Beyond the Line

1.

 きっかけは、思いついた好奇心からだった。
 何事もない昼下がり。ぼくは事務所のデスクに座り、いつもの来客――御剣は、いつものソファで、
分厚いハードカバーの本を読みふけっていた。
 御剣いわく、この部屋だと自分の家より読むのが随分はかどるそうで。
 事務仕事を一段落させたぼくは席を立ち、対面の椅子に腰を下ろした。
 その気配に気づいたのか、御剣は、ぱたんと本を閉じて、ぼくの方に顔を向けた。
「………………何だ?」
「えっと……。それ何の本かなって思って。また法律書?」
「いや、これは小説だ。グリムウッド……と言っても、キミには分かるまいか。端的にいえばSFだ」
 人によっては驚かれるらしいが、御剣の読む本のジャンルは相当に広い。
 いわゆる乱読家というやつで、畑違いの専門書から、最新の連載漫画まで分け隔てない。
 だからコイツが密かに特撮マニアであるのも、実は筋が通っていたりするのだ。
「して、用件は?」
 続く御剣の声は、少し尖っていた。
 どうやら、邪魔されたのがお気に召さないようだ。
「あ。その。大した話じゃないんだけどさ」
「大した話でないのなら、今しばらく待ちたまえ。私は集中したい」
「いえ、言葉のアヤです訂正します。前から気になってる事なんで聞いて下さい」
「ならば最初からそう言え」
 御剣は唇の端で笑って、テーブルに本を置いた。
「…………あのさ。ぼく、お前に弁護の代役を頼んだ事あったよな。
 体を壊して、具合が悪くて」
「そうだな。慣れぬ役を押しつけられたこちらとしては、難儀したものだ」
「その事なんだけど。そもそもぼく、どういう風にお前に頼んだのかなって」
「………………」
「ハッキリ言って、記憶がないんだよ。あの時は、とにかく熱くて苦しかった事しか覚えてない。
そんな状態で、お前にどうやって事情説明したのかなって」
「………………」
「御剣?」
「………………そうか。今が、そのタイミングというわけか」
 御剣の表情は、何とも言えない物になっていた。
 何十秒も、ぼくを見たまま固まって。
 すると今度は、眉間を指で何度も揉んで。
 それから低い声で、ぼそりと言った。
「好奇心は猫をも殺す。という、ことわざを知っているか」
「え……?」
「まず前提として、猫には九つ命がある、それほど生命力の強い生き物だと言われる。
その猫をも殺すのが、安易な好奇心だ。今のキミには、ぴったりな言葉だと思われる。
それでも知りたいか?」
「う、うん。それは……もちろん」
 何だか脅されるような言い回しだったけれど、いまさら後に退くのも気に入らない。
 御剣は、腕を組んで目を伏せた。
「ならば語ろう。私が当時体験した出来事を。
 先に断るが、途中で質問して遮る事は極力慎んでいただきたい。
 あまりに荒唐無稽で支離滅裂な……悪夢の話だ」





 御剣怜侍は、早朝トレーニングの最中にかかってきた電話で、成歩堂龍一の危機を知った。
 命が危ないという知らせに、我ながら形振り構わず、日本へと駆けつけた。
 病院では片っ端から身分証明を突きつけ、まるで犯人逮捕のような勢いで、当人のICUにたどり着いた。
 手続きを済ませて部屋に入った直後、違和感があった。
 ベッドへ歩み寄るにつれ、その違和感は増していった。
 空気が重い。水の底を歩いているような質感がある。
 そして、室内に色が無い。
 単にモノクロという意味でなく、何もかも凍りついて止まってしまっているような、異様な雰囲気。
 それに気を取られたか、御剣は不覚にもつまずいた。
 よろけた体は、ベッドに手をついたおかげで転ばずに済んだ。
 その結果、横たわる成歩堂を間近に見る姿勢になった。
 事に気づいた瞬間、悪寒が走った。
 全く呼気が感じられない。
 それだけでも異常事態だったが、更にあり得ない現象が起こった。
 成歩堂の目が、開いた。
 目の色は、蝋細工のような深い闇色だった。
 そのまま体を起こしてくるのを、御剣は留め付けられたように見入ってしまっていた。
 成歩堂は、両の手を緩慢に上げ、御剣の首元へ添えた。
 ずっと無表情だった闇色の目が、僅かに揺らいだ。
 不意に口角を上げた、笑顔と呼ぶには醜悪な顔つきで、両手指に力を込めた。
「!?」
 突然の、常人の出せるはずのない腕力によって、御剣は呼吸を塞がれた。
 耐えられるはずもなく、視界は急速に暗くなっていった。




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