきから、ずっとボーッとしてますね」

「大丈夫、コナンくん?」

「あ、ああ」

哀は慌てて頷いた。
元太はまだ不満そうに、

「ったく、それにしてもツイてねーよな。
コナンが治った途端、今度は灰原が休みだなんてよ」

「そうですよね。これじゃ少年探偵団も活動停止ですよ」

と、光彦は相槌を打って、

「やっぱり、お見舞い行ってあげましょうか? お花でも持って」

「そうだな」

「!?」

哀は絶句した。ソレはマズい。すこぶるマズい。

「そ、ソレは、あの」

どうやって止めようかと、焦りつつ考えた時、歩美が言った。

「ダメだよ、そんなの。女の子は男の子に風邪引きさんなんて見られたくないんだから。
ねぇコナンくん?」

「え? あ、うん」

促す歩美に釣られて、哀は思わず返事した。
そのとき歩美が一瞬だけ浮かべた表情を、哀は不覚にも見逃していた。


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授業は平穏に過ぎていった。
元々コナンも哀も、本来は義務教育を終えている年齢である。
いまさら文字や数字の書き方だの、四季の移ろいについてだのを学ぶ必要もない。
それに仮にも病み上がりの身であるから、担任教師も無理強いはしてこない。
会話に詰まった時は、激しく咳きこんでゴマカせば何とかなる。
その代わり、喉が本当に痛くなってくるが。

体育の授業が今日の時間割に無かったのは、幸いだった。
コナンなら風邪を引いてようが何だろうが、体育には出席する。
球技――特にサッカーなどは、彼にとって恰好のストレス解消時間なのだ。
代役を成し遂げる自信は、哀にも無い。

問題は、昼食だった。

配膳された給食の前、哀はマスクに手をかけて、しかし躊躇した。
怪盗でもない哀がコナンの声で喋れるのは、発明家・阿笠博士製作の
このマスク型変声機があるからである。
コレを外せば、彼女は声を発する事は出来なくなる。それに顔を覗きこまれたりした場合、
変装を見抜かれる恐れもある。だが食事に全く手をつけないわけにもいかない。

結局コッソリとマスクを外し、俯いて食事をする事になる。
スープを一口、ミルクを一口、パンを一口……。

「いっちばーん!」

暫し後、威勢よく声を上げて立ち上がった子供は、やはり元太である。

「あ、光彦。お前プリン残すならくれよ」

「ダメですよ。ボクも要るんです」

「ちぇ」

舌打ちして、今度は哀の所にやって来る。哀に視線を向けて、

「アレ? コナン、お前――」

……気づかれた!?

哀は大慌てでマスクを付け直して顔を上げ、

「な、何だよ。プリンなら勝手に持ってっていいから」

「イヤ、そうじゃなくて。お前、ソレ食えたんだっけ?」

「?」

哀は改めて机を見た。

「あ……」

忘れていた。コレだけは手を付けてはならなかったのだ。
コナンをして「人類の食い物じゃない」とまで言わしめる、コレだけは。
しかし残念ながらレーズン入りの食パンは、既に半分が盆から消えていた。
どうやってゴマカすべきかと哀が思った時、甲高い声が二人の間に割って入った。

「あーっ! えらーい、コナンくん。苦手なのもちゃんと食べてる」

「よ 、歩美ちゃん?」

「わ、何だよ歩美」

と、元太もギョッとした顔になるが、歩美はそんな事などお構いなしに、

「ホラ元太くん、ジロジロ見てないの。食べづらいでしょ? ねぇコナンくん?」

「あ、ああ」

「何モメてるんですか?」

とうとう光彦まで首を伸ばして来た。哀のトレイをチラリと見てから、

「元太くん。まさかコナンくんのプリンまで狙ってるんですか?」

「ち、ちげーよ。オレはただ」

「ホラ、ソコのあなた達。無闇に立ち歩かないで」

と、担任の小林澄子教諭が声をかけたため、彼らの騒ぎは一応収まった。



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昼休みも終わり、やっと本日最後の授業になった。

「それでは、今日は今までのまとめをしてみましょう」

音楽室のピアノの席に腰掛けて、小林教諭は明るく言った。
代わって子供たちが席から立ち、教科書を広げる。哀も倣った。

……これで、全部終わる。

普通にやればいいんだ、それでいいんだ、と何度も自分に言い聞かせる。
そんな哀の苦悩を知る由もない小林教諭は、子供たちに笑顔を向けて告げた。

「恥ずかしがらず、大きな声を出しましょうね。それでは、いち、にい、さん ハイ」

という合図を境に、旋律がピアノから流れ始めた。
ごく普通の童謡である。取り立てて、特徴のある物でもない。
もっとも、ソレはあくまでも大人の見地。子供たちは、懸命に楽譜を追っていく。
教師の演奏と、子供たちの歌声は、まさに完璧なハーモニーを紡いでいく。

……後、もう少し。

残り2小節になり、1小節になり――メロディが、終わった。
小林教諭は、ピアノの鍵盤から指を離した。
教室は、しんと静まりかえっていた。
小林教諭も無言を保っていたが、やがて立ち上がり、子供の一人――哀の前へ歩いた。

「江戸川くん」

「え? あ、ハイ」

……私、何か不自然な事でもした?

当惑する哀を前にして、小林教諭は――大粒の涙を零した。

「!?」

「やったじゃないの、江戸川くん! 
初めてじゃない? 一度も音程が外れなかったなんて。
でもあなたなら、いつか必ず出来ると思ってたわ。
先生は、先生はこの日をどんなに待ち望んでたか」

「……」

感激している小林教諭とは裏腹に、哀の口の中には確実に苦い物が広がっていった。
小林教諭の態度は、当然といえば当然だった。
赤ん坊の泣き声の方がまだマシと思える程度の歌唱力。
ソレが、コナンにとっての平常なのだ。
“普通に”歌っては、絶対にいけなかったのだ。

見ればクラスメイト達は全員、こちらに心から賞賛の目を向けてきている。
やがて誰かをきっかけに、拍手の音が鳴り始めた。音は次第に大きくなった。
教室の者たちは皆、実に和やかな空気に包まれていた。
――ただ独り、哀を除いて。



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帰り道でも、音楽の授業の話題は続いていた。

「ほんとビックリしたぜ」

と、元太はどこかしみじみとした口調で、

「なぁコナン、お前いつの間にあんな上手くなったんだよ」

「そんな……たまたまだよ」

「そんな事ないですよ」

と今度は光彦が力説する。

「でも惜しいですね。武道館の代役の時とか、あれくらい歌えてたら良かったのに」

……そういう事は、本人に言ってくれない?

などという反論は、今の哀には出来ない。
やがて、別れ道に辿り着いた。
歩美は哀に手を振って、

「それじゃまたね、コナンくん」

「ああ」

「また明日な」

「体、気をつけて下さいね」

それぞれ言葉を交わして歩いて行った。
哀も家路に向かった。 コナンが居候している毛利家に。
ふと、虚しい気持ちにおそわれた。

「何やってるんだろう……私」

「コナンくん」

「!?」

突然かけられた呼び声に、哀はビクリと振り向いた。
去ったはずの歩美が、すぐ後ろに立っていた。

「あ……歩美ちゃん」

と、哀は何とか慣れてきた呼び方をしてから、

「どうしたの? そんな怖い顔して」

「あなた、誰なの?」

「え」

顔を強張らせる哀に、歩美は質問を繰り返した。

「ねぇ。誰なの、あなた?」

「な――、何言ってんだよ、歩美ちゃん。オレはオレに決まって――」

「嘘」

「……」

「最初は、気のせいかなって思ってた」

歩美は訥々と語り始めた。

「風邪引きさんだから、違う感じがするのかなって思ってた。
でもやっぱり違う。あなたはコナンくんじゃない」

次第に声が震えだす。

「ホントは、皆の前で言いたかった。でも言えなかった。
よく分かんないけど、言ったらコナンくんにもう会えなくなっちゃうような気がして。
でも、もう我慢できないよ」

両の瞳が、涙で潤んだ。

「ねぇ、もしかしてコナンくんに何かあったの? 何があったの? 教えてよ。ねぇ!」

……嘘でしょ?

哀は言葉を失っていた。
実情を見抜かれている事も驚きだったが、それよりも驚異なのは、
相手がまだ幼子であるという事だった。
これで齢7歳とは、とてもではないが信じられなかった。

「お願い! 返してよ、コナンくん返してよ!」

泣きじゃくる歩美に、哀はゆっくりと近寄った。ポンと肩に手を置いて、言った。

「負けたわ」

「へ?」

「江戸川くんも幸せ者ね。こんなに想われて」

「あなた……」

「付いて来てくれる? そうしたら、教えてあげるわ」

と、哀は肩を竦めた。

「ただし、教えられる範囲でね」



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哀は歩美と共に、改めて自分の家――阿笠家へ向かった。

「ただいま、博士」

「ん? ああ、おかえり……え?」

玄関に出て来た阿笠は二人を見て、慌てて言葉を止めた。それから上擦った声で、

「あ……い、いらっしゃい、二人とも! だが、すまんな、その、今日は、あの」

「いいのよ博士。彼女に対して、演技は必要ないわ」

「!?」

「さぁ、入って。話はそれからよ」

「う、うん」

哀に導かれ、歩美はやや緊張気味に玄関を通った。
哀は苦笑交じりに阿笠に言った。

「博士。やっぱり私、怪盗にはなれないみたい」

「え?」

「探偵さんに見抜かれちゃったもの。他の人は何とか騙せても、彼女だけは例外だった」

哀はドアを施錠してから、おもむろにマスクを外した。歩美に振り向いて尋ねた。

「よく見て。コレが私の答えよ。私が誰か、あなたなら言わなくても分かるわよね?」

返事は聞くまでもなかった。歩美は目を大きく見開いて、眼前の相手の名を呼んだ。

「灰原さん……でもどうして灰原さんが、コナンくんのふりなんて」

「ソレは、教えられないわ」

「そんな……」

「ゴメンなさいね。でも一つだけ、ハッキリ言える事があるわ」

「何?」

「彼は今、極めて個人的な理由で一時期だけ姿を消してるの。
だから彼が戻って来るまでは、絶対にその事を隠しておかなければならないのよ。
ソレが彼のためでもあるの」

「コナンくんのため?」

「そう。私があなたに本当の事を話したのも、
あなたなら秘密を守ってくれると思ったからよ。
もし彼を大切に思うなら、今日の事は絶対に内緒にしてほしい。分かるわね?」

「灰原さんが、そう言うなら。でも……ホントにコナンくん、帰って来るの?」

「帰って来るわ。遅くても明日には、必ずね」

「ホントにホントだね? 約束だよ?」

「ええ、保証するわ。 ――ねぇ博士?」

「へ?」

突然に話を向けられた阿笠は、目をしばたたかせてから頷いて、

「あ、ああそうだ。安心していいぞ」

「……良かった!」

歩美は途端に顔を綻ばせた。

「良かった! 思いきって聞いてみて、ホント良かった。
約束したもんね、灰原さんと秘密の約束したもんね!」

はしゃいでいる歩美の目を盗んで、阿笠は小声で哀に問うた。

「オイ哀くん、本当にこれで良かったのかね? 新一くんの許可も取らずに」

「いいのよ、これで。吉田さんの気持ちの方が優先よ。それに」

……彼女の勘を侮らない事ね。彼女ちっとも、子供なんかじゃないわよ。

「ん? 今何か言ったかね、哀くん?」

「ううん、何も言ってないわよ。何もね」

と、哀は目を伏せて首を振った。


〈了〉





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