もう一つの邂逅

1.

 警察の資料室にこもるのは、嫌いな事ではない。
 古びたインクの匂い。時計の針が立てる正確なリズム。
 何より、一切の邪魔の入らない、独りの時間を持てる点が気に入っていた。
「後は、これだな……」
 御剣怜侍は、書棚からバインダーを引き出した。
 活字で埋められた紙束を繰ると同時に、その内容を意識に焼きつけていく。
 その際、メモの類は取らない。
 御剣に言わせれば、一読した時点で内容を記憶できない方が、どうかしているのだ。
 あくまでも他者に向けての確認用として、必要だろう書類を選び、小脇に抱えた。
 後は検事局に戻り、更なる検討に進もうと、資料室を出た時だった。
「あああぁぁぁッ! 御剣検事!」
 何とも騒々しい声が、御剣の鼓膜に突き刺さる。
 御剣は眉根を寄せて、自分の所に走って来た中年男性を見やった。
「…………何だろうか」
「あ、いや、それがですな。その……」
 自分から声をかけてきたくせに、その事情を話さない。こういう輩は意外に多い。
 そうやって待たされている間に、御剣はその中年男性を、さり気なく観察した。
 見覚えのない顔だった。
 というか、どこか押しの弱い、印象に残りにくい顔をしている。
 話を切り出そうとしない相手に、御剣は焦れた。
 出来るだけ、静かな声音で問いかける。
「……用件があるならば、手短に済ませて頂きたいところだが」
「あ! いやいや、コレは失礼しましたな」
 問われた相手は、さも今思い当たったかのような笑みを浮かべて答えた。
「実は……。こちらの方に、このような人相の男が来ませんでしたか?」
「男……?」
 示された写真に写っていたのは、御剣と同年代と思われる、茶色い髪の男性だった。
「あいにく、私は見てはいないが……。この人物が、何か?」
「ええ、その……それが。本日、留置所に入る予定だった男なのですが。
 その移送の際、ちょっとした手違いで……。
 ……脱走、してしまいましてな……」
「…………何だと?」
「この署内にいる事は、間違いないのですが……」
「当たり前だッ! 他の場所になど逃げられてたまるか!
 留置所に入る予定の人間、という事は……」
 ……ごく平たく言えば……。
「それ即ち、事件の被告人という事ではないか!」
 何とも、呆れてしまう失態だ。
 まさかこの警察署内で、被告人の脱走騒ぎとは。
 一番に困るのは、その被告人を取り逃したというこの中年男性である。
 そんな基本的なミスをするという事は、新入りの刑事だろうか。
 それにしては、ずいぶん年かさが行っているような気もするが。
「と、とにかく……。逃げた方角から、この近くに潜んでいる事は確かなのです。
 どうか一つ、ご協力を……」
 よく見れば、相手は御剣に気おされて、すっかり青い顔になっている。
 数秒後、御剣は無感情な声で相手に告げた。
「…………心得た。アヤシイ人物を見かけたら即刻、取り押さえる」
「そ、そうですか! 御剣検事がそう言って下さるなら心強い……」
「だから、キミも早く行きたまえ」
「はい?」
「その不審者を、直ちに追えと言っている!
 キサマは、それしきの事も察せられんのか!!」
「は、はいーッ!!」
 ……まったく。あのような刑事ばかりが増えては、世も末だな……。
 走り去った相手を睨んでから、かぶりを振りつつ先へと歩く。
 すると今度は、どこからともなく――軽薄極まりない会話が聞こえてきた。
「って、そんな調子のいい事、会う子みんなに言ってるんじゃないの?」
「んな事ないって! 君こそ、オレの運命の人なんだっての! マジで!」
 ぺらぺらぺらぺら。
 男の方の口説き文句(?)は、なかなか終わりそうに感じられない。
 ……嘆かわしいとは、まさにこの事。警察の風紀の乱れもここまで来たか。
 靴音を高く鳴らして、廊下を進む。
 角を曲がるや否や、その不埒者に怒号を投げた。
「そこの男! 公然たる署内の廊下で、何をやっておるか!?」
「うわわッ!!」
 ちょうど女に去られたところだったのだろう、既に一人になっていた男は、慌てた様子でこちらに振り返った。
(……写真の男……!)
 間違いない。先程の刑事(だと思われる中年男性)が訊いてきた脱走者だ。
 早く取り押さえねば――と思った、その時。
 どことなく、胸の奥がザワめいた。
 何か、重大な事を思い出しそうな感覚。
 あるいは、思い出すべきでない事を、思い出してしまいそうな感覚。
 しかも驚くべき事に、相手の方も御剣と同じ感覚を抱いたらしい。
「……アレ……?」
 首を傾げながら、相手は御剣に問うてきた。
「オレとしてもこんな事、男相手に言うのもナンだけど……。
 ……アンタ、オレと会った事ねえ?」
「な……」
 キサマなど知らん。我が人生で一度たりとも、見かけた事すらない。
 そう言いきってしまえば、事は済むのに。なぜか言えない。
「何の事……だろうか。そもそも、ひとに物を尋ねる際は、まず自分から名乗るのが、
人としての礼儀だろうと思われるが――」
「ああああああッ!!」
 御剣の言葉を遮って叫ぶ相手。
「思い出した! その、まどろっこしい話し方! 間違いねえや!
 …………御剣だろ? オマエ」
「!?」
「オレだよ、オレ! 矢張政志! 小学校のクラスで一緒だった!
 いやー、こんなトコで会えちまうなんて、世の中って狭いんだなあ……」
「…………………………」
 半ば一方的にまくし立てる相手を前に、御剣は無表情のまま、しかし必死の思いでこの状況を計算していた。
 幸か不幸か、相手の素性は、完全に思い出してしまっていた。
 一体どうして、この男――矢張がここに居るのか、まして被告人の立場に立たされているのか。
ソレは今の時点では分からない。
 ただ、確実に言えるのは、「このままではマズイ」という事。
 推測というより、もはや本能のレベルで、御剣はそう感じていた。
「…………矢張」
「ん?」
「ここでは目立つ。場所を変えよう」
 返事は敢えて聞かず、早足で廊下を逆行する。
 先程まで入っていた資料室へと、再び向かった。




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