≪SCENE 3≫


この時、平次が取った態度を責められる者はいないだろう。
目は丸く見開かれ、口も大きく開いたまま。一瞬だけだが、茫然自失に陥っていた。
だがそれでも探偵を名乗るプライドで、平次は何とか理性を呼び戻した。
その結果弾き出された推測は、やはり「記憶喪失」の四文字だった。

「ねぇ、あんた一体誰なんだよ。ひとの家に勝手に上がりこんでさ」

「イヤそれよりも、そういうお前は自分が誰か判とんのか?」

「住居不法侵入者に名乗る名前はないよ」

と、少年は言い捨てる。だがその物言いはどこか舌足らずで、聞き取りにくかった。

「もう、父さんも母さんも何やってるんだか」

独りで文句を垂れながら、少年は平次を押し退けた。部屋を飛び出し、廊下を駆ける。

「父さん、母さん! 変な人が家にいるよ。ねぇ、誰もいないの、ねぇ!」

「な……お、オイ待て!」

大声で喚きながら走る少年に、平次はダッシュで追いすがった。
階段を下りて、書斎の入口――玄関前で捕まえた。

「ちょ……ヤダ、放して! 放してったら」

「放したらお前は逃げるやろ。それより工藤、お前ひょっとして今トンデモナイ事に
なっとるんと違うか? 何もかも分からんゆうよりも、正確には」

「何言ってるんだよ、あんた! オレは自分の名前くらい言える!」

と、少年は自分なりに精一杯の抵抗をしながら、平次の導いていた結論を述べた。

「オレは帝丹小学校1年B組・工藤新一! そういうあんたは誰なんだよ!」





腰が抜ける、という状態を平次は生まれて初めて実感した。
予想していた事とはいえ、こうも断言されてしまうとダメージが大きい。
気合を入れて全身に力を入れて、どうにかこうにか立ち上がった。

……しかしなぁ……記憶喪失やのうて、言わば記憶後退か。何でこないな事に……。

「ねぇ、いい加減にあんたも名乗れよ」

「ハイ?」

「オレが名前を名乗っても、名乗らないっていうなら。今度こそ本気で大声出すよ」

今やらかした大騒ぎさえ、この少年の本気ではなかったらしい。

「あ、そう。名前ね。オレは平次。服部平次や」

「ふぅん。それで? その平次さんは何でオレの家にいるの?」

「何でて、そらオレはお前の」

そこまで言って、平次はハタと口を噤んだ。お前の――何と言えば良いのだろう?

「オレの?」

「せやからお前の――そう、博士の知り合いなんや。
博士の知り合いが、たまたまオレとも知り合いでな。分かるか?」

「へぇ……」

と応じる少年の顔や声には、まだまだ警戒心が漂っている。
ふと起きたら見知らぬ男が自分の部屋にいたのだから、無理のない事かもしれない。

「じゃ、その博士は今ドコなの? 阿笠博士が証明したら、あんたの話も信じるよ」

「え」

「お話出来ないの? だったら」

「あーあー、分かった分かった。今連絡つけるよって」

確か予め聞いていた話では、阿笠は今日は遠出しているはず。
携帯電話を持って出ている事を祈りつつ、平次は手帳を取り出した。

……工藤から電話番号聞いといて良かったわ。何が何に役立つか分からんな……。

「へ? ちょっと何なのその手帳、変だよ」

「あん?」

「だって10の桁が間違ってるよ。何で?」

「!」

平次はハッと自分の手帳を引っくり返した。型押しで小さく書かれているのは、
4桁の数字――今年の西暦である。少年はコレを読み取ったのだ。

「ソレって誤植じゃないよね。中身ならともかく、表紙だもんね」

「ああ、まぁ」

「それじゃオレは今、まさか、そんな」

少年の顔色が、みるみる青くなっていく。気が付いたのだ。異質なのは平次ではなく、
自分の方だという事に。

「あっ工藤、落ち着け。オレが説明したるから」

と、平次が取りなそうとした時、電子音が鳴り響いた。軽妙で規則的な旋律。

「な!? 何、何? 何の音?」

「何てお前ソレ、自分の携帯の音やろ。ポケットの」

「けーた……?」

「ったくもう、切れてしまうで。ちょお貸しや」

「わっ」

問答無用。平次は少年の服から携帯電話を奪い取った。アンテナを伸ばして
通話スイッチをONにする。その一連の動作を、少年は唖然と眺めている。

『おお新一くん、ワシだ。今どうだね? 問題ないか?』

平次が電話機を耳に当てた途端、しゃがれた声が耳に飛びこんできた。

「あ、あんた阿笠博士やな。ちょうど良かった。今こっちから電話しよ思てたトコや」

『うん? そういう君は、確か』

「大阪に住んどる服部平次――て、んな事はどうでもええ。
何や知らんけど、工藤がケッタイな事になってしもてな。
あんたの今の口ぶりやと何や心当たり有るみたいやけど、どうなんや?」

『何だと? そうか、やはり起こってしまったのか。参ったな、認識が甘かったか』

「コラコラ、独りで勝手に納得すんなや。オレにも分かるように説明せい」

『ああそうだな、実は……』





「何やて? 身も心も小学生化?」

『そう。ソレが昨日、新一くんとワシが話した内容だ。本人は大丈夫だと言っていたが、
何か相当のショックが引き金になったのかもしれん。思い当たる点はないかね、君』

「は、はぁ」

そうなると、やはり自分の酒のせいなのだろうか?

「けどジイさん、工藤はオレにそんな話、一言も言うてへんかったで。
さっきも健康や言うてたし――」

と自分で言ってから、慄然とした。確かあの時コナンは「身体的には健康」と言っていた。
つまり他の部分――精神的には問題を抱えている事を、彼は既に告げていたのだ。

『とにかくそんな事になった以上、ワシも出来るだけ急いで戻る。
それまで何とか待っていてはくれんか』

「おお、その方が助かるわ。オレ一人じゃどうにも……ん?」

グイグイと袖を引かれて、平時は横に意識を逸らした。
見ると当の問題の少年が、強張った顔でこちらに視線を送っていた。

「もしかして今、博士とお話してるの? だったら話させて。今すぐに」

『どうした服部くん、何かあったか』

「イヤ、工藤……が、あんたと電話したい言うとるけど。構へんか?」

『ワシとか?』

「せや。ただな」

阿笠だけに聞こえるように声を低めて、平次は台詞を続けた。

「今のコイツ、まるきり10年前の工藤そのものみたいなんや。つまり今の時代を
10年後の世界やと思とるフシがある。ソレ踏まえて調子合わせてくれや」

『分かった』

「ホレ、出てみ」

平次が突き出した携帯電話を、少年はやや遠慮気味に手に取った。
平次の顔を窺いながら、自分の右耳に押し当てた。

「博士? 博士なの?」

『ああそうだよ。君は新一くん、なのか?』

「そうに決まってるだろ。オレはオレだよ。でもオレ、何が何だか分かんなくて。
起きたら知らない人が部屋にいるし、父さんも母さんもいないし、博士もいないし」

『そうかそうか、すまんな心配させて。でも大丈夫だ。君と一緒にいる人は
信用できる人物だし、工藤くんと有希子さんも仕事の都合で出掛けているだけだから』

「そうなの? 博士が言うならそうなんだろうけど。
それで博士、結局どんな実験しててこんな事になっちゃったんだよ」

『実験?』

「えっ、違うの? オレはてっきり博士がやった実験とかに巻きこまれてココに――
未来に来たんだって推理してたのに」

『ああ! そうだな、そうなんだ。ちょっとした手違いでな。君に迷惑が及ぶ形に
なってしまったんだ。だから、ソコの彼に君の世話を頼んだんだよ』

「そっか、そうなんだ……」

話をする内に少年の顔から緊張が解けていくのが、平次にも分かった。
さすが阿笠と言うべきか、年の功と言うべきか。

「そういう事なら気にしなくていいよ、博士。オレ大丈夫だから。
平次さんと一緒に待ってるから、急がないでゆっくり帰って来てね」

「へ? オイ工藤、お前何を勝手に」

「約束だよ。分かった? ――じゃあ切って。電話はかけた方が切る物でしょ。じゃね」

「わーっ!」

「ハイ、切れたよ」

平次が電話機に飛びつくより一瞬早く、少年は泰然とソレを平次に差し出した。

「さっきは失礼なこと言ってゴメンね。平次さんがどんな人か分かんなかったから。
でも博士が頼んだ人だって言うなら、話は別さ」

「そ、そらどうも」

半ば成り行きで、渡された携帯電話を受け取りつつ、

「けどお前、よくもそんなケッタイなこと考えよったな。
10年後の未来に来たなんて、ホンマに信じとんのか?」

「だってソレが真相でしょ? 何よりも、その『ケータイ』っていうのが証拠さ」

「コレが?」

「オレ今までに、そんな不思議な物見た事ないもの。最初はトランシーバーの一種かなって
思ったけど、平次さんは『電話』って言ってたから、やっぱり電話なんだろうし。
そんな物が当たり前にあるなんて、SFの本の世界としか思えないよ」

「SFとはまた大袈裟な……話でもあらへんのか。お前には」

考えてみれば、電話機を誰もが日常的に持ち歩く世界など、平次も幼い頃は
想像だにしていなかった。昔の人間には、魔法の道具にさえ見えるのかもしれない。

「確かにこの頃は、公衆電話も見いひんからな。ダイヤル式なんぞ絶滅寸前やし」

「へぇーっ!」

悲鳴とも感嘆ともつかない声を上げる少年。

「ねぇねぇ。だったらさ、これから外連れてってよ。外」

「外? 出掛けるんか?」

「だって、せっかく未来に来てるのに何も見ないなんて勿体ないもの。
博士が帰って来るまでにはココに戻るから、いいでしょ?」

「んー……」

僅かな間だが、迷った。出来れば動かないでいるべきなのは明らかだ。しかし。

……もしもオレがコイツの立場やったら、やっぱ同じこと言うやろな……。

「よっしゃ、ほんなら連れてったるわ。ただし近場に限るけどな」

「やった!」

パッと顔を明るくさせて、少年は玄関で靴を履きだした。ポケットから鍵を出して、

「ホラ平次さん、早く行こうよ」

「分かったから、そう急かすなや工藤。けどその前に、
その『平次さん』ゆうの堪忍してくれへんか? 普通に呼び捨てで構わへんよ」

「じゃあ、平次」

「へ……ソレもどうかなぁ」

普段通りの「服部」が理想なのだが。

「そういうあんたこそ、オレの事ちゃんと『新一』って呼んでよ。『工藤』だと、
父さんが知り合いの人に呼ばれてるみたいだもん」

「あ、あのな」

「あんたがオレを『新一』って呼ぶなら、オレはあんたを『平次』って呼ぶ。あんたがオレを
『工藤』って呼ぶなら、オレはあんたを『平次さん』って呼ぶ。二つに一つ、どっちか選んで」

「ヘイヘイ分かりました、分かりましたでございます。新……一」

「うん。ありがと、平次」

「!」

礼を言う少年のその微笑みは、いつもコナンが演技でする物に限りなく似通っていて、
それでいて確実に違っていて。何と言うべきか、ごく自然な微笑みだった。

……コイツって、こういう顔も出来るんやな……。

「ちょっと平次、何ジロジロひとの顔見てるの?」

「え? あ、いやオレは」

「変だよ、ハッキリ言って」

「アホ。何でもないわい」





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