≪SCENE 4≫


かくて今、紅子は部屋に立っている。黒のローブをまとい、杖を構えて、静かに。

儀式が全部終わるまでこの部屋に入らないようにと、自分の従者にも念を押してある。
また、たとえ何が起こっても驚かないようにとも。

紅子の推測が当たっていれば、この術は、成功するはずだ。不可能を可能にする、
あの「何か」とはアレなのだ。

でもそれでも、最悪の場合も覚悟しておかねばならない。
この世界全てを滅ぼすというより、もっと深刻な――。

イヤ、もういい。悔やむのは、事が済んでからでいい。

紅子は、そっと瞼を伏せた。身振りを交えて歌うように、「ことば」を唱え始めた。





   永遠なる空を染めしもの 深き闇を染めしもの
   愛すべき この地に宿りし 穏やかなる汝の名の下に
   我 汝に誓わん
   我等が前に並びし あらゆる護られるべきものに
   汝が全ての力もて 正しき裁きを与えたまえ






呪文の中で変えた所は、一箇所だけだった。能動態を受動態に変えただけだった。

それだけで、良かった。

ぐらりと、視界が揺れた。目を閉じているはずなのに、そう感じた。
自分の周囲が歪んでいく。足が床に沈み、バランスが取れなくなる。
全身を包みこむプレッシャーに押し潰されそうになりつつも、それでも紅子は堪えた。



『……………………ちゃん』

気を失いそうになる寸前、鈴を転がすような声が響いた。

『もういいよ。怖がらないで。目を開けて。起きて。――おねえちゃん』

「あ……」

『おはよう。魔法使いの、おねえちゃん』

眼前の相手は咲き誇る花のような笑みと共に、こう言った。

『夢の世界へ、ようこそ』





「やはり、こういう事でしたのね」

紅子は、自分の目と同じ高さに浮かんで立っている幼い少年に、深く息を吐いた。

「『実は、逆こそが正しいのである』。そう言われて、やっと分かりましたわ。
この世界を超える誰よりも強いもの、ソレは他者を『護る』ものではない。
本当は他者に『護られる』もの。弱く儚く脆い、けれど、だからこそ強い……ソレが、
今ココにいるあなたというわけ」

『まぁ一応、合格点ってところかな。その答えなら』

と、少年は肩を竦めた。

『ああそう、断っとくけど、このボクの正体を知り尽くそうなんて真似はやめてよ? 
この世界の中のおねえちゃんじゃ、ボクが何者かなんて分かんないから。
ボクはおねえちゃんの世界の外の、更に外にいる存在なんだ。
ボクからは、この程度しか言えないよ』

「ええ。その点は重々、承知しておりますわ」

『イヤだなぁ、そんなへりくだった敬語なんて遣わないでよ』

と、少年は手をひらひらと振ってみせる。

『だって、どう見てもボクの方が年下じゃない。普通の話し方でいいってば』

「でも、あなたは」

『ストップ』

指を立てて、紅子の言葉を遮る少年。

『ボクの名前を呼んだらダメだよ? そうしたらその時点でボク、帰っちゃうからね。
それから今のボクの姿や声も、おねえちゃんとアクセスしやすいように、
便宜的にあの彼の物を拝借してるだけだって事もヨロシク。
この7歳の外見が、おねえちゃんとは最も会話しやすいんでね』

「分かりました……いえ、分かったわボウヤ。コレでいい?」

『そうそう、その調子』

と、少年はさも嬉しそうに、はしゃいでみせる。

「けれど意外だったわね。てっきり私、ボウヤに自分の体を乗っ取られたり
するんじゃないかと思ってた。まさか、こうして普通にお話をする事が出来るなんて」

『うん、そうだね。多分おねえちゃんが前の時みたいに、
自分のためにボクを呼んだら、そうなってたよ。
でも今回は違うでしょ? 大切な人――あのおにいちゃんを護りたいから、
ボクを呼んだんだよね?』

「そうね」

この少年に嘘をつく事は出来ない。紅子は、そう本能的に察していた。

『さて、それじゃ本題に入ろうか。今おねえちゃんは何を望んでいるのかな』

「アラ。律儀に答えなければならないの? ボウヤはもう分かっているんでしょう?」

『この世界で大切なのは『想い』だからね。その『想い』を具体的に教えてくれないと。
第一、おねえちゃんのお願いをボクが曲解したりしたら……嫌でしょソレって』

「ハイハイ」

口を尖らせる少年に、紅子はため息をついた。

「私は彼の、黒羽くんの異変を止めたいの。異なる世界が混じるなんていう事態を
防ぎたいのよ。出来るなら、事件の元凶であるというその本を消して。コレがお願い」

『ふぅん、なるほどね』

と、少年は相槌を打って、

『でもそのお願い自体は、ボクでも難しいかな。おにいちゃんがあのサムライくんと
チャンバラするってのは、今よりずっと前に一旦完結しちゃってる出来事だから。
けど別の対策なら何とかなるかもね』

「別?」

『おねえちゃんも、行ってみない? おにいちゃんと彼しか行けない、あっちの世界へ』

「え?」

『そう。世界たちは今回は、いきなり混じるわけじゃないんだよ。
まず、おにいちゃんと彼……怪盗と探偵の二人だけが、あっちの世界へ飛ぶ。
そこに、おねえちゃんも一緒に飛び入りしちゃえばいいんだ』

「出来るの、そんな事?」

『大丈夫。おねえちゃん一人が入ったって、怪しむ観客さんなんて居ないよ。
ドサクサに紛れてるって笑うだけさ』

「観客?」

『あっ、いけない。こんな事言ったって、おねえちゃんは理解できないよね』

目を瞬かせる紅子に、少年は首を振った。

『ただし。おねえちゃんをそのままあっちの世界へ飛ばすのも、難しいと言わざるを得ない。
段階を踏まないといけないんだ。魔法使いのおねえちゃんは、この世界以外では
あんまり身動きが取れないんだよ。流れてる電波のせいもあって』

と、少年はまたも妙な語句を挟む。

『難関はまだ有るよ。おねえちゃんがあっちの世界に存在できる時間は、極めて短い。
おにいちゃんと接触できる可能性も低い。恐らく、もう一人の彼の方にしか逢う事は
出来ない。それでもいいかな?』

「ええ」

紅子は迷わなかった。

「ソレで充分よ。何より、ボウヤの事だもの。それだけ高いハードルを示すという事は、
その解決法がある証拠だわ。そのじつ私も作戦は思いついてるし。そうでしょ?」

『ふふ……いいね、その心意気。どこかの誰かさん達に聞かせてあげたいよ。
野球だの剣道だのサッカーだのって騒いでる人たちに』

「?」

『ホント色んな人がいるよね。ページを読み流してる人もいるし、
画面の前で居眠りしてる人もいるし。そりゃ面白けりゃ何でもいいんだけどさ、ボクだって』

「……」

独り言のように喋る少年を前に、紅子は頭痛を感じてきた。

そうだ。忘れていた。この存在と長く干渉する事は出来ないのだ。
支離滅裂なこの存在は、それだけで術者を蝕むのだ。

『あ』

当の少年も、そんな紅子の様を悟ったらしい。

『もう、辛くなったならそう言ってよ。ボク子供だから、分かんないんだからね。
それなら、そろそろ本番行くよ。準備はOK?』

紅子は、無言で頷いた。声を出す事さえ、もはや苦しかった。

『じゃあ今から、おねえちゃんの設定を書き替える
この夢から覚めてから、キッチリ24時間、おねえちゃんは本物の魔法使いではなくなる。
使える魔法は基本的に、より現実的な世界観に基づく物――即ち催眠暗示などに
限られる。そして24時間が経過したら、おねえちゃんは向こうの世界へジャンプする。
その世界でおねえちゃんが存在できるのは数分間だけ。
この条件の下に、自分の目的を果たすように。いいね?』

「……」

『うん。いい顔だ』

歯を食いしばって立っている紅子。愛くるしいほどの笑顔を見せている少年。

『じゃあね。健闘を祈ってるよ、おねえちゃん。――おやすみ』

少年のこの言葉を合図に、紅子は意識を手放した。





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