1st Game  I am a witch. (前編)

 やっと拷問の時間が終わってくれた。
 舫い綱がかけられるのもそこそこに、俺は船縁から埠頭へと、一息に飛び降りた。
 潮風を胸一杯に吸いこむと、何とか肩から力が抜ける。
 やっぱり人間たるもの、陸地で生活しなくちゃだよな、うん。
「でも意外よね。戦人くん、てっきり怖い物なしに見えるのに。もうそんなに背も高いんだし」
「こいつ、ガキの頃から乗り物がダメでさ。けど、たかが高速艇でもとは、情けない男だな。お前は」
「戦人くんと一緒に海外旅行に行くと賑やかそうね。伯母さんとエジプトとか行かない?」
「いい提案ね。戦人、絵羽さんに少し鍛えてもらいなさい」
「いやいや、人間誰しも得手不得手はあるもんや。そないに、からかったら悪いで。はっはっは」
 周りの大人どもが口々に騒いでいるのは、暫く放っておく。
 俺たちが今着いた、この島の名前は「六軒島」。
 伊豆諸島の中に含まれる、全周10kmほどの小さな島だ。
 ただし、この島の存在を知る人間はほとんど居ない。
 旅行用パンフレットに島の名前が載る事もない。
 この島は丸ごと、我ら右代宮本家が領有している私有地だからだ。
 船着場とお屋敷があるだけ。
 島のほとんどは未開の森林のまま残されている。
 まあ、はっきり言えば、右代宮家は大富豪なわけさ。
 本家は莫大な財産を持ってるそうだし、親父たち分家もそれなりの資産を蓄えていて、それぞれが事業で
成功している。
 俺は3年間、祖父母の家で庶民の暮らしをしてたから忘れかけてたが、親父の家は確かに立派だし、
いわゆる金持ち趣味だったように思う。
 それを言えば、今俺の周りにいる面々は皆、旦那様で奥様でお坊ちゃまでお嬢様って事になるわけだ。
 差し当たって、目についた順で紹介していこう。



 まだ大声で笑ってる恰幅の良いオヤジは、秀吉(ひでよし)伯父さん。
 俺の親父の姉の夫にあたる。
 気さくで明るく、しかもついでに小遣いのはずみもいい。
 生まれは生粋の江戸っ子だが、大阪で過ごした時代が長かったせいで、微妙になまった関西弁を
遣っているそうだ。 
 本場の関西人の前では、逆に恥ずかしいんだとか。
 エジプト云々なんて言い出してきていたのが、絵羽(えば)伯母さん。
 俺の親父の姉に当たる。
 秀吉伯父さん共々ひょうきんな人で、昔からよく俺をからかってくる。
 文武両道を実践してる人でもあり、美容のために太極拳を始めてから、格闘技の類に片っ端から手を、
もとい足を出しまくっているそうで。
 パンツスーツ姿は伊達じゃないって事だ。
 それから、俺の両親についても一応。 
 親父の名前は右代宮留弗夫。
 これで「ルドルフ」と読む。
 さぞや、この名前を付けた祖父さまを恨んだだろう。
 お袋の名前は、右代宮霧江。
 この名前に戻ったのは、実はつい最近の事だ。
 別に、好んで語りたい話じゃないが、変に勘繰られるのも気持ち悪いんで言っておく。
 お袋と俺はこの3年ほど、お袋の実家に身を寄せ、「須磨寺」姓を名乗っていた。
 が、その母方の祖父母が相次いで亡くなったのを機会に、夫婦は元の鞘に戻ったわけだ。
 断っとくが、非があるのは親父の方だ。
 逆にお袋には恐れ入る。あの痴れ者野郎の手綱を握って乗りこなすなんて大したもんさ。
 俺個人としては、未だ心の整理がつかない部分も多い。
 そして、さっきから他の面々をたしなめようとしてくれてる優しい人は、楼座(ローザ)叔母さん。
 ウチの親父の妹に当たる。
 って、これじゃ丸っきり、外国語の当て字だぜ。
 失礼だが、ウチの親父の留弗夫と双璧を成すネーミング。
 にも関わらず、親父と違って捻くれなかった叔母さんは偉い。
 思えば、親兄弟の名前はみんな西洋めいている。
 祖父さまの趣味なんだろうか。
 そのお陰で孫の俺らまで迷惑してるんだけどな。
 その癖、祖父さまの名前は普通に日本人っぽいから腹立たしい。
 かく言う俺の名は、「右代宮戦人」。
 俺の名前も、つくづく変わってると改めて思う。
 初対面でちゃんと読める人はまず居ない。
 一番多い間違いは「セント」くん辺りかな。
 名字は「うしろみや」。こりゃまだマシな方だ。
 問題は名前だ。「戦人(バトラ)」って読む。
 「右代宮戦人(うしろみや ばとら)」。
 正直なところ、付けた親のセンスを疑う。
 ついでに、受理したお役所の窓口のセンスも疑う。
 いつか直談判しに行きたいところだ。



「戦人くんと久しぶりに会えて、本当に嬉しいわ。これで縁寿(エンジェ)ちゃんも来られれば完璧だったのにね」
「そうそう、今どんな具合なの? 吐いちゃったって聞いたけど」
「どうも体が弱くて、いつも季節の変わり目に風邪を引くんです。
 出来る限り連れて来たかったんですけど、今回は私の実家で、妹夫婦に面倒見てもらってます」
 お。そろそろ話題の中心が俺から外れてきたな。
 これ幸い、ひとまず退散するとするか。 
 俺は、もっと話の通じる仲間たちの方へ向かった。
 大人は大人同士、子供は子供同士の方が、リラックス出来るのは明らかだ。
「けど、同じいとこって言っても、もう兄貴は半分大人だよな。煙草も酒もとっくにOKなんだから」
「僕の場合は、あくまで仕事で飲んでるだけさ。日本のビジネスは酒抜きでは難しいよ」
 さらりと応じる、眼鏡の似合う背広姿。知的な大人という印象は変わっていない。
 着慣れない一張羅の俺なんかとは、えらい違いだ。
 彼は、絵羽伯母さんと秀吉伯父さんの息子。俺の従兄にあたる人だ。
 名前は「右代宮譲治(じょうじ)」。歳は俺より五つ上。今年で大学を卒業し、伯父さんの側近として働いている。
 右代宮のいとこは男二人、女三人というわけで、兄貴とはいつも一緒に遊んでいた。
 その名残で今も「兄貴」と呼んでいるわけだ。
 一方、はっきり変わったと言えるのが、こっちの朱志香だ。
 歳こそ俺と同い年でも、性別の違いはやっぱり大きい。
「何だよお前、なに女みたいな格好してんだよ。スカートなんか履いちまって。
 大体これホントに本物かよ? パットとかじゃねえだろうな」
 思わず手を伸ばした途端、景気のいいグーパンチが俺の脳天にヒットした。
「ふざけやがれ、私だって18だぜ! 髪だって伸びるし出るとこだって出るぜ」
 ん。根っこの所は変わってねえや。
 こいつは、「右代宮朱志香(ジェシカ)」。
 俺に匹敵する不憫なネーミングの彼女は、俺の親父の兄の娘に当たる。
 その兄が右代宮家の長男坊になるので、一応、朱志香は右代宮家直系の跡取り娘って事にもなる。
 それから、いとこはもう一人。
 楼座叔母さんの娘にあたる彼女の名前は、右代宮真里亞。
 この名前は読めるよな。「マリア」と読む。
 確か今は小5くらいだったと思うが、まだまだ無垢で可愛らしい。
 髪にティアラを飾ってるせいで、小さなお姫様みたいに見えてくる。
 そんな真里亞は、なぜか俺たちのじゃれ合いに加わろうともせず、独り遠くの空を見つめていた。 
 右手指を、鉛色がかっている空に高く掲げて、つぶやいた。
「ない。なくなってる」
 彼女の視線と指先を辿っていって、俺は意味に気づいた。
「あれ……確かあの辺、小さい岩の上に鳥居みたいなのがなかったっけ。
 島に来ると最初に迎えてくれる目印みたいだったからよく覚えてるぜ」
「あったね。鎮守の社みたいな物が。去年は確かにあったはず」
「この夏、夜に落雷があってさ。それで壊れちまったらしいんだよ」
 朱志香はアッサリ答えたが、真里亞は今一つ納得できないような顔をしていた。
 ごく小さな声で、ぽつりと言った。
「不吉……」
 その険しい顔つきが気になって、声をかけようとした時、別の人が会話に加わってきた。



「これはこれは……、戦人さんも大きくなりまして」
 割烹着姿の婆さんだった。
「戦人くん、覚えてるかい? ほら、お手伝いの熊沢さんだよ」
「熊沢の婆ちゃんは忘れねえぜ! 何しろ、ちっとも老けちゃいねえし。
 むしろ若返ったんじゃねえの?」
「ほっほっほ! 最近はお肌もますますピチピチしてきちゃいましてねえ〜」
 涼しげに凄い事を言っている。
 今年でいくつだったっけ? 
 下手すりゃ80にも届くはず。
 それでこれだけ元気に振舞えるんだから恐れ入る。
 彼女は、熊沢チヨさん。
 右代宮本家にもう何年も勤めてる古参の使用人だ。
 さすがに高齢なので力仕事は得意じゃないが、台所仕事から掃除、洗濯と何でもこなす
スーパー使用人らしい。
 玉に瑕なのはサボリ癖があるらしいという事か。
 力仕事や面倒な仕事は、持病がどうのこうのと屁理屈を言って、よく逃げようとするらしい。
 そのわりには何故か憎めないのは、いつも笑顔を絶やさない明るさのせいだろう。
 そんな熊沢の婆ちゃんと一緒にいるのは、ビシッと執事服を着こなしている大柄な男。
「皆様、長旅お疲れ様でした。ご無沙汰いたしております」
「お久しぶりね、郷田さんもお元気?」
「ありがとうございます、絵羽さま。お陰様で毎日元気にお勤めをさせて頂いております」
「戦人くんは郷田さんとは初対面じゃない? 3年前はお勤めじゃなかったですよね?」
「はい、楼座さま。ですので、戦人さまとは初めてご挨拶させて頂きます。初めまして、戦人さま」
「どうも初めまして。戦人です」
「お待ち申し上げておりました。
 昨年から右代宮本家にお仕えさせて頂いております、使用人の郷田と申します。
 どうぞよろしくお願い致します。
 何かご用命がございましたら、いつでもお申し付け下さい」
「あんた、相変わらず大した接客のプロや。もし職に困ったらいつでもわしに声を掛けんやで。いつでも雇ったる」
「これは身に余る光栄です、秀吉さま」
 その後、郷田さんは、他の人たちにも同じように挨拶を交わしていた。
 仕草が洗練されていて、確かにプロの身のこなしだ。
 見かけのゴツさの割りにとても優雅だった。
 大男特有の威圧感があるので怖い人かと思ったが、想像するよりずっと礼儀正しい人だ。
 まだ勤めて間もないと言ってるが、その前にもどこかで同じような職だったに違いない。



「そういえば……、さっきから違和感があると思ったら、あれだ。うみねこの声を聞いてないぜ」
「うみねこ? 鳥のか?」
 この島に来るといつも、うみねこがにゃあにゃあと賑やかな声で迎えてくれる。
 そのせいで、ここ以外でうみねこの声を聞いても、親族会議に来ているような気分になる。
 六軒島は、右代宮本家が住んでいる極めて一部分以外は、手付かずで放置されているため、
野鳥の天国になっているらしい。
 どこかの岸壁がうみねこの巨大コロニーになっているらしく、この島はいつもはうみねこだらけなのだ。
 そのうみねこの歓迎がなかったので、少しだけ寂しかった。
「そう言えばそうね。いつも賑やかなのに、今日はさっぱり居ないわね」
 と、楼座叔母さんも同意してくれた。
「台風のせいだろ。関東地方に近づいてるって、天気予報でも言ってたからな。夕方から降るだろうってよ」
 と、親父が応じた。
「親族会議が毎年10月って以上、こういうのは宿命だぜ。もうちょい時期を選んでくれりゃいいのに」
「同感ね。私もお盆の時期にやってくれればって、いつも思うわよ。
 留弗夫、今回の会議でお父様と兄さんに提案しちゃえば?」
「冗談。姉貴が言えよ。俺なんぞが何を言っても兄貴は聞かねえよ」
 もともと島には一泊する予定になってるが、その間にうまく通り過ぎてくれないと、月曜に登校できなく
なっちまうな。
 休める口実としては最高だが。
 俺たちはそれぞれ荷物を手に、船着場からの長い階段を昇って行った。



★断章――南條輝正――★

 その薄暗い部屋には、いつも甘ったるい匂いが立ちこめている。
 名目上は書斎と言われている場所だが、実際のところは寝室に近い。
 一角にあるベッドには、しわ一つなく整えられたシーツがかけられている。
 埃じみた空気の中、私はため息を交えながら、対局中の相手を見すえた。
 今日の診察も、大して意味を成さなかった。
 問診自体、早々に切り上げられ、結局こうしていつも通り、チェス盤の駒を動かしている。
「金蔵さん。せめてそのお酒だけは、もう少し控えるわけにはいきませんか」
「すまぬな、友よ。だが許せ。これもまた、私に欠かせない友なのだ」
 金蔵さんは次の杯を、使用人の源次さんに命じた。
 私は、部屋の中の匂いが一段と強まったような気がした。
「南條。正直に話せ。私の命は、あとどの程度持つのか」
「長くはありませんな」
 そう答える私を尻目に、金蔵さんは源次さんから差し出されたグラスを受け取った。
 一杯に満たされている、一見毒々しい緑色の液体から、お酒を連想できる人は少ないだろう。
 この部屋に充満している匂いの正体、その一つこそ、この部屋の主が愛してやまない、このお酒なのだ。
「普通の患者になら、遺言を書くよう勧める頃です」
「馬鹿馬鹿しい」
 と、金蔵さんは、杯を乾しながら言い捨てた。
「この右代宮金蔵、後に残したい事も伝えたい事もただの一つもないわ。
 私が死ぬ時に全てを失う。それが魔女と私の契約だ」
 魔女。
 私は壁の一角を見上げた。
 掲げられているのは、一枚の肖像画。
 金蔵さんは席を立ち、その肖像画の前で訴えかけた。
「しかし、だからこそ。私は見たい。お前の微笑みをもう一度見たい。
 今こそお前に与えられた全てを返そう、全てを失おう。頼む後生だ、姿を見せてくれ、そして微笑んでくれ!
 ――ベアトリーチェ!」



「はー、今年も相変わらず大したもんや。目の保養とはこの事やで」
 石段を登りきり、薔薇庭園に迎えられた人たちは次々に感動を口にする。
「今年は少し花に元気がないんじゃない? やっぱり夏があまり暑くなかったせいかしら」
「そのせいもあるかと思います。去年の咲きに比べると、今年は少々見劣るのが残念です」
 とは言っても、それでも立派すぎるほどの庭園だった。
 3年前までにも毎年、たくさんの花たちが出迎えてくれたのを覚えている。
 六軒島を訪れた人間を最初に歓迎するこの庭園は、毎年訪れている親族であっても、感嘆を漏らさずには
いられないのだ。
 その上、かつての俺の記憶よりパワーアップしているように見えた。
 もっとも、今の俺には、華やかな景色を鑑賞している余裕はあまり無かった。
 真里亞のくれたマシュマロ菓子をきっかけに、何ともディープなハロウィントークが繰り広げられていたからだ。
「ケルト人は、10月の最後に太陽は死に、死の国で体を休めて、冬至の日に再び蘇ると考えたの。
 それで、太陽が一年の生涯を終えて死ぬその日を大晦日、サヴィンと呼んでお祝いしたの。
 10月と11月の狭間は、生と死が最も近くなる。
 ケルト人たちはこの時期に、生者の世界と、死者の世界が最も近づき、異界の住人たちがたくさん訪れると
信じてたの。
 日本でいうお盆みたいな物だよ。
 いわゆるトリックオアトリートは単なるお遊び。本来のケルト人たちの儀式とは何の関係もない。
 それは後にキリスト教の習慣が混合して出来た物なの。
 でも、ハロウィンにはある種、収穫祭の意味もある以上、間違ってはいないと思うの。
 魔女たちもね、その時期に魔女集会、サバトを開くの。
 魔女たちは豊かな恵みをもたらしてくれた精霊たちに感謝して労うの」
「つまり、ハロウィンはこの世とあの世の交流のある時期で、魔女たちにとってはそういう世界の客人たちと
交流できる大切な機会だったってわけか」
 自分なりに論をまとめてみると、真里亞の笑顔は一段と輝いた。
「そう、戦人お兄ちゃんの言う通り。だからね、魔女たちや悪魔たちの力が最も盛んになるのが10月なの。
 だからきっと……」
 ……いつまで続くんだろうな。これ。



★断章――右代宮朱志香――★

 まったく、間の抜けた話だぜ。
 真里亞を相手に魔法とか魔女とかの話を振ったら、当分解放してもらえない事くらい、
覚えとけって言うんだよ。
 他の人たちは咲き誇っている薔薇たちに、もう夢中になっている。
 だけど私にとっては、ここは見慣れた自分んちの庭でしかない。
 皆には悪いけど、とっくの昔に見飽きてるってわけだ。
 だから、遠くの茂みの向こう側に見えた人影に気づけたのは、私だけだったかもしれなかった。
「嘉哉くん!」
 名前を呼びながら駆け寄って行くと、嘉哉くんは気まずそうな顔で、その場に立ちすくんでいた。
 庭仕事をしていた最中だったんだろう、顔が土で汚れている。
 彼は、このお屋敷での使用人の一人。
 でも確か、勤めていたのは2年前の、ごく短い間だけだったはず。
 まさか、また戻って来てくれたなんて。
「お久しぶりです。お嬢様」
 嘉哉くんは、押し殺したような低い声で、小さく言った。
 ちょっと感情の篭らない挨拶だった。
 歳は私より上のはずなんだけど、あんまりそう思えない。
 かなり小柄だからっていうのもあるけど、どうにも無愛想なんだよな。
 いや、無愛想じゃなくて、単に口下手なだけなんだけど。
 同じ使用人でも、ベテランの熊沢さんや郷田さんとかに比べると、どうしても未熟な感じがするって言うか。
「ああ、ホントに久しぶりだぜ。それで、どうしてこっちに?
 てっきり私、もうウチの使用人じゃなくなったと思ってたから。また会えて嬉しいよ」 
「特に大事な親族会議という事で、緊急のシフトで呼ばれました。それだけの事です」
「そ、そうなんだ」
 それから暫く、お互い沈黙。
 その重さに耐えきれなくなって、私は思わず言っていた。
「あ、あの、嘉哉くん。きみが元々寡黙で、余計なおしゃべりはしない性分だって事は知ってる。
 だけど、もう少しくらいは、笑顔って物をよ、その……」
「僕たちは、家具ですから」
「って、またソレ言う! そんなだから嘉哉くんは誤解されて損するんだよ。
 嘉哉くんは、そりゃ愛想は少し悪いけど、いいところだって沢山あるのに」
「申し訳ありません。努力します」
 それだけ言って、また黙る。
 悪気があってそれ以上の会話を拒んでいるというよりは、これ以上何を話せばいいか分からないという
感じだった。
 そうだよな。あんまり一方的に責めちゃ可哀想だ。
 嘉哉くんにとっても、やっぱりこの雰囲気は居心地の悪い物だったらしい。
「本当は話すつもりはありませんでしたが……これも良い機会なのかもしれませんね」
 ため息を一つついてから、嘉哉くんは私に言った。
「お嬢様。どうかせいぜい、お気をつけて。
 運命のルーレットが、あなたを選ばない事をお祈りしています」
「え……?」
 ぽかんと口を開けてしまった私を置いて、嘉哉くんは黙礼してから去って行った。
 何だっていうんだよ、一体……。



 薔薇庭園を通り抜け、更に進むと見えてくるのが、右代宮本家のお屋敷だ。
 戦後すぐに建てられたらしいから、すでに半世紀近くを経た貫禄を漂わせている。
 見た目は確かに豪勢だが、古い建物だけあり、空調などの設備が今一つ弱いらしい。
 朱志香の話によれば、特に真冬は隙間風に悩まされるそうだ。
 コタツでも出しゃいいのにな。
 玄関を入ると、老いた使用人が迎えてくれた。
 最古参で、使用人の長を勤める源次さんだ。
 若者勢がこの3年で見違えるほど成長したのに比べれば、源次さんは熊沢さんと同じで全く逆。
 3年前の記憶と姿は何も変わらない。
 完全に時間を止めたまま再会したかのようだった。
 源次さんは非常に寡黙で真面目な人だ。
 祖父さまの側近というか、介護者というか、考えようによっては女房役とまで言えたかもしれない。
 実際、死んだ祖母さまよりも常に側に控えさせていたらしい。
 朱志香に言わせると、祖父さまはどんな肉親たちよりも信頼しているという。
 しかし勤めてどのくらいになるんだろう。
 この屋敷が建てられた当初からいる、みたいな話を聞いたこともある。
 ということは、半生を奉公に捧げてるって計算になる。
 信頼も厚いわけだ。



 それぞれに割り当てられた部屋に向かうため、源次さんの先導で吹き抜けのホールを通り抜ける時。
 俺は3年前の記憶にない物を見つけた。
 それは、2階に上がる階段の真正面に飾られた、とても大きな肖像画だった。
「なあ朱志香。あんな絵、前はあったっけ?」
 と、俺は肖像画を指差して訊いてみた。
「ああ、そっか。戦人が来てた頃にはアレは掛けられてなかったんだな。いつからだったっけ」
「確か、僕の記憶が正しければ、去年辺りだったと思うよ」
「左様でございます。昨年の4月、お館様が兼ねてより画家に命じて描かせていた物を
あそこに展示なさったのでございます」
 肖像画には、この洋風屋敷に相応しく、髪を結いあげて優雅な黒のドレスを着た女性が描かれていた。
 細かい歳は分からないが、その目つきの鋭さは、若そうな印象を受けた。
 この女性が普通に黒い髪だったなら、既に亡くなって久しい祖母さまの若き日の姿かもしれないと
思っただろう。
 だが、肖像画の女性は美しい金髪で、日本人的でない容姿を感じさせた。
「で。誰だい、あのご婦人は」
 俺の素朴な質問に、真里亞が威勢よく答えてくれた。
「真里亞知ってる。ベアトリーチェ!」
「ベア……何だって?」
「ベアトリーチェ。魔女だよ。戦人くんは昔、聞かされた事ない?」
「魔女? ああ……あの」
 既に話したと思うが、この島のほとんどは未開の森林のまま残されている。
 一切の明かりもなく電話もなく通行人もいない無人の広大な森が、どれほど危険なのかを理解するには、
都会的な常識を外す必要がある。
 何しろ、万が一、森の奥で穴にでも落ちて捻挫したら、もう誰も助けに来てくれないのだ。
 そのまま暗くなれば、森は真の暗黒に包まれる。
 また、道標があるわけでもないから、森の中は方向感覚も失いやすい。
 そんな危険な場所に、子供が遊びに行ったら大変な事になる。
 そう思った大人の誰かが言い出したのかもしれない。
 森には恐ろしい魔女がいるから立ち入ってはならないと。
 そんな六軒島の魔女伝説が生まれたのだ。
 そういえば小さかった頃、この屋敷に泊まった夜には、森の魔女が生贄を求めて彷徨っているって話に
だいぶ怯えたもんだ。
「なるほど。しかし、あの伝説の魔女に、ベアトリーチェなんてオシャレな名前が付いてたとは、
とんと忘れてたぜ」
「祖父さまの妄想の中の魔女だよ。この絵を掲げた頃から現実と幻想の区別が付かなくなり始めた。
 祖父さまにとっては、彼女はこの島に“い”る存在。だから、それを理解できない私たちにもわかるよう、
あの絵を描かせたって言うんだけど」
 この島で、右代宮家が管理できている部分など、ほんの僅かだ。
 島に着いてすぐ、鎮守の社が落雷で失われたと知った時の違和感が、少しだけ蘇った。
 六軒島の真の支配者は、右代宮家じゃない。
 ここは、魔女の島なのだから。



★断章――右代宮秀吉――★

 それにしても。あの薔薇庭園とヒケを取らんよな、この応接室の豪華さも。何畳あるんやろか。
「そういや、夏妃さん。最近は頭痛の方はどうなんや。一時、だいぶしんどそうにしとったろ」
「お陰で、最近はだいぶ調子がいいです。心配をしてくれてありがとう」
「そうだ、これ。夏妃さんにお土産」
「いつもありがとう、楼座さん。これは、紅茶?」
「ペパーミントとレモンバームのハーブティー。
 頭痛によく効くって有名なお店のブレンドなの。姉さんにも効くかなって思って」
 楼座さんは、相変わらず気の効くお人や。
 四人も兄弟がおる中で、しかも上とは相当に歳が離れとるせいか、よく周りを見る目がある。
 ウチの絵羽も、その辺をもう少し見習った方がええんちゃうかと思うが。
「そう言えばあなた、いつも頭痛だって言ってたわね。朱志香ちゃん、今年は受験でしょう?
 夏妃さん、私より三つも若いんだから。もうちょっとしっかりなさい?」
「ごめんなさい。生まれつきの頭痛持ちなもので」
 ああ……また言葉を選ばん言い回しをしよってからに。
「うちの戦人も今年は受験でしょ? 留弗夫さんも少しは関心を持ったら?
 自分の息子のために、夏妃さんみたいに頭痛になるくらい真剣になりなさいよ」
「俺が何か言えば必ず反抗するヤツだぜ? むしろ逆で遊んでていいぞって言うのか?
 あいつ、そういうのだけは素直に聞きやがるぜ。
 秀吉兄さんのところは受験、本当にうまく行ったじゃないですか。
 ぜひ子供操縦術の秘訣を教えて下さいよ」
「うーむ、そうやなあ。何のために勉強するのかっちゅうことを説いたかもしれんな。
 勉強っちゅうのは、分からん事を自分で調べて身につけるという行為の練習なんや。
 これが出来んヤツは社会に出ても使い物にならん。勉強し身につける事を学べっちゅう事やな」
「ご立派ですわ。うちの朱志香にもそれが理解できればいいんだけど。
 今のままでは、とてもじゃないけど、右代宮家の跡取りとしては」
「いいじゃないの、無理に跡取りにしなくても。女には女の幸せという物もあるんだし。
 それを親が押し付けちゃ悪いわよ」
「よさんか、絵羽。子供の育て方は家それぞれや。押し付けがましいのはあかんで」
 たまりかねて、たしなめると、絵羽はごめんなさいと苦笑した。
 そこに、ティーカップを積んだ配膳ワゴンを押して、紗代ちゃんがやって来た。
「し、失礼いたします。お茶のご用意をさせて頂きます」
 どこか澱んどる部屋の空気を打ち払うように、霧江さんが明るく紗代ちゃんに尋ねた。
「素敵な香りの紅茶ね。お茶の銘柄を聞いてもいいかしら?」
「えっと、も、申し訳ございません。後ほど調べてまいります」
 すると絵羽が、くすくすと笑い声を上げた。
「使用人が、自分で淹れてる物が何かも分からないの?
 そんな怪しげなお茶じゃ銀のスプーンでもないと飲めないわよ?」
「す、すみません。すぐに用意を……」
「ねえ紗代ちゃん。銀のスプーンって何に使うか知ってる? 銀じゃないとダメなのよ? なぜか分かる?」
「いえ、あの……」
 絵羽は含み笑いを浮かべたまま、配膳をする紗代ちゃんの瞳を覗きこみ続ける。
 答えに窮する紗代ちゃんに助け舟を出したのは、やっぱり楼座さんやった。
「銀は毒に触れると曇るって言われてるの。紗音ちゃんも一つお勉強ができたわね」
 留弗夫さんは声に出して笑いながら、絵羽の肩を軽く叩いた。
「姉貴に銀食器なんて要らねえだろ。毒舌の姉貴がひと舐めしたら、銀の皿だって真っ黒に曇っちまうぜ」
 よう言うた!
「わっはっはっは! わしゃ、その毒舌を毎日聞かされとるから、もう毒に耐性がついてしもたわ。
 絵羽も、わし相手には構わんが耐性のない相手には、ちと加減せんとな」
 殊更な馬鹿笑いに合わせるように、他の皆も何とか笑いを重ねる。
 夏妃さんだけは笑いに加わらんかったが、それでもとりあえず、客間内は談笑で盛り上がっとると
言える程度にはなった。
 やれやれ。今日のトコは最後まで平和に過ごしたいもんやな……。



 泊る部屋は皆ツインに決まっていた。
 お陰で、家族とかいう理由で親父と同じ部屋を強制されずに済むのはありがたい事だった。
 俺たちいとこは、積もる話もあるだろうという事で、四人そろって一部屋が当てられていた。
 それぞれの四方山話で盛り上がっている最中、控えめなノックの音と共に、同じくらい控えめな女声が
聞こえてきた。
「失礼いたします。お食事のご用意ができました」
「ああ、紗代、入れよ! 戦人は覚えてるだろ?」
 元気よく答えた朱志香がベッドから立ち上がり、扉を開ける。
 読んでいた本から顔を離すと、そこには俺らと近い歳に違いない使用人の女の子がいた。
「ご、ご無沙汰いたしております、戦人さま。3年ぶりでございます、紗代です」
 そう言って、深く頭を下げる、丈の長い上品なエプロンドレス姿。
「へぇ…あんたも変わったなあ。すっかり美人になっちまって」
「も、勿体無いお言葉、恐悦に存じます」
 初心すぎる答え方に、ちょっとからかってやりたい気持ちが浮かんだ。
「しっかし、どいつもこいつも、何をどうしたらそんなに胸が育つんだよもう」
 ひひひと笑いながら手を出そうとしたら普通、ビンタの一つも出るもんだ。
 なのに、反撃が来ない。真っ赤になって俯いて、姿勢よく立っているばかり。
 それは想定外だろと焦った頃に、朱志香が俺の頭に鉄拳を叩きこんでくれた。
「あいたたたたた……、朱志香、ありがとよ」
「何で私が感謝されんだ?」
 首を傾げている朱志香は横に置いておく。
「済まんな紗代ちゃん。変な冗談やって。てっきり抵抗してくれると思ったんだが」
「そ、そんな事できません。私たちは、その、家具ですし」
「は? いや、そういうサービス精神はいいんだよ。お願いだからお約束にはノッてくれって」
「お、お願いは聞けません。命令ならお聞きしますが」
 そんな俺たちの押し問答を、譲治兄貴が優しく止めてくれた。
「じゃあ、命令させてもらう事にするよ。
 次から戦人くんが胸に触ろうとしてきたら、平手打ちで反撃すること。いいね?」
「は、はい。仰せつかりました。以後、そのようにさせて頂きます」
 紗代ちゃんは、はにかんだような笑顔で答えた。
「昔は覚束ない感じだったけど、すっかり一人前の使用人さんだな。今年で何年になるんだ?」
「はい。お陰様で10年ほどお仕えさせて頂いております」
 彼女の名前は安田紗代。9歳の時から勤めている古参の使用人だ。
 3年前の彼女とも一応の面識はある。
 内気な性格は一層増したような気もするが、やはり歳相応の女の子らしい魅力が宿ったような気がする。
 特に胸が。
「じゃ、そろそろ食堂に行こうか。皆もお腹が空いてたところでしょ」
「だな。郷田さんがいる時の飯は絶品なんだ。
 あの人、どこぞの有名ホテルでシェフをやってたらしくて、かなり料理の腕があるんだぜ」
「ほう、そりゃ楽しみだ。行こうぜ真里亞!」
「うん! 楽しみ楽しみ!」
 俺たちは紗代ちゃんに先導され、食堂へ向かった。




 食堂には、如何にも大金持ちって感じの長いテーブルが置かれ、その序列に従い、もう親たちが
着席していた。
 一番奥正面のいわゆるお誕生席が最上位の席、祖父さまの指定席だ。
 そこは、まだ空席だった。
 席順における序列は、そのお誕生席を正面奥に見ながら、左・右と序列が続き、序列の順位が低いほど
お誕生席から遠のいていく。
 つまり、お誕生席に一番近い「第1列目左席・序列第2位」の席は、長兄の蔵臼伯父さんの席。
 伯父さんもまだ来てないようで空席だった。
 その向かいの、「第1列目右席・序列第3位」に、祖父さまの長女である絵羽伯母さんが座る。
 「第2列目左席・序列第4位」には、親兄弟の3人目、ウチの親父の留弗夫が座る。
 その向かいの「第2列目右席・序列第5位」は、親兄弟の末っ子の楼座叔母さんの席。
 ならば、次は親たちの配偶者が続くと思うだろうが、次の「第3列目左席・序列第6位」は朱志香の席だ。
 その向かい席「第3列目右席・序列第7位」は譲治兄貴。
 朱志香の隣「第4列目左席・序列第8位」の席は俺こと戦人で、その向かい「第4列目右席・序列第9位」は
真里亞となる。
 (俺の妹が欠席しているため、ここから序列は一つずつ繰り上がっている)
 そして俺の隣、つまり「第5列目左席・序列第10位」まで来て、ようやく夏妃伯母さんの番になる。
 その向かい「第5列目右席・序列第11位」が秀吉伯父さんで、夏妃伯母さんの隣の
「第6列目左席・序列第12位」、一番手前の席がお袋である。
 お袋の向かいの席にも食事の支度がされていたが、そこは空席だった。
 普通、序列は配偶者にも準ずる格を認めるものだが、右代宮家は独自の序列を持っていた。
 直系の子供たちが最も序列が高く、孫が次。
 血の繋がらない配偶者たちはその後って考えになるわけだ。
 その考えによるなら、祖母さまが生きていたとしたら、その序列は俺よりも下という事になる。
 そんな事を知らない昔は、親兄弟は親兄弟同士、いとこはいとこ同士と、それぞれのグループごとに
座れていいなんて思っていたが、改めて着席順を見直してみると、複雑な気持ちにさせられる。
 本家の長男に嫁ぎ、家を切り盛りする実質上のナンバー2の夏妃伯母さんが俺の右側の席、つまり俺より
二つも序列が下だというのだから。
「お久しぶりですね、戦人くん。ずいぶん背が伸びましたね」
「あ、はい! 食ったり食べたり食事したりしてたらいつの間にか」
「さすが男の子ね。身長は幾つくらいあるの?」
「180かな? つーか伯母さん、さっきのはツッコミ所のつもりだったんですけど」
「え? ああ……ごめんなさいね」
 伯母さんは遅れて笑ってくれたが、意味合いには気づけていないようだった。
 この人は夏妃(なつひ)伯母さん。
 いわゆる長男の嫁、つまりウチの親父の兄の奥さんに当たる人だ。
 朱志香の母親と言った方が分かりやすいか。
 言っちゃ悪いが、つかみどころの分からない伯母さんだ。
 あまり子供の輪に入ってこないし、いつも厳しそうな顔をして、親たちと難しい話をしているという印象が強い。
 実際、今もどう会話しようか迷ったのだ。
 テーブルの上には整然と食器が並べられていたが、まだ食事の配膳は始まっていなかった。
 基本的に、上席者が着席しない限り、つまり最上位の祖父さまが来ない限り、いつまでも食事は始まらない。
「遅いな、祖父さま。俺の記憶じゃ、時間に厳格な人だったと思うんだけど」
「3年前はそうだったかもな。最近はそうでもねえよ。
 もう自分の世界オンリーって感じで会食にも顔を出さねえぜ」



 その朱志香の予想は、結局当たった。
「やあ諸君。当主様は具合が優れられないとの事だ。
 せっかくこうして1年ぶりの会合に集まってくれた諸君と、昼食を共に出来ないのを残念にしておられた。
 ――郷田、ランチを始めてくれ」
「かしこまりました、それでは本日の昼食を始めさせて頂きます」
 当主の席を空席にしたまま、会食は始まった。
 これで本格的に、右代宮家の親族会議が始まったのだ。
 年に一度、10月の最初の土日に行なわれる「親族会議」。
 当主が資産の一部を息子兄弟に貸し出し、事業的な成功を以って一人前と見なすという右代宮家では、
それは文字通り会議だった。
 どれほどの資産から、どのような事業を成し、どれほどの収益を上げたのか。
 その結果、本家より借りた資産をどれだけ返済できるのか。
 あるいは更なる事業のために、どれだけを借りるのか。
 どのような失敗から、どのような教訓を学べるのか。
 そういう事を真剣に話し合うのが、本来の目的であるらしい。
 さて、3年ぶりに顔を見る、朱志香の父親についても紹介しておこう。
 ウチの親父の左に座っているのが、親父の兄貴で、朱志香の父親でもある蔵臼伯父さん。
 これは読みやすいな。「クラウス」と読む。
 夏妃伯母さん同様、蔵臼伯父さんともあまり話をした記憶はない。
 いつも大人たちと話している印象しかないという点では、夏妃伯母さんと同じだ。
 ウチの親父の弁では、昔は長兄として威張り散らしていたそうだ。
 後は、蔵臼伯父さんたちとは逆側。
 テーブル末席のお袋の向かいに座っている、白髪の老紳士。
 この人は初対面だ。
 さっき紹介を受けたが、南條輝正という医師で、祖父さまの主治医らしい。
 隣の新島に診療所を持っているが、それを息子に譲って今は隠居しているそうだ。
 祖父さまがこの島に屋敷を立てた当初からの付き合いだそうで、数十年の交流があるという。
 親族と使用人を除いてほぼ唯一、六軒島に出入りできる存在だろう。
 一見した印象は、落ち着きのある老紳士という感じだ。
 短気な祖父さまとこれだけ長く付き合えているのが、その根拠の一つと言える。
 ただ、親族会議の場に、主治医とは言え右代宮家以外の人間が同席しているというのも、少し妙な話だ。
 祖父さまの容態がだいぶ悪く、それが親族会議の議題に含まれていると想像できる。
 譲治兄貴も言ってた。
 祖父さまは去年辺りから、余命3ヶ月という宣告を受け続けているんだと。



 最後に、祖父さまの紹介をしよう。
 あのお誕生日席に座るべき人物は、右代宮金蔵(うしろみや きんぞう)。
 ここで金蔵と書いてゴールドスミスとでも読むんなら、いいオチが付いてくれると思うんだけどな。
 一言で言うなら、祖父さまは非常に短気でおっかないお人だ。
 親兄弟たちはずっと鉄拳で教育されてきたらしい。
 その祖父さまを語る上での重要なエピソードは、昭和以前にまで遡らなければならない。
 右代宮家は、明治・大正の頃までは、紡績工場を多く抱えた富豪だった。
 ところが大正12年の関東大震災で、小田原にあった本家の屋敷や、
東京下町に持っていた紡績工場を含めて、右代宮家は主な親族と財産を失った。
 それで右代宮本家の跡継ぎとして、分家筋の金蔵祖父さまが、瀕死の右代宮家の再興を託された。
 祖父さまは、右代宮家に残された全財産を丸ごと担保に入れるような状態で巨額の借金をし、資本金を
築くと、すぐに事業を興した。
 その後、信じられないような強運や奇跡や偶然を重ねてチャンスを物にし、ついには進駐軍に
強力なコネクションを持つようになっていた。
 ここまで至ればもう、運じゃなく情報勝ちだったんだろう。
 祖父さまは瀕死の右代宮家を、わずか20数年でかつて以上に復興させちまった。
 それで、縁ある小田原に本家を復興すると思ったら、何と伊豆諸島の小島を丸ごと購入しちまったわけだ。
 島にはすぐに屋敷が建てられた。つまりこの屋敷だ。
 昔から西洋かぶれだった祖父さまは、この無人島だった六軒島を、思う存分自分の夢を実現できる
キャンバスにしたんだろう。
 資産をうまく運用した今は、鉄鋼業界の大株主として悠々自適。
 そんな凄い人なわけさ。
 ただ、あの怪しげな黒魔術趣味はいつ頃からなのか、親兄弟たちもよく知らない。
 大昔からの西洋かぶれが黒魔術趣味も含んでいたのか、それとも戦後の奇跡的お家再興の強運に、
自身が神秘的な何かを感じたのかもしれない。
 いつの頃からか祖父さまは黒魔術研究をライフワークにし始め、自分の書斎を怪しげな書物や薬品薬草、
マジックアイテムで埋め尽くし始め、どんどんおかしくなっていったそうだ。



★断章――右代宮留弗夫――★

 面倒くさい会食とやらを終わらせて、ガキどもや医者が失せたのを機に、俺たちは本題を切り出した。
 口火を切るのは大抵、姉貴の領分だ。
「兄さん、今は大変強気だそうじゃない?
 確かに去年以降、円は上がる一方。与党は来年頃に保養地整備法を成立させようって言うし。
 今や日本中のリゾート開発会社が、どれだけ軍資金を集められるかって奔走しているところよね」
「詳しいじゃないか。そう、今の国民のニーズは電化製品ではない。リゾート施設だ。
 数年前に開業した、あの海浜都市のテーマパークには行ったかね? 
 あそこでは大人も童心に返り、おとぎ話の世界を家族で楽しむ事が出来る」
「蔵臼兄さんは時代を見る目のあるお人や。日本が世界経済の中心になる日も遠くはないやろ」
「ああ。兄貴の嗅覚は親父譲りだろう。だが、ちょいと見通しのタイミングを読み違っちまった」
「兄さんに才能がない証拠は、私たちのすぐ近くにもあるわよ。
 兄さん、この島をリゾート化するって張り切ってたじゃない?
 あの庭園も随分綺麗に整備して。相当のお金を使ったんでしょ?」
「だから何だと言うのですか」
 と、夏妃さんが兄貴より先に言い返す。これもいつもの事だ。
「この島を、住むだけにしか使わないのは勿体無い、リゾート化してマリンスポーツやフィッシングやハネムーンを
誘致して盛り上げようっていう、兄貴たちの着眼は立派さ」
「しかしな、蔵臼兄さん。この島の開発計画の話、ちょいと調べさせてもろたんやけどな。
 任せてるトコ、あまりええ噂は聞かんで?」
「秀吉さんは何を仰いたいのですか」
「いや、夏妃さん、ホンマ怒らんといて。わしらも調べたんや。
 これまで負け戦続きの蔵臼兄さんに、最近の強気な莫大投資を支えられるほどの融資を、誰が出来たんかを」
「結果。いねえんだよ、そんな後ろ盾は。
 単刀直入に言おう。兄貴は親父の個人資産を自分の事業に流用してる」
「留弗夫、流用なんてもんじゃないわよ。これは横領よ。刑事告発できる立派な犯罪なんだから」
 俺の点けた火に、姉貴が油を注ぎ足し、夏妃さんが激昂する。
「無礼極まりない! 右代宮本家跡継ぎの右代宮蔵臼に向かって信じられない暴言です」
「何度でも言うわ、兄さんがしているのは横領よ。お父様に対する裏切りよ。
 そんな輩に右代宮本家跡継ぎを名乗らせるとお思い?」
「言うに事欠いて……。この右代宮家の敷居を跨ぐ資格は、貴女にはありません!
 即刻、ここを出て行きなさい」
 夏妃さんは椅子から立ち上がり、姉貴と廊下を交互に指差した。
 対して姉貴は、手持ちの扇子を弄びながら、静かに夏妃さんをにらみ返す。
 その沈黙に、楼座がごくりと唾を飲んだ。
 こういう時、コイツは決して余計な口を挟まない。
 誰の意見に肯定しても否定しても、誰かの不興を買うと学んでいるからだ。
 どんな場でも、曖昧な表情で黙っている。
 末っ子だからこそ養わざるを得なかった処世術だった。
 姉貴は低く、くぐもった声で笑うと、言った。
「黙るがいい、この下女が!」
 姉貴は扇子をバチンと畳むと威勢よく立ち上がる。
「馬鹿馬鹿しい、身の程を知りなさい!
 この右代宮絵羽に、右代宮家序列第3位のこの絵羽に下がれと?
 貴様など右代宮家の跡継ぎを残すためだけの借り腹じゃないの! この端女が!」
 やれやれだ。
 一度こうなるともう、誰も手を付けられない。
 姉貴と夏妃さんとのヒステリーが静まるまで、俺らはため息をついているくらいしか、やる事が無くなる。
 もう分かるだろうが、この二人はまさしく犬猿の仲だ。
 姉貴は本来、結婚を境に序列から除籍されるはずだった。
 ところが、肝心の兄貴夫婦にはなかなか子供が生まれないまま、姉貴にも結婚の話が持ち上がった。
 そこで姉貴は、自分が入り婿を取って跡継ぎを産むと親父を説得し、序列の中に生き残ったのだ。
 挙げ句に姉貴は、自分が先に、跡継ぎになれる息子を産んじまったから、ますます事態はややこしくなる。
 せめて、譲治くんと朱志香ちゃんとの生まれが逆なら、姉貴ももう少し落ち着きのある女になってた
かもしれねえ。
 男の俺にしてみれば、よく分からない話だがな。



 俺は再び、あの魔女の肖像画の前にいた。
 ホールを横切ろうとした時に、どうしても気になったのだ。
 怜悧な魅力を持つその女性の瞳には、見る者を釘付けにする魔力が確かに宿っていた。
 肖像画の下には、タイトルが記されているのだろうプレートが添えられている。
「何々、『我が最愛の魔女ベアトリーチェ』。
 懐かしき故郷を貫く……、って何だよコレ?」
 プレートには肖像画のタイトルと共に、長々とした文章が記されていた。
 その碑文を斜め読みした時、物騒な単語がいくつも出てきた事に、俺は目を瞬かせた。



 懐かしき、故郷を貫く鮎の川。
 黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ。
 川を下れば、やがて里あり。
 その里にて二人が口にし岸を探れ。
 そこに黄金郷への鍵が眠る。
 鍵を手にせし者は、以下に従いて黄金郷へ旅立つべし。
 第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ。
 第二の晩に、残されし者は寄り添う二人を引き裂け。
 第三の晩に、残されし者は誉れ高き我が名を讃えよ。
 第四の晩に、頭をえぐりて殺せ。
 第五の晩に、胸をえぐりて殺せ。
 第六の晩に、腹をえぐりて殺せ。
 第七の晩に、膝をえぐりて殺せ。
 第八の晩に、足をえぐりて殺せ。
 第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。
 第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう。
 魔女は賢者を讃え、四つの宝を授けるだろう。
 一つは、黄金郷の全ての黄金。
 一つは、全ての死者の魂を蘇らせ。
 一つは、失った愛すらも蘇らせる。
 一つは、魔女を永遠に眠りにつかせよう。
 安らかに眠れ、我が最愛の魔女ベアトリーチェ。




「すげーだろ、ソレ。祖父さまが書かせた物だよ」
「真里亞知ってる! 黄金の隠し場所!」
「兄貴、これマジなのか?」
「お祖父さまは、この絵とこの碑文に関しては何も語ってくれない。
 でも親類たちの間では、お祖父さまの黄金の隠し場所を記した物で、この謎を解いた者に家督と黄金の全てを
譲るという意味ではないかとも言われているよ」
 ここで、右代宮家の黄金伝説についても説明しておこう。
 戦後、祖父さまは莫大な富を築くのだが、その最初の資本金をどう築いたかという事で、奇妙な一説が
あるのだ。
 尋ねられた祖父さまはこう答えたと言う。
 私はある日、黄金の魔女ベアトリーチェに出会ったのだ、と。
 祖父さまは偉大なる魔術師で、錬金術や悪魔召喚の術を研究し続けていて、
それで儀式の果てに召喚したのが、黄金の魔女ベアトリーチェだった。
 そして祖父さまは己の魂と引き換えに、ベアトリーチェに富と名誉を授けるよう契約した。
 魔女は、祖父さまに10tもの黄金を与えた。
 祖父さまはその黄金を担保に資金を用意し、右代宮家を復興させた。以上。
「そんな話があったな。俺たちも小さい頃、親から聞かされたっけ」
「よく考えたら、私たちもバカな話を信じてたよな。
 だって祖父さまは、その資本金で儲けた金でこの島を買うんだぜ?
 この島に来る前から、黄金を持ってたって事になっちまうじゃねえか」
「いや、そうとも限らないよ。その黄金が元からこの島に隠されていて、それを確実に自分の物にするために、
この島を買い取ったとかね」
「でも10tってなあ……、現金に直したら幾らくらいになるんだ」
 譲治兄貴が腕組をして考えこんでいる。
「さあ。例えば1kgあたり、200万円程度の価値があるとして……」
「200億円」
 計算を終えた朱志香が、半ば茫然とした声で答えを出した。
「そう。せめて200億円の札束が唸ってるって話ならともかく、200億円分の黄金が山積みになってるってのは、
ちょいと現実味がないな」
「そこはあのお祖父さまだからね。親切な大金持ちからの融資を大袈裟に吹聴して、魔女から授かった
10tの黄金なんて例え方をしたのかもしれない」
「大金持ちの有閑マダムが祖父さまに気前よく恵んでくれて、そのご婦人を魔女と呼んだって事
じゃねえのか?」
 ああでもないこうでもないと盛り上がっていたところに、真里亞の硬い声が割って入った。
「信じないの……?」
 その声色に、俺たちは思わず身震いしてしまった。
「ベアトリーチェは、“い”るの。本当に“い”るの」
「あ、悪い、別に真里亞が言ってるのを疑ったわけじゃ」
 慌ててフォローを入れるものの、真里亞の表情は変わらない。
 子供ながらの夢を傷つけられた彼女は、ふいと踵を返して、玄関から外へ駆け出して行った。
「はー……、またやっちまったな。出来るだけ気をつけてるんだけど」
「お、おい朱志香。いいのかよ、追いかけなくて」
「ああ、平気。あいつ、一度ああいう風になっちまうと、手がつけられないんだよ」
「最初は、すぐに宥めようとしたんだけど、逆効果になっちゃってね……。
 しばらくの間、そっとしてあげた方がいいみたいなんだ」
「そうそう。その内、ケロッとした顔で帰って来るんだぜ。 何か、物凄くいい事があったみたいな顔でな」



★断章――右代宮霧江――★

 夏妃さんと絵羽さんとの応酬は、ひとまず一段落。
 ああいう口論は、ひとしきり済んでしまえば、いずれ自然に収まる物。
 親族会議は、仕切り直されて再開された。
 今度こそ、本題に入らなくちゃいけない。
 私は言わば部外者だけれど、だからこそ傍観者として、彼らの駆け引きを客観的に観察する義務がある。
 蔵臼さんは、大げさに肩を竦めて言った。
「馬鹿馬鹿しい。まさかお前たちは、親父殿の黄金伝説を本当に信じているのかね?」
「お父様が出自不明の金塊を持っていた事は複数の筋から確認されてるわ。
 マルソーの会長は生前、お父様に某所で積み上げられた金塊を実際に見せられたそうよ。
 お父様はそれを指して、10t分あると明言したと」
 絵羽さんの言葉に、留弗夫さんが言い添える。
「兄貴。マルソーの会長は確かに見たんだ。
 しかも親父は、そのインゴットの一つを任意で抜き取らせ、会長に持ち帰らせて鑑定させた。
 それは10kgのインゴットで、鑑定結果は純度フォーナイン。
 インゴット表面には、右代宮家の家紋である片翼の鷲が刻印されていた」
「楼座、まさかお前まで、こんな絵空事を信じてるんじゃないだろうな?」
「私は、お父様が本当に黄金を持っていたかどうかを確かめる事は出来ない。
 でも、お父様の四人の子供の一人として、正当な分を主張したいだけ」
「楼座も言うようになったじゃないか。
 なるほど、お前たちはこう言いたいわけか。私が黄金を独り占めしようとしていると」
「……だが、兄貴の立場にも配慮するさ。親父の名代として、俺たちより多く責任を背負ってるところもある」
「つまりな、こちらの条件を飲んでくれたら、わしらは遺産分配時にお父さんの財務状況調査を蔵臼兄さんに
一任してもいいっちゅう事っちゃ」
「回りくどいな。もっと具体的に言いたまえ。その条件とは何だ」
「条件1。まず、兄貴は親父の黄金を見つけていたと認める事」
「条件2。その黄金について、私たち兄弟の取り分を認め、これを支払う事」
「条件3。黄金の分配は、右代宮本家当主跡継ぎに50%。
 残りを兄弟の正当な取り分として分割。もちろん兄さんもこれに含めるで」
「200億の内、125億を兄さんに。25億を私に。25億を留弗夫に。25億を楼座に」
「条件4。分配金は親父の死亡時に遺産分配に含めて清算する。
 ただし、手付金として俺たちの取り分の10%を即納してもらう。支払いは来年3月までだ」
「どや、蔵臼さん。流石に75億はお父さんが亡くなってからやないと無理やろ。
だが、手付けだけなら何とか出来るんとちゃうか?」
「上等じゃないか。お前たちも成長したものだ。この私に取引を持ちかけられるようになるとは」
「申し訳ないが、条件はまだ続くんや。
 条件5。この取り決めはお父さんの遺言状に優先する。
 後になって、この取り決めが反故になるような遺言が出てきちゃかなわんからな」
 留弗夫さんが言うには、蔵臼さんは信用ならない暴君。
 常に長兄として、弟妹たちの領分を侵し続けてきた強敵。
 それに対し、大人になった彼ら三人は今回、初めて連帯して兄に抗った。
 三人がかりでもなけりゃ勝てやしないと思わしめる長兄は、やがて反撃を始めた。
「とても良い話じゃないか。喜べ楼座。取引は成立だ」
 今まで優勢だった面々の顔色が曇る。
「いやに素直ね。兄さんらしくもないわ」
「それはひどいじゃないか。私も、お前たちと同じだ」
 “お前たちと同じだ。”
 その部分だけが強調されたように聞こえた。
 “お前たちと同じ程度に、考えがあるさ”。そう聞こえた。
「ならいいんだ。じゃあ兄貴、ここにサインをもらえるか。今の話を書き出した俺たちの誓約書だ」
 留弗夫さんは懐から、兄弟4人分の用紙を取り出した。
 蔵臼さんは、ふっと薄く笑って言った。
「実は、この取り決めを履行するために一点だけ修正を提案したい」
「ダ、ダメよ。もう決まった話よ? 黙ってサインを」
「絵羽、何を焦っているんだね? 私は、お前たちに黄金の分け前、75億円分を約束する。
 だが、一点だけどうしても譲歩してもらいたい部分があるのだよ」
「何の話だよ。どの点が気に入らねぇってんだ?」
「遺産分配時に全て一括で清算する。1割を即納する条件を削除したまえ」
 蔵臼さんが向けた視線から、留弗夫さん達は半ば本能的に目を背ける。
 その中で、秀吉さんが蔵臼さんの眼差しに捕まった。
「秀吉さん。あなたの会社、性質の悪い連中に、自社株をだいぶ買い集められていたらしいじゃないですか」
「な、何でそんな話、知っとるんや」
 蔵臼兄さんがにやりと笑う。対照的に秀吉兄さんの顔は青ざめていく。
「留弗夫の方も、最近は大変だそうじゃないか。アメリカの裁判は極めて感情的に決まる。
 和解金は数百万ドルにも及びそうだとの噂もあるがね?」
 留弗夫さんの表情も、微妙に動いた。
 秀吉さんほどには狼狽しないのは、なかなかの役者ぶりと言える。
「楼座は清く正しい妹だ。だが、連帯保証人は、気安く引き受けるものではないと思うが」
「そ、それは蔵臼兄さんとは関係ない!」
 楼座さんが珍しく感情を露にして叫んだ。
 そう。何の事はない。
 私たちは全員が全員、全くもって同じなのだ。

 ――ダカラ、現金ガスグニ大量ニ、喉カラ手ガ出ルホドニ欲シカッタ――

 これで、彼らの立場は逆転した。
 留弗夫さんの言う通り、蔵臼さんは狡猾だった。
 私たちのアキレス腱も、初めから知っていたのだろう。
「私も出来る事なら、可愛い弟や妹たちの危機に金を工面してやりたいと思っているよ。
 だが残念な事に持ち合わせがなくてね」
 あまりに白々しいその言葉は、蔵臼兄さんの勝利宣言に等しい。
「こんな時、本当に親父殿の隠し黄金が見付かればいいんだが。
 残念残念、残念至極! 非常に極めて実にどうしようもなく残念だ!
 今宵は兄弟みんなで酒を酌み交わしながら、親父殿の隠し黄金を、ベアトリーチェの碑文の謎を、
皆で解き明かしてみようじゃないか。
 はっははははははははははははははははははははははははははは!」


★断章――右代宮楼座――★

 暗い。寒い。そして静寂。
 少しずつ、少しずつ意識を取り戻す。
 最初に考えた事は、意識を取り戻さなければ良かった、だった。
 だって、こんなにも体が冷えていて、意識が戻れば戻るほどに辛くなるから。
 いつも自分に言い聞かせてるのに。
 たとえ仮眠であっても、きちんとしたベッドで横になろうって。
 ちょっと目を閉じるだけ、なんて甘えて、変な姿勢で突っ伏して眠ってしまうと、後で体が痛くなって辛い思いを
するって、いつも知ってるのに。
 次に考えかけたのは、さっきまでの親族会議。
 ううん、もう嫌。もう、あんなやり取りなんて、カケラ一つも思い出したくない。
 だから今は、もう少しだけ、このままで居たい。
 他に誰も入って来ない、この客間のソファーに体を預けていたい。
 さもなくば、全身にのしかかって来るこの負担に耐えきれなくなって、ぺしゃんこに潰れてしまう。
 さあ早く、もう一度、何も考えなくて済む眠りの世界へ、私を誘って……。
「……ッ!?」
 何かが体に触れたような気がして、私は電気に弾かれたように体を起こした。
「ありがとう、源次さんなのね」
 厚手の毛布が、自分の体にかけられたところだったのだと理解して、私は安堵の息を漏らした。
「起こしてしまいましたか。失礼いたしました」
「いえ、いいの。寝るつもりじゃなかったから。今は何時なの?」
 時間を問われた源次さんは、懐中時計を取り出した。
「6時を少し過ぎたところです」
 長く寝ていたような感覚だったわりには、大して時間が経っていなかった事を知り、私は軽く頭を振った。
 全く休むつもりは無かったはずだけれど、私はだいぶ深い眠りに落ちていたようだった。
「ありがとう、毛布は結構よ。変な時間に眠っちゃ駄目ね。すっかり時間の感覚が狂っちゃったわ」
 ソファーから立ち上がった時、私は窓の外からの音に気づいた。 
「雨、とうとう降り出したのね」
 私を眠りに誘った音の正体は、いよいよ降り始めたこの雨だったのだ。
「風もだいぶ出ているようね。いよいよ台風なのかしら」
「そのように、テレビでは申しております。
 遅い台風だそうで、明日いっぱいはこのような調子だそうです。」
「そう。この素敵な薔薇庭園も、日中のあれが見納めだったのね」
 窓から見える薔薇庭園は、すっかり風雨の向こうに霞んでしまっていた。
「じゃあ行きましょうか。外の降りはだいぶ酷そうだけれど」
「はい。お召し物を濡らさぬよう、充分ご注意ください」
 私が部屋を出ようとすると、源次さんは空の室内を見渡している。
「真里亞さまはいらっしゃいませんか?」
「一緒じゃないわよ。いとこ達と一緒じゃないの」
「それが……いとこの皆様のお部屋には、まだお戻りになっていないというお話でして。
 私もお見かけしておりません」
 ……まさか……。
 あの子の性分を考えて、私は肌が粟立つのを感じた。
 この島で、あの子が長く居る場所は一ヶ所しかない。 
 今まではいつも、天気の良い日の事だから気にしなかったけれど。
 でもあの子は、雨が降っても槍が降っても、平然と居続ける子だから。
 私は、源次さんの肩を半ば弾き飛ばすように、廊下を駆け出した。
 幸い、雨風にはまだ台風というほどの豪快さは感じられなかった。
 雨に濡れる薔薇たちの間を駆け抜け、花壇の一つに回りこんだ。
「真里亞!!」
 白い傘を持った真里亞が、むしろのんびりとした様子で振り返った。
 良かった。ちゃんと手提げ鞄の中に傘を入れていたのね。
 そう思った矢先、真里亜は意外な事を言った。
「傘、貸してもらった!」
「そ、そう。なら、その人にお礼を言わないとね。誰?」
「ベアトリーチェ!」
「そう、良かったわね。それで、誰なの? 傘を持ってきてくれた人は」
「ベアトリーチェ!」
 最初は嬉しそうだった返事は、二度目は不機嫌な口調に変わった。
 なので私はひとまず、それ以上の追及を止めた。
 真里亞に聞くより、夕食の席で貸してくれた人を聞いた方が早そうだ。



 夕食の食堂にも、祖父さまの姿だけがなかった。
 蔵臼伯父さんが苦笑いを浮かべながら、南條先生と戻ってくる。
「親父殿は相変わらずご気分が優れられないそうだ。
 年に一度の、親族が集まるこの機会に同席できない事を、非常に残念がられておられた」
「お役に立てなくて申し訳ございませんな。今や金蔵さんの世界はあの書斎だけです」
 と、南條先生も肩を落とす。
 説得し続けても甲斐がなく、どっと疲れたという感じだった。
 静かに始まった食事の中、楼座叔母さんがおずおずと話し始めた。
「えっと、真里亞に傘を貸してくれた人は誰かしら?」
「傘? 何の話?」
 と、絵羽伯母さんが眉をひそめる。
「その、さっき、真里亞が薔薇庭園にいた時に雨が降り出して。
 誰かに白い傘を借りたみたいなんだけど、お礼が言いたくて」
「俺たちじゃねえぜ。楼座が出てった後は、部屋を移してずっと“仲良く”おしゃべりをしてたからな」
「とにかく、私たちはずっと一緒にいたわよ。だいたい、傘を貸すなんて、使用人の誰かじゃないの?」
「じゃあ、郷田さん?」
「私どもはずっと厨房で準備をしておりましたもので。申し訳ございません」
 残念そうな顔で答える郷田さん。
 熊沢の婆ちゃんも、からからと笑って言った。
「はい。私たちではございませんよ」
「なら誰なの? 譲治くん達? のわけないわよね」
「ええ、僕たちじゃありません。僕たち三人は揃ってテレビを見てました」
「むしろ私たちは、真里亞は叔母さんと一緒に居るとばかり……」
「ああ。第一、俺だったら傘を貸すより先に、手を引いて屋根の下に連れて行くし」
「もちろん、私でもありません。
 ついさっきまで、金蔵さんの部屋で一緒にチェスをしておりました」
 と、南條先生も否定した。
「何だ何だ。妙な話になってきたな。あと残るのは誰だ?」
 誰も彼も自分は違うと言い張る膠着状態に、楼座伯母さんは困り果てている。
「落ち着けよ楼座。傘を借りた本人に聞けばいいじゃねえか」
「道理や。留弗夫くんの言う通りやないか。真里亞ちゃん、傘を貸してくれたのは誰や」
「ベアトリーチェ!」
「なるほど、森の魔女ベアトリーチェが傘を貸してくれたか。いい話じゃないか」
 蔵臼伯父さんが大声で笑ってみせて、それで話は終わってしまった。
 真里亜は自分の主張を信じてくれたと感じたらしく、満足げに喜んでいる。
 俺は人知れず苦笑いを噛み殺しながら、窓の外を見やった。
 雷鳴が轟く。
 その稲光が照らし出される瞬間以外は、窓の外は全て闇が支配している。
 日の当たる時間帯が、人の支配する時間帯なら、日の当たらぬ時間帯は、人ならぬ者が支配する時間帯。
 その支配者は、薔薇庭園で一人佇んでいた真里亞を不憫に思い、傘を貸したというのか。
 もう一度、雷が光った。
 その光を見ることが、まるで魔女と目を合わせているように感じられて、俺は目を逸らした。
 さもないと、その光に、目を吸いこまれてしまいそうな気がしたから。


 ディナーは順調に進んでいった。
 真里亞は、最後に出された飲み物――彼女はオレンジジュースだった――を飲み終えるとすぐに、隣席に
顔を向けた。
「譲治お兄ちゃん、これでご飯は終わり? 終わり?」
「うん。これでおしまいだよ。」
 譲治兄貴に教えてもらえた真里亞は、椅子の下から、ずっと側から離さないでいる手提げ鞄を取り出し、
中を漁った。
 真里亞の手には、真っ白な洋形封筒が握られていた。
 その封筒の表面には、右代宮家の家紋である片翼の鷲をイメージした物が金で箔押しされていた。
 赤黒い蝋で封までされている。
「真里亞ちゃん、それは何?」
 夏妃伯母さんも、真里亞が持つその封筒に気づいたらしい。
「その封筒は、金蔵さんの……」
 南條先生が呟いた一言が、決定的だった。
 真里亞が持つのは、右代宮家当主、つまり祖父さまがプライベート用に作らせた特注の封筒。
 つまり、この封筒には、祖父さまからのメッセージが収められているのだ。
 楼座叔母さんが、深呼吸してから真里亞に問いただした。
「真里亞、その封筒はどうしたの?」
「傘を貸してくれた時にベアトリーチェにもらった。
 ご飯が終わったら、真里亞が皆に読んで聞かせてって言われた!
 真里亞は魔女のめ、め、“めっせんじゃ”なの!」
 真里亞は封筒を無造作に開けた。
 ぽろりと封蝋が取れて、机の上に転がった。
 それを素早く秀吉伯父さんが拾い上げ、机の中央に置いた。
 封蝋には、右代宮家の家紋である片翼の鷲が刻印されていた。
「私は金蔵さんに手紙をもらった事があるから分かる。
 これは間違いなく、金蔵さんの指輪での封蝋だ」
 真里亞は親族全員に凝視される中、手紙をかさかさと広げた。
「読む」
 一同は黙りこみ、真里亞の言葉を待った。



 六軒島へようこそ、右代宮家の皆様方。
 私は、金蔵さまにお仕えしております、当家顧問錬金術師のベアトリーチェと申します。
 長年に亘りご契約に従いお仕えして参りましたが、本日、金蔵さまより、その契約の終了を宣告されました。
 よって、本日をもちまして、当家顧問錬金術師のお役目を終了させて頂きます事を、
どうかご了承くださいませ。
 さて、ここで皆様に契約の一部をご説明しなければなりません。
 私、ベアトリーチェは金蔵さまに、ある条件と共に莫大な黄金の貸与を致しました。
 その条件とは、契約終了時に黄金の全てを返還する事。
 そして利息として、右代宮家の全てを頂戴できるという物です。
 これだけをお聞きならば、皆様は金蔵さまのことを何と無慈悲なのかとお嘆きにもなられるでしょう。
 しかし金蔵さまは、皆様に富と名誉を残す機会を設けるため、特別な条項を追加されました。
 その条項が満たされた時に限り、私は黄金と利子を回収する権利を永遠に失います。
 特別条項。契約終了時に、ベアトリーチェは黄金と利子を回収する権利を持つ。
 ただし、隠された契約の黄金を暴いた者が現れた時、ベアトリーチェはこの権利を全て
永遠に放棄しなければならない。
 利子の回収はこれより行ないますが、もし皆様の内の誰か一人でも
特別条項を満たせたなら、既に回収した分も含めて全てお返し致します。
 なお、回収の手始めとして、右代宮本家の家督を受け継いだ事を示す、“右代宮家当主の指輪”を
お預かりさせて頂きました。
 封印の蝋燭にてそれを、どうかご確認くださいませ。




「これがそうだと言うのか? 親父が指輪を手放すなどあり得ん」
 蔵臼伯父さんは先程の封蝋を、穴が開くほど見つめていた。
「兄貴。腹を割ってもらうぜ。兄貴の知らない人物が親父の財産管理をしてるような事は無いのか」
「それはない! 私は当主代行として親父殿の全ての財産を把握している」
「じゃあ、蔵臼兄さんの把握していない財産って事じゃないの? つまり……」
 楼座叔母さんがそう言うのを引き継ぐ形で、秀吉伯父さんが続けた。
「お父さんの、いや、ベアトリーチェの隠し黄金や」
 ホールの魔女の肖像画の下に掲載されている、怪しげな碑文。
 その正体が、今この場で、はっきりと示されたのだ。
 真里亞は、俺たちのざわめきが静まるのを待ってから、手紙の文章を読み上げた。



 黄金の隠し場所については、既に金蔵さまが私の肖像画の下に碑文にて公示されております。
 条件は碑文を読む事が出来る者すべてに公平に。
 黄金を暴けたなら、私は全てをお返しするでしょう。
 それではどうか今宵を、金蔵さまとの知恵比べにて存分にお楽しみ下さいませ。
 今宵が知的かつ優雅な夜になるよう、心よりお祈り致しております。

 黄金の魔女ベアトリーチェ


「お父さん、聞こえているはずです! 返事をして下さい」
 ドラムみたいな勢いで、ドアの叩かれる音が響いて聞こえてくる。
 祖父さまの書斎の扉越しに、大人たちが口々に呼びかけているのだ。
 真里亞はまた、雨の降る薔薇庭園へ立ち去ってしまっていた。 
 楼座叔母さんをはじめとする大人たちに質問責めにされ、誰も信じてくれないと完全に機嫌を悪くして
しまったのだ。
 俺たちのかける声さえ無視する有様だった。
 俺は朱志香や譲治兄貴たちと別れ、窓辺から外を眺めながら、考えに耽っていた。
 その横に、つと寄ってくる人が一人。
「そんなに風は出てなさそうだけど、海の上は酷いのかしらね。天気予報では暴風警報も聞いてたんだけど」
 お袋だった。
「どんな感じ? 相変わらず、謎の魔女ベアトリーチェの話題で持ちきり?」
「そんなところね」
 軽く肩を竦めて、お袋は答える。
「ねえ、戦人。ベアトリーチェなんて人物が、本当にいると思う?」
「さあ。あくまでも偽名じゃないかな。祖父さまの代理人として、魔女の名を名乗る事を許されたとか」
「ううん、そうじゃなくて。今、この六軒島には全部で18人いるの。19人目が存在すると思う?」
 18人。
 知っている、親族と使用人の名前を数えてみると、確かに18になった。
「真里亞ちゃんに傘を貸した人物は私たち18人の中にはいない。
 なら、19人目がいて、その人物が真里亞ちゃんに傘を貸した」
「まあ、そうなるよな」
 お袋が何を言いたいのか、何となく話の方向性に気づきながらも、俺は先を促した。
「でもね、チェス盤をひっくり返して考えると、19人目はあり得ないって断言できるのよ」
 チェス盤をひっくり返す、というのはお袋の口癖だ。
 チェスや将棋などは、手に詰まった時、盤面をひっくり返すと、相手側から全体を見る事で
打開策が見える事が少なくない。
 転じて、敵の立場に立って物を考えるというような意味だ。
「仮に19人目の人物としてベアトリーチェが実在したとして。
 その人物は、誰にも知られる事なくこっそりとこの島に上陸し、ずっと隠れていた。
 なら、どうしてわざわざ姿を現して真里亞ちゃんに手紙を渡したの?
 手紙を親族会議の席上に送りたかったら、郵送すればいいだけの話。
 こっそり手渡す理由がないのよ」
「確かに……、何だかおかしな話だよな」
「つまり、19人目の人物としてベアトリーチェがいる、と印象付けたい人物の目論見は何か」
「姿を隠したい人物なら、その存在をアピールする必要は無い。
 姿を現したい人物なら、手紙を託すなんて遠回しをするわけがない。故に」
「ベアトリーチェは18人の中にいる。
 だからこそ、18人以外の人物が存在するような幻想を作り出している。
 もちろん、この推理は穴だらけのもろい物だけど」
 真里亞に傘を貸して手紙を渡したのは誰か。
 18人の全員が違うという事になった。
 にもかかわらず、ベアトリーチェは18人の中に潜んでいる。
「とにかく、真里亞ちゃんが何者に出会ったのか。
 それの詳細を聞く事が、この謎を解く一番にして最も身近な鍵。
 しかしその鍵は、彼女の心の奥に頑なに閉ざされてしまったわ。
 真里亞ちゃんは当分、少なくとも大人には心を開かないでしょうね」



★断章――右代宮真里亞――★

 誰も、真里亞がベアトリーチェに会った事を信じてくれない。
 ベアトリーチェのくれた手紙も見せたのに、それでも信じてくれない。
 ママさえ信じてくれさえすれば、他の誰も要らないのに。
 でもママは信じてくれない。いつもそう。
 真理亞が何をお願いしても聞いてくれない。
 毎日の出来事だって聞いてくれない。
 ご飯も作ってくれない。真理亞が自分で買いに行くの。
 真里亞はママに撫でてもらったり、おしゃべりをしたり、一緒にご飯を食べたりしちゃいけないの?
 真里亞は悪くないよ。ママが悪い。ママが悪い。

 ――今日も仕事が忙しくて、泊まりになってしまうの。
 ――本当に忙しいの。もうずっと会社に缶詰よ。
 ――ママの仕事は早く終わらすだけじゃ駄目なの。
 ――より良いデザインをあげないと、次から仕事をもらえない、大変な仕事なのよ。
 ――ごめんね。
 ――ごめんなさいね。

 ねえ、ママ。
 おしゃべりしようよ。お散歩に行こうよ。愛してるって言ってよ。
 次の日曜日の約束をしようよ。お買い物に行こう。映画に行こう。
 そして、その約束を……どうせ破るんだよね?
 許せない。ママは有罪だ。許せない。
 ううん、アレはママなんかじゃない。
 真里亞とママを苦しめる悪い魔女だ。
 ママの姿をしているからって許さない。
 許せるものか。許さない許さない許さない。
 真里亞の苦しみの全てを教えてやる。もっともっと教えてやる。
 まだまだ足りない、全然足りない。
 生まれた時から、生まれる前から、蔑まれてきたこの怒りと悲しみが、どうしても消せないの。
 本当は、真里亞だって知ってる。
 自分が邪魔に思われてるって知ってる。
 でも、真里亞にはママしかいない。
 それでもやはりママが好きで、ママが真理亞を愛してくれてると信じていられた日々に戻りたいから。
 認めない。否定したい。
 真里亞を信じてくれないママを、そんな事を言わせる黒き魔女を、そして、そんなママを許せない真理亞を
否定したい。
 でも否定できない。
 これが真実、真相、解答。
 見紛う事なき、絶対の現実。
 今夜は、早く眠りにつきたい。
 ベアトなら、真里亞の夢の中にでも簡単に遊びに来てくれる。
 でも出来るなら、今会いたい。ここで会いたい。遊びたい。
 だからもう少しだけ、ここで待っていよう。
 ベアトの貸してくれた傘を差して。



★断章――右代宮蔵臼――★

「どうかしっかり。あのように、お義父様の遺産を狙う輩は大勢いるのです。
 私たちはお義父様の名誉と財産を守るために、戦わなければなりません。
 それが右代宮家当主代行の仕事ですよ」
「分かってる。分かってるとも」
 私は、長々と続く妻の小言を、手を振り払って打ち切ろうとしたが、それは叶わなかった。
 やはり認めざるを得ないのか。
 私には父どころか、妻を超える度量さえ持てないのか。
 ああやって弟妹たちに虚勢を張るのが精々なのか。
 幼い頃から、ずっと父を畏怖してきた私は、その生き様に潜在的に憧れてきた。
 それを超えて初めて一人前と認められると、無意識の内に自己にそれを課してきた。
 しかし、父は右代宮家の過去の歴史の中で一度も生まれた事のない狂気の天才だったのだ。
 それは天に愛されたが故の才能であり、決して遺伝する事も、増して学び受け継げる物でもなかったのだ。
 私は結局、こうして自分の寝室で、現在の当家の経済状況について、改めての説明を求められている。
 所詮、女には関係のない話だというのに。
 妻もまた、それに立ち入るのは自分の領分ではないと、日頃は触れないようにしてくれているのだが。
 実のところ、様々な事業の軍資金や、その失敗の補填の為に、借金はかさみ続けている。
 屋敷や不動産なども担保に入れている。
 私が父の財産を担保にして借金をしている事は、事実だ。
「つまり、右代宮家の生殺与奪は、今も金貸したちの手に委ねられているわけですね」
「理屈上はそうだ。だが、取引の相手はいずれも社会的信用のある人物ばかりだ。
 私も相手を信用している。相手だって、私が事業を成功させる事を信用している。
 ここで渋ったらどうなる? 自分の事業に自信が持てない事になるだろう?」
 ――それらの事業が成功していれば、今頃借金はありませんね。
 私のそばにある顔には、そんな言葉が書かれているように見えた。
「心配する事はない。君は信じてくれんが、景気は今、確実に上向いているんだ。
 私が都心で投資した不動産価値はみるみる上昇している。
 今、それらを統合して巨大ビジネスタワーを建設する計画が進んでいる。
 これは私のこれまでの投資の中で最も確実で、最も大きな成功をしている物だ。
 これまでの借金を全て帳消しに出来る。だから信じてくれ。もう少しだけ時間が欲しいんだ」
「それが無理だと言っているのです! 私たちには、もうその時間はないのですよ?」
「分かってる、分かってるとも! だから、どこかからカネを調達して今すぐに借金を返さなくてはならない!
 とにかくカネが必要なんだ。 カネが、大量に、今すぐ!」
 痛む頭を抱える中で、先程の妙な手紙の件が脳裏をよぎった。
「そうだ、親父の隠し黄金! 10tの黄金なら200億の価値がある! この島のどこかに隠されてるはずなんだ!
 あんなの親父が作った気紛れななぞなぞなんだ! それさえあれば万事解決なんだ!」
 私は妻の腕を強く握りしめた。
 妻は顔をしかめると、私の腕を振り払った。 
「いい加減にして下さい! そしてどうか冷静になられて下さい!
 右代宮家の一大事に、そんな夢みたいな事を言い出して、どうするというのですか!
 黄金は、“あのただ一つしか存在しない”のですよ!」
 部屋の隅に、隠されたような形で置かれている金庫を、妻は指差した。
 そこには、かつて方々に手を尽くして、他の兄弟たちよりもいち早く見つけた物が納められている。
 片翼の鷲の紋章が刻印された、10kgサイズのインゴット。
 最高純度の純金インゴットでありながら、その証明である鋳造元や保証する銀行名などの刻印は一切無い。
 国内の物か国外の物かすら分からない。
 あれこそが、親父がベアトリーチェに与えられたと言い、保証人のマルソーの会長に任意で
一つを抜き取らせて持ち帰らせ、財界のフィクサー達を信用させたという、伝説のインゴットなのだ。
 あれがなければ、誰も黄金伝説を信じはしなかっただろう。
 惜しむらくは、あのただ一つしかインゴットを見つけられなかった事だ。
 せめて、もう何割かでも、手に入れる事が出来たなら……。
 私は再び頭を抱えた。
 顔を上げればまた、妻の落胆した表情を見てしまう。
 どうしてこうなってしまったのか。
 結婚して間もない頃が思い出される。 
 朱志香が生まれるまでは、香港、台湾、韓国、タイ、マレーシアと、アジアの各国を巡ったものだ。
 親父殿の好んでいたビンロウをはじめて口にした時の妻の顔は、何とも初々しかった。
 あの頃に戻れるものなら戻りたい。
 余計な事に悩まされないで済んでいた、あの頃に――。



★断章――右代宮譲治――★

 もう、朱志香ちゃんも戦人くんも眠った頃だろうか。
 真里亞ちゃんは、僕が部屋を出た時には既に寝息を立てていた。
 この場なら、誰にも邪魔される事なく、彼女と話が出来る。
 雨のそぼ降る薔薇庭園の東屋にいるのは、僕と紗代の二人きりだった。
 紗代に両親はいない。
 彼女はお祖父さまが持つ、「福音の家」という名の孤児院で育った。
 孤児院は名誉院長であるお祖父さまの下へ、優秀な院生を奉仕活動に送っていた。
 そこで認められれば、孤児院を出て右代宮家で使用人として仕える事が出来る。
 これが、院生の最大の名誉だとされていた。
 もっとも、右代宮家で使用人を長く続ける者はそう多くはない。
 多くは3年程度で辞めていくのが通例だった。
 3年も働けば社会に出る充分な準備金になる。
 なので、紗代の勤続年数は例外中の例外だと言える。
 もはや血縁すら信用できないお祖父さまにとっては、数少ない信頼できる存在だったのだ。
「――君に、見せたい物があって」
「な、何でしょうか」
 僕の言葉に、紗代はどもりながら応じる。
 譲治は自分のポケットを探って、中の物を取り出した。
 それは、濃紺のベルベット生地の小箱。
 その特徴的な形だけで、中に何が納められているかの想像は出来るはず。
 紗代も、きっとそうに違いないと心の準備はしていただろう。
 だがそれでも、それを直視する事で、顔が紅潮しているのが見て取れる。
 僕は小箱を開け、その中身を摘み取り、紗代に差し出した。
「これを君に受け取って欲しいんだ」
「こ、このような高価な物は、その、お、お受け取りできません」
「紗代。これはお願いじゃない。命令だよ? この指輪を受け取って。ね?」
「め……命令では、従わなくてはなりません」
 紗代は、真っ赤な顔を見られたくないのだろう、俯いたままで僕の手から指輪を受け取った。
「ここからはもう命令じゃない。
 紗代。明日までに、言葉でない形で返事がもらいたい。分かるね?」
「えっと、ど、どうすれば……」
「指輪は指にするものだからね。
 気に入ってくれたなら、好きな指に付けてくれればいい」
 もちろん紗代も、どうすればいいのか全て分かっている。
 でもそれは、彼女の人生にとっての大きな岐路となる。
「君に、どの指に付けてくれと命令する事も出来るかもしれない。
 君も、命令されればそれに従えるという臆病な甘えがあるかもしれない。
 でも、最後のここだけは君の、紗代の意思でしてもらいたいんだ」
「は……はい」
「だから、それが命令。今夜よく考えて、明日その返事を見せて欲しい」
 紗代は静かに頷き返した。
 これまでの交際の日々の積み重ねがあり、今日がある。
 今日のこの瞬間は、決して不意打ちではない。
 今夜が僕たちの、記念すべき夜となるんだ。
 



★断章――郷田俊朗――★

 使用人室の扉の開く音に、俺は体を硬直させた。
 親族の誰かがやって来たのかと、一瞬だけ顔を向け、同じ使用人仲間だと分かって安堵した。
 自分の趣味――クロスワードパズルの手を、わざわざ止めるほどの相手じゃない。
 そいつは、まるで最初からずっとそこに居たかのように、戸口で直立不動の姿勢で立っていた。
 小柄な小僧だ。一切合切黒ずくめの服装のせいもあって、猫のような印象を受ける。
 確か名前は嘉哉とか言ったか。
 お館様が薔薇庭園の手入れのために呼んだとか。
 俺はこの家に勤めて間もないからという事で、細かい事情は教えられていなかった。
 俺に比べれば、人生経験も及ばない未熟なガキだというのに。
 嘉哉はやはり、自分からは声をかけてこようとしなかった。
 いつも俺の方から用件を聞かなければ、話が始まらない。
「嘉哉さん。何かご用命ですか」
「伝言を承りました。もうすぐ姉さんが手伝いに来るとの事です」
「紗代さんが、ですか」
 嘉哉は紗代の事を姉と呼ぶ。
 「福音の家」の院生たちは、互いが唯一の家族であると教えられているからだ。
「それは助かります。
 そろそろ戸締りの見回りに行きたかったのですが、ここを空けてもいいものか困っていたのです。
 何しろ、旦那様の会合はまだ、だいぶ続きそうですからね。
 いつ何時、お茶のご用命があるかも分かりませんし」
「それでは、僕はこれで失礼します。お館様の元へ急がなければなりませんので」
「そうですか。分かりました」
 用が済んだらさっさと消えるってか。本当に無愛想な奴だ。
 そう思っているのが伝わったようなかのタイミングで、嘉哉は陰鬱な声で言ってきた。
「どうかお互い、安らかな夜を過ごせますように」
「はい。ありがとうございます」
 最後まで薄気味悪い奴だ。
 よりによって、「安らかな」なんて縁起でもない。
 閉められた扉越しに、思わずため息がついて出た。
 俺は残された時間を最大限に活用するべく、再び雑誌のクロスワードパズルに目を向けた。
 と、窓の向こう側に、何かが瞬いたのを見たような気がした。
 時折轟く雷鳴とは違う印象だった。
 気のせいだろうと自分に言い聞かせるのと裏腹に、あの噂話が頭から離れなくなった。
 それは、右代宮本家に仕える使用人たちの間で語り継がれている怪談。
 この屋敷には、昼と夜とで違う主がいる。
 その夜の主、ベアトリーチェは時に、黄金に輝く蝶の姿で屋敷を飛び回るという。
 そう言えば、紗代が前に見た事があるとも言っていた。
 聞いたあの時は、何かの見間違いだろうと一笑に付したが……。



 誰の上にも、いかなる所にも雨は降る。
 人々は、思惑を、葛藤を、渇望を抱えたまま、時を過ごしていく。
 ある者は寝苦しく悶えながら。ある者は泥のような眠りに沈みながら。
 何もかもが動きを止めているはずの世界で、時計の針だけが律義に拍動を刻んでいる。
 肖像画のあるホールの大時計が、朗々と鐘の音を12回、打ち鳴らした。
 文字盤の長針と短針とが重ね合わさり、そして離れていく。
 やがて島から嵐も去り、穏やかな空も戻ってくるだろう。
 その頃には、全ては終わる。全部終わる。

 そう、うみねこのなく頃に。



【1st Game  I am a witch. (後編) 】へ続く






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