2.

 春美ちゃんがぼくを連れて来たのは、里の入口にある大きな岩・「倉院の岩座(いわくら)」の裏にある、
小さな空き地だった。
 と言っても、もちろん普通の空き地じゃない。
 その地面の真ん中辺りが、立派なナワみたいな物で、円く区切られている。
 例えるなら、相撲の土俵みたいな感じ。
 そして、その円の中には、何か黒い砂みたいなものが敷かれている。
 …………って、さっきから「みたい」を連発してしまっているのは、よく分からないからだけじゃない。
 春美ちゃんに訊いても、「内緒です」としか答えてくれないからだ。
 その代わり、この場所の名前だけは、彼女は教えてくれた。
「ここは、『端境の輪』と呼ばれています」
「はざかい?」
「なるほどくんもご存知かと思いますが……、わたくしたち倉院の里の者は、外の世界とは離れて
暮らしています。
 ですが、時には、その外の世界へ旅立つ必要もございます。
 そのような時、里の者のみに許されるこの場所で、秘術を用いるのです」
「はあ」
「では……これより、なるほどくんが旅立つための、“道”をお作りします」
「道……?」
「はい。ですが、その前に確認を」
 と、やおら彼女は、ぼくに向き直って言った。
「なるほどくんの本当のお名前は、確か…………成歩堂龍一、とおっしゃるのでしたよね?」
「え? あ、うん。そうだよ」
「あと、もう一つ。なるほどくんが行きたいとお考えになっている“じむしょ”というのは、
正式には何というお名前の所なのでしょう?」
「せ、正式?」
 急に言われて、ぼくは焦った。
「そりゃ、まあ……正式に言うなら、『成歩堂法律事務所』だろうね。
 郵便とかの宛名なら」
「かしこまりました」
 彼女はこっくりと頷いてから、目を閉じて話し始めた。
「では、なるほどくんは、その場所のイメージを、頭の中に描いておいて下さい。
 そうすれば、後はわたくしが……」
「って。あ、あの。――待った! 春美ちゃん」
「えッ!? ……な、何ですか? 急に」
「い、いやその。口を挟んで悪いんだけど……」
 最初から思っていた素朴な疑問を、ぼくは、やっと春美ちゃんにぶつける事が出来た。
「この場所って、きみたち倉院の里の人間だけが使えるんだよね?」
「はい。さきほど申し上げました通りです。この里以外の人間は、何人(なんぴと)たりとも、
ここに立ち入る事さえ、まかりなりませんが。それが何か?」
「いやいや! 『何か?』じゃないよ!
 どう考えたって、ぼくはその『里以外の人間』なんだよ?
 それなのに、いいの? こんな所に入っていても」
「………………ああ。そんな事ですか」
 にっこり微笑む春美ちゃん。
「ご心配なく。なるほどくんはもう、この里の一員です。真宵さまの勾玉をお持ちになっていますし。
何より、真宵さまの大切な人でいらっしゃいますし」
「だ、だからソレは違うんだって……。ぼくは、そのあの」
「まあ、それはともかく。気を取り直しまして」
 ……取り直さないでくれえ……。
 ダメだ。もう、こうなったら、成り行きに身を任せるしかない。
 正直なところ、何が起こっているのかサッパリ分からないけれど。
 春美ちゃんに言われた通り、ぼくは自分の事務所を、頭の中に思い浮かべた。
 出来るだけ、ハッキリとイメージ出来る所を……。
 目を閉じているうちに、やがて辺りの音が静かになった。
 その静かな闇の中、春美ちゃんの声が響いた。


「今、倉院の里の民・綾里春美の名の下に、我は訴える。
 我らが同朋・成歩堂龍一、その御身をば、送らせ給え。
 成歩堂法律事務所への道を開き給え。
 双つの極の合わさりし時にこそ、世の理は露われる。
 全ては、七支刀のお導きのままに…………!」


「!!!!」
 一瞬、目の前が光ったような気がして、ぼくは目を開いた。



 そこにあった光景に、ぼくは、何度もまばたきを繰り返した。
 円い形に敷きつめられていたはずの黒い砂が――ゆるやかに波打っている。
 とてもじゃないけど、さっきまでの地面だとは思えない。
 どちらかと言えば、地面というよりも、そう…………。
 湖のよう。水面のようだ。
 そんな景色に、呆然としかかっているぼくの横で、春美ちゃんは言った。
「良かった! 出来ました!」
 まるで、生まれて初めて玉子焼きが出来た!みたいな、そんな明るい声で。
「さあ、なるほどくん。場は整いました。
 心置きなく、行ってらっしゃいませ!」
 ……………………え。
「行くって……どこへ?」
「何をおっしゃいますか。
 お戻りになるのでしょう? その、“じむしょ”という所に」
「う、うん。そのつもりだけど」
「ですから、わたくし、こうして“道”をお作りしました。必ずや、なるほどくんをお送りできるように」
 さあ、どうぞ!
 そう言って、彼女は輝く笑顔で、ぼくを促した。
 とてつもなくアヤシイ感じに波打っている、謎の水面に手を向けて。
 間違いない。彼女は、こう言っているんだ。


『飛び込め』と。


「え、ええと……その……。……ええと」
 どうしよう。
 どう断ったらいいものか、こういう時に限って言葉が出ない。
 法廷での弁論だったら、もっともらしい理屈が幾らでも湧いてくるのに。
「…………如何なさいました? なるほどくん。
 もしやわたくし、何か至らない点でもあったのでしょうか……?」
「あ! いや。そういうわけじゃ……」
 ぼく以上にオロオロとし始めた春美ちゃんに、ぼくは努めて笑ってみせた。
「大丈夫。春美ちゃんは、よくやってくれてるよ」
「本当ですか……?」
「うん。だから、そんな顔しないで」
 行ってやるから。ここから事務所へ。
 ぼくは、黒い砂を区切っているナワに、片足を乗せた。
 もう一方の足を、砂の上に乗せてみると、やっぱり……というべきなのか……沈む。
ずぶずぶと。“水面”に。
 ぼくは、後ろを向いて尋ねた。
「あの。春美ちゃん。念のため訊くけど、本当に大丈夫なんだよね? これ」
「ハイ! モチロンです。…………実際に出来たのは、今日が初めてですが」
「へえ、そう…………。……って」
 えええぇぇぇッ!
「ちょ、ちょっと待った!」
 いくら何でもそんな無責任な――と、異議を申し立てようとした、その時。


 足が滑った。


「うわッ!」
「あッ! なるほどくん!」
 そう叫んだ春美ちゃんの声を後ろに。
 ぼくは、“水面”の下へ落ちて行った。


「痛ッ!」
 ぼくが、“水面”から落ちたのと、どこかの床にぶつかったのは、ほぼ同時の事だった。
 見覚えのある景色を見渡す。
 ドアを開け、その外も確認してから、ぼくは自分が本当に事務所に戻って来ている事を理解した。
 取りあえず、デスクの上に置かれている物――新聞記事を手に取り、法廷記録にファイルする。
 これで用事は、もう終わりだ。
 ぼくは、自分が通って来た(らしい)場所に戻り、その天井を見上げた。
 ……よりによって、こんな所から……。
 天井の真ん中で円く区切られた、黒い“水面”。
 今も、めちゃくちゃアヤシイ様子で波打っている。
 どう考えてもウサン臭いのに、何度も見ているうちに、何だか見慣れてくるのが我ながら不思議だ。
 さて。ここで問題。
 ぼくは一体どうやって、この天井の“水面”まで上ったら良いのだろうか?




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