予兆

放課後。授業から解放されて、教室の空気が変わる時。
机を寄せ合って話をしている者、部室へ走る者などのざわめきの中、
その女子生徒は窓際の席で、独り端然と本の活字を追っていた。
ゆっくりとベージを繰っていく。そんな彼女に、足音を殺して近づく者がいた。

「あーかーこちゃん!」

「!?」

甲高い声と共に視界を遮られて、小泉紅子は身を竦ませた。
突然後ろから、両手で目を塞がれたのだ。
紅子は相手の手を退けて振り向いた。

「中森さん……」

「ヘヘ、驚いた?」

と、クラスメイトの中森青子は顔全体で笑ってみせた。

「ところで紅子ちゃん、何読んでるの?」

「別に大した物じゃありませんわ。カバラの解説書です」

「か、かば……?」

「カバラ。宇宙の真理を説いた秘法──と言っても、難しいですわね。
中森さん、あなたタロットは御存知?」

「うん、ソレなら知ってる。占いとかで使うのでしょ?」

「そう。そのタロットについての本よ」

「ふぅん……」

何度も頷きつつ、青子は素直に話を聞いている。
紅子は本を閉じて、

「そうですわ。今ならカードもあるし、よかったら何か占ってあげましょうか?」

「え、ホント? それじゃ、青子のお父さんの事でもいい?」

と、青子も座って話しだすのを境に、帰り支度をしていた男子生徒の手が止まった。

「お父さんという事は、お仕事関係ですわね。
そういえば、また怪盗キッドの予告があったとか」

言いながら、聞き耳を立てている生徒──黒羽快斗の方へさり気なく視線を投げる。

「そうなの。でも今度の予告状って、暗号みたいでよく分かんないんですって。
最初は何を盗むのかもハッキリしなかったらしくて」

「確か新聞では、真珠か何かだと言ってましたわね」

「うん。ええっとね、名前は確かプラック・タイガー……」

「スターだ、スター! 『Black Star』!!」

唐突に怒号が割りこんだ。
快斗は席を立って、憤然と歩いて来た。青子に詰め寄って、

「タイガーじゃエビだろ、エビ! 何が悲しゅうて、
わざわざそんな物盗まなきゃなんねーんだよ! ひとの気持ちも考えろ!」

「ひとの気持ちって……。あの、どうしてそんなに快斗が怒るの?」

「へ?」

青子のもっともな問いに、快斗は頬を引きつらせた。
まさか刑事の娘に正直に、自分がキッド本人だからだとは言えない。

「あ、だからその、ソレはだな」

「仕方ないわよ、中森さん。黒羽くんはキッドびいきなんですもの」

「あっそうか。そう言えばそうだったわね」

紅子のフォローを受けて、青子は快斗に白い目を向けた。

「それで? 具体的には何について占えばよいのかしら」

「そうね。ズバリ、今度お父さんがキッドを捕まえられるかどうか」

「了解」

と応じた紅子は、鞄からおもむろに小さな布の包みを取った。
机の上で布を広げる。現れたカードを、両手で広げてかき交ぜる。

「さぁ、あなたも」

「う、うん」

と、青子も恐る恐るカードのシャッフルとカットに加わる。
やがて紅子はカードをまとめ、慣れた手付きで裏向きに並べていく。
その優美な動きは、快斗さえ立ち去るのを忘れてしまうほどだった。
机に置かれた10枚のカードを、紅子は順に捲り始めた。





「……凄い」

と、紅子が声を漏らしたのは、場の全てのカードを表に返した時だった。

「え? 何が凄いの?」

「だってリバースが全然ないし、それに」

と、紅子は場を指して、

「15番の『DEVIL(悪魔)』と、16番の『TOWER(塔)』と、13番の『DEATH(死)』の
全部が出てる。まさか『呪縛』『破滅』『終末』の『不吉の御三家』が揃うなんて」

「えーっ、そんなぁ……それじゃお父さん、今度も捕まえられないって事?」

「残念だったな、青子。ヘボ警部じゃ無理だってよ」

「何よ快斗。あんたまだいたの?」

「あ、でも待って」

と、紅子。

「8番の『JUSTICE(正義)』と、7番の『CHARIOT(戦車)』と、
17番の『STAR(星)』 も出てる。『公平』『勝利』『希望』の印よ。望みは充分あるわ」

「そうなの?」

「ええ。とにかく今回は明らかな結果が出るはず。中途半端はありませんわね」

「ケッ、アホくさ」

 と、快斗がまたも口を挟む。

「要するに、いいようにも悪いようにも取れるって事じゃねーか。
これだから占いとか予言とかってのは好かねーんだよな」

「そうおっしゃるなら」

と、紅子はカードを再びまとめて、快斗の前に差し出した。

「何の真似だよ」

「見たままですわ。試しに1枚選んで頂きたいの。それくらい構いませんでしょ?」

「……」

快斗は憮然と目の前の物を見ていたが、渋々1枚を手に取った。

「ん? 何だこりゃ、変な絵だな」

「ヤダ快斗、ソレ逆さまよ」

「あ、そっか」

青子に言われてカードを直す快斗に対して、紅子の顔は僅かに強張った。

「へぇ、見ろよ紅子。オレに一番お似合いのが出たぜ」

示されたカードに、紅子は目をしばたたかせて、

「アラ本当、『MAGICIAN(魔術師)』ですわね」

「しかも数字は1番ときたもんだ。これ以上縁起がいいのもねーよな」

「ええ、そうですわね。一応は」

「何?」

「それじゃ、私は帰らせて頂きますわ。家の用事もありますし」

快斗の手からカードを取って仕舞って、紅子は席から立った。
教室を出て行く紅子を眺めて、青子はしみじみと、

「ホント凄いなぁ、紅子ちゃん。何か今のも、本物の占い師みたいだったし」

「本物だよ」

「へ? 何か言った、快斗?」

「別に」

言葉少なに答える快斗。その視線は、紅子が出て行った廊下に向けられている。
青子は自分の席に歩いて鞄を取って、

「じゃ、青子も帰ろっと。快斗も一緒に……快斗?」

教室には、既に快斗の姿はなかった。





「オイ紅子」

「まぁ黒羽くん、どうなさいましたの?」

校門に先回りしている快斗を認めた紅子は、婉然と徽笑んで尋ねた。

「もしかして、やっぱり占ってほしい事があるとか?」

「そんなんじゃねーよ。ただ、おめーのさっきの言動がちょいと気になってな」

「私、何か致しました?」

「とぼけるなよ。『ー応は』なんて妙なこと言っといて。ありゃ一体どういう意味だ?」

「アラ、私そんな事申しましたの?」

「あのな、はぐらかすのも大概にしとけよ。さもなきゃ、こっちにも考えが」

「ゴメンなさい。私、急いでおりますの」

紅子は、あくまで態度を崩さない。

「ねぇ黒羽くん、私に尋ねたい事があるのならその前に、
私のお願い事を一つだけ叶えて下さいませんこと?」

「は?」

「私、今どうしても逢いたい方がおりますの。その方にお伝えしたい事があって」

彼女の言葉の、微妙なニュアンスを読み取った快斗の顔が、凍った。

「お、オイ……『その方』って、まさか」

「全て申さなくても、あなたならお分かりですわよね」

と、紅子は快斗の顔を真っ直ぐに見つめて、

「お願いします。どうか、“あの方”に逢わせて下さい」

「……」

快斗も紅子の顔を見つめる。互いの視線が、一瞬まともにぶつかった。
先に沈黙を破ったのは、快斗の方だった。

「紅子。不本意ながらオレも、一つ予言ってのをさせてもらうぜ」

頬を掻きながら目を泳がせて、

「今夜〇時ジャスト、ある人物が、おめーの願いを盗みにやって来る」

「本当に……?」

「ああ。場所は、そうだな、おめーがそいつと最初に会ったトコだ。分かるか?」

コックリと頷く紅子。

「OK。そんじゃまた明日。学校で会おうな」

「ハイ」

と、紅子がきびすを返した数秒後、青子が校門から飛び出して来た。

「快斗!」

「あ、青子!? 何だよ、おめー急に」

「ソレはこっちの台詞。勝手に行っちゃわないでよ」

「って、コラ、服が伸びるだろ。やめろって」

と文句を言う快斗を、青子は容赦なく引っぱって行った。

「ありがとう……黒羽くん」

遠ざかっていく後ろ姿に、紅子は小さな、しかし、ハッキリとした声で呟いた。





地域開発から奇跡的に取り残された森の奥に、紅子の住む屋敷はある。
昼なお暗い敷地は、夜になれば完全に闇と化す。
か弱い者では5分といられまい、広大な庭の中心に、独り紅子は立っていた。

腰まで届く黒髪、きめ細かな白い肌。杖を手にして、
黒のマントをまとったその姿は、どこか人形めいた印象を受ける。
そのじつ彼女の容貌は整いすぎるほど整っている。
常に異性からは賞賛を、同性からは嫉妬の集中攻撃を浴びるタイプ。

だが、そんな彼女の素顔を知る者は、実は数えるほどしかいない。
彼女は文字通りの「MAGICIAN」──いわゆる魔女なのだ。

紅子は天を見上げた。
そろそろ子の刻(〇時)を示そうとしている星たちが、瞬いた。

「!」

突風に彼女は、思わず手で顔を庇った。次の瞬間、ハッと顔色を変えた。
不意に現れた気配の方を、彼女は見やった。
百年前からそこにいたかの如く、相手は静かに木陰に佇んでいた。
純白のスーツ・マント・シルクハット。右目に光る銀色の片眼鏡(モノクル)。
誰でも知っていて、誰も知らないその男。
気障な泥棒──怪盗キッド。

「本当に、来て下さったんですのね……本当に……」

「私は、約束は必ず守ります」

声を震わせている紅子に、相手は柔らかな笑みを湛えて言った。

「特にあなたのようなレディとの約束は、ね」





「で?」

紅子の前に歩み出て、快斗ことキッドは疑問を投げかけた。

「オレに一体何の用だ? 少なくとも、ただの世間話をしたいって顔じゃなさそうだよな」

「黒羽くん……いえ、キッドとお呼びする方がよろしいかしら」

と、紅子は前置きしてから、

「先日、あなたの事について占いをしてましたの」

「オレの事?」

「ええ。今あなたが何を狙っているかは、その時知ったのですけど。
ちょっと奇妙な暗示が出てしまって」

「何だよ。オレが捕まるとか、そういうのかい?」

『時は来れり』

「!?」

一転して声を張り上げた紅子に、キッドは思わず身を固くする。
そして紅子は、呪文の如く言い放った。



   戦いの 時は来れり
   白き闇 黒き光
   天に輝く 双子星
   赤き血潮を 伴いて
   世界は重なり そして交わる
   神の掌の その上で




「な……」

返す言葉が出てこない。たっぶり2分は経ってから、

「何だよ、ソレ……」

「分かりません」

「はぁ?」

「初めての経験ですわ。いくら集中しても、これ以上具体的な内容がつかめないの。
今回あなたが出会う人を指しているという事くらいしか。
なのに、暗示そのものはとても強烈で。一刻も早くあなたに伝えなければ
という感覚だけが、日に日に強まっていった」

キッドに向き直って、

「だから何としてもあなたと話したかった。
でも学校で話そうとしても、いつかの時のように逃げられるのが関の山。
正直なところ、困っていましたの」

「なるほどね。でも平気だよ。君が見たのは『奇妙な暗示』だ。『悪い暗示』じゃない」

と肩を竦めるキッドに、しかし紅子は首を振った。

「私もそう思いたかった。でもあの時あなた──黒羽くんが引いたのは、
リバース(逆位置)の『MAGICIAN』だった」

「リバース」

「本来の『MAGICIAN』は『成功』の暗示。でもタロットは、
カードの天地の向きによって意味が変わります。基本的に正反対の意味に。
だから、あのカードは『失敗』の暗示だったのですわ」

「そう、だったのか……」

言われてみれば、どこかでそんな話を聞いた事もあった。

「あ。でもホラ、よく言うだろ。『当たるも八卦、当たらぬも八卦』って」

「いいえ。ソレはあり得ないわ。私は一族の能力の、正統なる継承者。
私の術を否定するのは、私の一族全てに対する冒頭よ」

「……」

こういう時、紅子はクラスの誰にも見せた事のない顔をする。非常に凄絶な、
それでいて妖艶な顔を。コレを見ると、キッドはいつも復雑な気持ちになる。

「なぁ、ところで君、例のタロットって今も持ってるのか?」

「え? ええ。道具は常に肌身離さず持ってますわ」

「そりゃいい事だ」

と、キッドは右手を出して、

「オレにも引かせてくれよ。それで結論を出そう。
正しい向きのが出たら吉、逆向きのが出たら凶だ」

「あ、でも」

「ホラ早く」

と、キッドに急かされ、紅子はあたふたとカードを出した。
キッドは躊躇なく、一番上のカードに指を伸ばした。
カードが束から離れた時、紅子はゴクリと唾を飲み、顔を背けた。
ソレを見て、キッドはそっと目を伏せた。
カードを捲り、紅子に示す。

「見てみろよ。向きはどっちだ?」

短い静寂の後、紅子は答えた。

「正位置……。正しい向きですわ」

「だろ!」

自分でも確認して、キッドは顔を輝かせた。カードをヒラヒラさせて、

「どうだ? これなら君も文句ないだろ。オレ本人が引いたんだから」

「まぁ」

苦笑する紅子。

「で、こりゃ何のカードなんだ? 『FOOL』って書いてあるけど」

「ええ。0番の『FOOL(愚者)』です。意味は『出発』。
未知の世界への旅立ちを示します。
余計な伽は捨て、子供のような純粋な心だけを持って行く──そんな旅立ちです」

「へぇ」

「つまり基本的には吉兆です。でも」

と、紅子はキッドから受け取ったカードを擬視して、

「油断は禁物ですわ。『FOOL』はトランプのジョーカーの原形。
扱いやすいと侮れば、意外な所で牙をむく。足下をすくわれる事だって」

「オイよせよ。もうその話は無しにしようぜ。カードも逆向きじゃ
なかったんだし」

(……何言ってるの? 私は知ってるのよ。
あなたが私の顔色を窺いながらカードを取ったのを。
このカードは本来、やはり逆位置だった。だからあなたは敢えて……)

黙りこくっている紅子の手を、キッドは取った。

「さぁ、どうか笑顔をお見せ下さい、お嬢さん」

指を弾く。彼女の手に現れるのは、小さなピンクのカーネーションー輪。

「あ……」

「そう。女の子は明るい顔が一番ですよ」

大きく目を見開いた紅子に、キッドは頷いた。彼女から離れ、背を向けて呟いた。

「もう、戻れねーんだよ」

「?」

「未知の世界だろうが何だろうが、獲物を盗るのはやめない。
目的を果たすためにはな。 第一、残された時間だってそんなにねーんだ。
ホント、時間が止まってくれりゃいいのにって思うよ」

「ソレは無理な相談ですわね。この星たちでさえ、時が経てば動いていくんですから」

と、紅子は空を仰いで、

「キッド。時の流れに人は逆らえないものですわ。
そう、自らの運命に逆らえないのと同じようにね」

──そうか? 逆らってみるのも面自いんじゃねーの?

「!」

紅子は我に返って辺りを見向したが、もう遅かった。
入場が突然なら、退場も突然。相手は跡形もなく消えていた。





翌朝。

「オーッス、紅子!」


──がたたんたんっ!


「わ。すげーリアクションだな。何も椅子から落ちる事なかろうに」

「あ、あなたねぇ……」

やっとの事で起き上がった紅子は、ワナワナと拳を震わせて快斗に叫んだ。

「よくもそんな脳天気に挨拶できますわね! 昨夜あれだけ真剣に語っておいて」

「昨夜?」

と、快斗はキョトンとした顔で、

「何の事だよ。オレ、おめーと夜遊びする趣味なんかねーぞ」

「な……」

その台詞に、紅子の体から力が抜ける。
毎度の事ながら、快斗のこの豹変ぶりには付いて行けない。
ひょっとしたら多重人格か何かかと疑ってしまうくらいだ。

「分かりました。もう結構ですわ。あなたには本当に脱帽します」

「え? だから何が?」

「だからもういいって言ってるでしょう……!」

と、紅子が音を上げかけた時、青子が教室に入って来た。
へたり込んでいる紅子に気づいた青子は、大きな声で、

「あーっ、いけないんだ! 快斗ったら紅子ちゃんの事いじめてる」

「な──、何言ってんだよ、青子! オレは何も」

「言い訳するんじゃなーい!」

例によって例の通り、騒々しい痴話喧嘩が始まった。
茫然とする紅子を余所に、快斗と青子は教室から廊下へ駆けて行く。

……平和だ。平和すぎる。悩んでいる自分がバかバカしい。

紅子は席に座り直した。鞄からタロットを出し、何気なく1枚引いてみる。

「平常心、か」

14番・「TEMPERANCE(節制)」のカードを見て、彼女は独りごちた。


〈了〉





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