3.

 糸鋸は、御剣を局内に運びこんだ。
 取りあえず、自分が普段使っている仮眠室のベッドに寝かせた。
 いったい何がどうしてどうなったのか、サッパリ分からなかった。
 ……やっぱり、お疲れのせいッスかね……。
 差し当たっては、ソレくらいしか原因を思いつけない。
 椅子に腰掛けた糸鋸は、目を閉じる御剣の顔を見下ろした。
 こうして寝顔を眺める分には、年相応の姿に見える。
 何と言っても、まだ20歳なのだ。
 自分がその歳の頃といえば、警察学校にさえ行ってない学生の時代だ。
 なのに、今ここに居るこの方ときたら、なんと重い荷物を一人で背負っている事か。
 いつか潰れはしないかと、心配になってくる。
「………………ん」
「検事? 起きたッスか?」
 身をよじらせる御剣に、糸鋸は声をかけた。
 すると御剣は、右手をゆっくりと持ち上げて、微かな声で囁いた。
「お…………とう………………さん……」
「へっ?」
 てっきり何かの聞き間違いだと思って、顔を寄せた。
「…………おとうさんから、はなれろぉっ……!」
「うぎゃ、ッス!!」
 避ける暇もなかった。
 力一杯に振りかぶられた拳を受けて、糸鋸は椅子から床に転がった。
 勢いのついた御剣本人も、一緒になって落ちてくる。
 それどころか、無闇やたらにもがきながら、絶叫し続けた。
「あ……! あっ、あ、あああぁぁぁッ……!」 
「検事! 落ち着いて下さいッス、御剣検事!」
 糸鋸は両腕で、御剣の身を押さえつけた。
 程なくして御剣の混乱は静まり、悲鳴も止まった。
「………………………………?」
 今度こそ目を覚ました御剣は、自分の置かれている状況を悟った瞬間、またも叫んだ。
「き、キサマ! 私に何をしようと……、ココは一体……!?」
「あ、いや、何をも何も。自分はただ、検事の寝起きに、ちょっとビックリしただけッス」
 糸鋸が何の気なしに言うと、御剣の顔から血の気が引いた。
「そうか。……また、やってしまったのか。よりによって、こんな所で、キミの前で……」
 まるで世界が滅んでしまったような様子の御剣に、糸鋸は戸惑いながらも告げた。
「とにかく、せっかくだから、もう少し休まれていくといいッス。
 この時間なら、他の皆も入って来ないはずッスよ」
 それじゃと立とうとしたら、服の端をつかまれた。
「待ちたまえ。……なぜ、何も訊こうとしない?」
「え?」
「恐らくだが……私は今、キミに殴りかかったはずだ。そして見苦しく暴れ狂った。
 そんな様を見て、キミは何も思わないのか? 笑ったりしないのか?」
「そう言われても……何たって、寝起きの事ッスからねえ」
 怖い夢でも見れば、寝ぼけて騒ぐくらい、誰でもある事だろう。
 少なくとも自分はそう思う。
「しかし、それでも限度があるだろう。私の場合は、明らかに尋常な物ではなかったはずだ」
 いつの間にか、本来の話し方に戻っている事に、当の御剣は気づいていない。
 今の彼なら、自分の話も聞いて下さるかもしれない。
「あの、それよりも……御剣検事」
「何だろうか」
「さっき言いそびれた事、言わせてもらうッス」
 糸鋸は、御剣の前に座り直した。
「御剣検事。この度は、初勝利おめでとうございますッス。
 検事は誰よりも頑張ってたッスから。自分もすごく嬉しいッスよ」
「…………」
 言われた御剣は数秒、目を見開いて固まっていた。
 その目から突然、大粒の雫が流れ落ちた事に、糸鋸は仰天した。
「え!? な、な、何スか、何スか!? 自分また、変な事でも言っちまったッスか?」
「ち……、違う、違うんだ! これはその、勝手に……。この、止まれ、止まれというに……!」
 御剣は何度も目元を拭った。
 が、あふれてくる量は、どんどん後から増すばかりだった。
 その姿から、糸鋸がふと連想したのは、先日会った親戚の子供だった。
 確かあの子も会った時、泣きべそをかいていた。
 せっかく入った野球チームで活躍できないのが悔しいと。
 一生懸命練習しているのに、エラーしてしまうんだと。
 その時を思い出しながら、糸鋸は半ば無意識の内に、つぶやいていた。
「…………泣きたい時は、泣いちまった方が楽ッスよ」
 その言葉が、御剣の意地を砕いた。
 御剣は、糸鋸のコートの襟をつかんで泣いた。
 声こそ殺しながらも、肩を震わせて泣きじゃくった。
 気がつくと糸鋸は、御剣の頭を手のひらで撫でていた。
 この人を褒めてあげたかったから。
 おこがましいとは分かっていても、そうしたかった。
 この人はずっと、たった一人で戦ってきたのだ。
 誰にも頼らずに生きて、誰からも頼られるほどに強くなった。
 何も求めずに。何も欲さずに。ただ一途に。真っ直ぐに。
 だから今この時だけは、この人の好きにしてあげてもいいのではないかと、糸鋸は思った。
 しばらくの間、静かな時間が流れた。
 泣きやんだ御剣は、訥々と昔話を打ち明け始めた。
 子供の時に事件に巻きこまれたせいで、地震が苦手になった事。
 その事件をきっかけに、検事を目指すようになった事。
 今もその事件にまつわる悪夢を見て、うなされてしまう事。
 一時期は見る回数が減っていたが、最近また、ぶり返してしまった事。
 この事情を打ち明けた相手は、糸鋸が初めてである事。
 手紙を毎月くれる親友がいるが、その人にも話せないでいる事。
 糸鋸が把握できた内容は、この程度だった。
 というのも、御剣の話は――彼にしては珍しく――あちこちに散らかっていて、
時系列も乱れ飛んでいたからだ。
 だが糸鋸としては、御剣が話してくれた事自体が、この上ない光栄だった。
 御剣が自らの過去について触れた機会は、後にも先にも、この一度だけだった。
 糸鋸の方からも、改めて尋ねようとはしなかった。
 然るべき時期が来れば、御剣の方から話してくれるだろうと信じていた。
 それから、いくつもの事件を経る中で、御剣は確かに成長していった。
 悪夢を見る夜からも解放されたという。
 それに、以前より柔らかい笑みを湛えるようにもなった。
 地震へのトラウマを克服できる日も、いつかきっと来るはずだ。
 だからそれまでは、自分が全力で守るのだ。
 そんな回想にふけっていた糸鋸のネクタイが、急に下へ引っ張られた。
 突然の事に、糸鋸が喉を詰まらせながら下を見ると、険しい顔の御剣と目が合った。
「と、いうわけだ。以上、くれぐれも反省するように!」
 ぴしゃりと言い捨ててから、御剣は橋の方へ歩いて行く。
 糸鋸は、怪訝な気持ちで後ろを向いた。
 そうしたら、遠くにいる同僚たちが、もっと怪訝な様子でこちらを見ている事に気がついた。
「あ、あーあ! また検事殿に小言もらっちまったッス。参ったッスな。はっはっはっはっは」
 殊更に大声で笑ってみせると、同僚たちは再び作業に首を戻した。
 糸鋸は、御剣のそばに走り寄った。
 御剣は白目を向け、小声で告げた。
「まったく。かばうつもりなら最後まで気を抜くな。危うく怪しまれるところだったぞ」
「面目ないッス。……それで、さっきは何をドコまで話したか……」
「結論は簡単だ。問題の凶器は――この川底に沈んでいる可能性が極めて高い」
「ふむふむ」
「探してきてもらえるだろうか。今すぐに」
「ココをッスか?」
 糸鋸は橋の手すりから身を乗り出して、水面を見下ろした。
「何だか変な色してるッス。それに、よく分からない物も浮いてるッスよ」
「裏通りだからな。排水管理も徹底されてないのだろう」
 御剣は、大きく肩をすくめた。
「……やれやれ。キミがどうしてもためらうと言うならば、仕方ない。かくなる上は」
「あっ、その、給与査定だけはカンベンして欲しいッス。自分はただ、心の準備がまだ」
「私が行こう」
「…………………………………………はい?」
「受けた恩は、早めに返すのが道理という物だ」
 話しながら御剣は、すたすたと川の方に下りて行ってしまう。
 遅れて我に返った糸鋸は、全速力で御剣を追いかけた。
「ちょ、ちょっと! 待ったッス! 異議ありッス!
 検事にそんな事させたりしたら、それこそ課長に大目玉くらっちまうッス!」
「だったらキミも早く来たまえ。探すなら、一人より二人の方が効率が良い」
「だから検事は無理しちゃダメッス! 危ないッスよーっ!」
 その後は結局、二人どころか現場の総出で、川の捜索と相成った。
 それで発見された証拠品によって、事件は意外な方向に進んでいったのだが、それはまた別の話である。

〈了〉



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