≪SCENE 4≫


青子は急ぎ足で、廊下を歩いていた。
数メートルごとに、白衣姿や寝巻姿の人たちと擦れ違う。
その度に、鼻につく薬品の匂いを一段と強く感じる。

「確かこっちって聞いたけど……」

壁に貼られた名札を調べていくと、目当ての名前が見つかった。
深呼吸を一つしてから、ドアを開いた。

「快斗」

「おお青子、こっちこっち」

まさに打って変わった明るい声で、快斗は窓際のベッドから勢いよく手を振った。
それと同時に、ベッドのそばに椅子に腰掛けていた女性が立ち上がる。
快斗の母親である。

「いらっしゃい、青子ちゃん。ありがとね、お見舞い来てくれて」

「そんな。お礼なんていいですよ」

「そうそ。挨拶なんかよりさ、ソレ」

と、快斗は青子の持つ箱を指差して、

「さっさと出せよ。落っことされたりしたら、たまんねーぜ」

「もう、青子落としたりしないってば」

「アラ素敵。コレ、あのお店のシュークリームね」

受け取った箱を開けた快斗の母親は、ニッコリと笑って、

「それじゃ皆で食べましょ。お茶淹れるわね」

「あ、ありがとうございます」

「持って来た本人も食うのかぁ?」

「何よ、いいじゃない」

笑顔で軽口を叩き合う。いつも通りの幼なじみの会話だった。

「それにしても」

と、もう一つの椅子に座った青子は、周りを見回して、

「何か寂しいわよね。四人部屋なのに、快斗独りだけなんて」

「そんなの仕様がねーよ。病院の都合なんだから」

紅茶を飲みつつ答える快斗。自分の分の菓子は、当の昔に食べ終えている。

「おめーこそ一人で来たのか? 皆は」

「大勢で押しかけるのは良くないって話になったのよ。だって」

そこまで言って、青子は少々迷った。話して良い内容か、どうか。

「快斗ってさ」

「ん?」

「ホントに忘れちゃったの? 2年になってからの事、全部」

「……」

「凄く心配だったのよ、記憶喪失になったって聞いた時。
自分が誰なのかも忘れちゃったのかなって、そう思っちゃって」

「まぁな。最初はそういう連想するよな、普通」

と、快斗は頬を指で掻きながら、

「でもオレの場合は、そういうんじゃねーから。何か外で転んだせいで
記憶が混乱してるんだろうって、医者には言われたけど。自分の事もおめー達の事も
全部分かってるんだ。2年になってすぐの時、おめーが旅行土産くれた事とかさ」

「そうなの?」

「ああ。だから思い出せねーのは……誕生日の時くらいからかな。うん」

「そっか。あ、でもそれじゃ、紅子ちゃんとか白馬くんとかの事は分かんないのね。
転校して来たの、それより後の事だから」

「そう。おふくろにも訊かれたけど、その辺は全滅。ジイちゃんの事も
頭から抜けてるらしいしな。我ながら呆れるぜ」

歯を見せる快斗に、青子も破顔して、

「でも良かった。快斗、元気そうで。もう退院できるんでしょ?」

「みてーだな。念のためにもう一晩だけ泊まれっつーやつ。
検査も異常なしって言ってたし。――だよな?」

「ええ、そうね」

黙って話を聞いていた母親は、そう答えて椅子から立って、

「ごめんなさいね、私ちょっと用事があるから」

「あ。それなら青子、じゃなくてわたしも帰ります。長居したら悪いですから」

「ううん、いいのよ。ゆっくりしてて」

優しい声で制した後、部屋の外へ出て行った。二人きりになってから、快斗は問うた。

「なぁ青子、オレ訊いときたいんだけど」

「何?」

「最近オレ、おめーに変なこと言ったりしてなかったか?」

さらりと言われて、青子は返事に詰まった。

「イヤな、もしそういう事してたら今のうちに謝っとこうと思ってさ。
喧嘩の種とか、そういうの何かやらかしてたらゴメンな」

「ううん」

と、青子は大きく首を振った。

「ないよ。何もない。何も気にしなくていいから」

「ホントかよ、ソレ。文句言っとくなら今のうちだぜ」

「ホントにいいの」

……そう、もういいのよ。今の快斗は元気なんだから。もうキッドの事で喧嘩する
事もないし、前の時みたいに無視される事もないんだから。だから、もういいの……。

青子は心の中で、何度も同じ言葉を言い聞かせていた。





快斗の母親は、病院のロビーへ歩いた。彼女は隅のソファに座る男性に声をかけた。

「寺井さん」

「あっ、どうぞ。お待ちしておりました」

二人は向かい合わせに座った。彼女は深く頭を下げて、

「その節はお疲れ様でした。どれほどお礼を言ったらいいか」

「イヤそんな、どうか顔をお上げになって下さいませ。私は何も致しておりません」

と、寺井は彼女よりも頭を低くして、

「ぼっちゃまを危険に晒したのは、私の責任です。
ぼっちゃまをお守りするのが私の使命なのに、何という事を」

「それで、結局あの子は」

「ハイ。自分がなぜあの場所にいたのか、なぜあの服装をしていたのか、
それらの事は何も覚えておられません。つまり、その」

「もう片方の自分を、あの子は失くしてしまった……そういう事よね」

「そういう事です」

快斗から抜け落ちた記憶。ソレは即ちキッドに関する全てだった。
今の快斗はあくまでも善良な一市民であり、犯罪者では決してなかった。

「でも、これで良かったのかもしれないわ」

「と言いますと?」

「今日はコレを渡しておこうと思ったんです」

と、彼女はハンカチでくるんだ包みを出した。

「右の手袋です」

「あ……」

「病院の方々に見られる前に外しておきました。あの子の手は今、
ちゃんと元に戻っています。もちろん足の方も」

「やはり、気づいておられたのですね」

「私は母親です。息子の事くらい分かります」

と、彼女はキッパリと答えてから、

「寺井さん。恐らくあの子、あなたに色々質問してくると思いますけど。その時は」

「ええ。余計な事は申しません。少なくとも、ぼっちゃまが落ち着くまでは」

「ありがとうございます、本当に」

「いえ、ですからそんな私ごときに」

その後、二人は繰り返し頭を下げ合っていた。





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