5.

 陽が暮れなずんできた。
 家庭では、夕食の始まる頃だろう。
 彼は、運転席の怜侍をちらりと見て、すぐにまた車窓へ顔を戻した。
 コンサート会場を出てから、怜侍はずっと無言だった。
 どこか表情も固くなっているように見える。
 彼は、自分が失敗した事を痛感していた。
 やはり、名曲に興が乗ってしまった辺りがまずかった。
 よりにもよって、長く愛好している奏者だったのが運の尽きだ。
 恐らく成歩堂氏は、ああいった音楽関係には疎いのだろう。それを怜侍にも明かしている仲なのだ。
 ならば或る程度、挽回しておこうと、物販には極力近づかないよう心がけた。
 下手に解説書などを読みふけったりしたら、いよいよ正体を怪しまれてしまう。
 ………………………………正体?
 自分で思いついた言い回しに、けれど何だか引っかかった。
 そも、自分は何者なのだろう。
 あの手紙が、自分宛てだったのは間違いない。
 だから彼はこうして、息子と貴重な時間を過ごそうと考えてここにいる。
 だが、この車のガラスに映っているのは、あくまで息子の友人の顔だ。
 声も。手も。足も。何もかも。他人。
 考えている内に、頭が痛くなってきた。
 我知らず、両手で顔を覆った時、怜侍がぽつりと言った。
「提案がある」
「……何」
「ここから先は、キミに任せる。キミの行きたい道を、私に教えてくれ」
「そ、そんな事、急に言われても」
「私は、キミを信じたい」
 前を向いたまま話す怜侍の声は、ひどく無機的だった。
「私は、いつ如何なる時も、キミの友でいたいから」
 見ると、ハンドルを握る手に、力がこもっていた。
 彼は嘆息してから、声を低めて運転席に告げた。
「次の交差点を、左に」
 その後、赤いスポーツカーは、彼の命じるままに進んだ。
 町並みは次第に、繁華街から住宅街へ変わった。
 怜侍は自然に速度を落としつつ、彼に細かく道を聞いていった。
 最終的に着いたのは、一見には民家としか思えない、小さな一戸建てだった。
 彼は先に車から降り、怜侍に声をかけた。
「多分、今日なら開けていると思う。話をつけてくるから、待っていてくれ」
 建物へ入った彼は、現れた店主に頭を下げた。
「失礼します。ぼくは弁護士の……成歩堂という者です」
 名乗りたい思いを隠し、怜侍の友人の名前で通した。
 旧い知己である店主は、訳知り顔で頷いた。
「こちらこそお世話になります。ご都合がついたのですね」
「!?」
 彼は改めて確かめ、それで知った。
 自分が常連だったこの店を、成歩堂氏も先日訪ねていた事を。
 彼は店主と、細かい打ち合わせを済ませてから、車中の怜侍を呼んだ。
「入れるよ。すぐに支度できるそうだ」
 怜侍は複雑な顔で付いて来た。
 彼らは、勧められた奥のテーブル席に着いた。
「ここは、いわゆるカフェバーというやつだ。酒も料理もいい物が揃ってる」
「それは知っている。父と来た事があるからな」
「よく覚えてるな。お前、まだほんの子供だったのに」
「小学生ならば記憶にも残る。テーブルマナーを間違える度に、手ひどく叱られ、当時は恨んだものだ」
「そ、そうなのか」
「だが今は感謝している。出来るだけ、このような本物に接するのが大事だと、父はいつも言っていた」
 言いながら、ナイフとフォークを操る手つきは、欲目で見ても遜色なかった。
「そういうキミは、今日に限って器用だな」
「……!」
 指摘され、彼の動かす手が思わず止まった。
「普段のキミなら、とうに皿の一枚や二枚、落としていように」
「いや、待ってくれ。そこまで不器用では困るだろう生活で」
「そのような事はない。成歩堂ならば、その程度の災難など苦にしない」
「……」
 暫く、黙ったままの時間が流れた。
 最後のコーヒーを終える頃、怜侍は本題を切り出した。
「では、そろそろ私の質問に答えていただこう」
 厳かな声で問うた。
「キミは、誰だ?」




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