2.

 そこで、はっと目が覚めた。
「夢……か」
 御剣は、伏せてしまっていた体を起こした。
 いつの間にか、デスクで寝入ってしまっていたようだ。
 それにしても、不愉快な夢だ。
 まさか自分が絞め殺されて終わるとは。
 第一、あの襲ってきた化け物めいたアレは何だ。
 あんな男、少なくとも知り合いには思い当たらない。
 暫く考えてもみたが、所詮は夢だ。細かい部分はどんどん記憶から雫れ落ち、あいまいになっていく。
 窓の外を見ると、もうすっかり夜も更けている。
 御剣は手荷物をまとめると、通い慣れている事務所を後にした。
 今夜は月も星も出ていなかった。
 何とか電車に間に合えば良いのだがと考えながら、足を急がせる。
 横断歩道を前に、時刻を確かめようと立ち止まった時、激痛を感じた。
 後ろから頭を殴られたと理解すると同時に、御剣はその場に倒れこみ、意識を手放した。
 その後、再び目を覚ましてからも、後頭部の痛みは続いていた。
 というよりも、その痛みのせいで起きてしまったというべきかもしれない。
 遠くから、誰かのつぶやく声が聞こえた。
「……まったく……何でぼくがこんな目に……」
 ぶつぶつと言っている声の主を見ようと瞼を上げた。
 が、何故か相手の靴しか見えない。
 数秒遅れて、御剣は自分の体勢を知った。
 両手足首を縛られ、転がされているのだ。
 手首は後ろ手にされているから、体を支える事もままならない。
 何とかして体を起こそうとするものの、冷え冷えとした床が滑って上手くいかない。
 やがて、タイルが一面に敷き詰められているのだと分かった。
 一見した印象は、まるで広い風呂場のようだ。
 そうやって部屋を観察している御剣の動きに、相手が気づいて近寄って来た。
「へえ……もう起きちゃったのか。どうせなら、そのまま眠ってりゃ良かったのに」
 よく通る声の割には、どことなく舌足らずな喋り方をする男だった。
 男は御剣のそばまで来ると、顔を覗きこむような姿勢でひざまずいた。
「でも、別にどうでもいいか。あんたの人生、どの道ここで終わるんだから」
 くすくす笑うその男は、年の頃も背の高さも、御剣とそう変わらない。
 着ている黒い服と同じ、黒い髪が目に留まる。
 そんな男の顔を、御剣は呆然と見つめていた。
 半ば無意識の内に、あらぬ言葉を口走っていた。
「成歩堂……?」
「へ?」
「成歩堂! 何故キミがここに!? どういうつもりで、キミは……!」
「……………………あのさ」
 男は白けきった面持ちで首を傾げていた。
「あんた何言ってんの? 興奮してるところ悪いけど、ぼくはあんたとは初対面だよ」
 そう言われて、御剣は我に返った。
 確かにその通りだ。
 子供の頃までさかのぼっても、これは見覚えのある顔ではない。
「まだ寝ぼけてるみたいだから教えてあげる。
 あんたは家までの帰り道で、ぼくに拉致られたの。
 で、もうすぐぼくに殺される。それがぼくの受けた依頼だから」
 明日の天気でも語るように爽やかに、とんでもない事を言ってきた。
「き、キサマ……自分が何を言っているのか分かっているのか? 依頼という事は、つまり……」
「平たく言えば、殺し屋ってやつだね」
 男は、至って穏やかな口調で答えた。
「これはいつも言ってるんだけど、抵抗しても無駄だよ。
 そのロープは絶対に解けないし。助けを求めても意味は無い。
 ここは、ぼくの取って置きの場所だから。
 あんたの死体は、髪の毛一本残さずに、カンペキに消してあげるよ」
 御剣は、この部屋がタイル張りである理由を知った。
 壁の方へ視線を移すと、やはり同じようなタイルが張られている。
 その内の何ヶ所かは、薄く変色していた。
 何で汚れた跡なのか、敢えて尋ねる必要は無かった。
 今一度、深呼吸してみると、消毒液と芳香剤の入り交じった匂いを感じる。
 その匂いに隠された、もう一つの臭いも。
 男が述べているのは、虚勢ではない。全て事実だ。
 御剣は、これも無駄とは思いつつ、男に尋ねた。
「いったい誰だ。キミに依頼した人物は。私を……殺したいと願った人物は」
「さあ。誰だろうね」
 予想通りの回答。
「名前を教えるのは止められてるから言わない。ただ、一応伝言は頼まれてる。
 『もう庇(かば)いきれない』だってさ。
 あんたは余計な事に首を突っ込みすぎたって言ってたよ」
「な……」
 まさかと思いたかった。
 心当たりは有るには有るが、認めたくなかった。
 つまりは、今まで庇ってくれていた存在――上司であるあの人が?
「ホント、人間って怖いよね。表向きにはもっとやれって応援してくれてる人が、
裏では迷惑だから死んじゃえって思ってるんだよ。ご感想はどうかな? 御剣弁護士さん」
「…………」
「あんた有名人だからね。ぼくでさえ、テレビで何度か見た事あるよ。『正義の味方の体現者』だっけ?」
「アレは、マスコミが勝手に付けた呼び名だ。私とは関係ない」
「そう? 言われて満更でもないんじゃない? 実際あんたのやってる事、お人好しってレベル超えてるもの。
何であんな真似できるんだ?」
「それは……個人的な事情だ」
 御剣は明言を避けた。
 わざわざこのような場所で、このような相手に話す事ではない。
「そういうキミこそ、どうなのだ? 何故に、このような犯罪を……」
「それこそ個人的な話だろ」
 男は切って捨てるように言ってから、御剣をにらみつけた。
「だいたい、ぼくは大嫌いなんだよ。あんた達みたいな、法律関係の連中は。
 平等だの民主主義だの、聞こえのいい事を言っといて、結局は数の暴力で生け贄をつるし上げる。
 お前が盗んだって、お前が殺したって、周りで決めつけられたらもう終わり。
 こっちの意見なんて、誰も聞いてくれない。
 だったらこっちも、それ相応のお返しをやるまでさ。
 どうせ誰も助けてくれやしないんだから」
 男は、けらけらと嘲笑う声を交えながら、立って御剣を見下ろしていたが、やがてその笑いを止めた。
「何だよ、その顔。言いたい事があるなら言えよ」
「…………キミの言い分は、もっともな話だ」
 誰にも信じてもらえない、究極の孤独に落とされた苦しみは、体験した者にしか分からない。
「ずっと昔、私もキミと同じような思いをした事がある。
 私が巻きこまれたその事件では、私にとって不利な証拠ばかりが揃っていた。
もしかしたら覚えていないだけで、本当に私が殺したかもしれないと思うほどに」
 ようやく体勢を立て直した御剣は、おぼろな記憶を手繰りながら話を続けた。
「だが、そんな私を助けたいと、私への借りを返したいと、声を上げた男がいた。
 私がいくら拒んでも、彼は諦めずに食らいついてきた。
 留置所で、アクリル越しの私に、彼は……」
 口に出している内に、妙な気持ちになってきた。
 自分が体験したはずのない事件が、何故か頭に浮かんでくる。
 みるみる内に、その記憶が鮮明になっていく。
「そうだ! やはり、あれは夢ではない!」
 御剣は敢然と、眼前の男に宣言した。
「キミだ! 15年に及ぶ悪夢から私を救い出したのは!
 そうだ、私は弁護士などではない、キミは殺し屋などではない。私は検事だ、キミこそが弁護士だ。
 分かってくれ成歩堂。私はもう思い出した。この世界は何かが狂っている」
 一息に言葉を吐き出して、御剣は祈るような思いで男を凝視した。
 男の反応は、ある意味、常識的だった。
「あんた……アタマ大丈夫?」
 やや引きつった顔で、一歩身を退いている。
「もう少しお喋りしようかと思ったけど。ごちゃごちゃうるさいから、もういいや」
 大儀そうな言い方で、上着の懐に右手を差し入れようとした男の動きが、固まった。
「えっ……!? な……何……だ?」
 両手で顔を覆い、ふらふらと揺れた後、ヒザを折って倒れた。




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