運命の分岐点

1.

 こういう路地裏に建つ小さな酒場は、独特の雰囲気を持っている。
 お金のない客はお断り。不慣れな客はお断り。特に、健康的なお客様は一切お断り。
 そんな店構えのところでは、時間もすっかり止まってしまってるように感じられる。
 ココに入ってから何時間たったのか。そもそも今日が何年何月何日なのか。
 そんな疑問さえ、どうでもいい事に思えてくる。
 今ココで確かなのは、ちびちびと飲んでいる、この一杯の味だけだ。
 喉を鳴らして、手に持つグラスを空けた時、ずっと動かないでいたドアベルが鳴った。
 ヤニくさい店内に、外からの澄みきった風が吹きこんだ。
 まぶしい街明かりを受けて立っているのは、背の高い男。
 身に着けているのは、こんな店には決して似合わない、上等な背広。色は赤。
 その男は、暗い店内を見回してから、カウンターへ真っ直ぐ歩いた。
 内ポケットから一枚の紙を取りだして、食器を運ぶバーテンダーに示した。
「この写真の人物を捜している。居場所をお教え願いたい」
 バーテンダーは、お断りの客が来たとばかりに、露骨に嫌そうな顔をして逃げようとした。
「待った」
 鋭い声で命令されて、振り向いてしまったバーテンダーに、客は小さな何かを突きつけた。
「このバッジの紋様を知らぬならば、この機会に覚えておくがいい。私は検事だ」
 凄みをきかせて詰め寄って、客は改めて写真を見せた。
「もう一度訊く。この男は今ドコにいる?」
 バーテンダーは黙ったまま、指先を遠くへ向けた。
 客は指差された方向に歩き、やがて一番奥のテーブル席にやって来た。
 ―― 今ぼくが座っている、この席に。
「ココにいたのか………………成歩堂」
「……」
「こちらを見たまえ」
 ぼくは出来るだけゆっくりと、自分のそばにいる相手に目を向けた。
 いつも知ってる真面目な奴が、いつも知ってる真面目な顔で、腕組みをして立っている。
「ようこそ。こんな所までよく来たな。……御剣」
 御剣は、深々とため息をついてから、ぼくのテーブルの隅にある携帯電話を指差した。
「質問したい事は多いが、取りあえず訊きたい。…………なぜ、電話連絡に出ない?」
「……」
「呼び出し音が鳴っている以上、電源を切っているとは考えられなかった。
 なので、こちらはてっきり、電話機を紛失したのだろうと思っていたのだが」
「……そんな……」
「ム?」
「そんな小さなツッコミから、あなたの尋問は始まるんですか? 検事さん」
 首を傾げて尋ね返したら、御剣の眉が跳ね上がった。
「成歩堂! キミは……!」
「とにかく。座りなよ。他のお客さんが見てる」
 御剣は舌打ちしてから、ぼくの向かいの席に渋々と腰を下ろした。
「まぁ、飲みなよ。お前も」
 ぼくは、並べてる空き瓶を片づけて、何とかスペースを作った。
 ええと、まだ使ってないやつは……。あったあった。ちょっと大きいけど、コレでいいや。
 見つけたグラスに、飲みかけの瓶の中身を景気よく注いでやった。 
 自分の分も注いで、一気に飲み乾す。
「大好きなんだ。コレ。真っ赤で、キレイで、透き通ってて、いい味してて。……お前と同じ」
 そう話しながら、更に自分の分にもう一杯。
 これでまた、空き瓶が一本増えた。
 御剣は、目の前に置かれたグラスを、手の甲で押しやった。
「家の外では飲まん。それに、このような、まだ早い時刻から酔っぱらっている男に付き合う趣味はない」
「酔っぱらってる? ぼくが? ……まさか!」
 ぼくは肩を震わせて、それこそ酔っぱらいみたいに派手に笑った。
「よく見て。コレ全部ジュースだよ。いくらぼくでも、こんな一日中お酒ばっかり飲んでたら、
マトモでいられるわけがないじゃないか」
「ならば…………、キミは今、自分が正常だとでも言うつもりか」
「どういう意味だよ、ソレ」
「単刀直入に訊こう。……キミは、この生活を何日続けている?
 事務所も開けず、自宅にも帰らず、このような裏酒場で、無為に時間を過ごすだけの生活を」
「なるほど。それは確かに単刀直入だね」
「質問に答えろ」 
「ハイハイ」
 ぼくは、椅子の背もたれに体を預けて、投げやりに相槌を打った。
「けど、そんな事を訴えるからには、ぼくがココに入り浸ってるって証拠はあるんだろうな?」
「ああ。今のキミが全うな生活をしていないという事は断言できる」
 御剣は、席の横に置いていた荷物を、テーブルの上に載せた。
 かなり中身の詰まった紙袋だ。
「今日、キミの事務所と自宅とを訪ねさせていただいた。
 戸口には、どちらも鍵がかけられており、中に入る事は出来なかった。
 その代わりに手に入れてきた証拠品が、コレだ」
 ひと思いに、紙袋が引っくり返された。
 ドサドサという音を立て、大量の紙がテーブルに山を作った。
 色もサイズも様々だけど、その共通点は、全部封筒であるという事だ。
「内訳としては、年度末にあたっての、弁護士協会・検事局・警察局などからの公的な書類と、
その督促状が大半だ」
 御剣は、封筒の一つを手に取った。
「のみならず、今までの依頼人からの礼状も見受けられる。なお、同じ差出人からの物が複数あるのは、
キミが返信しないために痺れを切らしたのだろうと、容易に推測できる」
「……」
「私の知っているキミは、このような行為をする人間ではない。
 私が事務所を訪ねると、キミはいつも書類の類と格闘していた。
 極めて筆まめでありながら、極めて要領が悪いのがキミの常だった。
 幼い子供の頃から……ずっと」
「……」
「何があった?」
 御剣は、そっと封筒を山の上に置き直した。
「あの一連の事件を乗り越え、学生時代の出来事にも決着をつけたキミは、順風満帆だったはずだ。
 仕事先でも外出先でも、キミの評判は上々だった。
 先日の食事会で、キミの元に集まった人数だけを取っても、その点は明白だ」
 そう言われて、あの頃の思い出が一瞬だけ頭をよぎった。
 詳しく思い出しそうになる前に、ぼくは記憶を振り落とした。
「なのに、ここ暫くのキミは、全て変わり果ててしまっている。優先するべき職務をないがしろにしている一方で、
弁護の相談を強引に取りつけているという報告さえ上がっている。
このまま行けば、キミに然るべき処分が下されるのも……時間の問題だろう」
 最後の言葉をぼくに告げる時、御剣の組み合わせている両手が、かすかに震えた。
 ぼくは別の話題を振ってみた。
「……彼女たちからは聞いてない? 今のぼくの事」
「ああ。キミの消息を探るべく、私はあの……倉院の里とやらにも接触を試みた」
「へぇ……それで?」
「彼女らの話は分かった。……だからこそ、余計に分からなくなった」


『ソレは……御剣さんが直接、聞いてあげて下さい。
 なるほどくん、きっと待ってると思いますから』


「だから私はココに来た。全力でキミを探し当てた。
 取り返しのつかない事態になるのを防ぐために。キミの口から、真実を語らせるために」  
 そう熱く語る御剣を、ぼくは途中で遮った。
「って何だよソレ。結局あの子たち、教えようとしなかったんだ。役立たずだな、相変わらず」
「何ッ!?」
 一気に気色ばむ御剣に、ぼくは苦笑した。
「おいおい。ぼくは思いついた事を言っただけだよ。『シソーシンジョーのジユー』ってやつ?みたいな」
 御剣は、盛大なため息を吐き出した。
「そういう事か。……たとえ何があっても、自ら事情を明かす意志はないというわけだな。キサマは」
「いや…………、そうでもないよ」
 ぼくは、座っている姿勢を正した。
「この際だからね。正直に打ち明けておいた方が、お互いのためかもしれない」
「……成歩堂……」
「それじゃ、お前が勝ったら、ぼくは事情を話すって条件でいいね?
 その代わり、ぼくが勝ったら、この話はこれで終わりって事で」
「は?」
 目をしばたたかせる御剣には構わずに。
 ぼくは内ポケットから、使いこんでるカード一式を取り出して、シャッフルを始めた。
「本格的に覚えたのは最近なんだけど、すごく楽しくてね。
 一緒にやる人たちも皆、マンゾクしてくれてるよ。
 『ぼくが負けたら、あなたの言う事を何でも聞いてあげますから』って誘うと、どんな奴でも食いついてくる。
 で、そんな奴らが片っ端から潰れていくのがまた傑作っていうか」
 そう説明している間に、一通りシャッフルも済んだ。
 カードの束は一旦、身から離してテーブルの端に。
 続いて今度は、左手のペンをメモ用紙に走らせていく。
「ええと……、細かいルールはどうしようか?
 レイズとかドロップとか……そういうの決めとかないと……後で意外にモメるから」
「……………………念のために問いたい」
「何?」
「キサマは何をしようとしているのだろうか」
「だから。ポーカーだよ、ポーカー。知らない? ……ああ、だったら、バカラとかの方がいいかな。
アレならルールも簡単だし、早く決着がつくから、何ならそれでも」
「ふざけるな!」
 バンッ!
 テーブルを打ち鳴らす激しい音が、店の空気を凍らせた。
 にらんでくる他の客たちを、御剣は一層鋭い眼光でにらみ返して黙らせる。
 この通り、コイツを怒らせるなんて実に簡単。
 礼儀を無視してやればいい。真剣な話を茶化してやればいい。
 だから、ぼくは、ますます横柄に接してやる。
 らしくなく、足を大きく開いて、浅座になって。
「じゃ、こっちも聞かせてもらうけどさ。
 結局お前、何がしたいの? ぼくをどうしたいの?
 何かの罪で、ぼくを連行するかい?
 先に断っとくけど、ぼくは何も犯罪なんかしてないぞ。
 お店でポーカーする時だって、お金は一切賭けてないし」
 この国の法律では、現金さえ賭けなければセーフ。
 そんな事は、ぼくでさえ流石に知っている。
「あ、そうか。お前、ぼくに忠告しにきてくれたんだ。自他共に認める正義漢の名検事殿が、
海の向こうから遥々と、こんなむさ苦しい所まで。人の道に外れた事しちゃいけないぞって。
ああ、それはもう、涙が出るほどお美しいお話だね。いやまったく」
 ぼくが早口にからかうにつれて、御剣の顔がどんどん青ざめていく。
「だったらホントに悪いけど、それこそ無駄足だったね。
 ぼくは単に自分でこうしたいから、こうしてるだけだ。
 別に、助けてほしいのに強がったりしてるなんて事じゃない。昔のお前じゃあるまいし」
 ぼくは次々と罵声を浴びせていく。
 塞がっていたはずをカサブタを剥がすように。その傷口を抉るように。
「その上、ひとが助けてやったのに、誰にも全然相談しないで、一人で勝手に悩んで迷って、
その挙げ句に仕事捨てて逃げ出したような奴に、いまさら説教なんかされたくないね!」
 次の瞬間、勢いよく胸倉をつかみ上げられた。
 ぼくを席から引きはがした御剣は、鬼も逃げ出すような形相で、押し殺した声を絞り出した。
「キサマ……いったい何を……!」
「ホントのコトだろ? 全部。
 だいたい何様なんだよ、お前。散々ぼくの人生を振り回して。
 いつになったら気が済むんだよ。お前なんか」
 そうだ。ここまで言うなら、最後まで言ってしまえ。そして、粉々に叩き壊してしまえ。 
 長年かけて取り戻した縁も。数年かけて築き上げた絆も。


「お前なんか、この人生で、会わなければ良かったよ!」


 空気を切る音が聞こえた。
 御剣の振りかぶった拳が飛んでくる。
 痛みに耐えようと、ぼくは目を閉じて身構えた。




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