マルチシナリオシステムの場合、「選択肢」があることでよりプレイスタイルは自由になっている。しかしその「選択肢」が必ずしもプレーヤーがその時したいことを実現しているわけではないし、むしろほとんど実現できていないのげ現状である。「Aちゃんと下校する」or「Bちゃんと下校する」という選択肢が合った場合、プレーヤーは「おいおい一人で帰るのは無しなのか?」と不満に思うこともあるだろう。自由度は確かに一本道シナリオよりはあるだろうが、十分な自由さを手に入れていると言えるだろうか?私なら少なくともあと100通りの選択肢を提供していただきたいが、それはコスト的に無理な話だし、たとえ100通りの選択肢を示されても、読むのが面倒で結局読まないであろうから意味がない。
「選択肢」によって自由を提供しようという方法はこの点で行き詰まる、しょせん順番的には「プレーヤー解釈」は「シナリオ展開」の後に来ているのであり。プレーヤーは常にシナリオの展開を辿る立場にあるのだから。
さて、では『逆転裁判』ではどうなのか?「プレーヤー解釈」と「シナリオ展開」の順番に注目していただきたい。
『逆転裁判』ではまずシナリオ側から情報が提示され、それを元にまずプレーヤーが推理しないことにはシナリオが展開できない。「13?15時まで停電の事実」「14時に家の電話で電話したという供述」という二つの情報を渡されたプレーヤーは「13?15時まで停電なのに家の電話から14時に電話できるわけないだろ!」と自ら推理して(物語をつくって)、「異議ありボタン」を押し、シナリオを進める。そしてそこで展開されるシナリオ、つまり主人公「ナルホド君」の推理は、プレーヤーがシナリオ展開よりも先にした推理と同じであり、主人公はプレーヤーの忠実なる代弁者となる。プレーヤーは自分が考えた方向にシナリオが進んでいるために、あたかも自分がシナリオを想像しているかのような錯覚を起こすこととなる。「プレーヤー解釈」と「シナリオ展開」の逆転に、プレーヤーに「開かれたゲーム」と錯覚させる秘密があったのである。
もちろんこれを実現させるには他に多くの補正的、補助的な気配りをする必要がある。なにせプレーヤーが推理できなくなってしまったら、その時点でこのゲームは投げ出されてしまうのだ。そして推理の方向が常に一方向に向いていくように、情報提示から可能な推理が常に一つになるように、慎重に情報提示していかなければならない。推理する内容が解らなくならないように、常に推理すべき対象を明確にしておくことも重要だ。
5.それでも予想できないプレーヤー、しかし、なお、それでも騙さねば
「プレーヤー解釈」と「シナリオ展開」の逆転に、「開かれたゲーム」と錯覚させる秘密があったわけだが、これには常に一つの問題点が存在する。プレーヤーの解釈をどのように予想するかだ。もちろんプレーヤーの解釈は情報提示によってかなりの部分、ほとんど一つに限定できる。しかしプレーヤーには頭のいい人もいれば悪い人もいる。悪い人に合わせて情報を提示しすぎれば頭のいいプレーヤーはシナリオ展開の先の先まで読んで、推理をショートカットしようとするだろう。
「凶器は○×だ」→「殺害時刻は14時だ」→「Aの14時のアリバイが崩れた」→「凶器○×はAの持ち物だ」→「犯人はAだ」
という推理の展開があったとすると、条件提示の仕方によっては「凶器は○×だ」と解った時点で頭のいいプレーヤーは「凶器○×の持ち主はAで、犯人はAだ」と解ってしまい、ゲーム側が「殺害時刻は…」と展開をするのをまどろっこしく、不快に感じてしまうだろう。『指輪世界』(http://homepage1.nifty.com/~yu/index.html)の
伊藤悠が指摘するように(http://homepage1.nifty.com/~yu/game/adv.html#gs)『逆転裁判』はこの問題を根本的には解決できなかった。根本的な解決できなかったが故に、小気味が良く配置された効果音(「異議あり!」「喰らえ!」など)によってプレーヤーを気持ちよくさせることに心身を注いだのだろう。気持ちよくプレイして貰えなければ、せっかく「開かれたゲーム」として錯覚させられたのに、いつその夢から覚めてしまうか解らない。しかし目的は「錯覚させればそれでいい」というところにある、一つのシステムのほころびは他の要素で補う。いくつものつぎはぎを重ね合わせたところで、プレーヤーを騙せればそれでいいではないかという発想の逆転が『逆転裁判』の秀逸なところなのだから。
6.結論
以上分析してきたシステムにより『逆転裁判』は「リンゴが、実際にはリンゴでなくても、食べる人間がリンゴだと錯覚すればそれはリンゴと同じである」つまり実際に「開かれて」なくとも、「開かれて」いるようにプレーヤーに感じさせればいい、という手法にほぼ成功を収めている。この成功は、今までシナリオ分岐にかかっていた開発コストの大幅な圧縮に貢献したはずだし、それにもかかわらず、一本道アドベンチャーでは考えられないような商業的成功も収めた。ユーザーの反応も良い。また同じキャラクター、世界観、システム、グラフィックを使い回した『逆転裁判2』ではさらに開発コストが圧縮され、さらなる利益を生んだ。
「開かれたゲーム」これがゲームの未来を切り開くキーワードになることは間違いない、しかし、正面から立ち向かうのではなくて、『逆転裁判』のような方面からのアプローチもコストを考えた場合に大いに役立つのではないだろうか。
面白かった、感動した、夢中になった、それ以上に、『逆転裁判』は今後のゲーム造りに、主にいかに開発費を削るかという面で、一石を投じた作品だったのではないだろうか。
注1・マシンスペック向上による表現力向上のためのコスト
2003年現在、ゲーム作りには金がかかりすぎている。CGの美しさが消費者の購入意欲を駆り立てている大きな要因である以上、美しいCGを作るために膨大なコストがかかるし、PS2やGCなどの家庭用ゲーム機の場合はその大容量を活かしたフルボイス・フルアニメーションを入れなければゲームのデキ如何にかかわらず、消費者に手にとってもらえないという哀しい宿命があるからだ。かくいう私も『ファイナルファンタジー』がゲームとしてもはや遊ぶにたえない代物であると感じているにもかかわらず、新作が出れば最新技術によるムービーが楽しみにでついつい買ってしまう。
余談だがGBAなどの携帯ゲーム機はマシンスペックがかつてのスーパーファミコン程度であり、PS2などと比べてフルボイスにする必要も性能なければ3DCGも使えないため金がかからない、つまりマシンスペックによって開発コストが抑制されている。それにもかかわらず、普及台数はPS2にこそ劣るもののGCやX-boxをはるかに凌駕しており、人々の購買意欲を刺激し続けている。パイが大きいのだからそれだけソフトが売れる可能性が大きく、購買層が主に小・中学生ということもあって価格を安めに設定せざるを得ず一本当たりの利益率は低いというマイナス面もあるが、開発コストの低さと市場の大きさを考えれば今一番利益を生みやすいハードとなっている。
話を戻す。
マシンスペックの向上は「消費者の購買意欲を刺激する」ということだけでなく、ゲームに遊びにプラスして、「表現」の要素をもたらしている。マシンスペックの向上によりゲームの各画像は説明から表現に変わってきたのだ。『ファイナルファンタジー3』ではマップ上や戦闘画面の自キャラの画像は「これが自キャラですよ」と説明する記号でしかないし、敵に攻撃をしているアクションも「攻撃してますよ」と説明する記号でしかない。しかし『ファイナルファンタジー10』では、マップ上や戦闘画面の自キャラはただの説明ではなく、その画像や動き自体をプレーヤーに楽しませる「表現」の要素が色濃くなっている。
各イベントシーンにしても『ファイナルファンタジー3』では説明的な自キャラの説明的な動きと説明的なテキストによる、イベント内容の説明であったのが、『ファイナルファンタジー10』では全てムービー&フルボイスによってイベントを表現している。
注2・ゲーム=制作者の表現したいこと、という勘違い
コンピューターゲームという遊びは、鬼ごっこや、サッカーなどと違い、映像+音声表現によって再現された空想の世界のなかで遊べるというのが特色の一つであるから、プレーヤーをその空想の世界の中に引きずり込むという点で表現は重要であり、表現に金をつぎ込むのは自然な流れだ。『ウイニングイレブン』や『グランツーリスモ』は動きがリアルである(=表現力がある)からこそ、ゲームのルールとしてはほとんど他のサッカーゲームやレースゲームと同じなのにもかかわらず人気があるのだ。
最近、むやみに「グラフィックの美しさなんてどうでもいい」という人が多いが、そのような人はコンピューターゲームは表現を伴うからこそ他のゲームと差別化されているのだということを理解するべきだ。表現力の向上をやめたら、それはコンピューターゲームの終焉である。
しかしそれにしても今のゲームにおける表現力を向上させるためのコストは高すぎるし、プレーヤー側から「グラフィックの美しさなんてどうでもいい」と言われてしまうのには何か理由があるはずだ。
その理由とは「制作者の勘違い」ではないかと私は思う。コンピューターゲームという遊びは「映像+音声表現によって再現された空想の世界のなかで遊べるというのが特色」だと先ほど書いた。つまり表現によって演出された遊びがコンピューターゲームであり、面白さの根拠のメインは遊び、ゲームなのだ。
しかし悲しいことに、マシンスペック向上により多様な「表現」が可能となったゲームは『ファイナルファンタジー』のように「プレーヤーにどんな遊びをしてもらいたいか?」ではなく「作者がなにを表現したいのか?」により重点がおかれるようになったゲームがある。「ゲーム=プレーヤーが遊ぶもの」ではなく「ゲーム=作者が表現したいこと」になってきたわけだ。表現が遊びのサポート役から、主役に躍り出てしまったわけだ。この流れはゲーム製作のコストを跳ね上げる。表現である以上、同じ映像+音声表現として映画やアニメーションと表現のレベルを争わざるをえないからであるし、表現としての質を上げるためには映画のように金を湯水のようにつぎ込むしかないからだ。
開発コストを跳ね上げていたのは、表現力を向上させようという努力である。その努力は必要なものがほとんどであり、この点で開発コストの圧縮は難しい。しかし表現力を向上させようとする努力にも無駄なものがある、それはゲーム開発において「作者がなにを表現したいのか?」に重点を置いてしまうという制作者の勘違いから生まれる。これが必要以上にゲーム開発コストを跳ね上げている原因の一つだ。そしてこの思想が行き着くところが、例の映画ファイナルファンタジーということになるだろう。表現がしたいなら小説や映画でも作ればいい。
○参考文献