それから、長い月日が流れました。
 カラスは今日も、たった独りで飛んでいました。
 高く、高く。遠く、遠く。冷えきった空を、風のような速さで飛んでいました。
 さもないと、どうしてもあのハトのことを思い出してしまうからです。
 カラスはずっと心の中で、ハトへの気持ちを、訴え続けておりました。
 ひどいや、ひどいや。せっかく助けてあげたのに。
 そうさ。結局、あのハトは、外の世界が怖いんだ。空を飛ぶのが怖いんだよ。
 呪い(まじない)をかけられているっていう話も、どこまで本当だか、分かったものじゃない。
 そうだよ。やっぱり、ぼくが信じているのは、あのときの、あの鳥だけ。
 もう覚えていないくらい、小さなカラスだったころに会った、あの鳥だけだ――。
 そんなことを、考えていたからでしょうか。
 カラスはいつの間にか、普段は来ないところの森まで、飛んできてしまっていました。
 そのため、木のかげに、猟師が潜んでいることにも、まるで気づけなかったのです。
「!」
 あっと言う間に、カラスは鉄砲で撃たれてしまいました。
 命と同じくらい、大切な翼を撃たれてしまいました。
 地面に落ちていきながら、カラスは悔しくてたまりませんでした。
 ああ、ぼくは何て馬鹿なんだ。こんな失敗するなんて。
 自分ひとりの身さえ、守りきれないなんて。
 でも、もう、駄目だ……。
 カラスが、そう思ったとき。
 ふわり、と何か柔らかいものに、カラスは受け止められました。
「安心したまえ。弾は急所を外れている。ほんの少しかすっただけだ」
「…………?」
 どこかで聞いたような声に顔を上げると、カラスの目の前にいたのは、
白い翼の立派な白鳥でした。
「きみは……?」
「分からないかね? わたしだよ。あのときのハトが、わたしだよ」
「何だって?」
 けれど、確かにその声は、あのときのハトのそれでした。
 それに、きれいな紅い瞳も、間違いなく、あのハトのそれでした。
「でも、いったい、どうして……」
「言っただろう? わたしは主に術をかけられていると。
 自分が何物であるのかさえ忘れてしまっていると」
「うん。そう言ってたね」
「わたしはこのとおり、それは見事な白鳥だった。
 だが、あの主は、わたしをかごに閉じこめるために、わたしの姿まで変えてしまっていたのだよ。
 それどころか、自分が本当は白鳥であることすら、忘れさせられてしまっていた」
「そうだったのか……」
「そう。だから……あの家で、キミと再び出会っても、キミが誰か分からなかった」
「え?」
「覚えているかな。
 まだキミが小さなカラスだったころ。わたしはキミに会ったことがある。
 ほんの短い間しか、話をしたことはなかったけれど」
「あ……!!」
 カラスの頭の中で、ずっと昔の思い出がよみがえりました。
 群れの仲間のみんなから突つかれて、とてもとても辛かったあのとき。
 旅の途中の白鳥に、カラスは、なぐさめられたのです。
「きみが、あのときの……!」
 いわれてみれば、白鳥の姿は、あのときと何一つ変わっていません。
 自分が小さかったころ、もう大人だったあの白鳥と。
「わたしが罠にかかって、あの主に捕まったのは、そのすぐ後のことだった」
 白鳥は、再び話しはじめました。
「今にして思えば……。あのかごの中で、わたしの時間は止まってしまっていたのだと思う。
 だからこそ、わたしは何も思い出せず、ただ、ひたすら主の帰りを待ち続ける毎日を
過ごしていたのだ」
 白鳥は、遠くを見ながら、そう言いました。
「わたしの姿が元に戻ったのは、あの家でキミと別れて、しばらく経ってからだった」
「どうして、元に戻れたの?」
「それは……。…………わたしにも分からない」
「ふうん……」
 カラスは、それ以上、白鳥に尋ねようとはしませんでした。
 でも、何となく、その答えは分かりました。
 答えた白鳥が、とても悲しそうな顔をしていたからです。
 きっと、その主は、あの家に帰ってこないまま、どこかで命を落としたのでしょう。
 だから、白鳥の呪い(まじない)は解けたのです。
 うつむいている白鳥に、カラスは言葉をかけました。
「………………きみにとっては、大切なものだったんだね。あの家での、思い出も」
「そうかもしれない。たとえ、狭いかごの中であったとしても、
やはりあの家は、わたしの大事な場所だった」
「そうか……」
 カラスは思わず下を向き、白鳥に謝りました。
「ごめん。ぼく、きみのこと、何にも分かってやれなくて。
 きみの話も聞かずに、きみのかごを勝手に壊して、無理やり外に出そうとして。
 ぼくのしたことって、もしかして迷惑だったのかもしれないね」
「いや、それは違う」
「え?」
「もし、あのとき、キミがあのかごを壊してくれなかったら。
 わたしは元の姿に戻るとき、あのかごに押しつぶされてしまっただろう。
 そうしたら、わたしは空を飛ぶことも、自分が何物であるのかも、ずっと忘れていたままだった。
 キミが、あのときの、蒼い瞳のカラスだと、思い出すこともできなかった。
 キミには、いくら感謝しても足りないくらいだ」
「…………」
「だから、全てを思い出したわたしは、そのお礼を、何としても言いたくて。
 それでわたしは、キミを探すために、あの家から外へ出た。
 そして、さっき、キミが撃たれて落ちるところに出くわしたのだ」
 間に合ってよかったよ、と白鳥は、自分が受け止めた羽を見せました。
「あの家で、キミは、わたしを救ってくれた。
 今度は、わたしがキミを救う番だ」
「そんな……。ぼくのほうこそ、きみには助けられてるばかりさ。
 あのときの、旅しているきみの姿に憧れて、ぼくも遠くの空を飛ぶようになったんだもの」
 いつも、堂々としていたまえと。キミは何も悪くないのだからと。
 昔、白鳥に言われた言葉だけは、カラスは今でもハッキリと覚えていました。
「けど……そうだ。きみは、白鳥なんだよね。
 ずっと遠いところから、長い旅をして、きみはここに来ているんだろう?
 だったら……」
「ああ、そうだ。
 この辺りに春が来たら、わたしたちはまたお別れだ。
 けれど、その春が来るまでは、わたしはキミのそばにいる。
 その次の年も、またその次の年も、冬が来るたびに、わたしはキミに会いにくる。
 どんなに遠いところからでも」
「……」
「…………迷惑か?」
「そんなわけないよ!」
 カラスは、大きな声で叫びました。
「ずっと会いたかったんだもの! ずっと一緒に飛びたかったんだもの!
 冬しか会えないのは寂しいけれど、それでも冬の間は会えるもの!
 それだけでもう、充分だよ!」
「分かったよ。キミがそう言ってくれるなら。
 それなら、心からこの言葉を言える」
 カラスは、顔を向けて。白鳥は、前を見つめて。
 二羽の鳥は、どちらからともなく言いました。
「……ありがとう!」


 やがて。その森の上、透き通る空の下。
 カラスと白鳥と、二羽が共に飛ぶ日が見られました。
 その二つの鳥の影は、重なることこそありませんでしたが、常に互いを気づかっていたのは
確かなようです。


 そして彼らは、いつまでも、幸せに暮らしました。

〈了〉



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