1st Game  I am a witch. (後編)

★断章――呂ノ上源次――★

 私は蝶ネクタイを改めて締め直すと、カーテンの隙間から外を見た。
 昨夜に比べればほんの少しは雨脚も弱まっただろうか。
 だが、分厚い雨雲はわずかほどの朝の太陽も、その気配さえも許すつもりはないらしい。
 清々しさとは程遠い、薄暗い朝だった。
 やはり、今日いっぱいは止みそうにないか。
 ゲストハウスを出て、傘を開く。
 薔薇庭園は一晩の風雨で荒れてしまっていた。
「おはようございます……」
 通りかかった厨房で、中で準備に勤しんでいるだろう郷田に挨拶しようとしたが、その姿はなかった。
 厨房は薄暗く、換気扇すら回っていない。
 火の気もなく寒々しいままだ。
 私は壁に備え付けられている電話の受話器を取ると、夜勤用の寝室の内線番号をダイヤルしてみた。
 が、独特のツーという機械音を感じない。
 受話器を取り直してみるが、それでもいつもの機械音を聞く事は出来ない。
 ダイヤルし直してみても、何の反応も示さなかった。
 私は状況を確認しながら、奥様の部屋へ向かった。
 努めて静かに、規則的なリズムでノックを鳴らす。
「……はい」
「おはようございます、奥様。源次でございます。早朝から申し訳ございません」
 開いた扉から見られたお姿に、私は最敬礼してから事情を説明した。
「申し訳ございません。昨夜の落雷で電話機器に故障が出たようです。
 内線電話が不通になっておりますもので、直接のお伺いになってしまった事をお許し下さい」
「内線電話が不通?」
「それと……、郷田の姿が見えません。朝食の仕度もまだ行われておらず……」
「何ですって?」
 奥様は額に手を当て、ふるふると首を振った。
「郷田だけではありません。旦那様の姿もありません」
「主人が?」
「はい。まずは旦那様にご報告しようと思い、寝室をお伺いしたのですが、お姿がありませんでした。
 留弗夫さま夫妻と楼座さまのお姿もありません。それから、紗代の姿も」
 奥様と私とが客間へ行くと、絵羽さまと秀吉さまが既にいらっしゃっていた。
 問われて経緯を説明すると、絵羽さまは笑みを湛えて応じられた。
「まだ話し合いが続いてるなんて。兄さんも留弗夫もタフね。楼座の場合は若さかしら? 
 私たちは、昨夜の24時過ぎにはもう眠くてベッドに戻らせてもらったんだけど。
 確かにあの時点でもまだ兄さんたちは熱論を交わしてたわ。男って熱くなると嫌ねえ」
「大方、庭園のどこか、あるいは海岸辺りを散歩でもしているのでしょう。
 とにかく、誰でもいいから急いで朝食の準備を」
「夏妃さん、表とは限らないわよ? お父様の書斎って事はないかしら?」
 奥様は一つ頷かれてから、廊下へと足を向けられた。
「奥様。宜しければ、これをお持ち下さい」
 私は、金細工の鍵を奥様にお見せした。
 お館様の書斎の鍵である。
 書斎の扉は常にオートロックで施錠されているため、基本的に入る事は出来ない。
 私だけが、この扉の鍵を持ち、扱う事を許されている。
「お館様と話されるには、扉越しでは難しゅうございましょう」
 奥様はお礼のお言葉をおっしゃった後、靴を鳴らして書斎へと向かわれた。



★断章――右代宮夏妃―――★

 書斎の扉を叩いても、返事はなかった。
 私は意を決し、源次に借りた鍵を挿しこんで、扉を開けた。
 細く開いた扉から、溢れ出して来る甘い臭いには、どうしても顔をしかめずにはいられなかった。
 まだ休んでいるかもしれないと思い、私は音をさせないよう静かに入室した。
 お義父様は既に起きていた。
 窓から、外を見下ろしていた。
 いつもの通り、漆黒のマントをまとった、威厳ある姿だった。
「お目覚めでしたか。おはようございます」
「どうやって入ったのか」
 お義父様は背を向けたままお尋ねになった。
 その声は荒立っておらず落ち着いていたため、私は少しだけ安堵した。
 ただし、起きていたにもかかわらず、あれだけ叩いたノックを無視する程度には不機嫌だったのだ。
 私は緊張を解くわけにはいかなかった。
「申し訳ございません。源次に、書斎の鍵を借りました」
「ほう………我が友が。して、私に何用か」
「はい。もうじき朝食の準備が整いますが、是非お父様にもお出で頂きたく思いまして」
「朝食はここで摂る」
「しかし、お義父様」
「私がこの部屋を出るほどの価値はない。私は忙しいのだ。構うでない」
 最後の一言には、これ以上の問答は無用だという凄みが込められていた。
「そうですか……。分かりました。みんな残念がるでしょうが、そう伝えます」
 私は頭を下げた。お父様が発作的に激昂する前に退室しようとした時、声を掛けられた。
 普段のお義父様を思えば、まるで別人のように落ち着いた、優しい声だった。
「夏妃。右代宮の家に嫁ぎもう随分になるな」
「は、はい」
「前の家が恋しくなる事もあるか」
「いいえ。私は右代宮夏妃。帰る家も懐かしむ家も、全てはこの右代宮の家のみです」
 それは決して誇張ではなかった。
 私はそれだけの決意を持って右代宮の姓を名乗っていた。
 お義父様は軽く息を吐いてから、おっしゃった。
「蔵臼が女で、お前がその夫であったなら。………いや、それは言うまい」
「そ、それはどういう意味ですか、お父様」
 私は自分の胸が高鳴るのを感じ取った。
 お義父様は何もお答えにならなかった。
 私はお義父様の方へ向き直った。
「お義父様。この夏妃は、血は繋がらずともお義父様の娘です。
 右代宮家の名誉も栄光も全て、この夏妃が必ずや守って見せます」
 そこでお義父様は初めて、私にお顔を向けられた。
「お前の心には確かに片翼の鷲が刻まれている。
 お前は間違いなく我が血族で、右代宮家の栄光を引き継ぐ者だ」
 お義父様は再び背を向けられた。それきり、お言葉は無かった。
 けれど、私は子供の頃以来、忘れて久しい物が目元に込み上げてくるのを感じずにはいられなかった。
 私はお義父様の背中に黙礼し、部屋を後にした。



★断章――右代宮夏妃―――★

 書斎の扉を閉めて廊下に出ると、絵羽さんが階段を上がってくるのが見えて目が合った。
「あら、ちょうどいいタイミングだったわね。お父様の様子はどう? 兄さんたちはいたの?」
 絵羽さんは、先程と変わらない。にやにやと笑みを湛えている。
 私は涼やかに、右代宮本家の栄光を守る者の威厳で堂々と言ってやった。
「書斎の中にはいませんでした。下に降りて、使用人たちが探してくれるのを待ちましょう」
 絵羽さんは訝しげに書斎に近づきながらも、扉を叩くほどの勇気は無いようだった。
 私はお父様がなさっていたように、堂々とした背中を見せながら階段を下りていった。
 ぱたぱたと駆けてくる足音が聞こえた。
 源次だった。彼にしては珍しい慌てぶりだった。 
「奥様。薔薇庭園の倉庫の様子がおかしいとの事です」
「はどういう意味?」
「それが、その、何と説明すればいいのか」
 普段の彼とは到底思えない言い方だった。
 その様子に、絵羽さんも小首を傾げた。
「どういう事? 倉庫の中に兄さん達がいたんじゃないの?」
「いえ、中はこれから調べます。鍵がかかっておりますので」
 結局、倉庫へは私と源次と、絵羽さんと秀吉さんとで向かう事になった。
 薔薇庭園の倉庫は、庭園管理用の様々な園芸道具をしまっている所だ。
 決して綺麗な建物ではない。
 そのため美観的な都合から、薔薇庭園の隅に隠れるように建てられていた。
 その倉庫の、長いこと風雨に晒されているシャッターに、不気味な図形が描かれていた。
 鮮血を思わせるような赤い色のペンキによる、二重の円。
 その内側には十字をイメージさせる意匠。
 十字は上下左右の辺が広く誇張されていて、ヨーロッパ辺りの紋章を思わせた。
 そしてそれら図形の隙間には、得体の知れない文字あるいは記号が細かく書きこまれていた。
「何ちゅう悪趣味な落書きや。これ、あれか? 悪魔の儀式とかの、魔法陣ゆうやつとちゃうか?」
「これ、いつ書かれたの?」
「昨日、雨が降り出す前にここに来ましたが、その時には何も書かれてませんでした」
「源次さん。さっさとこの落書きを消して戻りましょ?
 たとえ倉庫とは言え、実家の落書きは本当に腹立たしいわ」
「はい。すぐに済ませましょう」
 源次はシャッター前にしゃがみ込み鍵を開け、力を込めて一気に引き上げた。
 騒々しい音が響き渡り、不気味な図形を描いたシャッターが上部の収納部分に飲みこまれていく。
 仮とはいえ、不吉な物が眼前から消えて、私たちは胸を撫で下ろした。



 あれだけ昨夜、盛大に騒いだだけあって、起きるのは辛かった。
 俺たちは7時過ぎまで、揃ってベッドで高いびきをしていた。
 真里亞は、起きたらママが居なかったという事に最初はむくれていたが、客間で子ども向けのテレビ番組に
巡り合えたお陰で、すっかり機嫌を直していた。
 俺は朱志香と一緒に、幼児番組にツッコミを入れて楽しんでいた。
 譲治兄貴はそのそばで、真里亞の目線で鑑賞してやっている。
 南條先生は離れたソファーに座り、読書に耽っていた。
 ……俺も持って来れば良かったな。昨日の続き。
 と、廊下から慌しい足音が聞こえてくる。
 入って来たのは源次さんだった。
 恐らく表から駆け戻ってきたのだろう、ぜいぜいと動かしている肩は、ぐっしょり濡れていて、
スマートな雰囲気ではなかった。
 源次さんは、南條先生と目を合わせ、軽く黙礼してから早足に近付いてきた。
「南條先生、申し訳ございません。至急お越し下さい」
「何事ですかな」
 源次さんが南條先生の耳元で何かを小声で伝えると、南條先生の顔色が変わった。
 出来るだけ俺たちの目を忍んでソファーを立つと、二人は静かながら早足に客間を出る。
 彼らが薔薇庭園を駆けて行くのを、窓越しに譲治兄貴が見やった。
「何かあったのかな。ひどい慌てようだったね」
「何か事故でもあったとか?」
「行ってみようぜ。俺たちだけ除け者なんて面白くねえしな」
 俺が気軽に言ってみたその言葉は、不安と関心を呼び起こした。
「おい真里亞、お前も来るか? それともテレビを見てるか?」
「真里亞はテレビがいい」
「僕たちだけで行こう。真里亞ちゃん、すぐ戻るからね」
「うん」



 俺たちは朱志香に先導され、雨に濡れる薔薇庭園を駆け抜けた。
 風が急に強くなった気がした。
 雷鳴もまた、昨夜のように騒ぎ出している。
 その向こうに、朱志香はよく知る園芸倉庫が見えてくる。
 倉庫のシャッターは開き、大人たちが何かを物色しているように見える。
 夏妃伯母さんだけは倉庫の外で、傘も差さずに立ちつくしていた。
 俺たちに気づくと、物凄い形相を浮かべながら、両手を広げて、こちらへ駆けて来た。
「来てはいけません! お屋敷へ戻っていなさい!」
 でも。
 だからこそ。
 俺たちは夏妃伯母さんが遠ざけようとするその光景を見てしまった。
 シャッターの開け放たれた倉庫内。
 頼りない蛍光灯で照らし出されているその場所で、朱志香の絹を裂くような悲鳴が響きわたった。
 ただそれは、朱志香の悲鳴が一番大きかったというだけの事で、俺たち三人から等しく零れた物だった。
 絵羽伯母さんが両手を広げながら、俺たちに怒鳴りつけている。
「譲治、みんなを連れて屋敷に帰っていなさい! 早く!」
 夏妃伯母さんが両手を広げた時、それはこれ以上先に進ませないための物だと思った。
 だけど、今、絵羽伯母さんが両手を広げているのはそのためじゃない。
 そこにある惨状を、せめて自分の腕一本分でも視界を遮って、俺たちの瞳と心を庇おうという心からだ。
「何の冗談だってんだよ、これは……?」
 こんな光景、今日まで散々読んでた。見てた。楽しんでた。
 小説で、漫画で、映画で、テレビで、いくらでも味わってきた。
 だから、そういう過激なグロ画像がが、ただ目の前に現れたってだけの事だ。
 分かってる。あの人影は、うちの親父だよな。あっちは蔵臼伯父さんだ。
 それにお袋に、楼座叔母さんに。それに。
「お父さん、お父さん!」
「駄目よ朱志香! 入っては駄目!」
 夏妃伯母さんの腕の中で、朱志香はお父さんお父さんと喚き続けている。
 南条先生の、努めて冷静になろうとしている説明が聞こえる。
「死後硬直をほぼ全身に認められる。たぶん死後6時間以上は経過しとるだろう。
 損壊部位の状況を見る限り、死後に破壊された可能性が高い。
 いや、私は町医者だから、検死は専門外だが……」
「ちゅう事は何や。殺しただけじゃ飽き足らず、更にこんな無体な事をしたんゆうんか!
 悪魔や、悪魔の所業や!」
 夏妃伯母さんは朱志香を、絵羽伯母さんは譲治兄貴を抱きとめているので、俺だけが倉庫の入り口まで
辿り着けた。
 ああ、俺にも、ああやって引き止めてくれる人がいれば、こんな光景を、目に焼き付けずに済んだだろうに。
 否。
 俺を引き止めてくれる人がいないから、ここにいるんじゃない。
 引き止めてくれる人がそこにいるから、ここにいるんだ。
 朱志香の言っていた通り、そこは確かに園芸道具をしまっておく倉庫のようだった。
 草刈機やその替え刃、草刈鎌や金槌、鋸などの大工道具。
 積み重ねられた植木鉢や肥料の袋。
 それらと同じ扱いのように、何人もの死体が、放りこまれていた。
 服装で分かる。
 うちの親父、お袋、蔵臼伯父さん、楼座叔母さん。
 その奥は、郷田さん……まだいるのか?
 何人死んでんだよ。ふざけんなよ。片手じゃ折る指が足りねえぞ。
「死者ってのは安らかに眠る顔ってやつを拝ませてくれるんじゃねえのかよ!?」
 とうとう堪えきれずに叫んだ。
 だってさ。
 見たくても、無いんだぜ?
 顔が。親父の顔が。お袋の顔が。


 ――みんなみんなみんなみんな、滅多切りに、ツブサレテイルカラ――。





 へたりこんだ俺や、泣きじゃくる朱志香に比べ、一段冷静だったのが譲治の兄貴だった
「お父さん。死……倒れているのは、蔵臼伯父さん、留弗夫叔父さん、霧江叔母さん、楼座叔母さん、
郷田さんの、五人?」
「いや。六人や。こっちに、もう一人おる」
 秀吉伯父さんが覗きこんだ場所は、荷物の山奥の物陰で、俺たちからは死角だった。
「お父さんの足元に倒れているのは、紗代なんだね」
「ああ」
 譲治兄貴は、唇を噛みながら、小さく震えた。
「紗代も、蔵臼伯父さんたちと、同じなのかな」
 秀吉伯父さんは、答えなかった。
 それが唯一の返事だった。
 彼女も、同じような惨い遺体なのだ。
「譲治。お前が最後に紗代ちゃんに会ったのは昨日か?」
「うん」
「紗代ちゃんは、別れ際にお前にどんな顔を見せたんや」
「………………素敵な笑顔だったよ」
「なら、紗代ちゃんも、その笑顔をお前に残したいと願うはずや」
 秀吉伯父さんは、足元の紗代ちゃんを見下ろしていた。
 譲治兄貴は倉庫の外の壁に、力なく寄りかかった。
「父さん。僕の代わりに見て欲しいんだ。紗代は指に、指輪を付けてるかな」
「指輪?」
 秀吉伯父さんはしゃがみ込んだ。
「ああ、あるで。ダイヤの指輪や」
「どっちの手の、どの指にあるのかな」
「左手の薬指や」
「譲治。あなた、まさか、」
「絵羽。今はそんなん関係ないで! いつ誰からこの指輪をもらったんかは知らん。
 とにかく紗代ちゃんは、それを受け容れ、左の薬指に通したんや」
 譲治兄貴と紗代ちゃんの仲を知る者だったなら、その言葉で全て理解できた。



「源次。すぐに警察に連絡しなさい。
 台風が通り過ぎるまでは来られないでしょうが、どうすればいいか指示を与えてくれるはずです」
「分かりました。防災用の無線機がありますのでそれで連絡します」
「それから……、せめて主人たちの顔を何かで覆ってやる事は出来ませんか。
 このような姿を晒す事は、当人にとっても屈辱的でしょうから」
「はい」
 源次さんが、倉庫内に干してあった手ぬぐいを数枚、手に取ると、絵羽伯母さんが甲高い声で制した。
「ちょっとちょっと! お待ちなさいよ。ここは犯行現場なんでしょ?
 なら変に手を加えちゃ駄目よ。私たちは混乱してて現場に土足で踏み入っちゃったけど、それはきっと
警察の捜査の邪魔になったわよ?」
 極めて客観的で、冷静で、正しい意見だった。
 この状況は断じて事故などではない。殺人事件なのだ。
「そうですね。――分かりました。ここを閉ざしなさい。 それから念のため、ここに別の施錠をするように」
「別の施錠?」
「ええ。ここに来た時、シャッターの鍵は閉じていました。
 つまり、犯人はシャッターの鍵を使って施錠したという事です」
「源次さん。この倉庫の鍵は他にもあるんか?」
「いいえ。この一つだけです」
「なら、犯人はその鍵をわざわざ使用人室から持ち出しといて、そのくせ律儀に、元の場所に戻したっちゅう
事になるな?」
 秀吉伯父さんの話はもっともで、考えてみればおかしな話だった。
 奪った鍵をなぜわざわざ元通りに戻したのか。
 更に考えてみれば、まだ奇妙な点が見えてくる。
 犯人が死体を隠すのは普通、犯行発覚を遅らせ、その隙に遠方に逃げるための時間稼ぎだ。
 だが、シャッターに書かれたという不気味な図の落書きは、ここに死体が隠してある事を雄弁に
物語っている。
 まるで、ここにある死体を見つけてくれと言わんばかりなのだ……。
 源次さんは倉庫内を漁ると、小さな箱に入った新品の南京錠を開封した。
「鍵はどうなさいますか?」
「私が持ちましょう。責任を持って警察に手渡します。」
 源次さんの手から、南京錠の鍵が夏妃伯母さんに手渡された。



 聞こえるのは、雨の音と、真里亞が見続けているテレビの幼児番組の音声、そしてそれに夢中で
けたけたと笑い続けている真里亞の声だけだった。
 だからつまり、この世の物とは思えない惨状を目にして呆然としながら帰ってきた俺たちを迎えたのは、
テレビに笑い転げる真里亞の笑い声だった事になる。
 俺たちは、彼女の母親――楼座叔母さんの死を何と伝えればいいか分からず、息苦しく沈黙していた。
 そんな雰囲気だからこそか、夏妃伯母さんは普段と変わらぬ態度のように見せていた。
「私はお父様の所へ行ってきます。源次は急ぎ、警察へ連絡を」
「かしこまりました」
「私も一緒させて頂いていいかしら、夏妃さん?
 蔵臼兄さんがいなくなった以上、お父様の補佐は私の仕事だもの。
 その私が夏妃さんに任せっきりでここで寛いでるわけにはいかないわ」
「……お好きになさるといいでしょう」
 夏妃伯母さんはそれ以上、何も言わず、先に歩き出した。
 その後に絵羽伯母さんも付いて行った。
 残った一同の中から、南條先生が進み出て、真里亞の前にひざをついた。
「真里亞さん。ショックだろうが聞いて下さい。あなたのお母さんが………死んでしまいました」
「ママが死んじゃった?」
 本当にきょとんとした言い方。
 まるでテレビドラマの登場人物の話をしているように他人事だった。
 それが朱志香には気に入らなかったんだろう。牙をむいて真里亞に食ってかかった。
「死んじまったぜ、みんなみんな! 私の親父も、戦人の父さんと母さんも!
 郷田さんも紗代も! そして真里亞の母さんも!」
「よすんだ、朱志香ちゃん……! 悲しいのは君だけじゃない…!」
「………………何人、死んじゃった?」
「六人だぜ、六人だ! くそくそくそ、あんな残酷な事しやがって!
 誰だか知らねえが、犯人は人間じゃねぇぜ!」
「………犯人は人間じゃない。――が選んだ―――なだけ」
「え? おい真里亞、今、何て言った?」
 今、真里亞は何か言ったが、それが、会話の流れから想定される単語から大きくかけ離れていたため、
一瞬、意味を理解できなかった。
 それをもう一度聞きなおそうとした時、客間に熊沢の婆ちゃんが駆けこんで来た。
「あ、あの、食堂に、血が、血が……!」
 客間にいた全員の耳がびくりと震えた。 
「朝食の準備に、食堂に配膳に行ったら、あわわわわわ……わわ………」
 俺たちは次々に食堂に飛びこんだが、熊沢の婆ちゃんが真っ青になるほどの変化は見つけられなかった。
 後から来た熊沢の婆ちゃんが指差して教えてくれた。
 確かに、床に血の跡が残っていたのである。
「ここにも血溜まりがあるよ。これは一体……」
「だいぶ時間が経っているように見えますな。恐らく昨夜、ここで殺されたんだと見て良いでしょう」
「父さんたちが打ち合わせを抜けて休んだのは何時だっけ?」
「昨夜の24時を少し過ぎたくらいの頃や。だからその後に、と考えるんが妥当やろな」
「秀吉伯父さん。この部屋は多分、警察にとって重要な意味があると思います。
 俺たちが踏み荒らしちまうのはマズイじゃないんですか?」
「わしも同感や。この部屋には犯人の痕跡が残っとるかも分からんしな!
 素人のわしらがかき回すべきとちゃうで。早う出るんや。早う早う!」
 その言葉に逆らう者はいなかった。
 皆、先を争うように食堂を後にした。
 まるで、最後の人はこの部屋に閉じこめられてしまうかのように。



 客間に戻った俺たちは、例のシャッターに描かれていたという図について話し合った。
 秀吉伯父さんは、それを思い出しながら、真里亞のノートの余白にそれを書き出している。
「多分こんな感じやったと思うで。 十字架をアレンジしたみたいなマークが描かれとったんや。
 で、こんな感じで外周の円を取り囲むように妙な文字がびっしり書きこまれてて、十字架の上下左右の辺と、
その四隅にも何か書かれてたんや。
 アルファベットとかそういうのと違う。 あれはよく言う古代文字とかいうやつや」
「あと、円周部の頂点に小さなマークがありましたな。
 小さな丸を五つ、十字状に並べ、それぞれを直線で結んだようなマークでした」
「ああ、確かにそんなのも描いてあったで。
 うん、図形的には間違いなくこれや。細かい文字はわからんが、配列はほぼ同じや」
 その図形を、俺も覗きこんでみた。
 聞く話では、こいつがあの倉庫のシャッターに、血みたいな塗料か何かでべったり描かれていたらしい。
「こんな図形に、何か心当たりはあるかい?」
「………………」
 真里亞は真剣な顔をして図形に見入っている。
 やがて彼女は……何とも形容しがたい笑みを浮かべた。
 まるで、皆の無知さ加減を馬鹿にするような、そんな笑い。
「これは太陽の七の魔法円だよ。書かれてる文字はヘブライ語。貸して?」
「あ、ああ」
 呆気に取られる秀吉伯父さんの手から、真里亞は筆記用具を奪った。
 秀吉伯父さんの描いた図の隣に、さらさらと正解を描いていく。
「天地と左右に書かれているのは風火水土を司る天使たちの名。斜め四方には四大の王たちの名」
 秀吉伯父さんと南條先生はうんうんと何度も頷いた。
 真里亞は続いて、円周部にもヘブライ語をぐるりと書きこんでいった。
「旧約聖書の詩篇、第116編の16節と17節だよ。聖書くらい読んでなきゃ。きひひひひ」
 知っている事が当たり前であるかのように、真里亞は笑った。
 やがて譲治の兄貴が我に帰り、ようやく言葉を口にした。
「凄いね。驚いたよ。それでこの、魔法円、にはどんな意味があるんだい?」
「太陽の力を借りる魔法円だよ。黄金で描き護符にして身につけた者は、
いかなる牢獄であろうとも束縛から逃れ、自由を得られる力を授けられる。
 この束縛という意味は、何も肉体的なものだけを指さない。
 しがらみや逃れ得ぬ運命など、精神的な束縛からの解放も意味してるんだよ」
「しかしさっぱり分からん。それとあの六人の遺体とどんな関係があるっちゅうんや」
「別にその六人のために魔法円が描かれてるわけじゃないね。
 魔法円のために、六人はそこにいるの。お気の毒だよ」
 真里亞は、人差し指を立てて、小馬鹿にするような仕草で振ってみせた。
「それは円周部に書いてるよ。詩篇、第116編、16節と17節。
 “主は私の枷を解かれました。
 私はあなたに感謝の生贄を捧げ、主の御名を呼ぶでしょう。”

 この魔法円はご利益の代償として生贄を捧げると言っている。
 そして、この魔法円が描かれた倉庫の中には生贄が捧げられていた。
 同じ想像には、やや遅れて全員が至ったらしい。
 ある者は呆然とし、ある者は狂っていると吐き捨てながら拳を膝に打ちつける。
 そんな下らねえ事の生贄に親父たちは殺されたのか?
 これなら遺産が絡んでどうのこうのって方がよっぽどマシだ!



 そこへ源次さん、夏妃伯母さん、絵羽伯母さんが戻って来た。
「警察に連絡はつきましたか」
「それが、申し訳ございません。無線機の故障か、それ以外の理由による物か分かりませんが」
「無線でも連絡できないなんて……こんな時に使えなくて、何のための防災無線ですか!」
「申し訳ございません。毎年、保守点検はさせているはずなのですが…。」
「光をチカチカさせるみたいな船舶信号ってあるじゃない?
 そういうので向こうの島に連絡する事は出来ないのかしら?」
「そのような設備はございません。申し訳ございません。
 明日月曜の朝に船が来る事になっていますので、その船の通信機を借りる事が出来ると思います」
「この島には船はないんか? 新島の警察署までちょっくら行ってくる事はでけんのか」
「秀吉さん、この天気では無理だ。少なくとも、台風が通り過ぎるまではどうにもなりません」
「蔵臼さまのボートは今、修理中で島にありません。ですので、月曜の船を待つ他ないかと」
「って事はつまり、親父たちを殺した犯人も、この島から出られず、足止めって事だな」
「それから、そうや絵羽、お義父さんはどうなんや」
「いないわ。部屋は空っぽだったのよ」
「とにかく気まぐれな方ですから、現状をご存知なく、お一人で散歩をされている可能性もあります」
 六人が無惨な死体で発見され、祖父さまの姿が見えない。
 その上、電話は故障し、無線も通じず、警察にも連絡が取れない。
 台風も明日には去り、船も来てくれるらしいが、それまでこの島は、外部の誰にも頼れず、
誰も逃げ出す事も出来ない。
 重苦しい沈黙と焦燥感。
 何かをしなくてはならないのに、何も思いつかず、ある者はイラつき、ある者は頭を抱えるばかりだった。



 俺は絵羽伯母さんの所へ行き、向かいのソファーに腰を下ろした。
「戦人くんは強いわね。もうだいぶしっかりしているように見えるわよ。
 あの子……留弗夫も昔から、激しく喜んだり悲しんだり怒ったりしたけれど、すぐにケロリと平静を
取り戻したわ」
「そんな事はないですよ。
 俺だって、まだまだ心のショックから立ち直れちゃいません。
 ただ俺が皆と違うのは、それによってどういう感情が生み出されるかって事だと思います」
 俺は譲治兄貴や朱志香に比べたら、ずっと涼しそうに振舞っている。
 それは悲しみが、別の感情に徐々にすり替わっていったからだ。
「悲しいっていうより、腹立たしいって気持ちなんですよ。
 どこのどいつがこんな事をしやがったのか。
 横っ面に一発お見舞いしてやらない事には腹の虫が治まらないんです」
 それが、俺の本音だった。
「親父たちが殺されて以降、この島は台風に包まれたままです。
 つまり犯人は、まだこの島の中にいるって事です」
「そういう事になるわね。今も暗い森のどこかに身を潜めているのかしら?」
 よく似た話題を、昨夜、ここでお袋とした気がする。
「昨夜、お袋と、ベアトリーチェは実在するんだろうかって話をしたんですけど、お袋は俺たち18人の中に
ベアトリーチェがいるだろうと言ってましたね」
「そんなの当然じゃない。この島には私たち18人しかいない。
 なら、ベアトリーチェを騙るのも18人の中の誰かしかいないじゃない」
 ただ、そうだとすると、非常に嫌な話になる。
「19人目がいないなら。親父たちを殺した犯人も18人の中にいるって事になる。
 つまり、今この屋敷にいる誰かが殺したって事になる」
 絵羽伯母さんは意味あり気に笑った。
「犯人は倉庫の中に六人の遺体を運びこんだわ。
 でも、あのシャッターは常に閉められていて、施錠されていたそうよ?」
「鍵は使用人室の一つしかないんですかね」
「源次さんはそうだと言ってるわ。
 という事は、犯人はそのたった1つの倉庫の鍵の在り処を知っていて持ち出した。
 もっとはっきり言うわ。犯人は使用人室の内部にも熟知している」
 となると、普段、使用人室に出入りしていて、鍵の所在などについて熟知している人間が犯人という事になる。
 だが、使用人室には普通、家人は入らない。
「って事は、使用人の誰かが、犯人……」
「犯人、ううん、犯人たちは複数だと考えられるわ。
 食堂にいた兄さんたち四人を一度に襲って殺し、合計六人分の遺体を遥々と薔薇庭園の向こうの倉庫まで
運んでる。
 これだけの事を単独犯で行えるはずもないでしょう?」
「って事は絵羽伯母さんは、使用人の人たちが皆グルだって言ってるんですか」
「憶測で言っちゃ悪いわよ。でも、もし本当にそうだったら、彼らは私たちを生かして帰さないでしょうね」
 俺は、親父たちを殺した犯人を、警察よりも早く暴きたいと思っていた。
 もし見事に犯人を看破できたなら、その証拠を突きつけたかった。
 そうすれば、よくある探偵映画みたいに、犯人は観念して降参すると思ってきた。
 たぶん絵羽伯母さんも、その辺りの小説をいくつか読んだ事があるのだろう。 
 しかし、今この島で起こっている事件の犯人たちは、島に残った人間全員を皆殺しにする事すら
可能かもしれない。
 しかもこの島は台風によって切り取られた巨大な密室で、殺す時間も、何かの工作や偽装をする時間も、
明日までたっぷり丸一日あるのだ。



「……………だから、気に入らないんですよね」
 俺は、自分の中の違和感をどうしても拭えなかった。
 お袋に習った“チェス盤理論”で考えると、だからこそ使用人が犯人という事はあり得ないのだ。
 本当に使用人たちが犯人なら、自分たちの縁のある場所には遺体を隠さない。
 彼らにとって百害はあっても一利はないのだ。
 だいたい、遺体が見つかれば、警察への通報とか、残った人間たちが用心深くなるとか、犯人探しを
始めるとか、とにかく犯人にとって居心地のよくなる事は何一つ起こらない。
 最近読んだ小説でも、誰かが言ってた。
 完全犯罪ってのは、“起承転結の「起」”を起こさない事が肝要だと。
 そこで“チェス盤をひっくり返す。”
 つまり犯人にとっては、殺す事そのものよりも、あそこに六人の死体を用意する方が意味があったって
事になる。
 つまり、犯人はこの殺人を誇示している。
  殺された六人は、今、生き残っている人たち全員にとって、みんな何らかのつながりがある。
 蔵臼伯父さんの死は、朱志香の一家に悲しみを与えた。
 俺の親父とお袋の死は、俺に悲しみを与え、楼座叔母さんの死は真里亞に悲しみを与えた。
 郷田さんの死は使用人仲間に衝撃を与えただろうし、紗代ちゃんの死は、婚約した譲治兄貴に
悲しみを与えた。
 絵羽伯母さんは、使用人たちがグルだと言ったが、なら郷田さんや紗代ちゃんの遺体はどう説明するのか。
 そもそも、この殺人で誰が得をするのかという動機の線から疑うと、絵羽伯母さんは最も怪しい人物に
浮上する。
「戦人くんが何を考えてるか、伯母さん分かるわよ?」
「え?」
「私が、この殺人で一番得をする。
 今や、四兄弟は私ひとり。右代宮家の全財産は全て私の物になる。
 だからこの殺人は、私の立場から見れば、私を疑わせるための物ではないかと思ってるの。
 困った事に、昨夜のアリバイは弱いわ」
「聞かせてもらってもいいですか。昨夜の事を」
「戦人くん達も知っている通り、兄弟の話し合いは深夜まで続いたわ。
 でも、何時まで続いたかは知らない。私と主人は朝が早かったからね。
 もう眠くて眠くて、24時を過ぎた辺りで抜けさせてもらったの」
「それを、秀吉伯父さん以外の誰かに証明できますか?」
「証明になるか分からないけれど、寝る前に、源次さんに出迎えを受けてるわ。
 もっとも、私の仮説通り、使用人たちもグルなのだとしたら、こんなのアリバイにならないけどね?」
 絵羽伯母さんは、小首を傾げて笑った。
「でも、私の名誉のために言わせてもらうけど、遺産目当てだったなら、こんな変な殺人はしないわよ?
 だって、遺産相続権を喪失させるだけなら、むしろ事故死に見せかけた方がスマートでしょう?」
 使用人たちが疑わしく思えるのが容易なように、絵羽伯母さんを疑わしく思うのもとても容易だ。
 なら“チェス盤をひっくり返したら、”容易に疑えてしまう絵羽伯母さんでもあり得ないのか?
 ……わからない……わからない……。
 チェス盤をひっくり返す度に、表と裏が何度も行ったり来たり……。
 俺の思考は真相に近付いているのか。
 ……それとも……。



 昨日から何かが狂っている。
 昨夜の晩餐で真里亞が読み上げた、魔女ベアトリーチェの手紙。
 あの時から俺たちは、否、この屋敷やこの島が、何か奇妙な世界に取りこまれ始めている気がする。
 そう。思い返せば、あの手紙は魔女の誘いだったのだ。
 この島の夜の支配者が、昼間の俺たちを、もう一つの世界へ招待したのだ。
 電話も無線も途絶し、台風に閉ざされたこの島は、今や切り取られた異世界とすら言い切れる。
 今のこの島じゃ、魔女が手紙を送り、生贄が捧げられるのが当たり前ってわけだ。
 次は何が起こるってんだ?
 山羊の仮面でも被ったおかしな連中が盆踊りでも始めるってのかよ。
 その後、俺たちは、熊沢の婆ちゃんが作ってくれた食事を、客間でぼそぼそと食べた。
 もちろん、あんな事があった後だ。
 誰だって食欲など湧かない。
 でも、食べなければ体が参ってしまうのは理屈で分かっている。
 それに作ってくれた熊沢の婆ちゃんにも悪い。
 郷田さんが、凝りに凝った料理のために取り寄せただろう珍しい西洋野菜は、熊沢の婆ちゃんによって
和風に料理され、違和感のある彩りとなっていた。
 これらの材料によって、郷田さんがどんな料理を作るつもりだったのか。
 今となっては想像する事も出来ない。
 それを想像すれば、郷田さんの死に様が蘇り、口の中が酸っぱい何かで満たされる。
 皆は一応、食べるふりだけするのだが、箸が進むはずもなかった。



 風雨は強くも弱くもならず、この島を異界に切り離したままだ。
 食事の後、俺は便所に行きたいと言い張って、廊下へと歩いて行った。
 夏妃伯母さんは当初、全員を部屋に集めて誰も一歩も出さないつもりらしかったが、さすがにそれは無理だと、
ようやく気づいたようだった。
 厨房の扉の向こうから、食器を洗っている水音が聞こえてくる。
 話している声は、熊沢の婆ちゃんと源次さんと、それからもう一人。
 名前は、さっき朱志香に教えてもらった。嘉哉くんだったっけ。
 その嘉哉くんの声が、小さく響いた。
「姉さん……。どうして……姉さんが……」
「紗代の事は忘れなさい。………過ぎた事だ」
「…………そうですね。……ただ、過ぎた事です……」
 二人は再び沈黙した。
「紗代ちゃんにもう会えないなんて。未だに信じられませんよ。本当に可哀想に」
 熊沢の婆ちゃんは皿洗いの音と共に言った。
「どうしてベアトリーチェさまは姉さんを……。
 生贄が欲しかったなら、他にも大勢いただろうに。どうして……、どうして……!」
「全ては運命だ。少しの運が違えば、紗代の代わりにあそこに横たわっていたのは、私だったかもしれない。
 あるいは他の誰かだったのかもしれない」
「どうして、奥様は生贄を免れたんだ。
 もし奥様が選ばれてたなら、姉さんは……姉さんは死ななくて済んだのに」
「面白そうな話じゃねえか。俺も交ぜてくれよ」
 俺がいる事に気づいた二人は、驚いて振り返った。
 二人は、入口近くの椅子に座っていた。
「戦人さま。これは失礼いたしました」
 源次さんと嘉哉くんは立ち上がり、慌てて頭を下げた。
 だが俺にとってはそんなのはどうでもいい。
「単刀直入に聞く。ベアトリーチェってのは何者だ? どうやらお伽噺の魔女、ってだけじゃなさそうだな」
 嘉哉くんは大きく顔を逸らした。
 俺は努めて笑顔を見せながら、嘉哉くんに詰め寄った。
「昨夜までなら俺は無関係さ。だがな、今朝からは違う。
 親父たちを殺された時点で、俺は立派な関係者だ。
 俺にもその胡散臭そうな話を聞かせてもらう資格があるはずだぜ?」
 それでも苦しそうに逸らし続ける嘉哉くんの目を睨みつけてやる。
 かぶる帽子や長めの前髪に隠れているその目が、誰かに似ていた。
 更に嘉哉くんの胸倉を捻りあげようとすると、源次さんが割って入った。
「分かりました。何でもお聞き下さい。お話しします」
「じゃあ聞くぜ。ベアトリーチェってのは一体何なんだ」
「ベアトリーチェさまは、六軒島の森に住まわれる魔女であらせられます。
 お館様がこの島にお屋敷を構える以前から、ずっとお仕えしている方でございます」
「ベアトリーチェさまは、お館様に莫大な黄金を授け、長いことお側にお仕えした、実在する方なのです」
 答えた源次さんも、嘉哉くんも、食器を洗う手を止めた熊沢の婆ちゃんも、全員、真顔だった。
「なるほど。そいつは今、この島にいるんだな?」
「はい。いらっしゃっていると思います。」
「って事は、昨日今日、そいつの顔を見たってわけじゃなさそうだな」
 すると、熊沢の婆ちゃんが言った。
「ほっほっほ。お顔を見ようにも、ベアトリーチェさまにはお姿がありませんから」
「何だって?」
「ベアトリーチェさまには、お体がありません。ベアトリーチェさまがお望みにならない限り、
私どもにはお姿を見る事すら叶いません」
「人の姿をされていた頃の絵が、あの肖像画なのだとか。ほっほっほ……」
「ベアトリーチェさまは時折、輝く蝶の姿に身を変えられて現れる事があります。
 万一、お屋敷の中でお見掛けした場合には、決してその後を追ってはならない決まりです。
 その禁を破り、大怪我をして辞めた使用人も実際にいます」
「おいおい、マジかよ。あんたら本気でそんな話をしてんのかよ?」
「戦人さま。ベアトリーチェさまを冒涜する事はお止め下さい」
「分かりませんか、戦人さま。ベアトリーチェさまは、今既に、ここにお越しになっております」
 使用人たち三人の目に、冗談めいた物は欠片ほども見当たらない。
「戦人さま。ベアトリーチェさまは“い”るんですよ?」
 あの、いつも朗らかで人をからかってばかりいる熊沢の婆ちゃんが、今まで一度も聞いた事のない、
乾ききった声でそう言った。



「きひひひひひひ」
 その時、薄気味悪い笑い声が厨房に響き渡った。
 振り返れば、入口に真里亞の姿があった。
「戦人お兄ちゃんは、生まれつき波長が合わないタイプなんだよ。だから見えない、会えない、話せない」
 真里亞はさもおかしそうに、だけれども不気味に笑う。
「ベアトリーチェの事が知りたい?
 ベアトリーチェはね、千年の魔女なんだよ。
 あらゆる悪魔を使役し、錬金術を究め賢者の石を生み出し莫大な黄金を生み出せる。
 お祖父さまは彼女と契約することで右代宮家に莫大な富を築いたんだよ。
 昨日、真里亞がベアトリーチェの手紙を読んだでしょ? あれはホントウなんだよ」
「何だよそれ。魔女、悪魔? そんなの誰に聞いたんだよ」
「ベアトリーチェ本人に聞いたんだよ。きひひひひひひ」
 あの、玄関ホールに飾ってある肖像画の魔女に聞いたと。
 そこでピタリと、真里亞は笑いを止めた。
「戦人お兄ちゃん。まだ分かんない? ベアトリーチェが“い”るのが」
「“い”るって、………どこにさ」
「だからベアトリーチェが、ここに、“い”るのが」
 俺は唾を飲みこみながら、ゆっくりと背後を、肩越しに見る。
 もちろん、そこに誰がいるわけもない。
 そんな事は最初からずっと承知してる!
「ベアトリーチェは千年を生きた偉大な、黄金の魔女。
 でも、波長の合う人間にしか自分の姿を見せられないし、話しかけられない。
 だからね? それがとても悲しいんだよ。
 だから、戦人みたいな、生まれつき魔法のセンスもカケラもない人に、存在を否定されるのが物凄く
嫌いなんだよ……!」
 ぷ。
 とうとう、そこで笑いが堰を切った。
 魔女ごっこも確かに面白いが、こちとら最後まで付き合うつもりはないぜ。
「ふっはっはっはっは。全然駄目だぜ、真里亞? ああ全然駄目だ」
 突然笑い出した俺に、真里亞が不快そうになってるのが分かる。
「俺が今この瞬間も無事である事。
 魔女さまを冒涜したっていう呪いがあって当然なのにだ。
 これが唯一絶対の事実さ。
 俺は自分の目で見た物しか信じねえ。
 あんたらがいくら祖父さまに給料もらってるか知らねえが、俺を妙な宗教に勧誘しようったって、
そう簡単には行かねえって事、よく肝に銘じておきやがれってんだ」
「戦人さま……」
「嘉哉くんたちが信じるのは自由だぜ。だが、俺が信じるかどうかは、常に・俺が・自分で決めるッ!」
 すると真里亞が再び笑い出した。
「ならそれでいいんじゃない? いずれ、お前のような、波長が全然合わない人にもベアトリーチェは
見えるようになる。
 そうしたら、一緒にいっぱいお話をしたり遊んだりしようって、約束してるんだよ。
 疑う必要も、無理に信じる必要もまったくない。現れるんだよ、もうじきね」



 客間の中は静まり返っていた。
 みんな、思い思いのソファーに腰を沈め、何かを考えこんだり、イラついたり、落ちこんだりしている。
 真里亞はさっきからずっとそうであったかのように、再びテレビの前に戻り観賞を続けている。
 しかし、夏妃伯母さんたちは遅いな。
 今は、夏妃伯母さんが使用人たちと屋敷内の見回りをしているところだったか。
 確かに狭くはない屋敷だが、戸締りを見て回るだけにしては少し時間を掛け過ぎではないだろうか。
 そう思った頃、夏妃伯母さんたちは帰ってきた。
 誰かが欠けていたりはしない。
 安心しようとしたのも束の間。全員がぎょっとして夏妃伯母さんを見た。
「驚かせてしまいましたね。万が一に備えて持ってきた物です」
 夏妃伯母さんが手にしていたのは、ライフルのような銃だったからだ。
 短めな猟銃といったようなシルエット。
 その重厚感は、断じて玩具ではない事を語っている。
「それは金蔵さんの銃ですな?」
「ご存知でしたか。お父様の古いコレクションの中にあった事を思い出し、探し出してきました。」
「あら懐かしい。お父様は昔、西部劇にどっぷり浸かってた事があってね。
あの世代はこういう銃が大好きなのよ」
「わしも思い出したわ、その銃! 拳銃宿無しでスチーム・マックィーンがぶっ放しとったやつや!
 お義父さんも渋いなあ」
「お館様が昔、アメリカより特別に取り寄せさせた物です。
 ご覧の通り実銃ですので、どうかこの件はご内密にお願いいたします」
「手に入れられたばかりの頃は、大層気に入られておりまして。
 撃つより、薬莢を出す動作が面白いらしくて、裏の森で遊んでおられたもんですよ。ほっほっほっほ」
「でも物騒ね。そんな物まで持ち出しちゃうの?」
「万一に備えてです。私には主人に代わって、皆さんを明日まで守る義務がありますので」
 夏妃伯母さんはそう言うと、どっかりとソファーに腰を下ろし大きく溜め息をついた。
 夏妃伯母さんは、犯人は外にいると思っている。
 絵羽伯母さんは、犯人は内にいると思っている。
 それはつまり、19人目の存在を認めるか、否かという事。
 俺たちの中に犯人はいるのか、いないのか。
 魔女ベアトリーチェは存在するのか、しないのか。
 魔女なんて存在しないと何度も繰り返す。
 なら、この中に、犯人がいるのだ。
 いつ止むとも知れぬ雨音の中で、俺たちは沈黙を拭えない。



「朱志香。ベアトリーチェの話ってのは、俺の認識では、森に子供たちが迷いこまないようにって作った、
大人の脅し話だって事になってるが。この屋敷じゃ違うのか?」
「私も戦人と同じ意見だぜ? 子どもに言う事を聞かせるために親が作った話だと思ってる。
 でも、そうだと口には出来ない空気が屋敷内にある事は否めないな」
「お祖父さまが、ベアトリーチェは存在すると公言されているからね。
 このお屋敷でベアトリーチェの存在を疑うのは、ある種のタブーだと思うんだよ。
 年に一度しか来ない僕たちと違ってね」
 朱志香は感服したかのように大きく息を漏らした。
「譲治兄さんの言う通りだぜ。ほら、神様の存在を認めるような、そんな雰囲気だよ。
 実際にはいないと知ってても、それを口に出して否定したら野暮みたいな空気」
「使用人たちの間ではどういうことになってんだ?
 やっぱり、雇い主の祖父さまが“い”るって言ってんだから、それに口調を合わせてるわけか?」
「詳しくは分からないけど、使用人たちの間では、ベアトリーチェの話は、ある種の怪談扱いになってるよ。
 敬わないと、お怒りに触れて怪我をする……みたいな話」
「……紗代もよく、そういう話をしていたよ」
「つまり、使用人たちにとってベアトリーチェって存在は、お稲荷さんにイタズラしたら、おキツネさまの
崇りがあるってくらいには信憑性があるわけだ」
 確かに、祟りなんて存在しないと誰もが認めるこの現代でも、人はそれを恐れ、最低限の敬いを残している。
 家を建てる時に、神主さんを呼んで土地の神さまに敬いを示す儀式は、住宅地でもよく見かけるはずだ。
 つまり、これほどに合理的な近代社会を迎えながら、それでも我々は、ある種の信仰と畏怖を
捨てられずにいるのだ。
 この島では、それが、ベアトリーチェという名で崇められている、というだけなのか。
「このお屋敷も、築30年くらいになるそうだからね。
 それだけになれば、多少の怪談やオカルトは生まれてくるものだよ。 学校の七不思議なんかのようにね」
「そこで、“チェス盤をひっくり返す”ぜ?」
「え?」
「この島では、人間にはできない事はベアトリーチェの仕業と置き換える事ができるルールがある。
 つまり犯人は、この島のルールに則って、この事件は魔女の仕業だとアピールしてる事になる。
 気に入らねえぜ。全然気に入らねえ」
「気に入らないって、何がだよ」
「だって、事件は深夜から未明に掛けて起こったろ?
 どいつもこいつもアリバイがあやふやで、充分、内部犯行が疑える段階だ。
 不可視の19人目は最初の事件で、自分のアピールに失敗してるんだ」
「つまり、ベアトリーチェという19人目がいるように見せかけたい人間が18人の中にいるって……、
犯人がこの客間の中にいるって疑ってるのかよ?」
「ああ。何者かが、俺たちにベアトリーチェが存在すると、認めさせようとしている。
 昨夜のあの手紙からもう事件は始まっていたんだ」
「……ぶっ飛んだ説にも程があるぜ。推理小説の読みすぎじゃねえのかよ」
 と、朱志香は口を尖らせた。
 が、譲治兄貴は俺の意見に乗ってきた。 
「でも、無視できない着眼点もあるね。 覚えてるかい? ベアトリーチェの手紙。
 ベアトリーチェは利子を回収すると言っていた。 お祖父さまが黄金を資本に生み出したもの全てが利子だと」
「つまり、祖父さまから血を分けた一族の事を指す……」
「となれば、この事件はまだ続くよ。利子の回収は、まだ途中なんだからね」
 譲治兄貴は、ぐるりと客間を見渡した。
「じゃあ私たち、全員を殺すつもりだってのかよ。
 でも、ならどうして六人だけ? 寝込みを襲って全員を一晩で殺すのも可能だったはずなのに」
「特別条項だよ。黄金の謎を暴く者が現れたら、利子の権利は失われる」
 つまり犯人は俺たちに、祖父さまのあの碑文の謎を解いてみやがれと言っているわけだ――。



 ぶっ飛んだ想像を重ねているのは自覚している。
 だが、そもそも事象のほとんどは点に過ぎない。
 それらを結んで線にする事を、俺たちは理解と呼ぶ。
 その結ぶ線の両端は、距離が近いほど理解しやすいが、それは発想が狭いとも言う。
 想像だけが、結ぶべき点と点を見つけ出す。
 想像なくして推理もない。
 俺のしている事は、間違ってもいないはずなんだ。
 そんな俺たちの話に、次第に人が加わり始めた。
 秀吉伯父さんは非常に強い関心を示し、夏妃伯母さんも不承不承納得していた。
「確かに。そう考えるとあの怪しい手紙も納得が行くっちゅうもんや」
「隠し黄金の存在を妄信する犯人が、私たちに解かせようという動機は、頷ける物があります。
 しかし、ならばなぜ右代宮家の主要な人物を最初に殺したのです?」
「そうね、それにその論法で行くなら、最初にお父様を脅迫した方が早いわ。
 私たちに謎を解かせるよりも、本人に答えを聞いた方が早いはずよ」
 と、絵羽伯母さんが珍しく夏妃伯母さんの意見に同意した。
「なら、こういう発想はどうだろう」
 と、俺は思いついた事を言ってみた。
 躊躇するな。
 戦では矢は一本しか飛ばさないわけじゃない。
 大量の矢を一度に射て、敵に面で襲い掛かれ。
 だから射て、次々と!
「つまり、この殺人は、祖父さまへの脅迫。
 黄金の在り処を教えなければ、親族たちを次々と殺していくぞというメッセージだ。
 そう考えれば、祖父さまの不自然な失踪にも説明がつく。
 つまり祖父さまは拉致されて、どこかに捕らわれている……」
「面白い話じゃないの」
 と、絵羽伯母さんが含み笑いを漏らした。
「そもそもお父様って、いついなくなったのかしら? 最後にお父さんの姿を見たのは誰や?」
「たぶん私でしょう。今朝、私が書斎で、ご挨拶をしました。
 そう言えば源次、鍵を借りっぱなしですね。返しておきます」
 夏妃伯母さんは金色の鍵を取り出し、源次さんに手渡した。
 その鍵を見ながら、絵羽伯母さんがまた笑った。



「ねえ源次さん。お父様の書斎の確認をしたいのだけど。入口は一つだけ?」
「はい、ありません。中に入るには入口しかありません」
「間違いなくね? 秘密の隠し扉なんかがあったりはしないのね?」
 誰もが、絵羽伯母さんは何を語りだすのかと首を傾げていた。
 俺は一抹の不安を感じた。
 絵羽伯母さんは、得意げな顔で話を続けた。
「ところで夏妃さん。お父様の書斎に入ろうとして、気づいた事はなかったかしら?」
「何の事ですか?」
「ほらぁ。何かゴミを拾ってたでしょ」
「ええ。確か、畳んだレシートを拾いましたが」
「実はね、あのレシート。姉さんがお父様と最後に会って出てきて、そこで私と会ったでしょ?
 その時、書斎の扉に私が挟みこんだ物なのよ」
 何だって?
 って事は……夏妃伯母さんがそのレシートを拾うまで、誰もドアを開けていない?
「私は夏妃さんが鍵を取り出している間に確認したわ。レシートの位置は、変わっていなかった。
 夏妃さんがお父様がいるのを確認してから、私と一緒に不在を確認するまでの間、あの扉は一度も
開かれてないのよ。
 扉を使わず、どうやってお父様は外に出たのかしら?」
「そんな事は知りません。私が知りたいくらいです」
 夏妃伯母さんの声には、苛立ちが混じっていた。
「母さんは、夏妃伯母さんが今朝、お祖父さまに会ったというのは……嘘だと言っているのかい?」
 譲治兄貴の言葉を境に、場が一気に騒然となった。
「今朝以降、お父様の姿を見たと称するのは夏妃さんただ一人。
 そして、私の挟んだレシートが物語る事実。
 さあ、この点と点はどうやれば結べるのかしら?」
 絵羽伯母さんは、全員に想像するように促した。
「お父様はまだ見つからないけれど、普通に考えれば、もう亡くなっていると考えるのが自然でしょうね。
 となれば、必ず近い内に死体は見つかる。
 その時、死亡時刻をうまく偽る事が出来れば、夏妃さんはアリバイを作る事が出来るのよ」
「夏妃さん。わしら、あんたを疑いたいわけやないんやで?
 疑いとうないから、潔白を示してほしいだけなんや」
「今朝、私は確かにお父様にお会いしました!
 心の中に片翼の鷲を刻めとのお言葉を頂きました。あのお言葉をも否定するというのですか!」
 銃身を握る夏妃伯母さんの手が、小刻みに震えている。
「なに? その銃で私を撃つの? いいわよ? 撃っちゃえば? 
 やりなさいよ、暴力で真実を誤魔化してごらんなさいよ?」
 とうとう夏妃伯母さんは、絵羽伯母さんに誘導されるように銃を構えさせられてしまう。
 ただし、引き金に指こそ掛けていないのが、まだ夏妃伯母さんに理性がある事を語っていた。
「貴方という人はどこまで私を愚弄すれば……!」
「例えば、こういう推理はどう? 夏妃さんはお父様を、3階の書斎の窓から中庭に突き落とした」
「……!!」
 夏妃伯母さんの指が、ぴくりと動く。
 さすがにこの段階になって、朱志香や源次さんが夏妃伯母さんを制止する。
「奥様、どうかお気を鎮めください……!」
「母さんは嘘なんかついてない! ならこんなの聞き捨てなきゃ!」
「その後、中庭に転落して死んだお父様の遺体は、夏妃さんが屋敷内の戸締りを確認すると言って
出て行った時にどこかへ隠した……とかかしらね」
「蔵臼さん達の事件も、更に昨夜のベアトリーチェの事件もひっくるめて、夏妃さんが
怪しい可能性が高いっちゅう事や……!!」



 ……………。
 何だか、面倒な流れになってきたな。議題逸れてるし。
 この期に及んで、変にいがみ合ってる場合じゃないだろうに。 
 苦々しさから、思わず忍び笑いが漏れちまった。
「いっひっひっひ。……駄目だな、全然駄目だぜ? 絵羽伯母さん」
 絵羽伯母さんは変わらず余裕ある表情だった。
「全然駄目って、何が? 戦人くん。聞かせてよ」
「別に夏妃伯母さんを擁護するわけじゃねえが、そんなハッタリのチェックメイトじゃ、通用しねえって事さ」
「あら、じゃあ、レシートで封印されている扉をどうやって破って、お父様は失踪したの?」
「だったら、ここで“チェス盤をひっくり返す”ぜ? 
 夏妃伯母さんがどうやって祖父さまを消したかじゃない。
 どうやって、祖父さまは書斎を脱出したのかって考えるんだよ。
 例えば、祖父さまが書斎のベッドの下にでも潜って隠れるだけでも、伯母さんたちは部屋からいなくなったと
誤認できる。
 そして伯母さんたちは失踪したと思い階下へ戻る。
 つまり、祖父さまは密室である間は部屋に隠れ続け、絵羽伯母さん達をやり過ごした後に部屋から
脱出すれば、この密室は突破できる」
 俺の論を聞いた絵羽伯母さんは、鼻白んで言い返してきた。
「何よそれ! どうしてお父様がそんな妙な事をして部屋を抜け出さなきゃならないの?」
「だが、それでも夏妃伯母さんが潔白である可能性は残される。
 絵羽伯母さんのレシートは、チェスで言えばチェックくらいにはなるだろう。
 だがチェックメイトじゃねえ。
 そして俺が最高に気に入らねえのは、それを夏妃伯母さんに釈明しろと迫って、それが出来なきゃクロだって
断定しようとする絵羽伯母さんの論法さ。
 それなら、この右代宮戦人が、ここでもう一回チェス盤を引っくり返させてもらう!
 絵羽伯母さんの論法によるなら……あんたと秀吉伯父さんが昨日、親父たち六人を殺害してないって事も、
この場で全部釈明してもらわなくちゃならねえぜ」
「そ、そうだぜ、絵羽叔母さん達だって充分怪しいじゃねえか!
 戦人の言う通りだぜ、自分たちは殺してないって事を証明してみせろよ」
「僕も、お母さんの推理は少し勇み足だと思うな。僕たちは等しく全員が容疑者なんだ。
 夏妃伯母さんだけが責められる道理はない」
 朱志香と譲治兄貴の言葉を受けて、絵羽伯母さんはやっと矛先をおろした。
「確かに戦人くんの言う通りかしら。でもね戦人くん、レシートの話は本当よ?
 これがどういう意味を持つか、もう一度よく考えてみてね?」
 絵羽叔母さんと秀吉伯父さんは立ち上がる。
 客間を出て行こうというつもりらしい。
「これ以上、夏妃さんも私の顔を見ていたくはないでしょう?
 私も同じよ。夕食になったら呼んでね。それまでチェーンを掛けて閉じこもってるわ」
「源次、嘉哉。お二人を客室までお送りを」
「結構よ。送り狼なんて嫌だもの。むしろ、私たちが部屋に行くまで、誰もこの部屋を出ないでくれる方が安心よ。
 ――譲治、行くわよ」
「僕は、ここで皆といるよ」
「譲治……! この部屋に犯人がいるのよ。そんな所にいるつもり?」
「譲治ももう、一人前の男や。その譲治の仁義が、この部屋から出えへん言わせるなら、それも勝手やろ。
 好きにさせたれ」
「父さん……」
 絵羽伯母さんと秀吉伯父さんが出て行く。
 見送りの言葉は雨音だけだった。
 俺はうんざりした気持ちになりながら、頭を掻き毟った。
 さっきから自分でもわけが分からなくなる。
 19人目を信じこまされると、それを否定したくなり、18人しかいないと信じこまされると、今度はそれも
否定したくなる。
 18人以外の何かがいてほしいと思うのに、その19人目を認められない。
 19人目はいるのか、いないのか。
 魔女はいるのか、いないのか――。



★――断章――右代宮絵羽――★

 私たちは、自分たちの客室に入ってすぐに、ドアチェーンを掛けて施錠した。
「やっぱり、家族だけだとリラックスでけるな。他の皆も客室にこもって鍵を掛けてりゃええんや」
「夏妃さんが客間を出るなって威張り散らしてるんだもん。誰も口答えなんて出来ないでしょ」
「まぁ、そう言うな。夏妃さんもあれで結構がんばっとるんやで。お前も、そう突っ掛からんでもええやないか」
「だって……」
 私は頬を膨らませながら、テレビを見ながらベッドに横たわっている夫の脇に座った。
「でも、こうして二人きりになるのはずいぶん久しぶりよね」
「そうやな。譲治が生まれてから、何もかもがあっという間や」
 そう、あれは千載一遇のチャンスだと思った。
 ある日。天の啓示を聞いたのだ。
 あるいは、欲深な自分が聞いた悪魔の囁きだったのか。
 自分が先に跡継ぎを出産できれば、右代宮の籍に残れるのではないか。
 あわよくば、右代宮家を自分が引き継げるのではないかと。
 相談を持ちかけられた夫は、二つ返事で頷いてくれた。
 身寄りのなかった夫には、忘れて久しい親族という物をもう一度感じる事の出来る機会だったそうだ。
 だから、右代宮姓で入籍する事も認めてくれた。
 譲治を右代宮家の跡継ぎにする。
 その一念で厳しく育ててきた。
 甲斐あり、譲治はどこに出しても恥ずかしくない素晴らしい青年に成長してくれた。
 使用人の紗代如きに恋心を寄せている事を除いては。
「私、蔵臼兄さんの事が、昔から嫌いだった。自分がやがては当主になるのだと自慢してて。
 だから、それに一矢報いてやりたかった。そして、その感情は結局、私の人生のほとんどを支配した。
 あなたや譲治まで巻きこんで、振り回してしまった。そう……思ってる」
 夫は起き上がり、私の肩を抱いた。大きな手のひらが、温かかった。
「絵羽。わしはな、今日までの生活を後悔した事は一度もないで。
 右代宮の家には感謝しとるし、わしの唯一の家だと思っとる。
 わしとお前が歩んできた人生に、無駄な事なんか何もなかった。ホンマに楽しい人生やと思っとるで」
「ありがとう……あなた」
 私は俯いて、夫の胸に顔を埋めた。
 客間にいる誰にも、私のこんな気弱な姿を想像する事は出来ないだろう。
「感謝するのはわしや。今日まで、お前と一緒にいて後悔した日なんてあらへん!」
「私もよ。あなたと一緒になれて、良かった……」
 言って私は甘えるように、唇をねだった。
 部屋を満たす物は、夫が付けたニュースの遠いアナウンサーの声と、静かに窓を叩く雨音だけだった。



 結論から先に言おう。
 事件はまだ終わっていなかった。
 夏妃伯母さんが絵羽伯母さん達を夕食に呼ぼうと決めて、それで源次さんが客室へ向かってから、
暫く後だった。
 戻ってきた源次さんに呼ばれた夏妃伯母さんが、真っ青になって客間を飛び出して行くのを見れば、
誰だって何かあったと気づく。
 譲治兄貴を先頭に、俺と朱志香と真里亞が続いて廊下を走った。
 客室には既に、他の全員が集まっていた。
 まず目に留まった異変は、客室の扉にあった。
 扉には、あの、薔薇庭園の倉庫のシャッターにあった魔法円のように、血のような塗料で、また不気味な
図形が描かれていた。
 もっとも、今度の物を「魔法円」とは呼べない。
 それは、円の内側に図形が描かれた物でなく、格子状に線が引かれていたからだ。
 しかし、その図形の隙間に書きこまれたアルファベットとは異なる奇怪な文字は紛れもなく、あのシャッターの
魔法円と同じ物と言えた。
 戸口からは、切られたチェーンロックが左右に分かれて垂れている。
 人が行き来する度に、ちゃりちゃりと音を立てながら揺れている。
 そのそばの床には、大型のペンチ状の工具――番線カッターが転がっていた。
 恐らく、これでチェーンを切断したんだろう。
 そして、そのカッターを重しにして押さえている物。
 昨夜、真里亞が取り出して全員を驚かせた、あの祖父さまの封筒と同じ物。
 封蝋が当主の指輪で刻印が打たれている事も同じだった。
 後で聞いた話では、扉をこじ開けようとした時に、図と手紙とに気づいたのだと言う。
 客室には今も灯りがともり、テレビの音声が延々と流れ続けている。
 が、在室している人の気配だけが無い。
 その答えは明らかだった。
 ベッドの上、土足のまま仰向けになっている絵羽伯母さんの眉間に、穴が開いていた。
 銃で撃たれたような傷跡からは血が滴り落ち、向こう側のシーツを真っ赤に濡らしていた。
 両目はかっと見開き、自分を殺した相手を確かにその目に焼き付けたのだろうが、それを伝える口は
既に永遠に閉ざされていた。
 そんな絵羽伯母さんの傍らに、古風なナイフ?のような何かが転がっている。
 柄の部分には、何とも複雑な意匠がされていた。
 またも崩しきったアルファベットのような、悪趣味な文字で何やら書かれているが、さっぱり読めない。
 ツインのベッドの内、もう一つは空っぽだった。
 残る秀吉伯父さんの居場所は、バスルームだった。 
 バスルームは、ホテル等で馴染み深いバストイレの一体型だ。
 シャワーを浴びる時は防水のカーテンで水が飛ばないように仕切って使用する。
 その防水カーテンが半分開かれていて、そこに全裸の秀吉伯父さんが両目を見開いたまま、
バスタブの中に崩れ落ちていていた。
 絵羽伯母さんと同じように、眉間を撃たれて絶命している。
 バスタブの中には、ボディソープの小瓶が蓋を開いたまま落ちていた。
 まさに入浴中を襲われたのだろう。
 血の飛沫がまだ僅かに白いバスタブに付着していて、白と赤の不気味なコントラストを見せていた。
 そして、秀吉伯父さんの傍らにも同じようなデザインの凶器が添えられていた。
 しかし、よくよく見ると、凶器と呼ぶには、実は刃がない。
 刃物状ではなく、むしろ円錐状。
 ナイフというより短い槍のような、切るのではなく突く事を目的とした特殊な形状である事がうかがえた。
 人によっては、短い槍ではなく、太いアイスピックと例えるかもしれない。
 ――とにかく、酷い有り様だった。
 譲治兄貴の取り乱し様は、ある種当然だった。
 今まで努めて冷静に振る舞っていた分、とりわけ泣き声も、また怒声も激しかった。
「誰がッ、誰がこんなことをッ! 殺してやるッ……殺してやるッ!!」
 譲治兄貴は絵羽伯母さんのベッドの上に倒れこみ、母親の前でベッドに顔を埋めながら号泣していた。
 何度も何度も、握り拳をベッドに打ちつけながら。
 ――とにかく、酷い話だった。
 だってそうだろ?
 心に決めた女を婚約した次の日に失って。同じ日に、親父とお袋まで殺されるなんてよ……。
「戦人お兄ちゃんも……泣かないで……」
 俺を慰める真里亞の声が、どことなく無機質な物に聞こえた。



「この部屋は警察が来るまでこのままにして施錠します。……いいですね?」
 夏妃伯母さんが全員に、有無を言わせない口調でそう宣言した。
 譲治兄貴が背中を向けたまま、小さく頷いて立ち上がると、それで他の全員も同意した。
 夏妃伯母さんは、例の洋形封筒を手に提げていた。
 皆の前で開封するため、客間へ戻ろうと廊下を歩き出すと、すぐに真里亞が鼻をつまんで立ち止まった。
「…………臭いよ?」
「あ、真里亞も分かるか? こりゃ何の臭いだよ」
 朱志香も鼻をくんくん鳴らしてみせる。
 俺も確かに、何かが焦げたような悪臭が廊下を漂ってくるのを感じた。
「私、ちょっと厨房を見てきます」
 熊沢の婆ちゃんがあたふたと駆け出して行った。
「嘉哉。熊沢と行きなさい。一人にさせないように」
「はい」
 源次さんの指示に頷き、嘉哉くんが後を追っていった。
 ひとまず臭いの件は二人に任せ、俺たちは客間へと戻った。
「兄貴。話し掛けても大丈夫か?」
「犯人を探す相談なら構わないよ」
 譲治兄貴は一応、もう悲しみの淵からは這い上がっているようだった。
「部屋にはチェーンが掛かってた。さっき構造を確かめたが、
外から細工できる代物じゃねえ。つまり完璧な密室だったって事だ」
 思えば、祖父さまの失踪も含むなら、事件は三度起こり、三度、扉の話が話題に上った。
 最初はシャッター。
 使用人室に鍵がある事を知る者がいる以上、
それは密室とは言えない。全員が疑える。
 次はレシートで封印された扉。
 だが、夏妃伯母さんが室内に入っている以上、絵羽伯母さんや俺が挙げた説を使えば、まだ密室とは
言えない。
 夏妃伯母さんを疑える。
 そして今度はドアチェーンで封印された扉。
 今度こそお手上げだった。
 誰も疑う事が出来ない。
 朱志香は真剣な表情で考えこんでいる。
「なら、犯人は室内に入らずに犯行に及んだのかな。ノックして顔を覗かせたところを襲うとか」
「絵羽伯母さんは部屋の奥のベッドの上。しかも秀吉伯父さんはバスルームに居た。
 畜生、全然駄目だぜ、さっぱりだ!」
 俺がこめかみに手をやった時、くいくいと袖が引っ張られた。
 真里亞だった。
「満足?」
「満足って、何がだよ」
「戦人お兄ちゃんは親族の誰かを疑うのが嫌なんでしょ?
 犯人がベアトリーチェであってほしいんでしょ?
 だからベアトリーチェは叶えてくれたんだよ。
“絶対に人間には無理な事をして、戦人お兄ちゃんに魔女を信じさせて”くれたんだよ。きひひひひ――あ痛っ」
 堪らず、気持ち悪く笑う真里亞の頭を拳で叩いた。
「不謹慎に笑うな! それより教えやがれ。
 絵羽伯母さんたちの部屋の扉にも、また怪しげな落書きがされていた。
 あれもまた魔法円なのか?」
「戦人お兄ちゃんは暴力的だね。言うよ言うよ、このゲンコツ男。
 あれは月の1の魔方陣だよ。
 記されているのは、旧約聖書、詩篇第107篇の16節。
 “主は青銅の扉を破り、鉄のかんぬきを打ち破って下さいました。”
 魔方陣の効用は二つ。
 一つは、如何なる方法によって閉ざされた扉でも開く事が出来る」
「そりゃ便利だ。つまり、魔法に頼らなきゃ開けぬ密室の扉っていうわけか。 もう一つの効用は?」
「開かぬ扉を八方塞の事態に見立て、扉を開く。
 難解な事態の時に用いる事で、それまで思いつきもしなかった解決策を与えてくれるんだよ。
 観察力や洞察力、閃きや直感を授けてくれるんだね。
 ベアトリーチェは、戦人お兄ちゃん如き人間風情に、この扉の開き方が分かるものかって、挑発してるんだよ。
 きひひひひひひ――あ痛っ」
「だから黙れ! 人様が殺されてるんだぞ。その気持ちくらい考えろってんだ」
「真里亞ちゃん。この世に魔女も悪魔も存在しない。
 父さんと母さんは誰かが殺した! それは必ず人間なんだ」
「しかし、どうやって。せいぜい10cm程度しか開かない扉の隙間から、どうやったら室内の二人を……?」
 俺たちは結局、答えの出ない問いを繰り返すのだった。



★断章――熊沢チヨ――★

 嘉哉さんと私は、臭いの発生元は厨房ではないと気づきました。
 厨房に至る途中、地下への階段から更に濃密な悪臭が上ってきていたからでございます。
「またボイラーの調子が悪いんでしょうか……」
 屋敷の地下にあるボイラーは、確かに古うございます。
 私どもも何度かボイラーの不調に立ち会った事がございますが、このような臭いを噴出す不調は
初めての経験でございました。
 と、階段を下りる最中、バタンと大きな音が響きました。
 下より聞こえたその音は、確かに扉が閉じる音でございました。
 私はその音に大層驚き、再び腰を抜かしてへたり込んでしまいました。
 今この瞬間、ボイラー室に居られる人間はいないのですから。
 対して、嘉哉さんは軽やかに、地下へ駆け下りて行きます。
 ボイラー室には屋敷側からの入口と、中庭側からの入口の二つがあるのです。
 今追わなければ、取り逃がすかも知れないのです。
 私も、とにかく嘉哉さんを一人で行かせてはならないと思い、遅れて階段を駆け下りました。
 私が階段を下りきった時、嘉哉さんは既にボイラー室に居られました。
 ボイラー室は、独特のじめじめした熱気に満ちておりました。
 ただでさえ、湿気と臭気のこもっている場所でございます。
 しかもその上、あの悪臭が充満していては、気分まで悪くなってまいります。
 嘉哉さんは正面を見据えたまま、入口のすぐ脇にある工具棚から鉈を掴み取りました。
「……………………………………………」
 嘉哉さんは、裸電球程度では到底切り裂けない闇の中を凝視しました。
 そして語り始めた言葉は、何とも不可解な口上でございました。
「――ルーレットは、数字と赤黒に賭けて配当を競い合う。
 だが赤か黒かのようなリスクの低い賭けは、その程度の配当しか与えられない」
 嘉哉さんの口から流れるお声が、深い闇に飲みこまれていく内に……更に奇妙な光景が現れたので
ございます。
 それは、とても幻想的でございました。
 ボイラー室のあちこちの影に隠れていた黄金に輝く蝶たちが、美しく瞬きながら羽ばたいているのです。
 しかし、嘉哉さんは全く怯む事なく、言葉を続けました。
「逆に、より的中率の低い賭け方をすれば、そのリスクに比例した配当が与えられる。
 お館様は、天文学的なリスクを超えて的中できる事を“奇跡”と呼び、その結果得られる配当を“魔法”と
呼んでいた。
 ――貴様がどんな“魔法”を求めてルーレットに挑んだか、そんな事にはもう興味ない。
 しかし貴様は忘れている。 ルーレットには、赤でも黒でもない目が出得る事を忘れている」
 確かに、ルーレットには“0”という特殊な目がある事は私も存じております。
 ルールによっては親の総取りを意味し、盤面に賭けた全てのコインが流れてしまう、あたかも没収試合の
ような目であると。
「僕は一つだけ心に決めていた。
 もし姉さんが、紗代が先に殺される役目を負い、僕が生き残る役目を負う事になったなら。
 この身を捨てて、貴様のルーレットを徹底的に乱してやると。
 今の僕は家具じゃない。貴様のルーレットのゼロなんだ」
 奥へと足を踏み入れる嘉哉さんのお声は、苦しげに掠れておりました。
 この無数に舞う黄金蝶たちを前にして、何を言っても無駄なのだと、悟っておられるかのようでした。
 嘉哉さんは震える手で、取り落としそうになる鉈を握りなおしました。
「僕は、僕だけは、貴様の人形になりはしない。
 貴様の茶番は、悪魔のルーレットはこれでお終いだ。
 永遠に消え去るがいい、ベアトリーチェ!!」
 嘉哉さんがそう叫んで鉈を振り上げた、その瞬間でございました。
 あり得ない事が起こったのでございます。
 嘉哉さんは、もうそれ以上、一歩も踏み出す事はございませんでした。
 ガランという音が鳴りました。
 嘉哉さんの握っていた鉈が落ちた音でした。
 ドサリという音が鳴りました。
 嘉哉さんが両膝を着いた音でした。
「……………嘉哉さんッ!?」
 私は、眼前の受け容れがたい光景に絶叫するまで、相当の時間がかかりました。
 嘉哉さんは、今も胸元から、おびたたしい鮮血を溢れさせ、もはや血の海となった場に横たわっています。
 その身にはまた、ああ、あのおぞましい意匠の彫りこまれた凶器が。
 絵羽さまたちが亡くなった時のあの杭が……!
 私の胸中は二つの思いに引き裂かれておりました。
 ああ、何という不運!
 私が一緒だったなら助かったかもしれない!
 ああ、何という幸運!
 私が一緒だったなら殺されていたかもしれない!
 そのように思う私の表情は、まるで泣き笑いのような形相になっていた事でございましょう。
 ああ、おいたわしや嘉哉さん。
 私には、こうして物陰から見守る事しか出来なかったのです……。



 熊沢の婆ちゃんの悲鳴を辿って、俺たちはボイラー室へ飛びこんだ。
 ライフル銃を構えた夏妃伯母さんを先頭に、源次さんの次に俺が続いた。
 全身を血の海に溺れさせているかのように倒れている嘉哉くんを前に、やるべき事は一つしかない。
「源次、南條先生をここに!」
 夏妃伯母さんは、瀕死の嘉哉くんを託し、ライフル銃をボイラー室の暗がりに向けた。
 俺は咄嗟に、入口脇の工具棚から大型の懐中電灯を取って、その灯りで闇を切り裂いた。
 照らし出される扉は、僅かに隙間を残して開いている。
「あの扉はどこへ!?」
「な、中庭です……!」
 俺は、源次さんの答えを聞くと同時に、扉に体当たりするように開け放った。
 細く粗末な登り階段が見え、冷たい外気が噴出してくる。
「待ちなさい戦人くん!! ひとりでは危険ですッ!!」
 俺の後を追う形で、夏妃伯母さんも階段を駆け上がる。
 出た先は、確かに中庭だった。
 専ら採光のために設けられた物であり、四囲を囲まれている場所だ。
 風の音を聞く事はあっても、実際には吹きこまない穏やかな空間。
 俺は、冷たい雨の降る中庭の四方を、ぐるぐると見回した。
 方向感覚を失いそうになるくらいに、ぐるぐると。
 だが、屋敷の壁と窓が幾つも無情に並んでいるのが見えるだけだ。
 しかも、中庭から屋敷に入る入口たちには鍵も掛かっていない。
 中庭から屋敷の外には出られないため、鍵自体が設けられていないのだ。
 俺は唇を噛み締めた。また鼻の奥が強く痛んだ。
「畜生! どうして、どうして…!」
 人ってのは、殺しちまったら、二度と生き返らねえんだぞ!?
 竹の子みてぇにひょいひょい生えてきちゃこねえんだぞ!?
 どうして、どうして……ッ!!



 嘉哉くんは、南条先生と源次さんの手で、使用人室に運ばれた。
 床には、嘉哉くんが残した血溜まりが残っている。
 そのおびただしい出血量から、たぶん南條先生の手当ては徒労に終わるだろうと思ってしまった。
 現場にあった凶器は紛れもなく、絵羽伯母さんたちの時の物と同じ形状だった。
 強いて言えば、柄の部分のデザインが少し違うが、その辺は多少の個性差だろう。
 やはり凶器は、ナイフのような刃物ではなく、アイスピック状、いや、細い杭状の物だった。
 しかもそこには、ドリル状?のような螺旋の意匠が施されている。
 悪趣味に例えれば、丑の刻参りにでも使えそうな、そんな邪悪な儀式ご用達のようにも見える。
 全長は柄の部分も入れて25cmくらい。その半分ほどが真っ赤に血で染められた杭状の部分だ。
 だが、夏妃伯母さんたちは凶器には目もくれず、凄まじい臭いを噴出している焼却炉の前にいた。
 かつて、炉の中にくべられていたそれを、引きずり出したのだ。
 もうこれ以上、何を見ても驚かないつもりだったが、まだ試練は続いていた。
 あの悪臭は、焼却炉で焼かれていた死体の臭いだったのだ。
 着衣も身体も全て焼け落ちた死体は、こうなってしまっては顔や年齢はおろか、性別さえ見当がつかない。
「恐らく、お館様だと思います」
「私も同感です。このようなお姿でお亡くなりになるとは、おいたわしや……」
「でも、この遺体、本当に祖父さまだって保証はあるんですか?」
「戦人くん、足を御覧なさい」
 夏妃伯母さんは、そう言って死体を指し示した。
「え? ………………あ」
 どちらの足にも、指が6本ある。
 それぞれの指がもっともらしく並んでいるので気づきにくいが、確かにある。
「お館様はお生まれの時から両足の指がそれぞれ6本でした。
 故に、お館様は右代宮家の再興を託されたのです」
「右代宮家には昔から、多指症の方が多かったそうです。たぶん遺伝的な物でしょう」
 夏妃伯母さんの話では、右代宮家の歴代当主の中で名君と讃えられた人は、みんな多指症
だったんだそうだ。
 因みに多指症ってのは、赤ん坊2000人に一人くらいの可能性で起こり得るらしいので、決して珍しい
ものではない。
 まして、仮に多指症だったとしても、物心が付く前に治療されてしまっていて、子ども自身は覚えてすら
いない。
 そもそも、これは病気ではない、生まれつきの物なんだし。 
 そう言えば、秀吉伯父さんに昔聞かされたけど、あの豊臣秀吉も手の指が6本あったんだとか。
 そして、祖父さまの遺体はただ焼け焦げているだけではなかった。
 絵羽伯母さんたちと同じ、嘉哉くんと同じ、あの“悪魔のアイスピック”が、眉間に突き立てられていたのだ。
 改めて祖父さまの遺体を検分していた源次さんが顔色を変えた。
「指に、“当主の指輪”がありません」



 このボイラー室も、警察に引き渡すべき重要な犯行現場となった。
 祖父さまの遺体はここに残し、部屋は施錠して封印することとなった。
 祖父さまの遺体はいつ頃から焼却炉で焼かれていたのかははっきりしない。
 源次さんが言うには、火勢がそんなに強くなかったので、だいぶ前から焼かれていて、
 炉から漏れ出した臭いが室内に少しずつ充満し、あふれ出して階段を登ってきたのではないかという。
 とにかく祖父さまが、オートロックの密室に閉じこもっていたにもかかわらず、連れ出されて殺されて焼かれた。
 そう見て間違いないだろう。
 しかし源次さんが言うには、ボイラー室は普段から施錠されているという。
 結局のところ、犯人は外部犯なのか、内部犯なのか。
 またしてもチェス盤をひっくり返すならば。これほど明らかに19人目の存在がアピールされているならばこそ。
 19人目など、あり得ないという事になる。
 もし、18人の中に犯人がいるなら、その容疑者は限られている。
 俺たち子ども四人。夏妃伯母さん。源次さん。熊沢の婆ちゃん。南條先生。この中に犯人がいる。
 あるいは……例えば、最初に殺された六人は顔を酷く破壊されていた。
 俺たちは服装と状況だけで遺体を特定したに過ぎない。
 犯人は、自らを死んだと偽装してどこかに隠れ潜んでいて犯行に及んでいる……?
 真里亞は皆と一緒に出て行かず、最後までボイラー室に残っていた。
 その顔は、笑っていた。
 そう、彼女にとっては、この一連の不可解な事件は全て、魔女が存在する証。
 頑なにその存在を否定し続ける親族たちが、魔女を認めて屈服していく事は、彼女にとっては痛快な事でも
あるのか……。
 そうだ。絵羽伯母さんたちの部屋で拾った手紙は、中に何と書かれているのだろう。
 夏妃伯母さんがまだ持っているはずだ。



 結局、嘉哉くんは意識を取り戻さなかったと、南條先生が報告した。
 先生のシャツは激しい返り血を浴び、最後の一秒まで献身的に接したと想像できた。
 薬も施設もないこの島で可能な治療など、もともと何もない。
 嘉哉くんは、発見された時からもう、手遅れだったのだ。
 しかし、犯人と唯一対峙した者として、その手掛かりをせめて聞ければと、悔やまれてならなかった。
 廊下では朱志香がしゃがみ込み、さめざめと泣いていた。
 そこに、真里亜が無遠慮に声を投げかけた。
「ベアトリーチェは死者も、失った愛すらも蘇らせる。だから、きっとすぐに会えるよ。
 そして皆で穏やかに過ごせるから」
 いっそ場違いと言えるほど、朗らかな言い方だった。
 朱志香は血走った目で真里亜をにらみ付けた。
「こ、こいつ、前から気持ち悪いだとは思ってたけど、どっかおかしいぜ!
 皆はそう思わねえのかよ?
 真里亞は犯人の正体を知ってて隠してる! 私たちと一緒になんかいさせられない!」
 荒涼とした空気が満ちる。
 誰が何を口に出しても、余計に何かがこじれる気がした。
「とにかく、今は仲違いをしている時ではありません。犯人が神出鬼没に屋敷内を出入りしている以上、
私たちは明日まで身を守る事に専念しなくてはなりません」
「夏妃伯母さんに極めて同感だぜ。今はどこで篭城するかを考えた方がいい。
 敵はマスターキー、あるいはそれに準ずる物を持っている公算が高いんだ」
 俺はそう言いながら、皆に時計を示した。
 もう夜の8時を回っている。
 すると、源次さんが間を置いてから意見を述べた。
「……………よろしいでしょうか。一箇所だけ、使用人の鍵束でも入れない場所がございます。
 お館様の書斎です」
「あの部屋に入れる鍵は何本あるんですか」
「2本です。1本は常に私が。もう1本はお館様がお持ちでしたが、先程ボイラー室の遺体からこれを」
 源次さんが、懐からハンカチを取り出して開くと、焦げて汚れた書斎の鍵を見せた。
 一度夏妃伯母さんに貸した自分の鍵を並べて見せる。
「本来なら、警察のために鍵も残すべきだったのですが、お館様より書斎の留守は必ず守るようにと
仰せつけられておりましたもので、私がお預かりさせて頂いておりました」
「祖父さまの部屋ってのは8人で押しかけても大丈夫なくらいの広さなんですか?」
「はい。ベッドにソファー、毛布類もありますので、贅沢を言わなければ充分に夜を越すことができます。
 流しにご不浄、冷蔵庫に酒棚もあります」



 つまりその書斎は、現在のこの屋敷の中で最も安全な場所だと言える。
 少なくとも、客間にこもるよりはマシに思えた。
 いや、客間だったからこそ、俺たちは無事だった?
 そこを出て、未知の場所へ移動するのはかえって危険……?
 ああ、駄目だ駄目だ全然駄目だ。
 チェス盤をひっくり返し続けると、最後には何も信じられなくなる。
 18人の中に犯人がいそうになるとベアトリーチェを信じたくなり、ベアトリーチェを信じそうになると
18人の中に犯人を見つけたくなる。
 お袋、言ってなかったっけ。
 チェス盤思考は決して万能ではなく、むしろ拘り過ぎると却って良くないって。
「チェス盤思考ってのはね。昔、本で読んだゲーム理論というものを私なりに解釈した物よ。
 でもね、本来のゲーム理論は非常に奥深く複雑な学問なの。
 しかもチェス盤理論は、便利ではあっても弱点が多い」
「弱点?」
「ええ。ゲーム理論は突き詰めると数学に行き着くの。
 数学の弱点は何か知ってる? ノイズよ」
 「1+1=2」という数式は、如何なる状況でも「1+1=2」で変わらない。
 だが、例えば、漢字や歴史などはどうだろう。
 時代の変化によって、その意味は少なからず変化する。
「その通り。人の世の事象は本来ノイズだらけなのよ。
 何もかも全く同じ出来事が起こるなんてあり得ないわけなんだし。
 それを数学の理論に強引に当てはめている時点で、既に弱点と限界があるのよ。
 チェス盤思考は、ノイズである気まぐれ、誤解、認識ミスに非常に弱いの」
 チェスに限らずゲームという物は、双方が同じルールや目標で戦うからこそ、手の内を読み合える。
 だが、もし相手が、最善ではない一手を指したなら。
 そもそも、実は相手には勝利以外の隠された目的があったら。
 つまり、自分が前提を見誤っていたら、そこから導き出される答えは全て、役に立たないデタラメに
なってしまうのだ。
 こんな時、お袋がいたら、もっと研ぎ澄まされた思考で何かに気づくのかもしれない。



 朱志香は最後まで祖父さまの書斎に移動することを嫌がった。
 だが、結局は夏妃伯母さんが無理やり押し通して移動する事になった。
 もう、皆すっかり疑心暗鬼に陥ってしまっていた。
 熊沢の婆ちゃんが夕食を用意しようとしたのだが、絵羽伯母さん達の件で一度、厨房と客間を無人に
してしまっている。
 その際に毒を盛られたかもしれないという意見が出た。
 親父たち6人を殺した方法は不明だが、毒殺の可能性もあった。
 そこで熊沢さんの提案で、みんなで一緒に厨房へ行き、缶詰などの毒物混入を疑いにくい物を集めて
持ちこもうという結論になった。
 皆で階段を上っていく。
 先頭の夏妃伯母さんは、用心深く暗がりを両眼と銃口で睨みつけていた。
 3階に着くと、事前に夏妃伯母さんに断られていた通り、薬品系の臭いと甘ったるい臭いの入り混じった、
脳を蝕むような臭いが漂ってくるのを感じた。
 源次さんが鍵を開けるまでの間、真里亞はその扉やドアノブをじっと見ていた。
「霊的な悪意を退ける力がとても強く込められている。
 多分ベアトリーチェはこの扉を開けられないね」
 真里亞が指差したドアノブには、サソリをあしらった魔法円のような意匠が刻まれていた。
「火星の5の魔法円は強力な魔除け。ベアトリーチェにとっては、とても厄介だろうね」
「なら、ベアトリーチェはどうやって中のお祖父さまを?」
「戦人お兄ちゃんが推理した通りだよ。
 ベアトリーチェは中に入れない。
 でも、お祖父さまが自分から書斎を出てくるように仕向ける事は出来るから」



 ガチャンと、源次さんが鍵を開ける音が鳴った。
 俺たち8人は、祖父さまの書斎に入った。
 オカルト好きが自分の趣味で徹底的に固めきった部屋。
 もし祖父さまがアイドルの追っかけが趣味だったら、壁中がアイドルポスターで埋まっていただろうと
いうような話だ。
 扉が閉まると、自動的にガチャンという音がする。
 オートロックというわけだ。
 そしてこの扉を外から開けられる2本の鍵は、共に今この室内にある。
 この部屋はこれで“密室”になったのだ。
 シャッター、レシート、チェーン。オートロック。
 四度目の扉はそれまでで最高の形で施錠され、文句のない形で密室を構成してくれた。
 それをより確実に確認するため、まず最初に部屋全体の戸締り確認から行なわれた。
 窓はしっかり施錠されていた。
 調べた限りでは、隠し扉も見つけられなかった。
 祖父さまの書斎はとても大きかった。
 書斎、寝室、トイレと風呂、賄い用の水周りの4区画。
 祖父さまがこの部屋を出なくても充分生活ができるのも納得だった。
 壁にはまた、ベアトリーチェの肖像画があった。
 玄関ホールに掛けられている巨大な物ではなく、この部屋用に作らせた小さい物だった。
 俺たちは厨房から持ちこんだ缶詰を食べながら、そもそもベアトリーチェとは何者なのかを話しあった。
 事件の根底には、背景には、この肖像画のご婦人が強く関わっている。
「そうだ。母さん、絵羽伯母さんたちの部屋で、犯人の手紙を拾ったんでしょ?」
「ええ。まだ開けていませんでしたね」
 夏妃伯母さんがあの洋形封筒を取り出すと、源次さんが書斎机の引き出しから出したペーパーナイフを
手渡した。
 夏妃伯母さんは、その中身をテーブルの上に公開してくれた。
 皆が一斉にそれを覗きこむ。
“我が名を讃えよ。”何だよこれ」
 短い文面を読み上げて、朱志香はぽかんと口を開けた。



 俺は源次さんと熊沢の婆ちゃんに向き直った。
「昨日の手紙の言う通りなら、ベアトリーチェは自称、祖父さまの最古の腹心だ。
 つまり、祖父さまの次に詳しいのは、さしずめ源次さんって事になる。話してくれませんか」
「………………………………」
 源次さんは答えない。
 問いを重ねたのは、夏妃伯母さんだった。
「お父様の妾(めかけ)、ですか?」
「源次さん、俺に言ってたよな?
 ベアトリーチェはこの屋敷ができる以前から祖父さまに仕えてたって」
「お屋敷が竣工したのは昭和27年と聞いています」
「それなら、ベアトリーチェという人は、30年以上も昔からお祖父さまと連れ添っていたという事になるね」
 って事は、例えば……その妾、もしくはその縁者や隠し子が復讐を企んだ、なんて話なら、
小説ならありがちなストーリーだ。
 が、俺の連想はあっさりと覆された。
「ベアトリーチェさまは、既にお亡くなりになったと聞いています」
「既に死んでいる……?」
「はい。お館様は、ベアトリーチェさまを蘇らせる方法として、黒魔術に傾倒なさっていったのです」
 源次さんはそう言いながら、この部屋を見よと言うように、両手を広げた。
 南條先生が、呟くように言葉を続けた。
「金蔵さんは右代宮家の当主を継いだ時、当時まだ生き残っていた右代宮家の長老たちの意向で、
亡くなった奥さんとの結婚を決められたのです」
 つまり、右代宮家にとって得になる女性との結婚を強制された――政略結婚。
「金蔵さんは、お家復興のためだけに当主に据えられ、全ての重責を背負わされたのです。
 そんな金蔵さんが、どういう経緯でベアトリーチェと知り合ったのかは、分かりかねます」
 祖父さまは、そこで初めて本当の恋に落ちた……か。
「今の僕になら分かるよ。紗代を蘇らせる方法が黒魔術だというなら、僕は今すぐにもこの部屋の次の主となって
研究を始めるよ」
 譲治兄貴の瞳から、再び一筋の涙が零れ落ちた。
 朱志香も、もらい涙だろうか、涙を浮かべて鼻をすすっていた。
 夏妃伯母さんの顔だけは、少々複雑な様子だった。
「女の私から聞けば、お義父様の純愛も少しは理解したいですが、それではお義母様の立つ瀬がありません」
 確かに。浮気は浮気。綺麗事にされちゃ祖母さまが気の毒だ。
 俺は話を戻した。
「それで、祖父さまとベアトリーチェとの間に隠し子がいたなんて話は?」
「いえ。そのような話は聞いた事がありません」



 首を振る源次さんを見て、朱志香が思い出したように口を開いた。
「そう言えば、こんな噂を聞いた事があるぜ。
 祖父さまは『福音の家』っていう孤児院に、莫大な援助をしてるんだけど。
 一時期それが、黒魔術の生贄にするためだ、みたいな噂になってさ」
「止めなさい朱志香。確かにお父様は孤児院に寄付をし、社会勉強の一環として、当家の使用人雇用枠を
開放していましたが、それだけの話です」
「その、福音の家出身の使用人ってのは?」
「昨日のシフトでは紗代と嘉哉の二人でした」
 と、源次さんが答えた。
 その時、俺の脳裏に何かが引っ掛かった。
 今までどうしても認めたくなかった、馬鹿馬鹿しすぎる符合を、改めて思い出した。
 俺はベアトリーチェの肖像画の前に立った。
 その下には、玄関ホールと同様に、例の隠し黄金の場所を示しているという碑文が書かれている。
「生贄………………か」
「な、何だよ戦人。急に気持ち悪いこと言うなよ」
「生贄を、六人」
 俺の言葉に呼ばれるように、皆が肖像画の前に群がってくる。
 そう。碑文にはこう記されている。

“第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ。”

 そうなんだ、真里亞が一番最初に言ってる。

“犯人は人間じゃない。鍵が選んだ生贄なだけ。”

 もしこれが、黄金の隠し場所なんかじゃなくて、黒魔術とやらの儀式の手順だとしたら。
 6+2+5=13。
 13人は死ななくちゃならない計算になってしまうのだ。
「夏妃伯母さん。普段この島には何人いるんですか?」
「し、使用人のシフトにもよるでしょうが、お義父様、夫に私に朱志香。
 そして使用人が二、三人。昨日今日に限っては5人いましたが」
 ……って事は。この“儀式”を実行しようとしたら、普段じゃ生贄が足らない。
 だから祖父さまは孤児院から、儀式の生贄にするために使用人を採った……。



「つまり、生贄の人数を増やすために使用人を増やし、更に人数が集まる年に一度の親族会議は、
この儀式を執り行える唯一のタイミングだったってのかよ!」
 堪えきれずに朱志香が叫ぶ。
「確かに碑文の内容は、その後をなぞっとる」
「第二の晩に、残されし者は寄り添う二人を引き裂け。
 これは、絵羽さま達の事なのでしょうか。おそろしや、おそろしや……」
「ここまで来たら流石に、そうだと判断せざるを得ないかもしれない。
 母さんたちを殺した犯人は、続く“第三の晩”の言葉を手紙に書き、その場に残したんだからね」

“第三の晩に、残されし者は誉れ高き我が名を讃えよ。”

 碑文はまだ続いている。

“第四の晩に、頭をえぐりて殺せ。”

「祖父さまだ。祖父さまも眉間に、いや、頭を抉られてた」
「祖父さまが、第四の晩の犠牲者? じゃあ嘉哉くんは……」
 朱志香が混乱気味に指を折って数えている。
“第五の晩に、胸をえぐりて殺せ。”
 犯人は、初めから嘉哉くんを狙っていたんだ」
「もし、犯人が本当にこれをなぞっているなら。まだ三人が死ななければならないというのですか……?」

“第六の晩に、腹をえぐりて殺せ。”
“第七の晩に、膝をえぐりて殺せ。”
“第八の晩に、足をえぐりて殺せ。”


「いいや、そいつはどうかな。見てみろよ」
 俺はその次の行を指差した。

“第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。”


 すると、真里亞がまた嫌らしい笑みを湛えて説明してきた。
「誰も生き残れなくていいんだよ。
“第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう。”
“魔女は賢者を讃え、四つの宝を与えるだろう。”

“一つは、全ての死者の魂を蘇らせ。一つは、失った愛すらも蘇らせる。”
 お祖父さまは、自分がこの儀式で死んでしまっても、復活できると信じてた……?」
「馬鹿馬鹿しいぜ、妄言だぜ! 死後の世界で再会できるとか、そういう類だろ?」
「一つだけ言えるのは、仮にこの筋書きを作ったのがお義父様でも、実行しているのは別の人間という事です」
 確かにそうだ。少なくとも、祖父さまと嘉哉くんを襲った犯人は他にいる。
 しかもそいつは、この碑文通り、まだ事件を続けようとしている……。



「ほら、ベアトリーチェからまた手紙だよ」
 真里亞が指差したのは、皆がさっき食べた缶詰が並んでいるテーブルの上。
 そこには、確かにベアトリーチェの洋形封筒が置かれていた。
「ええッ!?」
 夏妃伯母さんが素っ頓狂な声を上げて、自分の手元とテーブルの上を見比べる。
 伯母さんがさっき開封した封筒はまだ伯母さん自身が手に握っている。
 なのに、テーブルの上にも封筒がある――!
「全員下がりなさい!!」
 夏妃伯母さんはライフル銃を源次さんたちに向けて吠え立てた。
 他の人たちは何が何やら分からないという顔をしながら壁際へ寄った。
 が、遅れて俺も、夏妃伯母さんと同じ思考に至った。
 この中にいる誰かが、全員が肖像画に気を取られて目を離した隙に置いた事は間違いないのだ。
「戦人くん、この封筒の中身を読んで!」
「お、おう!」
 俺は封筒を拾った。封蝋はされたままだった。
 中身を検める前から、これは未開封の、未知の封筒であることがわかる!
 俺は封筒を、乱暴に千切り開け、中の手紙を引きずり出して読み上げた。

 金蔵さまの碑文の謎をお楽しみいただいているでしょうか。
 皆様方には時間が多くは残されてはおりません。
 どうか、嵐が過ぎ去れば逃げ出すことができるという甘えをお捨て下さいませ。
 このゲームには、私と皆様方のどちらが勝つかの結果しかない。
 時間切れは私の勝ちとなる。引き分けはありません。
 そこをどうか誤解なきようお願い申し上げます


「この手紙を誰が置いたかは明白ではありません。
 ですが疑わしき人物を絞る事は出来ました。貴方たちです!」
 夏妃伯母さんは、壁際に立つ内の四人――真里亞、源次さん、南條先生、熊沢の婆ちゃんを銃口で
指していった。
「奥様……。それは、あんまりにございます……」
 おろおろと取り乱す熊沢の婆ちゃんにも、夏妃伯母さんは容赦ない。
「私が肖像画の前に行く直前、ここに缶詰を置いた時、手紙は置かれていませんでした。
 その時、既に朱志香と譲治くん、戦人くんは肖像画の前にいた。
 そして彼らはこの手紙が現れるまで肖像画の前を離れていない。
 つまり貴方たち四人の中に、犯人がいます!!」
 確かに、その通りなんだ。
 彼ら四人だけが、俺たちの死角で手紙を置けた。
 その絶対的な事実の前でも、けろりとした様子なのが真里亞だった。
「ベアトリーチェは真里亞たちじゃないもん!
 ベアトリーチェは千年を生きる黄金の魔女なんだよ。
 もうすぐ黄金郷の扉が開かれる。全ての死者が蘇る」
「よせ真里亞! 無意味な挑発はよしやがれ!」
「戦人お兄ちゃん達は、誰が犯人ならいいの?
 自分たちの中に犯人がいると信じたくない時だけベアトリーチェを信じて、親しい人を殺された恨みを
晴らしたい時だけ、暴力をぶつけられるニンゲンの犯人を信じたがってベアトリーチェを否定する。
 真里亞には分かんないよ」
「………………はっきりさせておきます」
 夏妃伯母さんの声が、冷たく響いた。
「右代宮家代表、右代宮夏妃として宣言します。
 誰が何を企もうとも、娘たちには指一本触れさせない。
 それが母としての、当家代表としての務めです」



 それが決別の言葉となった。
 夏妃伯母さんは、娘である朱志香を守るため、疑わしき人物の全てを敵と見なしたのだ。
 俺と譲治兄貴がこちら側にいるのは、たまたま俺たちが、この手紙についてだけアリバイを証明できたに
過ぎない。
 もし俺が、肖像画に近付かなかったなら、俺も疑わしいと罵られていたのだろうか。
 夏妃伯母さんは、自らの口から、彼らに出て行けとは言わなかった。
 南條先生がその言葉を言わなかったなら、この沈黙はいつまでも続いたに違いない。
「分かった。わしらは部屋を出ましょう」
「ほ、ほほほ……。子連れの熊が一番恐ろしいと言いますからね」
「奥様、この部屋の鍵です。2本とも、お預けします」
 源次さんの懐から、2本の金色の鍵が取り出され、夏妃伯母さんに手渡された。
「それから、私が持っているお屋敷内の鍵束もお預けいたします」
 10本くらいの鍵束も、そのまま手渡した。
「それでは皆様、お休みなさいませ」
 俺たちは、源次さんに返事する事も出来ず、疲れきった表情で、彼らが出て行くのを見送った。
 扉が閉まり、オートロックの音を聞くと、ようやく呼吸を許された気がした。
 俺はずっと握り締めていて、汗で歪んでしまったベアトリーチェの手紙に、実は2枚目があった事に気づいた。
 紙がぴったりくっ付いていたので、1枚と勘違いしてしまっていたのだ。
 2枚目に文字はなかった。
 描かれていたのは、血のような赤いインクで書かれた魔法円。
 円の中に、大小二つの三角形が組み合わされたような、シンプルな物。
 例によってそこにはヘブライ語が書かれていて、何かの意味を持っているのは明白だった。
 が、唯一、魔法円の意味を理解できる真里亞は、もう部屋から追放されている。
「これで、もう安全です。もう……絶対に」
 夏妃伯母さんはそう言いながらも、ライフル銃を手を放せずにいる。
 俺たちも安堵の息を漏らす事は、まだまだ出来なかった。
 少なくとも、うみねこの鳴き声を再び耳に出来るまでは――。



 夏妃伯母さんはライフル銃を持ったまま、扉を正面にしながら、ソファーに深く腰をかけていた。
 譲治兄貴は、カーテンを閉じた窓の隙間から、中庭と、それを囲む屋敷を眺めている。
 朱志香は、夏妃伯母さんの脇のソファーに斜めに腰掛け、虚ろな表情を浮かべていた。
 さっき兄貴に教えられたが、朱志香は嘉哉くんの事が好きだったらしい。
 俺は、あの2枚目の手紙に書かれた魔法円の意味を調べようと、祖父さまの蔵書を漁っていた。
「――見つけた」
 捲り続けていた本に、2枚目の手紙に書かれた魔法円と同じ物があった。
 譲治兄貴も覗きこんでくる。
 その名は、火星の3の魔法円。
 ヘブライ語で書かれているのは、旧約聖書の詩篇、第77篇13節の一部だと言う。
“あなたのように偉大なる神が、他におりましょうか。”
 魔法円の意味するところは、“不和”。
 内部分裂を煽り、敵を自ずから瓦解させる。
「じゃあ、この手紙は罠だってのかよ? どうやってここに置いたんだよ?
 この部屋には私たち8人以外には誰もいなかったんだぜ?」
「とにかく、犯人の狙いはたった一つ。
 この書斎に疑心暗鬼を引き起こして、俺たちの手で生贄を外へ出させる事だった……!」
「だとしたら、狙いは、外へ出された人たちだ!」



 譲治兄貴が叫んだ時、けたたましい電話の音が響き渡った。
 祖父さまの書斎机の上に置かれたアンティークな内線電話だった。
 だが夏妃伯母さんは、おののいた顔で言った。
「どうして電話が? 故障していて使えないはずなのに……」
「取ろう、伯母さん! 何かの理由で電話が回復したのかもしれない」
 兄貴に促され、夏妃伯母さんは受話器を取った。
 俺たちは固唾を呑んで、その電話の相手が何者か探ろうとする。
 夏妃伯母さんは、受話器に耳を強く押し当てた。
「え? これは………………歌?」
「歌って何ですか、伯母さん」
「電話の向こうで微かに、誰かが歌っているのが聞こえます」
「ちょ、ちょっと受話器を借りますぜ」
 俺は、呆然とする夏妃伯母さんの手から受話器を奪い、耳を押し付けた。
 確かに、受話器の遠くで、誰かが歌っているのが聞こえる。
「もしもし!! 誰だ、歌ってるのは真里亞なのか?」
 こうなるともう、居ても立っても居られなかった。
 俺たちは我先に廊下へと飛び出した。
 夏妃伯母さんはライフル銃を高々と構えて先頭に。
 俺も素手というわけには行かないだろうと、三叉の燭台を得物とした。
 蝋燭を挿すトゲが短いながらも付いているので、さながら三叉の槍のようだった。
 一階にたどり着いて耳を澄ますと、微かに聞こえる。
 客間から、真里亞の声が。
 それはまるで、学校の授業などで命じられて歌うような、機械的な歌い方。
 蝶々がどうとか、花がどうとか、誰もが学校で一度は歌った事があるに違いない平凡なメロディだ。
 しかし、それを何故こんな深夜に、延々と一人で……?



 客間の扉は閉まっていた。
 だが、真里亞の歌声はその中から聞こえてくる。
 夏妃伯母さんが扉の取っ手状のドアノブに手を掛ける。
 それを譲治兄貴が制した。
「扉は僕が開ける。夏妃伯母さんと戦人くんは、武器を構えてて」
 言って兄貴は扉を押すが、すぐに硬い施錠の手応えがあった。
 夏妃伯母さんがポケットから鍵束を出すと譲治の兄貴に託した。
「…………開いた」
 俺も覚悟を決める。
 向こうが何か武器でも持ってるなら、俺だってこの燭台をお見舞いしてやる。
「行きますッ!!」
 俺と夏妃伯母さんは、扉に体当たりをするようにして客間に飛びこみ、左右に素早く別れ、客間の中で
待ち受けているかもしれない敵を探した。
 しかし、俺たちの目に飛びこんできたのは、あまりに異様な光景だった。
 客間は、血で染まっていた。
 俺たちが今日の一日のほとんどを過ごし、何者かの悪意から身を守るために身を寄せ合っていた
その場所が、血の海になっていた。
 床には、源次さん、南条先生、熊沢の婆ちゃんの三人が、全身を血に染めて横たわっていた。
 しかし、彼らを彼らだと識別できたのは、あくまでも服装からだ。
 三人の顔面は、倉庫の中の親父たちのように、破壊の限りを尽くされていた。
 彼ら三人の体はまだ傷つけられていた。
 あの、“悪魔のアイスピック”でやられたのだろう。
 源次さんの腹、南條先生の腿、いや、膝、熊沢の婆ちゃんのふくらはぎの辺りにも、無残な傷が
付けられていた。

 第六の晩に、腹をえぐりて殺せ。
 第七の晩に、膝をえぐりて殺せ。
 第八の晩に、足をえぐりて殺せ。


 これで第八の晩までが、終わってしまったのだ。



 真里亞は、居た。
 未だ外れたままの受話器が揺れる電話のそばに、たった一人で座りこんでいた。
 中空を虚ろに見上げて、歌い続けていた。
 部屋にあったのは、それだけ。
 俺たちはもう、悲鳴すら出なかった。
「ま……真里亞! 歌うのをやめろ!」
 俺は燭台を構えたまま駆け寄り、半ば暴力的にその肩を揺すぶった。
 真里亞の小柄な体はあっさり引き倒されて転んだ。
 そして、いつもと変わらない真里亞の表情で俺を見つめる。
 この状況で、いつものように!
「真里亞ッ、これはどういう事なんだ? 誰がやったッ?」
「何の事?」
「いい加減にしろッ!!」
 俺は、持っていた燭台を壁に投げつけた。
「よすんだ、戦人くん! 真里亞ちゃん、今度こそ君は、三人を殺す犯人を見たはずだよ。
 犯人は、君に手紙を渡したという、ベアトリーチェなのかい?」
 真里亞は、こくりと頷いた。
「ああ分かったぜ。19人目はいるんだよ、ベアトリーチェは実在する。
 じゃあ真里亞、奴はこの三人をどうやって殺したんだ」
「そんなの知らない」
「知らねえって事はねえだろ! この部屋での出来事だぞ!」
「落ち着いて戦人くん!」
 譲治の兄貴は、いつも真里亞にそうしていたように、彼女の目線に合うように跪くと、努めて優しく語りかけた。
「真里亞ちゃんは、どうしてここで歌を歌っていたんだい?」
 真里亞には、まだ虚ろな顔つきが残っていた。
「よく……分かんない。ベアトリーチェが、歌っていなさいって言ったんだと……思う」
「じゃあ、ベアトリーチェがここへやって来たんだね。
 その時にはまだ源次さんたちは生きていたんだよね」
「皆で……客間に来て座ってた。源次さんはちゃんと鍵を掛けてたよ」
「確かに鍵は掛かってたが、じゃあどうやってベアトリーチェは客間に入ってきたんだよ」
 俺が口を挟むと、真里亞は首を傾げて思い出すように答えた。
「ベアトリーチェは魔女だから鍵なんか関係ない。蝶々になって、扉の隙間から通り抜けて来れるんだから」
「そんなわけねえだろ」
「信じられないよね? でもベアトリーチェは魔女なの。不思議な魔法で何でも出来るの。 
 鍵の掛かった扉なんか全然関係ないんだよ」
 気味の悪い声でひとしきり笑うと、真里亞は調子を取り戻したようだった。
 もちろん、その調子ってのは悪い意味での話だ。
「ベアトリーチェは言ってた。
 お祖父さまの書斎は強力な力に守られていてどうしても入れない。
 だから、あと三人の生贄はこの客間の四人の中から選ぶって。
 そうしたら……そう、ベアトリーチェは真里亞に言ったの」

“さぁさ、あなたは、お歌を歌って聞かせなさい。
 あなたはたくさんたくさんお歌を歌うから、もう何も分からない分からない。
 さぁさ、楽しいお歌を私にたくさん聞かせておくれ。”

「そう。だから真里亞は何も分かんないの」
「それを信じろってのか!」
 俺は真里亞の肩につかみかかった。
 それでも真里亞は、にたにたと笑うばかりで怯まない。
「これで第八の晩は終わったよ、ベアトリーチェは蘇る」
「ふざけんな、魔女なんているもんかッ!」
 もうそんな話は金輪際ごめんだ。煙に巻かれてたまるか。
 この俺は絶対に認めない、ベアトリーチェなんて“い”ない。
 存在なんかさせない、蘇りもさせない。伝説は永遠に伝説のままだ!!
「…………あれ?」
 この場には似つかわしくないような、素っ頓狂な声は朱志香の物だった。
「か、母さん? どこ行ったの……?!」
「さっき、手紙を読みながら一人で出て行ったよ」
 真里亞がぽつりと呟いた。
 朱志香が後を追おうと扉の取っ手を引っ張ろうとすると、妙な手応えで何故か開かない。
「母さん、お母さんッ! 何これッ! 開けて、開けて……ッ!」



★断章――???――★

 夏妃の姿は、ひとり、玄関ホールにあった。
 あのベアトリーチェの肖像画の飾られた場所だ。
 夏妃は、客間で読んだベアトリーチェの最後の手紙をその場に捨て落とすと、ライフル銃を構え直し、
朗々と響く声で、玄関ホールの巨大な空間で叫んだ。
「右代宮家代表、右代宮夏妃です。姿を見せなさい。黄金の魔女、ベアトリーチェ」
 玄関ホールは暗い。
 僅かな灯りで中央が照らし出される以外は、漆黒の闇で塗りつぶされている。
 その、闇の中に、妾は存在する。
 黄金に輝く蝶として舞い、煌きながら。
 夏妃は肩で息をつくと、妾に向かって銃口を向けた。
「ようやく、本当の姿を現しましたね。
 まさか、あなたが、あなたのような者が居たなんて。
 私は未だ信じる事が出来ない。でも、それは問題ではありません。
 右代宮家の代表であると自負する私と、右代宮家の当主を引き継いだと名乗る貴女が、今この場にいる。
 さあ、決着をつけましょう。右代宮家を真に引き継ぐ者はどちらか。
 この右代宮夏妃か、貴女、ベアトリーチェか。
 貴女の決闘の申し出、謹んでお引き受けさせていただきます……」
 妾はゆっくりと、薄明かりの中に歩み出た。
 夏妃は、ライフル銃を構え、睨んでいる。
 指が、引き金に掛かった。



「せえのッ!!」
 俺が思いきり助走をつけてから体当たりすると、観音扉の閂に使われていた職台がひしゃげて壊れ、
扉に隙間を作る事を許してくれた。
 その隙間から燭台に何度も蹴りを加え、ついに扉を開放する。
 その時、確かに聞いた。
 乾いた銃声が、一度。
「母さん!! お母さん!!」
 音がした玄関ホールは、まるで舞台の上のようだった。
 悲劇のヒロインがライトを浴びて横たわっているかのように、夏妃伯母さんが仰向けになって倒れていた。
 朱志香が半狂乱になりながら夏妃伯母さんに駆け寄った。
 夏妃伯母さんの額には、まるでピジョンブラッドの煌きを一粒あしらったかのような跡が。
 そこから一筋の血の化粧が、目元から表情を横断していく。
 夏妃伯母さんが持っていたライフル銃の銃口から、一筋の煙が立ち昇っていた。
「母さん、母さん母さんッ!!」
 朱志香は夏妃伯母さんの胸にすがり付いて泣き続けていた。
 譲治兄貴は夏妃伯母さんの周囲を丹念に歩き回っていた。
「手紙がない! 伯母さんは何を読んで、どうしてここに誘い出されたんだ?」
 ――もう、訳が分からなかった。
 俺は怒りに身を焦がし、夏妃伯母さんの手からライフル銃を奪って、全方位の暗闇に銃口をぐるぐると、
まるで灯台のように向けては犯人の姿を探した。
 真里亞だけが、淡々としていた。
「第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。
 そして、第十の晩に旅は終わり、黄金の郷へ至るだろう。
 これで全部終わったね、ベアトリーチェ。おめでとう、おめでとう」
 ホールの肖像画の下へ歩み寄り、夢見るかのような甘い声で囁きかける。
「だから真里亞を導いて。あなたの話してくれた黄金郷へ……今こそ……」
「いい加減にしやがれ! 何が楽しい、何がおめでたい!!
 14人も死んだんだ! 残りは俺たち4人だけだ!
 俺は絶対に死なねえ! 夜が明けるまで、台風が過ぎ去るまで、また船着場にうみねこ達が帰ってくるまで、
俺は絶対に死なねえんだよ!!」
 震える手に持つ銃をもう一度強く握りしめる。
 が、真里亞の顔色は変わらない。
 これが最初から決められた運命なのだと言わんばかりの、達観した表情だった。
「よしなよ戦人お兄ちゃん。ベアトリーチェに銃なんて意味ないよ。
 それに、もうお終いなんだよ。もう旅は終わったんだよ。ほら、時計を見てごらん」



 その言葉に、俺たちはホールの置時計を見た。
 2本の針は頂点で交わろうとしている。
 もうじき12時……即ち、24時を迎える。
 0時とも呼ぶ。
 一日の全てが満ちた時刻にして、新しい一日が始まる時刻でもある。
「ベアトリーチェ!!」
 真里亞が突然、嬉しそうに叫び、暗がりへ駆けて行く。
 まるで、その暗がりの中にいるベアトリーチェに駆け寄って行くかのようだ。
 俺は銃口を向けながら、朱志香は母の屍を抱きながら、譲治の兄貴は呆然としながら、その闇の向こうを
見た。
 いや、駄目だ。駄目だ。全然駄目だ。
 あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない! 絶対にあり得ない!
 こんな滅茶苦茶あって堪るもんか、俺は断じて魔女なんて認めねえ!
 真里亞が笑顔で飛びついてる相手が誰だかなんて認めねえ!
 ライフル銃のレバーを力強く引くと、薬莢が排出されて床に転がり次弾が装填される。
 俺は銃口越しに、黄金の魔女を捉える。
 真里亞は、黄金の魔女にしがみ付いたまま、振り返った。
「だから、ベアトリーチェに鉛弾なんて意味ないってば」
「貴様は誰だ!! 一歩でも動いてみろ、指一本でも動かしてみろ! こいつをブチ込んでやるッ!」
「きひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひひ、
 くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす、
「くっくっくっくっくっく、くっくっくっくっくっく、くっくっくっくっ、
 あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ!」
 鼓膜を揺るがす哄笑に合わせて、ホールの大時計から鐘の音が高らかに鳴った。
 24時を知らせる鐘の音が。
 一日の全てが満ちた音色にして、新しい一日が始まる音色でもある。
 時間切れは魔女の勝利となると、手紙には明記されていた。
「戦人お兄ちゃん。譲治お兄ちゃん、朱志香。これで旅は終わって、魔女は蘇ったよ?」

 そして、誰も生き残れはしない。

 魔女は賢者を讃え、四つの宝物を与えるだろう。
 一つは、黄金郷の全ての黄金。
 一つは、全ての死者の魂を蘇らせ。
 一つは、失った愛すらも蘇らせる。
 一つは、魔女を永遠に眠りにつかせよう。
 安らかに眠れ、我が最愛の魔女ベアトリーチェ。









 …………………………………………暗い。
 何も見えない暗闇の中に、俺は一人で居た。
 頭が重い。体も重い。もう尋常じゃないくらいに重い。
 全身に漬物石でも乗せられちまってるみたいな感じだ。
 ああ、こりゃ相当寝すぎちまったんだなと、俺は思い至った。
 俺は瞼を上げるのも面倒で、聞こえて来る声に耳を傾けるのが精一杯だった。
 それでも何とか頑張って、薄目だけでも開けてみた。
 場所は変わってない。俺たちがさっきまで居た、屋敷の一室だ。
 パーティー会場のように、白いクロスを掛けたテーブルがたくさん並び、美しい料理や果物が飾られた部屋。
 それでいて、何故か明かりは薄暗く、黄金の蝶たちがたくさん羽ばたいているのが見える。
 凝った装飾のケーキをつつきながら喋っているのは、朱志香だ。
「つまり何だ? 今回は結局、犯人は暴けず時間切れのバッドエンドってオチなのか?」
「うん。きっとバッドエンド」
 真里亞の周りには、もう何枚も皿が積まれている。
 新たに空いた皿を、譲治兄貴が甲斐甲斐しく片づけている。
「そうだね。1日目の夜に真里亞ちゃんが読んだベアトリーチェの手紙に、碑文の謎を解いてみろと
ちゃんと予告してたもんね。
 僕たちは自衛や犯人を探るのに忙しくて、全然その謎に挑まなかったし」
「そうですね。ちゃんと碑文の謎に挑んでいたら、違う結末もあったのでしょうか」
 その兄貴の隣で、紅茶を注いでいるのは………………誰だ?
「紗代も酷い最期だったよな。一番最初に、あんな最悪な死体役になるなんて。
 せめて、もう少し綺麗で安らかな方法もあったろうにさ」
「そういうお役目でしたら、仕方ありません。痛かったわけでもないですし。
 それに、今はこうして全然平気ですから、へっちゃらです」
 傷ついていたはずの頬を撫でてみせると、方々から笑い声が聞こえた。
 そこに、今度は料理を載せた台車がやって来る。
「姉さんが気にする事はないよ。お嬢様方も、悲惨な最期を遂げられたって結末だしね」
「どうもそうみたいだね。下手に最後まで生き残ると、全身をバラバラに砕かれて消される描写は、
正直なところ勘弁してほしいよ」
「私は、嘉哉くんの最期が一番カッコ良かったと思うぜ。返り討ちとは言え、犯人と一騎打ちだろ?」
「結局、何も歯が立ちませんでしたが」
 カチャカチャと食器の音が鳴っている。
「ともあれ、嘉哉くんの死は重要なポイントだと思います」
「そうだね、紗代。あの時点では全員の所在が明らかだった。
 だから嘉哉くんを殺せるのは、未知の19人目しかあり得ない」
「真里亞は最初からベアトリーチェだって、ずーっと言ってる!」
「そうだよな。ベアトリーチェを名乗る、魔女が犯人って事は確かだ」
「そうですよね。人には出来ない、不思議な事が一杯ありましたし」
「僕たちは確かにラストで会ったよ。黄金の魔女にね。
 全て、人間には不可能な犯罪をやってのけてる。
 魔法の力を使いこなす、魔女のベアトリーチェにしか為し得ない犯行だよ」
「犯人は魔女だった。その一点において、何の曇りもねえぜ。ベアトリーチェさま万歳ってわけだ」
「みんな信じた。真里亞、嬉しい!」
 辺りに立ちこめるのは、紅茶の香りと、焼きたてのクッキーからのバニラの香り。
 真里亞を中心に、楽しげに碑文の謎をあれこれ推測して賑わう面々。
「………………ちょいと待てよ、お前ら……!」
 俺は懸命に意志を絞って、体を起こし、立ちあがった。
 俺のその動きに、全員が顔を向けてきた。
 譲治の兄貴がいる。朱志香がいる。真里亞がいる。
 そして、紗代ちゃんと嘉哉くんがいる。
 何事もなく、当たり前のように立っている!
「何だよ、何なんだよ。
 大体、どいつもこいつも、何を訳の分からねえ事で盛り上がってんだよ!
 死んだとか殺されたとか最期とか!
 一体全体、何がどうしちまってんだよこりゃあ!!」
 対して皆は、きょとんとした表情のままだった。
 こいつは何を変な事を言い出すんだろう?と言わんばかりだ。
「戦人。悪いけどお前、頭、大丈夫か?」
「あの、冷たいお飲み物でもお持ちしましょうか?」
「やっぱり、戦人お兄ちゃんは“この場所”に連れて来ない方が良かったね。ずっと眠ってれば良かったのに」
「は? 何の事だよ。
 第一、俺たちは、何だかよく分からないトリックで犯人に……殺された……はず、だろ?」
 台詞の最後の方は、我ながら言うのが辛かった。
 だってよ。現に、こうして生きてるんだぜ、俺たち。
 確かに全員殺されたはずなのに!
 そんな俺の混乱を鎮めようとするようにか、譲治兄貴が静かに言った。
「戦人くん。申し訳ないけど、この場で水を差すような事を言うのは良くないよ。
 今は、終わったゲームの反省会の時間なんだから」
「そうだよ戦人。今はもうゲーム盤の役から離れて、素のキャラに戻っていいんだぜ?」
 が、言われた俺の方は、ますますさっぱり分からない。
 ゲームって……何だよゲームって。
 役って何だよ。キャラって何だよ。
 それって、どういう意味で言ってんだよ……!
 すると、またも真里亞が気味悪い声で笑った。
「無駄だよ皆。戦人お兄ちゃんは、ベアトリーチェに“許して”もらってない。
 だから今でも、魔法を信じる事が出来ないんだよ。まるで、無知な時代の人類のように。
 地球が回ってるはずがない、宇宙は地球を中心に回ってるんだと言い張る愚か者のようにね」
「そんな……それって、戦人さまが可哀想です」
「哀れむ必要なんかないよ、姉さん。
 僕たちも戦人さまも同じ、ベアトリーチェさまによって動かされる駒に変わりはないんだから」
 ああ、そうか。そういう事か。
 俺は今、混乱してるんだ。
 妙ちくりんな出来事に出くわして、変な幻覚を見る症候群でも発症してるんだ。そういう事だ。
 クールになれ。
 頭を後ろに反らして深呼吸しろ。
 ………………………………。
 よし、落ち着いた。
 俺は目を閉じたままで、自分の前にいるだろう奴らに話しかけた。
「なるほどな。つまりお前らは俺に、魔女様は存在するって言わせたいんだろ?
 生憎だな。そいつは全然駄目だぜ。
 もう一回、チェス盤をひっくり返させてもらうぜ?
 魔女の存在を俺に認めさせたいなら、一番簡単な方法があるはずさ。
 いいか、どこのどいつがどんなドッキリでも仕掛けてるか知らねえが、だったらここに連れて来やがれ!
 その魔女様、ベアトリーチェご本人様をよぉ!」
 俺がそう叫んだ時、稲妻が部屋の中に轟いた。
 続いて聞こえてくるのは、とても涼しげで軽やかな笑い声。
 誰の笑い声……?
 初めて聞くその声に、俺は驚いて目を開いた。
 見れば、いつの間にか、譲治兄貴や朱志香、紗代ちゃんや嘉哉くんは、畏まるように固まっている。
「皆の者、面を上げよ」
 艶めいたその声に振り向いたら、そいつは俺の眼前にいた。
 それはまさしく、あの肖像画そのもの。
 漆黒のドレスをまとった、金髪碧眼の女。
 そんなのが、俺からほんの数センチの至近距離に立っていた。
 不覚にも悲鳴を上げて尻もちをついた俺を、責められる奴はいないだろう。
 だって本当に間違いなく、ついさっきまでは居なかったのに……………!
 女の名前を、真里亞が呼んだ。
「ベアトリーチェ」
「良い。これはまた、愉快な事になったものよ」
「お、………………お前、………誰だ……」
「ほう、招かれた茶会のホストも思い出せぬか。……我が細工ながら、これほどは恐れ入ったな」
「戦人さま。こちらのお方こそ、千年を生きる黄金の魔女、ベアトリーチェさまにあらせられます」
「ご機嫌麗しゅう、ベアトリーチェさま」
 嘉哉くんと紗代ちゃんが、恭しく頭を下げて挨拶をする。
「ベアトリーチェさま! 戦人くんの暴言をどうかお許し下さい」
「こ、こいつは頑固でその、まだ、自分の置かれた状況が分かってなくて……!」
 譲治兄貴と朱志香が、立ち上がろうとする俺の頭をぐいぐいと床に押しやった。
「良い良い。その男は元々、妾がそのようにこしらえたのだ。特に気骨ある人形にな」
「ベアトリーチェが姿を現してくれるのは、とても光栄な事だよ。戦人お兄ちゃん」
 参ったな。こりゃ、たまげたぜ。ここまで気合いの入った幻覚も恐ろしいや。
 目の前の女は、ぺらぺらと訳の分からない事をしゃべり続けている。
「なるほど。ともあれそなたは、我ら魔女の天敵を名乗るつもりか。
 どう逆さに振るっても、決して我らを信じないと」
「ああ、俺は兄貴たちとは違う。魔女の仕業で死んだなんて説明じゃ納得しねえぜ」
「素晴らしい。そなたは屈服させ甲斐がある。
 そなたのような男にこそ、我が名を讃えさせ、爪先にキスをさせてみたいものよ」
「そうかよ。けど俺は、お前なんか否定してやるぜ。少なくとも俺たちが死んだ事件には、一片たりとも
魔女も魔法も入りこむ余地はねえんだ!!」
「良い! それでこそ千年の退屈も紛れるというものよ。
 ならば聞こう、右代宮戦人。
 真里亞への手紙は? 園芸倉庫の6人の殺し方は?
 レシートで封印されていた書斎は? 絵羽と秀吉の部屋のチェーンロックは?
 ボイラー室での嘉哉の最期は? 源次たちの客間は? 銃で撃たれた夏妃は?
 碑文の謎は? 隠された黄金の在り処は?
 これら全てを説明するがいい! 人間によるトリックとやらで証明するがいい!
 さもなくば、妾の方こそ証明しようぞ!
 貴様らは全て妾が殺す! 殺し続ける! ああ、殺せるとも。このように殺せるとも……!」
 言って女は、手に持つ黄金の煙管を大きく振るった。
 その先から、七色の煙が柔らかく尾を引き、見る見る周囲を覆っていく。
 それこそ、魔女が振り回すケーン(杖)のようだった。
「………………ぅ、…………く……」
 途端、嘉哉くんが呻きながら、口から鮮血を垂らし始めた。
 その胸には、あの“悪魔のアイスピック”が、深々と打ちこまれている。
「嘉哉は瑣末な怒りに囚われ、妾の宴を乱そうとした。悔い改めてやり直すがいい」
「……アト……リーチェ……、……さ、ま…………」
「…………ん、………ぅ、…………ぅ……」
 紗代ちゃんも、頬を押さえながら呻き始めた。
 頬全体に、うっすらと赤い模様が広がり、見る見る内に顔半分を覆っていく。
 そして、俺はもう一度見てしまった。
 あの倉庫の中での、紗代ちゃんのおぞましい最期を。
「ぅうう、……く、………ひぃッ!!」
 今度は、譲治兄貴の全身に赤い模様が広がっていく。
 その奇怪な模様を見て、俺は、俺たちが、どんな奇怪な最期を遂げたのかを思い知って立ちすくんだ。
 やがて兄貴は、人の形さえ保てずに崩れ去った。
 ごく僅かに、下顎とあばら骨辺りを残すだけ。
 全身への異変は、隣の朱志香にも及んだ。
「く、………ぃ、……く、…………ッ!!」
「や、やめろやめろやめろッ!!
 兄貴が何をした、朱志香が何をした、死者を辱めるなッ!!」
「ば、……戦人……、痛い、痛いよ……!」
「戦人お兄ちゃん。早く、ベアトリーチェに謝って。
 じゃないと、………皆、………壊れてしまう……」
「ま、真里亞、お前も全身に……ッ!!」
「安心しろ。妾は魔法で、全ての死者を蘇らせる。
 お前ほどの男が、この程度の事で屈服することはあるまい…?」
「ば、戦人……ッ! 私たちなら、大丈夫だから。どうか戦人は、気に、し、……ッ!!」
 朱志香も同じ末路を辿った。
 崩れて解けて、兄貴のそれと混じってしまって。
「……………戦人お兄ちゃん。泣かないで。
 真里亞たちは、何度…………死んでも、…………平……、気……」
 真里亞の全身も、赤い模様がじわりじわりと蝕んでいく。
 もう限界だった。
 幻覚だろうが何だろうが許せない。
 俺は許さない。俺は認めない。俺は諦めない。
 この、目の前の相手を、消し去って葬るまでは。





 そして――俺は今もまだ、囚われ続けている。






 これをあなたが読んだなら、その時、私は死んでいるでしょう。
 死体があるか、ないかの違いはあるでしょうが。
 これを読んだあなた どうか真相を暴いてください。
 それだけが私の望みです。
 右代宮戦人




【 Interlude 】へ続く






HOME

inserted by FC2 system