耳を澄まして

 本当なら心地よいはずの虫の声も、ここまでヒドイと騒音だ。
 依頼人の家に行く道を尋ねるために、たまたま入ったお店。
 一言で言えば、虫専門のペットショップだ。
 近頃のブームに乗って、季節から外れてるような虫たちも一斉に鳴いている。
 リンリンとか、キリキリとか、そんなのが。
 そんな状況だったから、ぼくは自分の携帯電話が鳴っている事にも、すぐには気づけなくて。
 バイブレーションしている電話機の表示を読んで、慌てて出る。
「どうした、成歩堂? ……キミにしては、出るのが遅かったようだが」
 少しご機嫌ナナメな御剣の声。でも、こういう時に、聞き慣れた声を聞くとホッとする。
「あ、ごめん! 今、外の音が凄くてさ! それで、何の用!?」
 つい声が大きくなる。両耳を塞いでないと、向こうの声も聞き取りにくいほどだ。
 実際、御剣の方も、少し間を置いてから聞き返してきた。
「……………………キミは、何を言っているのだ? その、音というのは一体……」
「だから! お店の、虫が、めちゃくちゃ鳴いてて! もう、うるさくて!」
 電話の向こうで、咳払いが聞こえた。
「…………そういう事か。ならば、用件のみ伝えよう。
 今夜の待ち合わせ、時刻を早められないだろうか。
 こちらは、予定よりも早く片付きそうだ」
「あ、そう! 分かった!」
 いちいち怒鳴り返すのも気が引ける。喉も疲れる。
「とにかく! こっちから、かけ直すから! また後で! じゃ、今夜は――」
 と、途中まで言いかけて。
 ふと思いついた、悪戯心。
 ぼくは不意に声を潜め、消え入るように囁きかけた。

「今夜は……きみの好きにして、いいから」

 相手の返事は待たずに、ぼくは通話を切った。
 言った後から、体が遅れて熱くなってきているのを、ぼくは感じた。
 一度でいいから言ってみたかったんだよね。今の台詞。
 でも、とてもじゃないけど、面と向かっては言えないし。気恥ずかしくて。
 そんな電話を終えて、数分後。
 奥から出てきた店主さんから、この辺りの地図を書いてもらって、仕事を済ませて。
 やっと一息つけた頃。ぼくは改めて電話をかけた。
 ベルの音が4回ほどしてから、御剣が出た。
「どうしたんだ、御剣? 今度は、きみの方が出るのに遅れるなんて」
「いや……それは、その。興味深い体験をしたものでな。
 キミが先刻とった行動には、誠に驚かされた」
「え? ソレって、どういう――」
「こんな話を知っているかね?」
 ぼくの話を完全に遮る形で、御剣は話し始めた。
「電話という物は、実は意外に不便なのだよ。機械としての限界があるのだ。
 例えば。私が今、立っているのは……」
 と、そこで、やたら綺麗に発音される英単語。
 ぼく達がよく行っている喫茶店の名前――だと思う。多分。
「……正確にはこう読むが、とにかく例の店の戸口だ。
 ちょうど今、ドアベルが鳴った」
 へ?
「ちょっと待てよ。確か、あのお店で鳴るベルの音って、物凄く大きくなかったか? なのに」
 ……なのに、何にも聞こえない。人のざわめきや、車の音は聞こえてくるのに。
「そう。それでいい。キミの方には、ベルの音は聞こえていないはずだ。
 このように、人間の耳では聞き取れても、電話では処理できない――そんな音域が、
世には存在するという事だ」
「へえー……」
 初めて聞いた。そんな話。
「けど……だから、その話がいったい何の」
 と言いかけて、ぼくは口ごもる。
 そうだ。この男に限って、意味もなく、こんな雑学を語るハズがない。
 電話。聞こえない音。ぼくの行動。
 さて問題。この三題噺の正解は?
「あ」
 まさかと思いながら、ぼくは御剣に質問した。
「ところで。その、電話では聞こえない音っていうのは、他にはどんな物があるのかな」
「基本的には、周波数の高い音声だ。
 ガラス製品などを打ち鳴らす音。蚊などの羽音。
 そして、スズムシやマツムシなどの――――虫の声だ」
「って事は…………。さっきの、ぼくの、電話でも」
「その通り」
 満足げにうなずいている姿が見えるようだ。
「キミの方はどうあれ、私には何も聞こえなかった。
 キミから私に向けて、発せられた言葉以外には、何も……な」
「…………」
「私も、キミがあれほど艶めいた物言いを出来るとは思わなかったぞ。
 念のため確かめておくが、あの台詞……男に二言は無かろうな?」
「…………」
 痛恨のミス……って言葉、こういう時に言うのかな。
 だって、どうせ聞こえないと思ったからこそ言ったのに。
 そりゃ、聞こえないのも惜しいかな、とも思ったけれど。
「で、でも! ホントに聞こえたのか? あんなに小さい声で言ったのに」
「私の聴力を侮るな」
「だったら!」
 何だか向こうだけ、いい思いをしているような、この状況。
 それが、あまりにも悔しくて。気がついたら、ぼくはこう言っていた。
「ぼくが何て言ったのか、今そこで言ってみてよ」
「!」
 微かに、でも確かに聞こえた。絶句するような、うめき声。
「ま、待ちたまえ。……今、ここで……か?」
「何も、大きい声でなんて言わないよ。実験だと思ってさ。
 ぼくがやったみたいに、そっちのベルに合わせて、小さい声で」
 そうだよ。これなら一応、お互い様になる。
 とっさに思いついたわりには、いいアイディアかもしれない。
「…………やれやれ。キミもどうして、しぶといな。
 そこまで言うなら言ってやるが……一度しか言わんぞ?」
 こういう事になるのなら、もっと飛びっきり甘い台詞でも言っておけば良かったかな。
 ……そんな事を考えながら。
 ぼくは、御剣から囁かれる言葉を、耳を澄まして――――待っていた。

〈了〉




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