3.

 暫く後。
 日の暮れかけたこの頃が、待ち合わせの時刻のはずだった。
 僕は自分の事務所の中の、「所長室」と書かれているドアの前にいる。
 因みにこの部屋は今、掃除こそしているものの、実際には全く使っていない。
 そう説明すると、知らないお客さんは、決まって不思議そうな顔をする。
 そりゃそうだ。今のこの成歩堂法律事務所の所長は僕のはずだから。
 でも、僕はこれからも、この部屋を使うつもりは無い。
 それだけ、この部屋は特別だったから。この部屋の主は、特別だったから。
 昔の、助手兼受付係だった頃を思い出しながら、僕はドアをノックした。
「失礼します」
 緊張しながらドアを開いて、中に入った。
 暗くなりかけている部屋の奥。窓際のあの場所に、“彼女”は居た。
「お久しぶりです…………所長」
「あら。その呼び方はもう止して。今はあなたが所長なんだから」
「いや、でも本当に久しぶりで。何て言ったらいいのか分かんないですよ。千尋さん」
「そうそう、そういう風に。普通でいいから」
 穏やかに微笑む千尋さん。
 だけど、本当にいいのかなあ。これで。
 大体、もう亡くなっている人に、「普通でいい」とか言われましても。
 そう。僕の前にいる人は、今は亡き僕の師匠にして、真宵ちゃんの姉である、綾里千尋さん。
 正確に言えば、霊媒師である真宵ちゃんの身体に宿っている千尋さんだ。
 だから当然、その髪型や服装は、真宵ちゃんのまま。
 それでいて、見た目や声はまるで違っているっていうのは、本当に不思議な世界に思える。
「真宵からの手紙で、事情は教えてもらったわ。仕事の事で悩んでるんですって?」
「え、ええ、まあ……それはその」
「細かい事を話せないのは承知してるわ。プライバシーもあるでしょうから。でも私なら守秘義務は守るし。
それに私は、誰とでも話が出来る存在でもないから安心して。せいぜい墓石に話してるとでも
思ってちょうだい」
 自分で言うか。
 でも、そういう事なら……と、僕は経緯を説明してみた。
 もっとも、いくらお言葉に甘えると言っても、まさか全部を打ち明けるわけにはいかない。
 だから、こういう民事の相談を受けて……みたいな言い回しになっていたと思う。
 その間、千尋さんは目をつぶって、僕の話を聞いていた。
 僕の話が途切れた頃を見計らって、千尋さんが口を開いた。
「要するにソレって、友人に不貞行為を働いてしまったって事よね。それも合意の無いままに」
「はあ……はい」
「了解。依頼人側の事は一応わかったわ。ところで、肝心の相手側の方はどうなのかしら」
「それが……よく分かんないんですよ。何にも言ってこなくて。っていうか無視されて。
 こっちは謝ろうと思ったのに、何だってアイツあんな」
「アイツ?」
「あ、いや、あのその。あの」
「その様子だと、ずいぶん手こずってるみたいね。相手側と交渉する事に」
「ええ。そうですね」
「それで、実際のところはどうなの?」
「へ?」
「こんな事を言ったら悪いけど。あなたの話し方には、客観性が感じられないの。
特に、依頼人とその相手がすれ違った下り。依頼人に思い入れを持つのは良い事だけど、
相手の情報があまりにも少なすぎるわ。もっと冷静に、正直に話す事ね。でなければ真相は見えてこないから」
 ………………………………。
 やっぱり。こうなるか。
 この人には、隠せない。他の人ならともかく、この人相手に隠し事は出来ない。
 そう。僕は分かってた。
 あの廊下ですれ違った時、僕の声なんて、ほとんど出てやしなかった。
 よっぽど注意してなけりゃ、耳に届くはずもない。
 そして、僕が声をかけられなくなったのは、御剣の顔を見たせいだ。
 見るだけで辛かった。
 遠くを見る虚ろな視線。消えてしまいそうなほどに色を失った表情。
 僕よりも更に一層、悩んで疲れきってる事くらい、すぐに分かった。
 あんなんじゃ、僕に気づかなくて当然だ。
 でも。ソレを認めるわけにはいかなかった。気づいてて無視したんだって思い込みたかった。
 だって、もしソレを認めたら、ソレはつまり。
「……アイツは、相当に追い込まれてると思います。前の時みたいに、今にも居なくなりそうなくらいに。
また、僕の前から…………消えそうに、なる、くらいに」
 こんな事、言いたくなかった。
 けれど、コレが本当の“真相”だ。
「それなら。今あなたがやるべき事は、ただ一つね。
 今のあなたが本当にしたい事も、ただ一つしか無いはずだから」
「お互い全部忘れよう……って事ですか。それは」
「……」
 そうだ。話はソコに戻ってくる。
「僕がしたいと思ってる事は、ソレしか無いです。
 全部忘れなきゃいけないんです。アイツも全部忘れた方がいいんです。
 何事もなかった元の関係に戻らなきゃいけないんです。ソレが一番いいんです。
 なのに、なのに僕も、アイツも出来なくて。このままじゃ」
「なるほどくん」
 千尋さんの声が、妙に大きく響いた。
「あなたは一番大事な事を忘れてるわ」
「大事な事?」
「困った時には、どう考えれば良かったか」
「それは……」
 そりゃ、まあ、事件を解く時にはいつも自分に言い聞かせてるけど。まさかこんな時に。
「逆転の……発想?」
「その通り」
 こっくりと頷く千尋さん。
「考えに詰まったら、逆に考えてみる事。命題における、そもそもの前提こそ疑う事。
 例えば今の場合なら……『忘れなきゃいけないのに忘れられない』という命題を、
逆に考えてみたら、どうなるかしら。そう……」
「……」
「そもそも、あなたが忘れられないのは――――何故?」
「……」
 ふと僕は、この人を恐ろしく感じた。
 何もかも露(あらわ)にされていく。心の根っこの部分を掘り起こされていく。
 ずっと奥底に眠らせているつもりだった何かを、引きずり出されていく。
「後はあなたの決断次第よ。なるほどくん」
 そう言って彼女は、僕が次に行くべき場所を僕に告げた。
「お膳立てなら、この通り真宵がやってくれてるから。頑張って、“仲直り”していらっしゃい」
「千尋さん……」
 尋ねずにはいられなかった。
「あなたは、どこまで知ってるんですか」
「さあ。何の事かしら」
 愛らしく小首を傾げて、彼女は微笑む。
「私は何も知らないわ。死者は何も知り得ない。あなた達のように悩む事さえもう出来ない。
 だからあなた達は悩みなさい。その上で選びなさい。真剣に選びなさい。
 それなら失敗したとしても、また何度でもやり直せるから」
「…………はい!」
 この世ならざる声に押されながら、僕は外へ走った。




next

戻る

inserted by FC2 system