4.

 すっかり夜になっていた。
 自然公園の湖のそば。人影は見えない。
 もともと観光客の少ない季節だし、もうこんな遅い時刻だし。
 いつもの場所に居てくれると思って飛んで来たけど、探さないとコレは無理かな……。
 そんな風に僕が考えた時間は、短かった。
 木立の向こう側から、芝生を踏む音が聞こえてきた。
 そして、かすれた低い声も。
「誰だ? ソコにいるのは」
「――!」
 なりふり構ってられなかった。
 僕が立っている事に気づいて去ろうとする御剣に、一足飛びで追いすがる。
 振りかぶった左手で力一杯、御剣の右手首をつかんで捻る。
 ぐっ、と呻き声を上げてから、僕の手を振りほどこうと御剣はもがいた。
「は、放したまえ! 何を」
「放さない! 話すまで放さない」
 いざ自分で言ってから、何だか変な言い回しになったなと思った。
「なぜ……君がここに。私は、真宵くんにどうしてもこの時刻にと言われて、それで……」
「ごめん。ソレ、僕が頼んだ」
 本当は気を利かせてくれただけだけど、今はこう言っておく。
 実際問題、もう僕の方からじゃ、連絡は取れなくなってたかもしれないし。
「とにかく。せめて力を緩めたまえ。そう強く締め上げられていたら、身動きもままならん」
「あ。悪い」
 言われてみれば、これじゃ犯人の緊急逮捕だ。
 窮屈すぎる体勢から、そっと楽にしてやった。
 ただし、走り去れないようには捕まえたままで。
 僕は改めて、握る手に力を込めて言った。
「今度は、昼間の時みたいな事はしない。君に分かってもらえるように、ちゃんと話すよ」
「昼間?」
 僕の言っている意味が分からなかったんだろう、御剣は怪訝な顔で振り仰いだ。
「今日の昼間は、残務処理のために裁判所に出向いたくらいだが……何かあったのか? 成歩堂」
 嘘を言ってる顔じゃなかった。
 第一、コイツに後ろめたい気持ちがあるなら、僕には“視える”はずだ。
 人の心を閉ざす印(しるし)が。銀の鎖が伸びる、頑丈な錠が。
「いや。その事はもういいよ。別に。覚えてない事は、覚える必要のなかった事なんだから」
「そう…………だな」
 僕の言った台詞に、御剣は苦しそうに顔を歪めた。
「君は……覚えていないのだったな。あの時の事は」
「え?」
「いや、構わん。忘れてくれている方が、よほど助かる」
 ……そうだった。
 そもそもコイツは、僕が覚えてないって思い込んでたんだっけ。
 僕が、コイツがそれほど気にしてないって思い込んでたように。
「思えば、コレが良い機会なのかもしれんな……。すまないが、私から先に言わせてくれ」
 そう断ってから、御剣は語り出した。
 その話の内容は、今の僕の気持ちとほとんど同じだった。
 あの夜からすぐには大した出来事じゃないと考えた事。
 でもその後、時間が経つにつれて、どんどん傷が膿んできた事。
 やがて気力も体力も、少しずつ衰えてきた事。
 お互い全部忘れるのが一番いいと分かっていても、ソレがどうしても出来なかった事。
「刑事には、休養を取った方がいいと勧められた。だが、かつて全てから逃げた時のような、
あのような愚行だけは犯したくなかった。私は決断しなければならないのだ。
己の衝動に従う……それもまた罪である事を、知りながら」
「……」
「安心したまえ。君に迷惑はかけない。君を傷つけるような真似はしない。その事だけは誓う。だから――」
「御剣」
「ん?」
「そろそろ、いいかな。僕の方からも。言いたい事がある。僕も言わなきゃいけないんだ」
 深呼吸を繰り返す。
 そうだ。変に気取って考えるな。思うままに言えばいいんだ。いつもみたいに。
「まず先に言っとくけど。僕はあの夜の事、覚えてるから。多分、君以上に」
 僕の言葉が意外だったのか、御剣は目を見開いて僕を見つめた。僕は話を続けた。
「だから、僕も忘れなきゃって思ってた。あんな出来事は、無かった事にしようって。
 でも出来なかった。何でだろうって悩んだけど、気づいてみれば簡単だった」
 気づけたのは、千尋さんのくれたヒントのおかげだけど。
「逆だったんだ。忘れなきゃっていう前提の方が間違ってたんだ」
 だって、そもそも僕は。
「僕は絶対に忘れたくなんかないんだよ。君との出来事は。たとえ、どんな事でもね」
 そうだよ。君との思い出を、誰が忘れるもんか。
 どんなに辛い事でも。どんなに恥ずかしい事でも。昔も、今も、これからも。
「君となら、何があったって構わない。どんな事されたっていい」
 きっとまた、泣きたくなる事もあるだろう。怒りたくなる事もあるだろう。でも。それでも。
「僕は」
 本当の本音が滑り出る。


「君の全部が欲しいんだから」


 言ってから、気づいた。
 ああそうか。コレだったんだ。ずっと僕が言いたかったのは。
 あの時、闇の中で究極の孤独に落とされた時、そして君という光が照らしてくれた時から
積み重ねられた関係には、普通の言葉じゃ間に合わないって思ってた。
 好きとか、愛してるとか、大切とか、必要とか、そんな言葉じゃいくら言っても足らないって。
 でもまさか、こんなどうしようもなく露骨な言い方が答えだったなんて。我ながら呆れる。
 僕の演説を聞き終えた御剣の顔は、何とも言えない物になっていた。
 呆れてるような、でもホッとしてるような――というのも、僕の思い込みなのか。
「貴様は……本気で言っているのか? ソレは」
「ああ」
 御剣の問いかけに、僕はシッカリと頷いた。
「こんな事は、冗談で言う話じゃないよ」
「いや……貴様は、自分の言っている言葉の意味を分かっていない。
 あのような行為をしていながら、ソレを構わないだと?
 たとえ冗談でも口にするものでないだろうに。なのにソレが本気だと?
 そのような言葉を吐かれたら、私は、君に……何をするか」
「だから。していいって言ってるだろ? さっきから」
 ここまで来て、いまさら誰が後に退くかよ。
「なあ。そっちこそ、口で言ってるだけじゃなくて。証拠を見せなよ。お前が何をしたいのか、具体的にさ」
「……ふん」
 御剣は軽く鼻を鳴らしてから、肩を竦めて言った。
「お言葉を返すようだが。ソレはそちらも同様だろう。貴様こそ、口では何とでも言えるではないか」
「ああ……そりゃそうだね」
 それなら――さっそく試してみる?
 二人の視線がかち合ったのが、言ってみれば合図だった。
 どちらからともなく、相手の首根に、肩上に、指をかける。
「後悔しても、遅いぞ」
「お互いにね」
 どっちも、最後まで目は閉じなかった。
 この期に及んで僕たちは、真剣勝負を続けてた。
 何となく思った。
 もしかして、僕が悩まされていたあの夢は、予知夢だったんじゃないのかな……ってね。

〈了〉




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