2.

 というわけで訪れた、休日の午後。
「これでよし、と」
 ぼくは二人で買ってきた食材を眺めながら、身繕いを整えた。
 忙しいと使わない時もあるエプロンも、今日だけは几帳面に身に着ける。
 何事も、最初の基本がカンジンだからね。
「じゃ、さっそく始めようか。ぼくも、こういう事を教えるなんて慣れてないからジックリと」
 話しながら振り返ると、気まずそうな顔の御剣と目が合った。
 ぼくが先に渡したエプロンも、まだ両手に持ってるままだ。
「成歩堂。実に申し訳ないのだが」
「……? あ、もしかして好みじゃないかな、ソレ。
 でも今日のところは勘弁してくれよ。他のやつ、まだ洗濯してなくて」
「いや、そういう意味ではなく」
 その後、大真面目に、言ってのけた台詞。
「コレは、どのように用いればいいのか……」
 って、ソコから始まるのかよ!
 そう叫びたくなるのを、ぼくは必死に辛抱した。
 成り行き上、とにかく着せてあげる事にする。
「だから。コレは、こう広げて。こっちは肩。こっちは腰。で、こう留めて、こう。……分かった?」
「うム」
「それじゃ、気を取り直しまして。取りあえずは、ぼくのやる事を真似してくれればいい。
 それだけでも、きみなら結構覚えられるだろうから」
 改めて身支度していくぼくに、御剣も続く。    
 いつも時間に追われて無意識に進めている事を、敢えてゆっくりやってみせていく。
 やがて、洗ったジャガイモの皮をむき始めたところで、ぼくの生徒は出遅れ始めた。
 信じられない物を見つけたような目で、ぼくの構える手元を見つめている。
 その理由は、簡単に予想がついた。
「そんなに不思議? ぼくが右手で包丁を持ってる事」
「不思議というか、驚異的というか」
「もし機会があったら、矢張にも訊いてみるといいよ。アイツもぼくと同じ事できるから。
 どんな人でも、包丁だけは右で覚えないといけないんだ。でないと、肉や魚は扱えない。
 ソレ以外の食べ物なら左でも構わないけど、いちいち持ち替えるのも面倒だしね」
 そんな説明をしている内に終わらせた1個目を、水を張ってあるボウルに放りこんだ。
 それで2個目を取ろうとして、そこで御剣が茫然と固まっている事に気がついた。
「………………こっちは、ひとまずココまででいいや。他のをやろう」
 参ったな。
 どうやらこの分だと、かなりハードルを下げなきゃいけないようだ。
 ぼくは昔の記憶を掘り起こした。
 お金がホントに厳しくなった時に作ってたやつ……あの辺なら、コイツでも何とかなるかもしれないな。
 そう考えたぼくが、ジャガイモの代わりに手渡したのは、今日の特売で買ったキャベツ一玉。
「コレ、切ってもらう。普通に割って、芯を取って、刻む。それだけ」
「それだけで良いのだな」
 難事件に挑む時より、よっぽど緊張している面持ちで御剣は、まな板に向かった。
 狩るべき獲物を仕留めるような、真剣そのものの様子で、キャベツの位置を確かめて、
包丁を両手で握り直して、ひと思いに振りかぶ……って、え!?
「ちょ、ちょっと! やめ! そんなのダメだって!」
 ぼくが思わず叫んだ大声にも、御剣は全く気づく気配がない。
「だから、その……ストップ! 文字通りの意味で『ダメ』!!」
 そこまでキッパリ言った時、やっと御剣の暴走が収まった。
 戸惑った顔で、こっちを見ている。
「何か、間違っていたか?」
 ……「何か」どころじゃないって……。
 ぼくは冷汗を拭いながら、ため息を吐き出した。
「あのね。たとえ何を切る時でも、包丁は両手で持っちゃいけません。
 それじゃ料理じゃなくなっちゃうから。事件になっちゃうから」
 というか、いくらぼくでも、キャベツを殺害しようとする被告人を弁護したいとは思わない。
「こりゃもう……子供に教えるとでも思うしかないね」
「?」
 どういう意味かと訊かれるより早く、ぼくは御剣の後ろ側に回りこんだ。
 背中に寄り添い、覆い被さるような形を取る。
 肩越しに首を乗せ、両手首のそれぞれを捕まえた。
「な……成歩堂!? 何を、急に……」
「動かない」
 さながら人形を操るように、ヒジとヒザの位置も確かめてから、説明を始めた。
「それじゃ、ぼくが今から言う通りに動いてみて。……まず、作業場と平行に立ってから、
右半身を後ろに一歩ひく。右足だけ、もう少し後ろに。それから、体全体を前に傾ける。こんな感じ」
 胸で背中を押すようにして、姿勢を取らせた。
 すると、どこかしみじみとした言い方で、御剣が一言。
「……居合いの構えに似ているな」
「そ、そうなんだ」
 どうにも物騒な例えだけど、覚えてもらえるなら何でもいい。
「で、今はまだ、左手は意識しなくて構わない。ただ、くれぐれも刃先に手を出さないように」
 左手首の方は押さえたまま、自分の右手を御剣のそれに滑らせた。
「右手の使い方は、人によって違うけど。ぼくはいつも、こんな感じに握ってる。人差し指は、この辺」
 手と手を重ねるようにして、日頃の自分の真似をさせた。
「こういう構えで切るんだけど、刃先は動かさないで、手元の方を動かすように…………つまり、その」
「テコの原理?」
「そう。ソレみたいに。やってみて」
 それなら分かる、と御剣は答えて、ぼくの言った通りに手を動かした。
 ぴったり真ん中から割れたキャベツを置き直し、何度か練習してもらう。芯も無事に外れた。
「いいかい? ここからは細かい動きになるよ。テコの原理は変わらないけど、
基本的には引いて切る。こうやって。それから左手は、こう。軽く握る」
「確か……猫手というのだったか?」
「う、うん。そう」
 ときどき妙な言葉だけ知ってるよな。コイツって。  
 ぼくはホッと息を吐きながら、御剣から体を離した。
「この後は、同じように繰り返すだけだから。ゆっくり切って。ある程度なら時間がかかってもいいから、慎重に」
「了解した」
 それなりに自然に切り始めたのを確かめてから、ぼくは自分の分担に戻った。
 いつまでも付き合ってたら飢え死にしちまう。
 しばらくの間、キッチンでは刃物の音だけが響いた。
 ……しゃく、しゃく、しゃき、しゃるっ……。
 ……ざぐっ、ざぐっ、ざじじ、がずずっ……。
 常識では考えられない音が混じってるのは、気のせいだと思うようにする。
 だけど、いくら何でもこの声だけは聞き逃せなかった。
「………………ウグゥッ……!」
「何かあった?」
 ぼくは、出来るだけ優しい顔を作って振り向いた。
 御剣は、片手でもう片方の手を握りしめて、立ちつくしていた。
「恐れ入るのだが…………緊急に止血を要請したい」
 言わんこっちゃない。
 ぼくは頭を抱えた。
 どこかで一度は、やらかすとは思ってたけど。まさかこんなに早く。
「分かった、分かったから、とにかく傷口洗って」
 こんな事もあろうかと、念のために用意しておいた絆創膏を、エプロンのポケットから出して貼ってあげた。
「ハイ。これでOK」
「消毒の必要はないのか?」
「よく研いであるから、大丈夫だと思うよ。ぼくなんて、もっとザックリやった時あるけど、
その場はラップ巻きつけて何とかしのいだし」
「ら……?」
 目を白黒させる御剣に、ぼくから素朴な疑問。
「ところで……一つ訊きたいんだけど」
「何だろうか」
「どうしてお前、よりによって右手の人差し指なんか切ってるんだ?」
「おかしいか?」
「おかしいよ!」
 本来なら絶対にあり得ない事が起こってる事を分かってない。
 ぼくは、壁の時計を盗み見た。
 こんな調子で、夕飯の時刻に間に合うのかな。
 せめて日付が変わるまでには、何とかなりますように……。



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