2nd Game  I am a liar. (前編)

 いつまで拷問が続くのだろう。
 何度目覚めても、目覚めても、同じ繰り返しの悪夢から逃れられない。
 目を開ける度に、我に返る度に、俺はいつも死体の前に立たされている。
 親父が、お袋が、譲治の兄貴が、朱志香が、真里亞が、右代宮(うしろみや)の親族の皆が、使用人の皆が、
みんなみんな壊されていく。
 その死に方も多種多様、よりどりみどりと来たもんだ。
 腹を裂かれ、頭を割られ、滅多刺しにされ、粉々に砕かれて消えていく。
 それで気づけば、あのお茶会とやらの部屋に座らされている。
 その度に現れるのがあの幻覚だ。
 金髪碧眼、黒いドレスの屑野郎。
 けたけたけたと悪趣味に笑いながら、これは自分が作った推理ゲームのゲーム盤だ、
自分はゲームマスターだ、貴様は駒だ人形だと、意味不明な話を喋り続ける。
 終いには、とうとう俺自身にも死体役が回ってきた。
 例の「悪魔のアイスピック」が7本まとめて、キューに弾かれたビリヤードの玉みたいに、
部屋中の壁に何度も乱反射して、そのうち啄木鳥の啄ばむ音みたいに激しくなって――
全身を滅多突きにされて壊された。
 両の手の甲、両の足の甲、両の肩、鼻の頭。
 何が何だか分からなくなったところに、女が歌うように声をかける。
「さぁさ、思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか。
 何しろ妾には、今のそなたは肉の残骸の山にしか見えぬのでな。
 どれが腕やら足やら見当もつかぬ。
 そなたが思い出してくれなければ、妾にはそなたの面影も思い出せぬ。くっくくくく!」
 何度も何度も繰り返されて、もういい加減にしてくれと弱音を口走ったら、裸に剥かれて引き回された。
 首に鎖をかけられて、女の手に飼い犬のように握られて。
 ふざけんじゃねえぞと怒鳴ったら元に戻って正気に返った。
 そんなこんなの繰り返し。
 無限の殺害も、無限の蘇生も自由自在。
 無限の魔女ベアトリーチェの前には、全ての生き死には意味をなさない。
「さあ戦人。再び元の姿を思い出すがいい。何度でも弄んでやるぞ?
 なるほどなるほど、永久に遊べる玩具とは実に愉快。
 これが無限の境地に至った魔女が得る至福の境地とやらなのか。
 くっくくくくくくくく! わっはははははははは!!
 何度でも蘇らせてやる、何度でも殺してやる!
 さて、次なるゲーム盤ではどのような殺人劇を繰り広げよう?
 さあ、新しきゲーム盤を持て。
 次なるゲームを始めようではないか、右代宮戦人ぁ!!」



 ――そんな夢を見た。ような気がする。
 参ったね、こりゃ昨夜に読んでたやつが響いたかな。
 俺は頭を振って、まとわりつく妄想を払い落とした。
 今日は10月4日。ここは、3年ぶりに帰って来た、伊豆の六軒島(ろっけんじま)。
 俺の名前は右代宮戦人(うしろみや ばとら)……って、そこまで確認するほど、俺もボケてないはずだが。
 富豪の祖父さまの下の親族会議とやらに興味は無いが、こうして浜辺でいとこ達、それから使用人の
紗代ちゃんと一緒に過ごしていると、やっぱり戻って来て良かったのかなとも思う。
 それで俺たちが何をしてるかと言えば。
 あの偏屈な祖父さま・右代宮金蔵が作ったとされる暗号について、初めて知った俺に、仲間たちが
レクチャーしてくれてるって寸法だ。

 懐かしき、故郷を貫く鮎の川。
 黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ。
 川を下れば、やがて里あり。
 その里にて二人が口にし岸を探れ。
 そこに黄金郷への鍵が眠る。
 鍵を手にせし者は、以下に従いて黄金郷へ旅立つべし。
 第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ。
 第二の晩に、残されし者は寄り添う二人を引き裂け。
 第三の晩に、残されし者は誉れ高き我が名を讃えよ。
 第四の晩に、頭をえぐりて殺せ。
 第五の晩に、胸をえぐりて殺せ。
 第六の晩に、腹をえぐりて殺せ。
 第七の晩に、膝をえぐりて殺せ。
 第八の晩に、足をえぐりて殺せ。
 第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。
 第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう。
 魔女は賢者を讃え、四つの宝を授けるだろう。
 一つは、黄金郷の全ての黄金。
 一つは、全ての死者の魂を蘇らせ。
 一つは、失った愛すらも蘇らせる。
 一つは、魔女を永遠に眠りにつかせよう。
 安らかに眠れ、我が最愛の魔女ベアトリーチェ。



「しかし真里亞はマメだな、ちゃんとメモしてるとは偉いぜ」
 と、朱志香(ジェシカ)はしみじみと頷いていた。
 因みに、こんな変わった名前でもれっきとした日本人だ。念のため。
 真里亞がいつも持ち歩いてる、子供らしいピンク色の手提げから出した手帳には、
その「ベアトリーチェの碑文」が全文書き写されていた。
「まず1行目。懐かしき、故郷を貫く鮎の川、か。 祖父さまの故郷ってどこだっけ?」
「戦前の右代宮家は小田原の辺りに屋敷を構えてたって聞いたぜ。
 となりゃ、小田原に流れてる川に関心が行くだろ?」
「黄金郷を目指す者は、そいつを下って鍵を探せと。小田原にある川って何だ?」
「小田原で鮎って言ったら、早川だろうね。渓流釣りで有名だよ」
 という譲治兄貴の説明を、紗代ちゃんは隣で静かに聞いている。
 紗代ちゃんは、午後の仕事は暫くないという事で、俺たちに付き合ってくれていた。
 歳の近い人間たちと一緒に会話に加われるのが楽しいんだそうで。
 聞けば彼女は、ずっと住みこみで働いているという。
 歳の近いのは朱志香だけだ。
 なるほど、そりゃあ味気ないよな。
「さて、それじゃ、その早川を下ると何がある?」
 という俺の言葉に、紗代ちゃんが応じる。
「えっと、…………下流に出て、海に出ると思います」
「そう、そして碑文の3行目には、川を下ればやがて里ありとある。
 河口部は大抵、大昔から輸送の要衝になってて大きな都市がある」
「なかなかいい筋だね。そこは大昔にとても栄えた古都だよ。小田原城がある所だね」
 と、譲治兄貴が頷いた。そこに朱志香が口を挟む。
「私たちも最初そこまでは行き着いたぜ。問題は次の行だろ」
 その程度で謎が解けるなら、とっくの昔に私が見つけてるぜ。
 そう言わんばかりに、ニヤニヤと笑っている。
 だったら見つけてやろうじゃねえかよ。
「4行目。その里にて二人が口にし岸を探れ。岸って何だよ。 岸って名前が付く地名でもあるのか?」
「えっと、……曽我岸という地名が小田原にあるんだそうです」
「おお、詳しいな紗代ちゃん!」
「い、いえその、以前に譲治さまから教えてもらっただけで……」
「私たちも同じ推理に行き着いたってわけさ。わざわざ地図を広げて調べたんだぜ」
「小田原城の、北に5kmくらいだったかな。確かに曽我岸という地名があるよ。
 でも、そこからが分からないんだ。次の5行目にはその土地のどこに鍵があるかは記してない。
 そうだよね真里亞ちゃん?」
「うん。そこに黄金郷の鍵が眠る。これしか書いてない」
「曽我岸ったって広いし、そこに右代宮家の家があったわけでもない。
 その広大な土地のどこかに鍵が隠されててノーヒントってんじゃ、こいつぁお手上げってわけだぜ」
「確かにな。鍵が手に入らない事にはその先の行に進めない。そもそも曽我岸ってのが間違いって気がするな」
「私は曽我岸を疑ってるぜ?
 私たちが知らないだけで、例えば祖父さまの子供時代を過ごした家とかがあるかも知れない。
 1行目に、懐かしき故郷を~って行があるくらいだもんな。
 紗代は、祖父さまから昔話とか聞かされた事ないのか?」
「お館様は昔の話はほとんどされません。ただ、右代宮家が滅びかけた関東大震災について、
他人事のように話される事がありますので、関東地方よりずっと遠方にお住まいだったかもしれません」
「右代宮本家は小田原に住んでたかもしれないけど、分家はその限りじゃなかったろうね。
 お祖父さまはよく自分の事を、跡継ぎに最も縁遠かった分家、と言われるくらいだから」
「つまり、懐かしき故郷ってのが既に、小田原じゃない可能性もあるって事だな」
「祖父さまの故郷なんて聞いた事もないぜ。 聞いても、素直に教えちゃくれねえだろうし」



「いや待てよ? 最初の5行で見つかるのは鍵だろ? 
 鍵がなくても、扉をブチ壊して入る事だって出来るんだ。
 取りあえず最初の5行をすっ飛ばして、その先の推理に入ってもいいんじゃねえか?」
「でも、その先からは急に物騒になるんですよね……」
 紗代ちゃんがちょっぴり眉をひそめる。
 言われて改めて真里亞の手帳を見て、納得した。
第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ……か」
第二の晩には寄り添う二人を引き裂け。
 恋仲を破談させるのか、文字通り引き裂くのか分かりかねるけど、気持ちの悪い話だぜ」
「その第二の晩の解釈を別にしても、第一の晩に6人。第四の晩から第八の晩までで5人、
 少なく見積もっても11人が生贄にされなきゃならない」
「ベアトリーチェが蘇るための生贄なんだよ」
 と、真里亞が神妙な顔でつぶやく。
第九の晩に魔女は蘇り、誰も生き残れはしない
「それでようやく次の第十の晩にゴール。
 みんな死んじまうのに、黄金郷へ至るだろうって言われても困るぜ」
「やれやれ、せっかくの隠し黄金の話も、魔女の話が絡んじまうと急に胡散臭くなっちまうぜ。
 あっはははははは!」
 そもそも魔女なんて馬鹿馬鹿しい話だと、思わず声を上げて笑った。
 そこで失敗した。
 魔女の存在を信じている真里亞が、すっかり機嫌を損ねてしまったのだ。
「魔女は凄いの! 魔法で何でも出来るの! 黄金もパンも生み出せるの!」
「あ。悪い悪い、冗談だよ」
 慌てて謝ったが、真里亞はなかなか静まらなかった。
「……戦人お兄ちゃんは、きっとベアトリーチェのお怒りに触れるよ」
 暫く、真里亞はむくれた顔で腕組みしていたが、やがて決心したように、手帳のページを捲り始めた。
 単なる落書き日記帳かと思っていたが、魔法陣みたいな物を模写したページも多くあった。
 どうやら、怪しげな黒魔術趣味を持つのは祖父さまだけではないらしい。
 調べ物を終えたのか、真里亜は手帳を勢いよく閉じると、それを手提げに放りこみ、更にその中身を
漁り始めた。
 さっきまでの険しい表情からは想像もつかないくらいに晴れ晴れしい顔で、ソレを俺の前に差し出した。
 緑色の石細工の数珠によるブレスレットに、サソリをモチーフにした金属メダルの付いた物だった。
「これを俺に?」
「このお守りならベアトリーチェも大丈夫。サソリは魔除けの力があるから」
 そう言って、お守りの効能を語る頃には、真里亞は完全に元気になっていた。
 こんなに上機嫌になってくれたなら、もう少しここで盛り上がっていてもいいだろう。



 最初は真里亞の黒魔術趣味について教わり、続いて話題は3年前の思い出話へ移っていった。
「3年前か。色々ありすぎて、思い出せって言われても逆に困るんだけどな」
「そうだね。僕たちにとっては大切な期間だったはずだよ」
「真里亞は、よく覚えてなかった。戦人お兄ちゃんの事」
「そうですよね。真里亞さまはまだ2年生でしたし」
「それを言われたら俺もだぜ。あの真里亞が、こんなに背が伸びてるんだから」
「そういう戦人くんこそ、本当に背が伸びたね。僕も低いつもりはないけど、とにかくその身長には驚いたよ」
「そうですね。あの頃の戦人さまをよく覚えておりますが、それでも驚くくらいでした」
「そうだよな。あの頃の戦人からは想像がつかないくらいだったぜ」
「みんな、案外、昔の事覚えてるもんだな。俺なんか、かなり記憶があやふやだってのによ」
「本当に、覚えておられないのですか? 私は、つい昨日の事のように鮮明に覚えておりますが」
「紗代は記憶力がいいからね。
 当時、戦人くんがどんな事をしていたとか言っていたとかも、覚えてるんじゃないかい?」
 譲治兄貴が紗代ちゃんに向けた質問に、朱志香が便乗した。
「紗代。あの頃の戦人はどんなだった? 何かエピソードを覚えてないのかよ?」
「確か、お帰りの際、このようにおっしゃいました。
 “また来るぜ、シーユーアゲイン。きっと白馬に跨って迎えに来るぜ。”
 …………………………………………。
 言われた言葉の意味が分かるまで、100秒以上かかったと思う。
 気づいた時には、息が切れるまで絶叫を続けてた俺である。
「確かに! 昔の戦人はそんな感じのバカっぽい台詞ばかり言ってたぜ」
 朱志香は、まさしく腹を抱えて涙を浮かべて笑っていた。
 そんな朱志香を見ながら、真里亞が不思議そうに俺に訊く。
「恥ずかしい?」
「……あぁ。最高に恥ずかしいぜ……」
 俺は正直に答えた。
 勢いに任せてポンポンと喋った内容を、後で正確に復唱されるほど、身の置き所の無くなる事はないだろう。
「紗代。他にも何か恥ずかしい事は覚えてないのかい?」
「ええ、まあ……、他にも色々と覚えておりますけれど……」
「か、勘弁してくれよ、紗代ちゃんよおおお……!」
 譲治兄貴まで暫くの間、紗代ちゃんから俺の失言を聞きだそうとして、俺をからかうのだった。



 その後、真里亞は砂浜で棒を使って、譲治兄貴と紗代ちゃんに魔法陣の書き方を教え始めた。
 俺は、同じように浮いた形になった朱志香に、気になっていた事をこっそり尋ねた。
「朱志香。譲治の兄貴ってさ、紗代ちゃんと付き合ってたりする?」
「おおお? 何々、何で分かったんだよ!?」
「って、ええ? 俺、冗談で言ったつもりだったけど、本当に付き合ってんのかよ?」
「一応、内緒の付き合いってやつだけどな」
「な、なるほど……。使用人との恋か」
 実は昔、ちょっぴり彼女を意識していた頃もあったと思い出す。
 って事は、さっき紗代ちゃんが自重してくれた、俺の恥ずかしい台詞集は、それ関係って可能性が高いな。
 ああ……何だかむず痒くなってきたぜ……。
「ところで。譲治の兄貴は、紗代ちゃんと付き合ってるとして。まさか、朱志香までって事はないよな」
 さらりと話題を変えると、朱志香は何とも分かりやすく赤面した。
「えええッ!? どどど、どうしてそう思うんだよ?」
「薔薇庭園で挨拶した嘉哉くんって子。口下手だからって朱志香、やたらと庇ってたからさ」
 今、この島にいる男で、朱志香と恋仲になれそうなのは嘉哉くんくらいしかいないんだから。
 ……ああ、久しぶりに会って、青春を謳歌しているいとこ達と触れ合うのは、本当に新鮮。
 俺は今更ながら、もっと早く鞘に収めて、この本家に家に帰って来ても良かったかなと、改めて思った。
「いとこ同士ってのも、たまにはいいもんだな……」
「真里亞もいとこで集まるの楽しくて好きー!」
 聞きつけた真里亞が、砂浜から棒を振り上げて、元気よく言った。
「同感だね。私たちいとこは、いつまでも仲良しがいいよ」
「知り合いの魔女が言ってた。幸せは、皆が信じなくちゃ叶わないんだって」
「確かに。信じる力には魔法が宿るかもしれないね」
「よし。なら恥ずかしい事のついでだ。私たちは皆で信じ合うと誓おうぜ?」
「おう! 俺たちは皆いつまでも仲良しで幸せだ。それを皆で信じようぜ」
 俺たちいとこがどんなに楽しく懐かしく振舞おうと、六軒島には暗雲が近づいている。
 でも、俺たちがこの島を去る頃には、この台風も通り過ぎ、清々しい空を見せてくれるだろう。
 親たちの思惑なんか知った事か。
 遺産も旧家とやらの面子も知った事とか。
 俺たちには何も関係ない。
 だから、何もおかしな事なんか起こらず、平和に幸せに、穏やかに、今日と明日が終わって欲しい。
 いや、終わって欲しいじゃ……ない。
 ……終わってくれ……!
 ……終わってくれ……?
「あ……あ……ああああああああああああああ!!!!」
 駄目だ、駄目だ駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ!
 思い出すな思い出すな思い出すな思い出すんじゃねえええええええ!
 あれは夢だ夢なんだ俺の妄想に過ぎないんだ!
 聞こえない聞こえない、何も聞こえない、魔女の声なんて聞こえない!!



「終わるかよおおおおッ? きっははっはははははッ!!」
 けたたましい笑い声と、ガラスが粉々に砕け散るような音を境に、俺の全方位が暗転する。
 それはまるで、楽しく見ていたテレビを急に消されてしまったような。
 暗闇の中にふわりと現れるのは、優美な顔に醜悪な笑みを湛えた女。
 再び明かりが灯れば、場所はもうあの平和な砂浜じゃない。
 茶と菓子の並ぶテーブルと椅子の置かれた、薄暗い部屋。
 その椅子にそれぞれ、俺たちは腰を下ろしている。
 何も知らない者からすれば、楽しくチェス盤にでも向かっているように見えるかもしれない。
 だが、明らかにココは普通の部屋ではない。
 何度も脱出しようとしてみたが、ドアも窓も開けても開けても同じ作りの部屋が延々と続くのだ。
 もしかしたら無限に続いているのかもしれない――とは、敢えて考えないようにしているが。
「畜生おおッ!! お前は出るなよ、現れるなよ!!」
「待たせたな。ようやく新しいゲームの用意が整ったぞ」
 にこにこと、いっそ無邪気とさえ言える笑顔で、無限の魔女ベアトリーチェを名乗る女は、俺を無視して
口上を述べる。
「さあ、始めよう、惨劇の物語を!
 訪れよ、雨よ風よ台風よ! この島を現世より切り離せ!
 異界へ魔界へ幻想界へ、六軒島を放りこめ!!」



 さあ、ここから先は妾が語ろう。
 この無限の魔女ベアトリーチェの名の下に。
 同じ物語は何度でも繰り返される。
 妾の玩具が屈するか、あるいは妾が飽きるかのどちらかまで、この幻想は紡がれ続けるのだ。
 空は暗く曇り、雨と風を呼び寄せて、台風と化す。
 薔薇庭園には、降り始めた雨を気にする事もなく、萎れかけた一輪を手のひらで庇おうとする真里亞の
姿がある。
「折れちゃう……折れちゃう……。可哀相な薔薇さんが折れちゃう……!」
 大切な物を失う悲しみと苛立ちを、しかしどこにもぶつける事が出来ず、ただひたすら嘆きながら、
彼女は立ちつくすしかない。
 風はますます強くなり、雨は冷たく大粒になっていく。
 真里亞とて、それが気にならないはずもない。
 しかし、ここで薔薇を見捨てたら、自分は永遠に後悔するだろう。
 そんな気持ちに駆り立てられながらも、彼女は寒さに震え始めていた。
 そこに、真里亞を苛む冷たい雨粒を遮る手が差し出される。
「……え?」
 真里亞は上に目をやった。
 開かれた白い傘が、彼女を雨粒から守っているのが見える。
 そう、真里亞の憧れる妾が、手にする傘だ。 
「ベアトリーチェ……!!」
「このような雨の中、何を必死になっているのやら。体を冷やせば風邪を引く事もある。
 魔女たるもの、自らの健康も気遣わねば」
「真里亞のね……薔薇が……折れちゃいそうなの」
 真里亞は妾に、元気がなくて気の毒な薔薇について説明した。
「ほう、そなたも妾の弟子ならば、魔法で薔薇を救ってみると良かろうに」
「うん……真里亞もがんばって魔法を使おうとしてるけど………でも、出来ない」
「魔法の修行にはちょうど良いかと思うが、この風雨はそなたには少々厳しいかもしれぬ」
 真里亞は悔しそうに目元の涙を拭った。
 妾は肩を竦めて、笑みを見せた。
「良かろう。妾が力を貸してやろう。薔薇を蘇らせる、無限の秘術。弟子の身を案ずるのも師匠の役割だからな」
「あ、ありがとう。ベアトリーチェ!」
 さっきまで悲しみでいっぱいだった真里亞の顔が、ぱあっと破顔した。
「うむ。ではそなたの心の力を集中させるがいい。
 目を閉じて手を合わせ、雨を忘れ風を忘れ、薔薇の魂を一心に祈るのだ」
 真里亞は素直に目を閉じた。
 続いて、妾の詠う言葉を復唱する。
「さぁさ、思い出して御覧なさい。薔薇よ、そなたがどんな姿をしていたのか」
「さぁさ、思い出して御覧なさい。薔薇よ、そなたがどんな姿をしていたのか」
「見るな。聞くな。そして信じよ。肉の檻に閉じこめられし魂の力を解放せよ………………」
 瞼を固く閉じて、心の力を集中する真里亞の周りに、小さな黄金の蝶々たちが舞い始める。
 これこそが、真里亞の持つ魔法の力の顕現だ。
「朽ちかける薔薇の魂よ。今一度集い、そしてその姿を思い出すがいい……」
 黄金の蝶たちは輝きを強め、数を増やし、妾が天高く指す、その指先に集まっていく。
 これこそが、まさしく黄金の魔法の奇跡。
 黄金の蝶たちは、眩しく輝く一粒の黄金に凝縮されていき、そして金色に輝く一滴の雫となる。
 その雫が妾の指先から、ぽとりと落ちる。
 萎れた薔薇の上で弾けた途端、花は黄金の大輪として再び開いた。
 この幻想的な光景を、真里亞はさぞや見たいだろう。
 だが、見るために目を開けば、集中力が途切れ、魔法が失われてしまう。
 この奇跡を目の当たりに出来る妾こそが、唯一の魔女なのだ。
 妾が黄金の花を、ちょんと指で突っつくと、まるでシャボン玉が割れるように輝きは飛び散り、後には
美しい一輪の薔薇が残った。
「ふむ。立派な花を思い出したようだな。これで良かろう。真里亞、もう目を開けても良いぞ」
「薔薇はどこ? どこ?」
「ほれ、こっちだ。よく見るがいい」
「わぁ、本当だ! すごいすごい! ベアトありがとうッ!
 真里亞も早く魔女になりたい、ベアトみたいな大魔女になりたい!」
「なれるとも。かつての妾もまた、そなたのように無邪気にそれを望み、至ったのだから」
 真里亞は蘇らせてもらった薔薇に、手を打って飛び上がって喜んだ。
 それを見て、妾も満更でもない気持ちになった。
 今や、妾の手にかかれば薔薇に限らず、全ての魂は壊すも直すも、殺すも蘇らせるも思いのまま。
 さぁ、嵐の結界は六軒島を現世より閉ざした。
 今こそ、無限の魔女にして黄金の魔女、ベアトリーチェの降臨する時。
 妾は、懐より片翼の鷲の家紋の入った封筒を出し、それを真里亞に託した。
 真里亞は、魔女のメッセンジャーに選ばれた事に、はしゃいでいた。
 妾は続いて、此度のゲーム盤の大事な参加者の下へ声をかける。
「さて、金蔵。そなたの遊びに再び付き合いに来たぞ。
 妾の準備は既に万端よ。そなたの方はどうなのか? 
 今宵のゲームに賭けるコインの用意は充分であろうな?」



 金蔵は、降り出した雨に気づいたか、その音に誘われるように窓辺へ近づいた。
「遅かったではないか、ベアトリーチェ……」
 その言葉は降雨の空に告げた物だろう。
 金蔵の遠い眼差しの先に、応える者の姿はない。
 妾は、金蔵の眼下にいた。
 孤独な、老いた主のすぐそばに。
「愚かな金蔵。私はここにいるというのに、視えぬのか」
 妾の名を何度も繰り返し、再会を何よりも欲する金蔵のすぐそばに、妾は居る。
 なのに、金蔵は気づけない。
 たとえ、妾がその肩に手を載せようと、何も感じないだろう。
「始めよう。私とお前の、奇跡の宴を。
 無論、準備は充分であるぞベアトリーチェ! 駒はふんだんに用意した!
 まずは右代宮家の家督を返そう。そなたに授けられ、最後にはそなたに全て返すべき物だ。
 さあ、受け取れい!!」
 金蔵は書斎の窓を乱暴に開けると、指にはめていた黄金の指輪を抜き取り、荒れ狂う風雨の闇夜に投げた。
 瞬間、雷鳴が響き、指輪は稲妻に打たれて閃いた後、それを受け取ったかのように視界から消える。
 金蔵はそれを見届け、不敵に笑った。
「お前が蘇った時、そこにいるのは私であるだろう。
 負ける気はせぬぞ。お前は私のものなのだ。永遠にッ!」
 金蔵が投げた指輪は、闇の中で一羽の黄金の蝶となり、ひらりひらりと風雨の中を舞い飛んだ。
 それはまるで導かれるように、妾の手元へ舞い降りてくる。
 蝶は妾の手のひらの上で爆ぜ、元の指輪の姿に戻って弾んだ。



 待て待て待て待て待てッ!
 お前に喋らせてたら、話が明後日の方へ爆走しちまう!
 この事件を説明するのは俺の役目だ。
 今は例の夕食が終わったところ。
 真里亞が例の洋型封筒から、例の手紙を出して読み上げたところだ。



 六軒島へようこそ、右代宮家の皆様方。
 私は、金蔵さまにお仕えしております、当家顧問錬金術師のベアトリーチェと申します。
 長年に亘りご契約に従いお仕えして参りましたが、本日、金蔵さまより、その契約の終了を宣告されました。
 よって、本日をもちまして、当家顧問錬金術師のお役目を終了させて頂きます事を、
どうかご了承くださいませ。
 さて、ここで皆様に契約の一部をご説明しなければなりません。
 私、ベアトリーチェは金蔵さまに、ある条件と共に莫大な黄金の貸与を致しました。
 その条件とは、契約終了時に黄金の全てを返還する事。
 そして利息として、右代宮家の全てを頂戴できるという物です。
 これだけをお聞きならば、皆様は金蔵さまの事を何と無慈悲なのかとお嘆きにもなられるでしょう。
 しかし金蔵さまは、皆様に富と名誉を残す機会を設けるため、特別な条項を追加されました。
 その条項が満たされた時に限り、私は黄金と利子を回収する権利を永遠に失います。
 特別条項。契約終了時に、ベアトリーチェは黄金と利子を回収する権利を持つ。
 ただし、隠された契約の黄金を暴いた者が現れた時、ベアトリーチェはこの権利を全て
永遠に放棄しなければならない。
 利子の回収はこれより行ないますが、もし皆様の内の誰か一人でも
特別条項を満たせたなら、既に回収した分も含めて全てお返し致します。
 なお、回収の手始めとして、右代宮本家の家督を受け継いだ事を示す、“右代宮家当主の指輪”を
お預かりさせて頂きました。
 封印の蝋燭にてそれを、どうかご確認くださいませ。
 黄金の隠し場所については、既に金蔵さまが私の肖像画の下に碑文にて公示されております。
 条件は碑文を読む事が出来る者すべてに公平に。
 黄金を暴けたなら、私は全てをお返しするでしょう。
 それではどうか今宵を、金蔵さまとの知恵比べにて存分にお楽しみ下さいませ。
 今宵が知的かつ優雅な夜になるよう、心よりお祈り致しております。

 黄金の魔女ベアトリーチェ




 真里亞が淀みなく手紙を読み終えると、誰もがしばらくの間、言葉を失った。
 そして、その沈黙は一斉に破られた。
「馬鹿馬鹿しい。悪質な悪戯です!」
「夏妃の言う通りだ。親父殿が当主の指輪を手放すなど、あり得ん!」
「おいおい、このちょいとパンチの効き過ぎたデザートを仕込んだのは誰だ?
 今なら褒めてやるから白状しろよ。楼座か?」
「と、とんでもない! お父様の名を騙る悪戯なんてしません」
「じゃあ、姉貴か? 兄貴か?」
「私? 馬鹿言ってんじゃないわよ! 兄さんでしょ? こういう悪趣味な仕掛けは!」
「私こそお前たちに問いたい! この悪戯は誰の仕業なんだ!?」
 蔵臼伯父さんはテーブルを叩き、ぎょろりと全員を見渡した。
 その中には無論、俺たち子供勢も含まれているだろう。
 そんな蔵臼伯父さんをたしなめるように、俺のお袋・右代宮霧江が意見した。
「蔵臼さん。今日が親族会議である事を考えると、悪戯だと決めつけるのも早計だと思うわ」
「いや、分からんで。お父さんが、自分抜きで遺産分配の話をまとめようとしているわしらを、
ちょいと驚かせたくて仕組んだ事かもしれん」
 と、秀吉伯父さんが素朴に反論した。
 そこに絵羽伯母さんが、妻として同意した。
「そうね。文面通りに解釈するなら、これはお父様からのテストね。
 最初に碑文を解けた人間に、家督と全ての財産を渡すと……」
「そんな馬鹿な話はありません! 右代宮家の次期当主が夫の蔵臼である事は、何ら揺るがない事実です」
「それを揺るがすのがこの手紙じゃない! もはや兄さんの当主継承権は白紙に戻ったわ。
 魔女の碑文を解き、ベアトリーチェの黄金を見つけた者が、右代宮家の次の当主になるのよ」
「その手紙の戯言を信用するのかね? その封蝋が本物だとでも?」
「なら、お父様に直接お話を聞いてみましょうよ。兄さんも一緒にね」
「よ、良かろう。上の書斎へ行こうじゃないか」
 最初こそ、手紙自体の信憑性を疑っていた大人勢だったが、この当主継承争いは、四人きょうだいの内、
蔵臼伯父さん以外の三人にも無二のチャンスになる。
 俺の親父・右代宮留弗夫(ルドルフ)と楼座(ローザ)叔母さんも、絵羽伯母さんに同調した。
「決まりだな。霧江はちょっと待っててくれ。真偽を確かめてすぐ戻る」
「ありがと。のんびり待ってるわ」
 四人きょうだいと、夏妃伯母さんと秀吉伯父さんは、揃って廊下へ飛び出して行った。
 残された大人の内、お袋は静かに真里亞の席へ行き、目線を合わせるように屈んだ。
「真里亞ちゃんにその手紙を渡したのって、誰?」
「ベアトリーチェ!」
「肖像画に描かれている魔女の……?」
「うん! 傘と一緒にこの手紙もくれたの! そしてね、真里亞の薔薇を魔法で直してくれたの!
ベアトリーチェは何でも出来る凄い魔女なの!」
「…………詳しく聞かせてくれるかしら……?」



 俺たちは結局、食堂から客室へと追いやられた。
 因みに祖父さまは、まるで親たちに取り合ってくれなかったと言う。
 ただ、それだけなら良かったが、大人たちは今度はその矛先を、真里亞に向けた。
 誰から手紙を受け取ったのかと問い詰めた。
 真里亞は、ベアトリーチェにもらったと繰り返したが、そんな謎の人物がこの島に紛れこんでいるわけもない。
 それを大人たちは誤魔化していると感じたらしく、彼女が泣き出すまで詰問を緩めようとしなかった。
 親たちは俺たちに、真里亞を連れて部屋に帰れと命じ、自分たちは食堂に閉じこもり、ますます遺産の話で
盛り上がっていった。
 真里亞は解放された時、既にぐったりしていた。
 今は泣き疲れたのだろう、ベッドに潜っている。
 さっきからぴくりとも動かないから、きっと眠ってしまったのだろう。
 そんな真里亞の様子を見ている内に、俺も次第に眠気に襲われていった。
「……ふぁぁあぁ……」
「おや、大きな欠伸だね。朝がずいぶん早かったんじゃないのかい」
 譲治兄貴がくすりと笑った。
「まぁ、そんなとこだよ。緊張が解けて、雨の音を聞いてる内に眠くなってきちまった」
「緊張ぉ? あんだけ態度デカそうにしてて緊張なんてしてたのかよ、戦人」
「一応、俺なりにはな。……ふあああぁぁぁ……」
 俺は大きな欠伸をもう一度すると、ベッドにゆっくり横になった。
 眠い。とにかく眠い。
 譲治兄貴や朱志香が話しかけてくるが、俺が本当に眠いらしいと分かったのか、口を噤んだ。
 俺は毛布を引き寄せて包まり、亀の子のように体を縮めた。
「何時頃に起きる? 起こしてあげるよ」
「いや、特に希望は。何か用があったら起こしてくれりゃいいし、何にもねえなら、ずっと眠らせて
くれりゃいいぜ。お休み……」
「ちぇ。せっかく3年ぶりにいとこが皆揃ったってのによ。
 こいつ、今回の親族会議の主賓だって自覚、全然ねえなぁ?」
「……聞こえてるぞ。のんびり夕飯を食って、しかも外は台風で雨。
 何もする事がねえ、つまり俺の出番じゃねえって事さ」
「それはどうかなぁ。何も起こらないから何もしない、なんて受身の姿勢じゃ、人生は退屈だよ?」
「違うぜ兄貴、そういう意味じゃない。こいつがお芝居だったならさ、俺の出番じゃねえって事なんだよ。
 だったら舞台袖で大人しくしてるに限るってわけさ」
「自分の人生は、自分が主人公だろ? そんな脇役根性でどうすんだよ。自分から進んで舞台に上がらなきゃ」
「だから朱志香、そういう意味じゃねえよ。今は俺の出番じゃねえって言いたいのさ。
 くぁあああ……。悪ぃな、眠くて思考がめちゃくちゃだ。勘弁してくれ……」
「確かに。何だか支離滅裂な事を言ってるね。もうそっとしてあげようよ」
「私は聞き捨てならねーぜ。自分の人生は、自分が主人公なんだよ。
 ちょっとその辺り、本格的に戦人と議論したいけどな」
「寝惚けてるだけだよ。深く考えちゃダメさ」
「何かさ。自分は主役になれないから舞台に上がりたくない、みたいな根性。
 何か、すっげえうぜーって思って……」
 朱志香は遠くへ向かって、誰にともなく言葉を続けていた。
「…………まだ、君の出番じゃなかったって事なのかよ。じゃあ、いつ君は、舞台に上がるんだよ。
 この舞台の主人公は誰だって言うんだよ、嘉哉くん……」



「戦人よ、起きよ。早く目覚めよ。
 いつまで高いびきをしておるか。そなたの寝返りはもう見飽きた。
 ほら、起きろよ。とっとと起きろってんだよぉ、戦人ああぁぁぁッ!」
「う……るっ……せーなーもうこん畜生おおおおおお!!!」
 だから、人が熟睡してるその最中にまで、勝手に話を進めるんじゃねえええええ!
 寝起きを邪魔され気の立つ俺に対し、忌々しい女はけろりとした様子で答えた。
「ほう、やっと起きたか。我が玩具よ。妾はもう待ちくたびれたぞ」
「そんなの、こっちが知った事かよ。
 俺がこうして気持ちよく夢心地でいるってのに、それをお前に邪魔される筋合いはねえぜ!」
 と、俺はビシッとベッドにいる俺を指差した。
 って、あれ?
 何か俺、致命的に妙な事を口走ってなかったか? 今。
 思わず唾を飲みこんでから、自分の指先にある物を、もう一度しげしげと俺は見下ろした。
 夜の更けた部屋の中、目を閉じて横になってるのは間違いなく、この俺・右代宮戦人本人だった。
 お、おいおい、待ってくれよ。こりゃ一体何の冗談だよ。
 そりゃ今までだって何が何だか分からねえ滅茶苦茶に出くわしてきてるが、だったら今ここにフラフラしてる
俺は何だって言うんだよ!
 半分パニックになりながら、寝てる自分に触ろうとしたが、やっぱりそこはお約束。
 起きてる俺は、何にも触れず突き抜ける。
「なに、難しく考える必要はないぞ戦人。
 この妾が直々に、そなたを純粋な対戦相手(プレイヤー)として尊重してやった結果だ。
 いつまでもゲーム盤の上にしか居られぬニンゲン風情のままでは、この先いろいろと不都合も生じようからな。
 傍観者の立場も、なかなかに面白いものだぞ」
「よっ……余計なお世話だこの野郎! お前の仕業だってなら、さっさと元に戻しやがれ」
「いやいや、それは叶わぬ相談よ。そなたが妾に屈服するのなら、望みを聞いてやる気にもなるかも
しれんがな」
「って、そこでそう来るのかよ。
 いいぜ分かった。お前がどういうつもりか知らねえが、何か俺にやらせたいってなら、早いとこ済ませるんだな」
「良かろう。ならば付いて来るが良い。めくるめく、面白い物を見せてやろうぞ!」
 女は身を翻すと、ふわりと姿を消した。
 同時に、俺の視界も暗転した。



 次に気づくと、俺は食堂の一角に佇んでいた。
 これじゃまるで、SFでよく見る瞬間移動だ。
 ベアトリーチェの姿は見当たらない。
 どこかに潜んで、こっそり笑ってやがるのか。
 長テーブルには、大人たちが集まり、例の手紙に端を発する議論を続けていた。
 俺は皆に近寄ってみたが、やっぱり俺の存在に気づく様子は見られない。
 絵羽伯母さんは、手帳を取り出し、開いたページを覗きこんだ。
 お袋が身を乗り出して問いかけた。
「例の碑文、ですか?」
「ええ。この差出人の言いなりになるのは癪だけど。気分転換には丁度いいと思って」
「悪くないな。兄弟で仲良く挑戦してみようじゃないか」
 と、親父も乗り気になった。
「借りてもいいかしら? もう少し大きく書き直すわ。夏妃さん、もう少し大きな紙はないですか?」
「使用人室に紙くらいあるでしょう。取ってきます。」
 すぐに夏妃伯母さんは、使用人室からB4ほどの模造紙を持ってきた。
 お袋は絵羽伯母さんの手帳を借りると、模造紙に碑文を書き写し、テーブルの上に置いた。
 さっそく覗きこむ一同によって、自然と人垣になった。
「話には聞いとったが。こら難儀な謎やな」
「真面目に読むのは初めてなんだけど。大雑把に言って、3部分に分かれてるのかしら?」
「昨夜から思っているが、霧江さんはだいぶ頭が切れるようだ。
 ひょっとすると、私らでは解けなかった謎も簡単に解いてしまうかもしれんね」
「多分、皆さんのお役には立てないと思うわ。みんな買いかぶりすぎよ」
「いやいや、思いつきや適当でいいんだ。俺が悩んだ時は、いつだってお前のヒントが助けてくれたんだからな」



 お袋は、妙なところで祭り上げられてしまったと困惑したような顔をした。
「きっと見当外れな事を言っちゃうと思うけど、じゃあ私の考えで進めてみるわね」
「うむ。最初に言った、3部分に分かれるとはどういう意味かね?」
 蔵臼伯父さんが率直に質問した。
「えっと、そのままの意味よ。
 まず最初の“そこに黄金の鍵が眠る”までの5行。ここまでが鍵の在り処を示した最初の部分。
 次に第十の晩までの11行が、黄金郷そのものの場所を示した部分。
 そして残りの6行は、黄金郷にたどり着いてからの部分ね」
「俺たちもそれについては同じ認識だ。それで?」
 と、親父が先を促した。
「最初に出てくる“懐かしき故郷”。懐かしきと断るところを見ると、とても思い入れのある故郷のように
思えるわね。お義父さんは小田原の出身だったはずだけど」
「生まれは確かにそうだけど、お父様が懐かしむ故郷は、多分そこの事じゃないわ。
 その点に限っては、私たち兄弟は全員、同じ場所で認識してるから、今はまだ考えなくていい」
 お袋に先入観を与えないためだろう、絵羽伯母さんは敢えてはぐらかした言い方をした。
「そこに鮎の泳ぐ川は?」
「当時はあったかもしれないけど……。今はだいぶ開発が進んだでしょうから、お父さまの少年時代に
鮎がいたか、と言われると困るわね」
「川も一本では無いだろう。地理的な意味では我々もそれぞれ調べたつもりだ。
 絵羽に至っては、現地まで直接調べに行ったんじゃないかね?」
「あくまでも旅行としてよ、兄さん。でも、町並みは当時と完全に変わってる。
 何しろ戦争を挟んでるのよ? お父様がどこに住んでいたのかさえ、今となっては特定できないでしょうね」
「あちらさんもずいぶん目覚しく復興したって話だからな……」
 と、親父がしみじみとつぶやいた。
 お袋は念を押すように問いを繰り返した。
「鮎の川、と言われて、はっきりとした地名は出ないのね?」
「そりゃあなぁ。戦前の現地に詳しい人でもいりゃあ話は別だが」
「いいえ、多分そういう話ではないわ」
 と、お袋はきっぱりと答えた。
懐かしき、故郷を貫く鮎の川。黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ。
 ここまでの2行で、一度改行してるのよね。この2行だけで、何かの提示が成立するのよ」
「何かの提示って何や?」
「それは分からないわ。とにかくその2行だけで、きっとこの“川”は特定できるのよ。
 ひょっとすると、“鮎の川”は何かの比喩かもしれない。鮎という言葉にはどんなイメージがあるかしら」
「鮎は鮭みたいなモンや。淡水魚やが、生まれてすぐは海に出る。
 そして大きくなると川に戻ってきて、そこに産卵して生涯を終える」
「実は私、鮎の川のイメージから、家系図を疑った事があるの。
 一度海へ出るけど、また生まれた川に帰ってきて産卵する………まるで私の事みたいだなって」
「なるほど。川を下れば、やがて里あり。
 家系図を下っていくと見付かる“里”は、真里亞の名に含まれる“里”の字だけだ」
「でしょう? でも、お父様はかつて真里亞に全然違う名前を付けるように言っていたの。
 その経緯を考えると、碑文に、真里亞の名前が出てくるとは思えなくて」
「じゃあ、最初はそのくらいでいいとして。それから? 続けてよ霧江さん」
 絵羽伯母さんが、楼座叔母さんの話を切る形で、お袋に言った。
川を下ればやがて里あり、からの3行は不明ね。これは多分、鮎の川の2行に連結してる。
 鮎の川の正体が分かれば、自然と意味が繋がる物なのよ」
「とにかく、“鮎の川”の答えは“黄金郷の鍵”に辿り着くわけだ」
「そうね、留弗夫さん。そう考えると、正確には4つの区分になるわね。
 “鮎の川を下り”、“黄金郷の鍵を見つけ”、“黄金郷へ旅立つ”、“そして黄金郷の宝”」



「ふぅむ。せっかくだ。続けて、黄金郷に辿り着く第十の晩までの見解を聞かせてくれんかね?」
「生贄なんて単語が連発するから、ついお父様のオカルト儀式と関係があるんじゃないかと
思ってしまうけど……。霧江さんならどう見るかしら?」
 お袋は、何度か腕の組み方を変えると、碑文を書き写した紙を透かし見るような遠い目をした。
“鍵を手にせし者は”から始まるという事は、鍵を理解していないと話が進まないけれど。
一応、挑戦してみるわね」
「その“鍵”もまた、本当に鍵の形状をしたものなのか、疑わしいわね」
「そうね、絵羽さん。暗号とかキーワードの可能性もあるわ。
 この鍵は、第一の晩の生贄のためにあるんだもの」
「しかし物騒です。6人もの生贄を選ぶなんて」
「第一、鍵がどうやって選ぶんや。ルーレットみたいに、くるくる回すんか?」
 夏妃伯母さんと秀吉伯父さんが青い顔をしている。
「この鍵が、ある特定の6つを指し示す。例えば、アナグラムかもしれないわ」
「アナグラム? 文字遊びの事かね?」
「ごめんなさい。その、文字遊びとは何ですか?」
 小首を傾げる夏妃伯母さんに、楼座叔母さんが説明した。
「ああ、夏妃さん、こういう事です。真里亞のなぞなぞブックにあったんですけどね?
 タヌキの手紙っていうのがあるんです。
 タの文字がいっぱい混じった暗号みたいな手紙があって、“タ”の文字を“抜く”と、
そこに正しい文章が浮かび上がる……みたいな遊びがあるんですよ」
「ああ、なるほど」
 夏妃伯母さんは頷きながら考えこんでいる。
 あの分じゃ、実際に見たりした事ないんだろうな。
「その“抜く”、というのが、“殺す”というのに転じるかもね?」
「ええ。黄金郷の鍵とはひょっとすると、6文字の単語かもしれない」
「つまり、タヌキの手紙の“タ”が、6文字あるっちゅうわけか?」
「ただ、ここでまた分からなくなるの。
 ここまでの流れは、謎に満ちていながらも非常に秩序立っていた。
 “鮎の川”、“それを下れ”、“そして鍵を見つけろ”と、筋が通っている。
 その結果、6文字の鍵を手に入れたと仮定すると、けれど“何から”6文字を殺すのか、分からないままなの」
「そういやそうだな。具体的な提示がないぜ」
「第二の晩に、“残されし者は”とある。
 という事は、少なくともその“何か”は有限の文字数なのよ。
 そこから6文字を抜いて残った文字で話を進めろと読み解ける。
 なのに、最初に提示があるべき“何か”が分からない。
 やっぱり文字遊びという仮定が間違っているのかしら?」
 そこで、みんな腕組みをして黙りこんでしまった。
 今度こそ斬新な見解に辿り着けそうなのに、あと一歩の所でつまずいてしまっているような焦れったさ。
 その辺りで、碑文検討会は一度解散となった。



 だが、絵羽伯母さんはまだ碑文の書かれた紙を見つめていた。
「文字遊びはあくまでも私の仮説。絵羽さん、あまり根詰めないで……」
「ありがとう、霧江さん。でもこれは、私の好きでやってるから。構わないでくれるかしら」
 絵羽伯母さんは素っ気無く言い放った。
 お袋はその言葉に従って、席を離れて行った。
「姉さん。私たちも、そろそろ休んだ方が良くない?」
「じゃあ、あんたも寝なさいよ。私はこれを解くので忙しいの」
「ご、ごめんなさい。それじゃあ私も……」
「まったく。この碑文を解いた人間が右代宮家の家督を譲られるのよ。あなたは初めから諦めているようだけど。
 あの兄さんから全てを奪う、千載一遇のチャンスを、どうしてあなたは真剣に考えないの?」
 楼座叔母さんは何と答えればいいか困った様子で、俯いてしまった。
「あなたも、何か気づいた事があるなら言いなさいよ。
 私や霧江さんは真剣に推理してたのに、あなたは相槌ばかりだったじゃない」
「えっと、それなら……。何度も出てくるわよね、黄金郷って単語」
「それが何よ。黄金郷を文字分解すると何かキーワードにでもなるの?」
「そ、そうじゃなくて。ほら、この第十の晩だけおかしいでしょ?」
「え?」
「みんな“黄金郷”なのに、何故かここだけ“黄金の郷”なの。わざわざ、“の”が一文字混じるのよね。
 どうしてここだけ言い方が違うのか、何となく気になってて」
 言われた絵羽伯母さんは、強張った面持ちで、再び紙を睨みつけた……。



 またも突然、俺の視界は暗転した。
 頭を振って周りを見回したが、辺りは真っ暗なままだった。
 それも当然の話。元から暗い部屋だったのだ。
 窓は無く、弱々しい裸電球によって、辛うじて様子が見て取れる。
 埃臭く、ごたごたと家具のような何かが粗雑に押しこまれている。
 天井は無骨な石造り。長いこと忘れられた地下室だ。
 扉は無かった。
 代わりにあるのは、汚れきった鉄格子。
 よくよく見れば、置かれている物の正体も分かってくる。
 何か――あるいは誰かを閉じこめる檻。拘束台――あるいは拷問台。
 どれも錆びついているものの、まるでこの部屋の主の狂気が封じられているような不気味さが漂ってくる。
 そんな地下牢の中に、人影があった。
 鉄格子を戯れに弄り、揺らしている少年。
 その傍らに、控えるようにしゃがんでいる少女。
 使用人の嘉哉くんと、それから紗代ちゃんだ。
 紗代ちゃんは、消え入るような声で、嘉哉くんに囁きかけた。
「気配は感じるの?」
「うん。こちらに意識は向けていないけれど、比較的に近くにいるのは確かだ」
「閉じこめられちゃったね、私たち」
「珍しいよ。すぐに殺されないで、捕まるなんて」
「今回はまだベアトリーチェさまがお越しにならないし……。よく分かんないね」
「分かるさ。何が起ころうと、全てあの魔女の気まぐれと余興。結果は何も変わらないさ」
「そう言えば、儀式が始まってから、こうして二人でお話できるなんて、珍しい気がする」
「そうかもね。でも、それもまた魔女の余興さ。
 今度は少し生き延びさせて、 からかってやろうくらいにしか思ってないよ」
「また結局、めちゃくちゃに殺されるのかな」
「どうせそうさ。下手な期待を持つと、また付けこまれる」
 嘉哉くんは口を尖らせてそっぽを向いた。
 紗代ちゃんは、くすりと笑い、肩を寄せた。
「お嬢様だけは、無事でいてほしいね」
「それを言ったら、姉さんこそ譲治さまの無事を祈らないと」
「ありがと。なら、嘉哉くんも同じ事をお嬢様に」
「僕は期待はしてないよ。あの魔女は、ご褒美をぶらさげて、相手が右往左往するのを見て
楽しんでるだけなんだ」
「そうだね。ベアトリーチェさまは、より面白くなるように、生贄の順番を考えてる」
「無作為に選んでるなんて大嘘だ。あのペテン師魔女め。
 どうせ黄金郷なんてのも、嘘っぱちに決まってる。」
「そんな事はないよ。黄金郷は、素晴らしい所だよ」
「行った事あるの?」
「ちょっぴりだけね」
「ま、過剰な期待はしないよ。いずれにせよ、今回の僕たちはこれでゲームオーバーみたいだし。
 別の機会に期待するさ」
「そうだね。何も考えず、ただ運命に身を任せるのが、私たちには一番かもしれない」
「僕たちはただ、チェスの駒であればいいんだ。
 何を考えても考えなくても、どうせ魔女のチェス盤からは逃れられない。
 後のお役目は、どういびり殺されるか、ただ待つ事だけさ」



 しかし、それにしても分からねえ。
 いきなり場面が飛んじまってるんだもんな。
 ここは一体全体、“どこ”なのか。
 二人は“いつ”、“誰”に、こうして閉じこめられたのか。
 何より、二人は“何故”、こんな所に居るってんだよ……?
 俺がそんな事を思い浮かべた時、紗代ちゃんが驚いたような声を上げた。
「あ……これ、電話だわ」
 牢の片隅にあったのは、確かに古ぼけた黒電話だった。
 まるで引っ越した無人のオフィスに取り残されてしまったような感じ。
 長々としたコードは、とぐろを巻き、その先はずっと奥の暗闇に飲みこまれている。
 壁までつながっていても、おかしくないように見えていた。
「つながってるわけもないさ。でも、コード自体は何かに使えるかもね」
 それでも紗代ちゃんは確かめたかったのだろう、受話器を取り上げて耳に押し当ててみていた。
「あれ? やっぱり……つながってる」
「何だって……?」
 嘉哉くんは受話器を引ったくると、自分の耳に当てた。
 俺も近づいて聞いてみると、ツーという耳慣れた電子音が流れている。
 ……っていうか、ここまでそばに寄っても、マジで誰も気づかねえのな。気分悪いぜ。
「どういう事なの、これ……。今までのゲームで、外に連絡できた事なんて無かったのに」
「そうだね。話が上手すぎる。何か裏があるのかもしれない」
「でも、そんな細工をするなら、そもそも電話線を切る方が楽だわ。
 何かもっと、大きな意味があるのよ。きっと」
 その時、嘉哉くんの体がぴくりと震えた。
 どんな微かな物音にも反応する猫のような動きだった。
「………………ん」
「どうしたの、嘉哉くん」
「人が来る」
「え……?」
 言われて紗代ちゃんも、居住まいを正して耳を澄ました。
 しばらくの間、何も聞こえなかったが、やがて人の足音が聞こえてきた。
 足音はだんだん大きくなり、遠くで重い扉が開けられる音がした。
 入って来た者たちが持つランタンの明かりが、鉄格子越しに紗代ちゃんと嘉哉くんを照らし出した。
 光源によって出来た影が、紗代ちゃんと嘉哉くんを縦に細かく切り裂いていた。



 ランタンの持ち主は、源次さんと、熊沢の婆ちゃんの二人だった。
 急いで立ち上がった紗代ちゃんと嘉哉くんに、源次さんがいつも通りの重々しい声で言った。
「紗代、嘉哉。二人とも、ベアトリーチェさまの復活の儀式に臨む覚悟は出来ているな」
「復活の……儀式」
 嘉哉くんは、絞り出すような声で繰り返した。
「そうだ。お館様が、ベアトリーチェさまより貸与された黄金を返却する日が来たのだ」
「何度聞いても、僕には話がよく分かりません」
「それで良いのだ。我々は理解する必要などない。
 お館様とベアトリーチェさまとの偉大なるゲームにおいて、我々はただ与えられた役割を全うするだけだ」
「それで、僕たちはこれからどうなるんですか。いや……これから“どうされる”っていうんですか」
「時が満ちればいずれ知れよう。我々は受け入れるだけだ」
 それきり口を噤んだ源次さんの話を引き取るように、熊沢の婆ちゃんがおずおずと話し始めた。
「ああ、おいたわしや……紗代さん、嘉哉さん……私はただ、こうしてお二人を見守る事しか出来ないのです。
 ………………少なくとも、今は、まだ」
「ええ。大丈夫です、熊沢さん。私はもう、満ち足りていますから」
 紗代ちゃんは穏やかな表情で、熊沢さんに応じた。
「ベアトリーチェさまは、私たちを惑わせ苦しめ困らせる事を、楽しむ糧として生きておられます。
 ですから、もしあの方に抵抗できる手段があるならそれは、あの方を意識しない事です」
「それは、どういう意味でしょう……?」
「私は決して、これから起こる苛烈な出来事に、怯えたり逆らったりしません。
 最後の瞬間まで、自分の信念に従い精一杯生き抜きます。
 私たち人間は、未来の運命など知り得ない。ただ振られるだけのサイコロの目に、悪意なんて無い……!」
 紗代ちゃんの目は真っ直ぐに、眼前の相手を見据えていた。
 その隣に、嘉哉くんが並び立った。
「嘉哉くん?」
「参ったな。いつまでも文句ばかり言ってたら、僕だけが馬鹿みたいじゃないか。
 このままじゃ、姉さんにいい所を全部持って行かれちゃうよ」
 嘉哉くんはそうつぶやいてから、皮肉気な笑みを湛えて、源次さんに言った。
「僕は姉さんとは違う。運命に逆らってやる。それで人間になって、幸せになって、普通の恋をするんだ。
 姉さんのように、海が青いって事を知りたいんだ!」
「――それもまた良いだろう」
 答えた源次さんは、取り出した懐中時計を見ると、鉄格子の向こうに告げた。
「では本題に入ろう。お前たちはそこにある電話を使い、ゲストハウスに連絡するのだ。
 話す相手は、それぞれ異なる。ただ、それに当たって、お前たちには少々辛い目に遭ってもらう」
 源次さんと熊沢さんは、互いに目配せを交わすと、ランタンを足下に置いた。
 当然、辺りは一挙に暗闇に閉ざされた――と思った。
 だが実際は違った。
 まるでカメラのフラッシュを焚いたような閃光が一面に広がったのだ。


 次の瞬間には、俺はゲストハウスの部屋に戻っていた。
 俺は思わず、何度も瞬きをしてみたが、部屋の様子に変わりはない。
 何だ、じゃあ今までの滅茶苦茶は全部夢だったのか!?
 脅かしやがって、とベッドに戻ろうとした俺だったが、やっぱり話は甘くなかった。
 相も変わらず寝てる俺は、起きてる俺の苦労も余所に、安らかに横になってるままだった。
 電話がけたたましく音を立てても、びくともしねえ。
 代わりに起きてきたのは譲治の兄貴、それから朱志香だった。
 騒ぎながらいつの間にか眠ってたんだろう、服は着替えていなかった。
「ったく何だよ、こんな遅い時間に。うっぜーな……」
「もしかしたら、緊急の用事かもしれないよ。とにかく出てみないと」
「あ、じゃあ私が出るよ。屋敷の細かい話だったら、私でないと分かんないだろうし」
 朱志香が受話器を取り上げて、自分の耳に押し当てた。
 話しているのは、嘉哉くんのようだ。
「え、何それ、どういう事? ……今すぐ、って、え? ……ちょっと大丈夫なのかよ!?
 だって、そんな声、悲鳴……う、うん、分かった。分かったから、ちゃんと待っててくれよな!!」
 がちゃん!と受話器を叩きつけた朱志香は、かちかちと歯を鳴らしていた。
「ど、どうしたんだい、朱志香ちゃん。顔が真っ青だよ!?」
「どうしたもこうしたもあるかよ! 嘉哉くんが、嘉哉くんが、何か変な奴に……!
 ああもう、こうしちゃ居られないぜ。私、向こうへ行って来る!」
「向こうって……?」
「私の部屋!」
 言うなり、朱志香はドアをぶち破るような勢いで飛び出した。
 傘を差すのもそこそこに、雨風に揺れる薔薇庭園を駆け抜けて行く。
 残された譲治兄貴が呆然としているところに、再び電話が鳴り響いた。
 譲治の兄貴は、すぐさま受話器を取った。
「………………もしもし」
 話している相手は――予想通り――紗代ちゃんだった。
「ああ、どうやら、そういう事のようだね。待っててくれ。僕もすぐそっちへ行く」
 兄貴は静かに受話器を置いて、立ち上がった。
 その顔色は、燃えるように蒼白く見えた。



 右代宮朱志香は、自室の扉の前に居た。
 本来なら、この広大な屋敷で最も心を許せるはずの場所。
 なのに、彼女は何故か威圧感を抱いている。
 彼女は今日ほど、他のいとこ達の言い分に共感できた事はなかった。
 自分にとっては、当たり前に過ごしてきたこの家に、これほどまでに違和感をおぼえたのは初めてだった。
「嘉哉くんを助けたかったら、ここに来いって言ってやがったけど……。
 まさか、私の机とか引っかき回してねえだろうな……」
 聞く相手も無いだろうに、彼女は独りで悪態をついた。
 自分は何も恐れていないのだと、言い聞かせるために。
 やがて彼女は決意して、ゆっくりと扉を開いた。怖々と首を差しこみ、左右を見回した。
 どうやら幸いにも、部屋は荒らされているようには見えない。
 人も、居ない。
 朱志香は中に滑りこむと、咄嗟に後ろ手で施錠した。これで、この場所は安全だ。
 ベッドの下も、クローゼットも覗いたが、誰も何も隠れていない。
「な……何だってんだよ……はは、はは……!」
 壁の時計を見ると、23時10分ほどだ。
 緊張が抜けて、全身に疲労感が湧き上がってきた。
 まだ、こんな時間なのだ。
 なのに、どうして自分はこんな所で怯えていなければならない?
 もしかしたら、全部全部冗談なのかもしれない。
 嘉哉くんはさらわれてなんていなくて、私はからかわれているだけかもしれない。
 でも。その理由が分からない。心当たりなんて有るわけない。
 嘉哉くんがそんな冗談に話を合わせるとも思えない。
 電話の相手には、もし余計な事をしたら、人質に危害が及ぶと警告された。
 ……ひょっとして、ここの鍵を掛けているのもルール違反になるのだろうか。
 このままこの部屋で眠ってしまえば楽になれる。
 でも、万が一の場合、嘉哉くんは……殺される。
 その確信だけは最初から揺るがなかった。
 朱志香は、何秒か固く目を瞑った後、扉の鍵を外そうとした。



 まさにその時、声が聞こえた。
「開ける必要は有りません」
「!?」
 朱志香は反射的に後ろを向いた。声の相手は知っている人物だった。が、だからこそ朱志香は驚愕した。
「源次さん……ッ!?」
「その名前は、正確ではありません」
 いつもと何ら変わりのない、淡々とした声で答える。
 次の瞬間、部屋の暗がりから滲み出た黄金の蝶たちが、奔流のように源次を包んだ。
 蝶たちが弾けて消えると、そこに居たのは、片翼の鷲の紋章の刺繍が施された執事服を着た、
長身の若い男だった。
 もっとも、左目に時代がかった旧式の片眼鏡(モノクル)を付けているし、口ひげを蓄えているため、
正確な年齢は今一つ分かりかねた。
 さっきまで確かに呂ノ上源次だったはずの男は、パチパチと両手を打ち合わせ、乾いた拍手の音を鳴らした。
「あなたは人質を救うべく、自分だけ助かろうとする誘惑に見事耐えられました。その勇気は称賛に値します」
 そして、大袈裟なのに気品を残した仕草で、恭しくお辞儀を一つした。
「ご挨拶が遅れまして大変申し訳ございません。
 改めて初めまして、朱志香さま。私はこの屋敷の家具頭を任されております、
ソロモン72柱の27位・ロノウェと申します。平たく申し上げれば――悪魔、ですね」
 滔々とされる自己紹介に、朱志香は口をぱくぱくと動かすばかりだ。
「……ろの、うえ? ……源次、さん……?」
「源次は、私の弟のような存在。あるいはこの世界における、私の正しい姿だったのかもしれません。
 依り代だった、と言っても良いでしょうな」
「何を、言ってんだ、お前………?」
「失礼。ニンゲンには理解できぬ話でしたな。それでは本題に移りましょう。」
 ロノウェは優雅に、手のひらをかざすと、またも沢山の黄金蝶が小山のように寄り集まり、木枯らしに吹かれる
枯葉のように消え去ると、そこには片翼の鷲の紋章が箔押しされた、洋形封筒が置かれていた。
 ロノウェは、どうぞと言いたげに手のひらの物を差し出した。
 朱志香はおずおずと、それを受け取り、中の手紙を開いた。
「……ば、…………ばっかやろう…………何なんだよ、これ……」
「そこに記されている問いに、どうか右代宮家を担う次期当主としての心構えで臨んでいただき、答えと、
それに至ったお考えをお聞かせ下さい。
 なお、これは余談となりますが。この質問に応じて頂けなかった場合は、例えばこのようなお姿になる事を
ご了承願います」
 ロノウェの言うままに、彼の向けた手のひらの方向を見上げた朱志香は、愕然となって唾を飲んだ。
 天井の梁の下、ほんの一瞬前には何もなかったはずの空間にロープが吊るされ、その先にぶら下がる
何かがあった。
「郷田……さん……? 郷田さん!?」
 朱志香が声を掛けてもぴくりとも反応せず、完全に首のロープに体重を預けきっている様子から、
料理人の郷田俊朗が生きている気配を感じ取る事は出来なかった。
 朱志香は、わなわなと震えながら、独り唇をかみ締めていた……。



 同時刻、朱志香に続いて呼び出された右代宮譲治は、薔薇庭園の東屋に居た。
 数時間前、彼はここで紗代に、婚約の証である指輪を渡していた。
 紗代は微笑むと、指輪を取り、とても当り前な動作で、それを左手の薬指に通したのだ。
 しかし今、譲治の前にいる女は、紗代ではない。
 彼の前に現れたのは、熊沢チヨだったはずだ。
 だが、薔薇の園から一匹二匹と現れた黄金の蝶たちが、次第に熊沢の周りに集まり、弾けて消えると、
代わりに居たのは明らかに若い女だった。
 さらさらと背中まで流れる銀の髪を持ち、漆黒のドレスに合わせた、つばの広い帽子をかぶった姿は、
瑞々しくも神々しく、老女の姿は全く想像できなかった。
 だがしかし、女の正体は悪であって善ではない。
 彼女の傍らには、頭部を撃ち抜かれて絶命している南條輝正の姿があるのだ。
「私は、無限の魔女ベアトリーチェを導く、いま一人の魔女。ワルギリアとお呼び下さい」
「……一体、どういう事なんだい、これは……」
「まずは、こちらをお読みなさい。あなたに与えられた試練です」
 譲治は、かつて紗代と紅茶を飲んだ事もあるそのテーブルのそばで、洋形封筒を受け取って中身を読んだ。
 短い内容を一目見て、すぐに譲治の目が厳しくなった。
「…………何だい。これは」
「ご覧の通りです。あなたは、右代宮家次期当主としての資格を自らに問いながら、その問いに答えるのです」
 譲治は再び手紙の文面に目を落とし、その内容を検めた。
 譲治と朱志香、二人に与えられた手紙は、限りなく同じ文面だった。

 以下に掲げる三つの内、二つを得るために、一つを生贄に捧げよ。

「簡単な三択です。どれを選ぶか、自ら決めなさい。
 選択を拒んだ場合は、あなた自身が命を落とす事になります。例えば私の下にあるこの躯のように。
 その選択肢を含めるならば、四択になりますね」
「この三択は、あくまでも言葉だけの物か。それとも結果を伴うのか」
「そうですね。あなたが選択した者は、必ず命を落とすと思って良いかと」

 以下に掲げる三つの内、二つを得るために、一つを生贄に捧げよ。
 一.自分の命
 二.紗代の命
 三.それ以外の全員の命
 何れも選ばねば、上記の全てを失う。


「どうして、紗代の名がここにあるんだ」
「二番目の選択肢には、その者が最も愛する者の名が書かれます。
 朱志香さんへの手紙には、嘉哉と書かれています」



「はっはっはっはっははははははははッ!! 
 何を迷うか、愚かなるニンゲン達よッ!! 即答できる簡単な問題ではないか。
 朝のトーストに、バターを塗るかジャムを塗るかより迷わぬ選択であるというのに!!
 ……そなたはどうだ? 戦人。正しい答えが分かるか?」
「分かるか?じゃねえよ! もう訳が分からねえ……! 一体、目の前で何が起こってんだ……!
 あいつら、何者なんだ。源次さんが、熊沢のばあちゃんが、どうしてあんな変なのに化けるんだ!?
 だいたい誰なんだよッ!? これは何の特撮なんだ? 俺は頭がどうにかなっちまいそうだッ!!」
「何と。何れも選びもせぬなら即断ゲームオーバーだぞ。そなたも所詮ニンゲンか」
「うるせえ。第一、どれを選んでも難癖付けてゲームオーバーって言うんだろうが。
 この期に及んで、それくらい読めなくてどうするよ」
「くっくっく。ならば、そこまで踏まえた上で答えるがいい。それもまた一興だ。
 そもそも、実のところを言えば、これが正解という選択肢はない。
 むしろ、どの答えであろうとも、澱みなく素早く、そして確固たる信念と揺るがぬ強き自らの意志で
選べるかどうか。その意志こそが何より重要なのだ」
「因みに祖父さまは、何て答えたんだ?」
「質問に質問で返すなと習わなかったか? まあ良い。
 おうとも、さすが金蔵は即決したぞ。だからこそあの男は、妾からの黄金と名誉を手に入れる事が
出来たのだ。くっくくくくくくく!」



「馬鹿に、しやがってッ…………」
 朱志香は手紙をぐしゃぐしゃに握り、床に叩き付けた。
「お怒りはごもっとも。私も非常にお気の毒で、それでいて非情に滑稽な出題だと思います。……ぷっくっくっく」
 ロノウェは、ひとしきり不謹慎な笑い声を漏らしてから、ベッドに座りこむ朱志香に語りかけた。
「さて。それではお答えはお決まりになりましたか……?」
 朱志香は、床に転がる手紙をじっと見ながら、俯いて黙っていた。
 部屋を満たすのは、風雨の音と梢の擦れるざわめきだけ。
 ロノウェは朱志香の答えを待ったが、朱志香は答えない。
 沈思黙考なのか、思考停止なのか。
 ロノウェは悪魔らしく意地悪に、朱志香を促した。
「いずれお選びがたいとおっしゃるならば。そのお命、せめて痛みが無いよう、安らかに頂戴させて頂きますが」
 朱志香はゆっくり顔を上げて、ロノウェの目をまっすぐ見た。
「殺せよ。私を」
 朱志香は、はっきりとそう言った。
 ロノウェは驚く様子も見せずに頷いた。
「朱志香さまなら、そのお答えを選ぶと思っておりました。さて、このテストは、正解・不正解という物では
ありません。重要なのは、どのような考えを経てその答えに至ったかです」
「一応、それぞれの選択肢を選んだ未来の事を考えてみたぜ」
「ほぅ。いかがでしたか?」
「まず、嘉哉くんを死なせてみた。私は、いつまでも自らの選択を悔やみ、ただ後悔だけのために生きていた。
大好きな人を見捨てた最低の女なんて、私が許さない」
「ふふ、勇ましい。では、三番目の選択肢も考えられたのでは?」
「ああ。私と嘉哉くん以外の全員を死なせてもみた。嘉哉くんは、そんな私を好きになるはずはない。
そんな事をする私も、私が許さない」
 ロノウェは、僅かに目線を落とした。
「消去法……ですか。悪くはありませんが、良くもない回答です。60点というところでしょうか。
少し失望しましたよ」
「私さ、嘉哉くんに説教をした事があるんだ。自分の人生を思いきり生きてみろ、みたいな事を」
「味わいある言葉ですね」
 さして興味のなさそうに、ロノウェは相槌を打った。
「だからさ。私は嘉哉くんに見せなきゃならないんだよ。
 胸を張って、お天道様を真正面から見て、笑顔でいられる生き方ってやつを」
「あなたの自己犠牲を、彼は受け容れられるでしょうか?
 あなたの身勝手な選択が、余計に彼を傷つけてしまう事には、思いが至りませんか?」
 言われて朱志香は、弾かれるように顔を上げて、独り苦笑した。
「そうだね。……そうだ、じゃあ伝言を頼みたい」
「いいでしょう。彼に何と伝えればよろしいですか?」
「嘉哉くんの、思い通りの人生を生きて。ううん、ちょっと違う。本当の嘉哉くんの人生を生きて。そう伝えて」



 一方、薔薇庭園で沈黙していた譲治も、顔を上げていた。
 どうやら、彼の返答も決まったらしい。
「決まりましたか? あなたの答えは」
「ああ。僕の答えは――三番さ」
「なるほど。聞かせて頂きましょう。
 自分さえ良ければ、愛する者と引き換えに、世界を犠牲に出来る境地という物を」
「いまさら何を言ってるんだい」
 まるで呆れているかのように、譲治は言い放った。
「僕は今夜、ここで紗代と婚約した。結婚とは、自分は生涯、伴侶の味方であり続けるという事だ。
僕にはその時点で、彼女のために世界の全てを敵に回す覚悟がある」
 譲治の目にある輝きは鋭い。その中に金蔵と同じ凄みを感じ、ワルギリアは笑みを深くした。
「あなたは、かつての右代宮金蔵と同じ答えをしましたね。あなたは将来、大いなる人物にもなり得るでしょう」
 ワルギリアは、譲治に対する認識を改めた。
 この男には、外見からは想像もつかない決意と覚悟を、最初から背負っているのだ。
「僕は自分が当主であると前提して答えた。いや、違う。右代宮家の当主そのものとして考えたんだ」
「お見事です。ですが、あなたは選んだ選択肢を実行できますか?
 今すぐ自らの手で、この島に存在する全ての命を生贄に捧げる事が出来ますか?」
「その覚悟はあると、僕は何度も言っている」
「ならば今すぐゲストハウスに戻り、戦人と真里亞を殺しなさい。
 あなたの手で紗代以外の全員を、その目の前で処刑して見せなさい。
 全てに死を。新しき右代宮家の当主として、この血塗られた儀式の遂行を」
 淡々と語るワルギリアの言葉に、譲治は全く動じない。
 冗談と流すつもりもなければ、妄言と罵るつもりもない。
 ワルギリアは確信した。この男こそ、金蔵の狂気を受け継ぐに相応しい。
「吹けよ嵐! 鳴らせよ雷鳴! 新しき魔王の誕生を祝い給え!
 この魔女の島は今、新しい王を迎えたのです……!!」
 朗々と歌い上げる魔女の呼びかけに、ますますに暴風は荒れ狂う。
 続いて巨大な稲妻が落ち、その轟音と閃光で一帯は包まれた。
「でさ。その殺害の順番だけど。僕が決めていいわけだよね」
「どうぞご自由になさいませ、新しき六軒島の魔王陛下」
「その一番目が、君になるわけだけど、いいかな」
「え?」
 吹き抜けた風が、譲治のジャケットを、まるでマントのように煽った。
 それはまさに当主が羽織るマントのように、貫禄を感じさせた。
 その時ワルギリアは 厚い雲の切れ目から、真っ白な月が空を照らすのを見た。
 月光を背負う、新しき当主を名乗る男が、魔女を嘲笑う。
「右代宮家に関わる全ての命も、僕の財産だ。
 たとえ君が何者であろうとも、僕の財産に傷を付けようとする不逞の輩を、この僕が見逃すと
思っているのかい」



 ロノウェは、その手のひらを朱志香の胸に当てる事で、安らかに心臓を停止させるつもりだった。
 しかし、その直前で手は止まっていた。
 二人の足元の絨毯に、小さな赤い雫がこぼれる。
 天を突くかのように高く突き上げられた朱志香の拳によって、ロノウェの鼻から流れた血で、
絨毯が染まったのだ。
「因みに、さっきのは乙女としての回答な。次期当主としての回答は別だぜ」
「お伺いしましょうか」
「大好きな人も、家族も親族もみんなみんな、私が守る。私が当主っていうなら、それは私の責務だ!
お父さんは威張ってるだけじゃない。右代宮家を受け継ぐ重圧ってヤツと、何十年も戦ってる!
だから分かるぜ。次期当主ってのはな、軽くねえんだよ。
だからさ。自分の命くらい、簡単に賭けられちまうんだよッ!!」
 朱志香は知っている。
 家族を守るために、父親が虚勢を張りながら孤独に戦い続けている事を知っている。
 その背中が物語ってきた何かを、朱志香は理解している。
 朱志香の左ストレートが、再びロノウェの顔面に打ちこまれる。
 その一撃は、密かに嵌めたメリケンサック使用による物だけではない。
 守るために何もかもを捨てられる者の、当主たるものの一撃だ。
「父さんが次期当主の資格を失ったっていうなら、順当に次の当主は私が継承するぜ。
 右代宮家当主、右代宮朱志香、これ以上を好きにさせるほど腑抜けちゃいねえぜッ!!」
「素晴らしい回答です。先ほどの点数を改めましょう。その回答に10点プラス。見事な左ストレートに10点プラス」
「あと20点プラスで100点満点だな?」
 ロノウェは後方に宙返りして飛び退くと、鼻から出ている血を、懐中のハンカチで拭い捨てた。
 散ったそれは血ではなく、赤い薔薇の花びらになっていた。
 顔の血は拭われた代わり、何百年ぶりに感じたかも思い出せない歓喜に、にやりと笑う表情が現れる。
「朱志香さまの覚悟、満点に値するかどうか。このロノウェ、試させて頂きます」
「うぜえぜッ! 掛かって来やがれえええぇぇぇッ!!!」



「さぁさお出でなさい、イヴァルディの息子たち。我に相応しき槍を与えたまえ!」
 後方に飛び退くワルギリアの呼びかけに応じるように、一陣の風が音を立てて暗闇を切り裂く。
 その疾風の中より現れるのは、如何なる者も逃がさぬ必勝の槍。
 ワルギリアが指を鳴らすと、虚空に浮かぶその槍は、さながら稲妻のように走り進み、前方の譲治を狙う。
「なにッ……!?」
 突然の出来事に、人の身の譲治は身動き一つ取る事は出来ない。
 まさしく神速を誇る槍に、彼の心臓は無残に屠られるのが必定。
 ただ一歩だけ動けさえすれば、彼の運命は決定的に違っていただろう。
「ううっ……!!」
 だからこそ、危ういところだった。
 もしも体をずらしていたら、彼は無様に倒れるところだった。
 ワルギリアの放った槍は、譲治の胸からわずか1ミリ程度の位置に、微動もせずに浮かんでいた。
「神代より伝えられしグングニル。抵抗しない事をお勧めしますよ。
 ニンゲンがいくら武装しようとも、神の槍は防げません」
 そして彼女は立て続けに、次なる術を唱え始める。
「さぁさお出でなさい、ドヴェルグの兄弟たち。我に天の鉄槌を与えたまえ!」
 再び巻き起こる強風に、今度は庭園の花びらが、葉が、枝までもが飛び散っていく。
 その風を起こしている主は槍でなく、暴風のような音を立てながら飛んでくる巨大なる槌の旋風だ。
「さあ、哀れなるニンゲンよ、せめて安らかに眠りなさい!」 



 朱志香の寝室では、ロノウェが彼女の拳をいなしながら笑っていた。
「ぷっくっくっく。悪くない動きですよ。しかし、レディには少々相応しくないかと存じますよ」
「野郎おおおおお!! 反撃して来ねえのかよ……、うぜぇヤツッ!!」
 ロノウェは巧みに飛び退り、朱志香の鉄拳をかわすのみである。
 構わず朱志香は、ロノウェを正確なフットワークで壁際に追いつめていく。
「おっと……! おや、いつの間に」
「これでもう逃げ場はねえぜ、釣瓶打ちだああああッ!!!」
 朱志香の左右の鉄拳がロノウェに叩きこまれる。
 しかし、そうとは思えぬ手応えとガラスを割るような音に朱志香はぎょっとした。
 朱志香の拳を受けるロノウェの手のひらには、黄金の鏡のように光る盾があり、紙一重の所で
攻撃が届かないのだ。
「悪魔ですので。この程度の魔法くらいは」
「お、おかしな真似を……!」
「それで終わりですか?」
「え!? ……うわッ!!」
 ロノウェは盾ごと手刀を朱志香の下腹部に打ちこんだ。
 朱志香は木の葉のように弾き飛ばされ、ベッドに頭をぶつけた。
「ニンゲン如きに、私の盾は破れませんよ。
 もう二度と、私の体に触れる事は叶わないとご理解下さい」



 薔薇庭園。
 譲治は、ワルギリアの槍によって、襟元から宙づりにされていた。
 虫ピンで止められた憐れな蝶のように、風雨に苛まれて無様を晒していた。
「残念です。あなたは態度こそ一人前でした。ですが、力が伴わなければ無意味です。
 ご存知ですか? この世を統べるには三つの力が必要であると。一つは権力。一つは財力。
では最後は何か」
「本で読んだよ。暴力だろ?」
「権力を伴わない王者にも、財力を伴わない王者にも、そして暴力を伴わない王者にも、人は誰も恐れない。
 金蔵はその三つを兼ね備えていました。だからこそ暴君として君臨した。
 今あなたに残された道は、私に許しを乞う事です。
 その上であなたは、自分と紗代とのために、他の者たちを殺すのです」
「…………………………」
 譲治は返事をしない。ただ、その眼差しは未だに強情だった。
 ワルギリアの強さは歴然としているにもかかわらず。
「嫌だね。僕は屈服しない」
「何故ですか?」
「それが、僕の覚悟だからだ。僕は紗代のために、全てと戦う。
 そして全てに認めさせ、全てに僕たちを祝福させる」
「お聞かせ下さい。何故あなたは紗代のために、ここまで抗おうとするのですか?」
「人を愛するとは強さだ。それを知ったから、僕は強くなれた。
 紗代は、自分は家具だと蔑む言い方をするが、僕はそれだけが許せない。
 彼女には生涯、僕と寄り添って欲しい。僕には紗代が、永遠に必要なんだ」



 そんな光景を、俺たちはずっと眺めていた。
 薄暗い牢屋、その鉄格子の向こうには、黄金の蝶が群れ集まって現れた鏡が2枚。
 その鏡の中に、朱志香と譲治兄貴と、それぞれの様子が映し出されているのだ。
 一つは、ロノウェの盾に怯む事無く、拳を叩きつける朱志香の決意。
「どんな硬い心にだって、言葉はわずかずつ響き、やがてはひびを入れる事だって出来るんだ!
 私は信じてる!! この世に無駄な努力なんて存在しないって!!
 私の辞書には、諦めるって文字は書いちゃいねえんだぜ!!」
 もう一つは、服を切ってワルギリアの槍を振りきり、打って変わって凛と立つ譲二兄貴の決意。
「そろそろ、いいかな。反撃しても。
 何が魔女だ。何が魔法だ。六軒島の主人は、この右代宮家だよ。それを、体で教えてやるよ」
 兄貴は間合いを瞬時に詰めて、空中二段蹴りを身軽に放つ。
 それは剃刀の如き切れ味と正確さで、ワルギリアの前髪数本だけを斬って見せる。
 そう。日頃は朱志香の腕っ節のほうが目立つが、兄貴の格闘技の腕は、絵羽伯母さん仕込みのお墨付き。
 秀吉伯父さんの教えで、余程の事がない限り、自分から技を披露しないだけなのだ。
 そんな彼らを見る紗代ちゃんと嘉哉くんの体には、黄金色の蛇のような何かが、ロープのように
絡みついていた。
 ついさっきまでは、指一本動かせないほど、きつく巻きついていたが、いつしか蛇は薄れだし、
二人は自由を取り戻しつつあった。
 俺の隣でふわふわ浮かぶベアトリーチェが、にやにやしながら独りつぶやく。
「ふん……あやつらめ、あれしきの戯言に魔力を使いすぎだ。
 こちらの拘束が疎かになっているではないか。
 妾は今この鏡に係りきりで、動く事もままならんというのに。
 まあ、妾には何も関係のない話だがな。なあ?」
 だったら、思いっきり何か言いたげな顔でこっちを見てくるのを止めろ。
 黄金色の蛇は、とうとう完全に消え去った。
 紗代ちゃんと嘉哉くんは、鉄格子にすがり付くと、互いに目を見つめ合った。 
「いいよね、姉さん。もう一度だけ、足掻いても」
「うん。私も、もう一度だけ足掻くよ。ううん、何度でも」
 鏡越しに、思いは伝わったのか。
 彼らは真剣な顔で、踊るように滑らかに動き、構えを取った。
 鉄格子を前に、嘉哉くんは握った両手を重ね合わせ、紗代ちゃんは嘉哉くんの背後から、
両肩に両手を置いた。 
「この障害物は、一人では壊せない。嘉哉くん、リンクしよう」
「了解。姉さんと一緒に戦うのは久しぶりだ。ドジ踏まないでよ」
「うん。本気でやる」
「なら、問題ない」
 二人は静かに目を閉じ、深呼吸の音だけが辺りに響く。
「構造解析。骨子把握。嘉哉へデータリンク」
「データ受領。……やっぱり姉さんは凄いな。死線が全部、見える」
「破壊優先順位に注意。姉さんを信じて」
「もちろんさ。僕は目を開ける必要さえない」
「開放開始」
「開放開始」
 全ては一瞬だった。
 脳髄に刺さるような、物凄い金属音が鳴り響いた。
 鉄格子数本が、まるで刀で切られた竹の子みたいに、ばたばたと外側に倒れて落ちた。
「な………………何、なんだ、今の……?」
 俺は思わず何度も目を瞬かせてごしごし擦った。
 嘉哉くんの手元が光って、それで見えた物を、俺はどうしても信じる事が出来なかった。
「くっくっくっくっく! 紗代と嘉哉は、もともと一組の家具。足並みを揃えれば手強い手強い。
 さあ早く行くが良い、足掻くが良い!世にも美しい歌声を妾に聞かせよ!
 断末魔の悲鳴という最高の歌声をなあ! ははっはっはっはあッ!」



 嘉哉が朱志香の部屋に駆けつけた時、その目に映ったのは異様な光景だった。
 部屋には、金色の粉吹雪が舞い、まるでスノーグローブの中で金箔を舞い散らせているような
幻想的な世界だった。
 無論、これは金箔なんかじゃない。
 無数の黄金の蝶たち、ベアトリーチェの眷属たちだ。
 嘉哉は豹の如きしなやかさで、部屋の中を全速力で駆け抜けた。
 自分のすべき事は明白だった。
 それは理屈じゃない。電気的で反射的。
 一切の躊躇も雑念もない。
 守りたい人がいて、助けを求めていて。
 だからその瞬間、そこにいるのが自分でありたいという純粋な気持ち。
 絶望的なまでに確率の低い願い。だからこそ、その願いは叶う。
 ロノウェの盾を薄氷の如く容易に破壊し、執事服の胸に迫るべく貫かれた嘉哉のそれは、
紅蓮の輝きを放つ光の長剣――!
「ほう、何度見ても、それは美しい刃です。
 嘉哉、あなたもまた一段と腕を上げましたね」
 唇の端をほんの少し吊り上げながら、ロノウェは涼しい顔で嘉哉を褒めた。
 嘉哉はロノウェから目を離さないまま、苦い物を口にしているような様子で言った。
「こんな物。薔薇の手入れにも、使えない」
「よ……嘉哉くん。…………それは、………」
「………見せたく、なかった」
 理解の域をとうに越した朱志香は、茫然自失の状態で嘉哉の顔を手元とを代わる代わる見つめていた。 
 ロノウェは変わらず笑みを浮かべて、嘉哉に声をかけた。
「よく、朱志香さまの前でそれを抜く事を決意しましたね。
 想いを寄せる異性の前で、自らの正体を明かした気分は如何ですか?」
「黙れ」
「おやおや。怒りを見せまいとするその態度、紳士として誠に喜ばしい物です。
 もっとも、客観的には明らかに憤怒していると分かりますが」
「僕の力で、お前らを殺す事など出来ないのは分かってる。
 お前らは月のような物。石を投げても月を砕く事は出来ない。
 だが、お前らは今、水面にその姿を映している。
 だから僕は、この命尽きるまで、お前らの映る水面を叩き続けてやるんだ……!」
「悪魔に立ち向かう騎士と、その騎士の守る姫君と……。
 これぞ愛し合う男女の本懐かもしれません。いや、何ともはや美しい」
 嘉哉の背中に隠れる朱志香に、嘉哉は静かに言った。
「お嬢様。下がっていてください。あなたは、自分の身を守る事だけ考えて」
「嘉哉くん……」
「大丈夫。僕の目の黒い内は、誰の指一本、触れさせたりするものか。お嬢様は、僕が守る……!」



 再び振りかぶった嘉哉の刃は、まるで溶けかかったバターを切るように、悪魔を斜めに切断した。
 刹那のち、その姿は黄金色に弾け散った。
 何千という黄金の蝶たちが散らばって、室内は一瞬だけ輝きで満たされた。
 そんな怪異を見ようとも、朱志香は認める事が出来なかった。
 この島が既に、この世の法則から切り離されている事に。
 しかしそれでも、理解できた。
 この悪魔が今、何を狙っているのかだけは。
 狙われていたのは嘉哉の背中だった。
 それを朱志香は読みきった。
 この悪趣味な悪魔なら、正々堂々と最も相反する背後から襲うだろうと。
 でも、防ぎようがなかった。
 だから、自らの背中で受けるしかなかった。
 自己犠牲を気取るつもりなんかなかった。
 こうする以外に、嘉哉の背中を守れないと思った。
 ロノウェの手にする、嘉哉の物と限りなく似た紅蓮の長剣は、深々と朱志香の背中に突き刺さっている。
 それが肺にまで至る致命傷である事は明白だった。
「……ぐ、…………ぁ」
「お、お嬢様………」
「へ、ざまぁ……見やがれ…………」
 嘉哉に力なくもたれ掛かる朱志香は、会心の笑みを浮かべてみせた。
 が、それを見ても、ロノウェの顔から笑みは消えない。
 何故なら、彼女のその動きこそが、ロノウェの真の狙いだったのだから。
「さて。嘉哉。そろそろ、家具を片づける時間です」
「僕はもう家具じゃない。それを、二度と疑わない!」
 優雅に歩み寄るロノウェに、嘉哉は決然と言い放った。
 その声に、朱志香が気力を絞って囁いた。
「そう、だよ。……嘉哉くんはさ、もう、家具じゃないよ」
「はい……」
 ………それに気づくのが、僕は、遅すぎた……。



 薔薇庭園では、ワルギリアの揮う槍が、鋭い軌跡を何条も描きながら、確かに譲治に襲いかかった
はずだった。
 しかし、その直前、彼の周りに、うっすらと赤い魔法円が浮かび上がった。
 同時に、彼の前に、何か見えない壁が出来たようだった。 
 その壁は、真っ赤な軌跡の波紋を残しながら、槍を弾く。
 あり得ない光景を目の当たりにした譲治は、自分の背後に立つ者を見て、一瞬言葉を失った。
「さ、…………紗代…………」
「譲治さんはそこから動かないで下さい。中心軸をずらしたくない」
 二人を包んでいるのは、天より射した一条の光のような、赤き円筒。
 その円筒が、邪悪な存在を弾き返したのだ。
「おや、これはこれは……。紗代。まさか、あなたが譲治くんの前で、その結界を開くとは。驚きました」
 ワルギリアは細めている目をますます細くして、穏やかに笑った。
「あなたにもまだ、未練があったという事ですね。
 愛する者に抱かれ、女としての悦びを教えてもらう事もなく死ぬ。悲しい事です」
 紗代は、そんなワルギリアを真っすぐ見つめ、そして語る。
「私はもう、家具じゃない。そして、そうしてニンゲンの命をもてあそぶあなた達を、今はとても哀れに思う」
「その理由を……、聞かせて頂けますか?」
「愛し合う二人に未練が無いわけがない。でも、あなた達の期待するような未練は欠片ほども無い」
「それはまた、随分はっきりと言い切りますね」
「愛し合う二人にとって体を重ねる事や、初めての夜を添い遂げる事に意味はある、きっとある。
 でも、それはあなた達の言う事とは全然違う。神聖な意味がある。
 私は譲治さんと愛を誓い合った。その証として指輪を受け取った。それで、永遠の誓いは完了した。
 後はただ、譲治さんを守りきれるなら、私はどうなってもいい!」



 その時、不意にワルギリアの顔に影が差した。
「素晴らしい答えです。……ですが、申し訳ありません」
「え?」
 ワルギリアは深く頭を下げた後、鈴の音のような声色で、おもむろに歌い始めた。
「………さぁさ、思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか」
 すると、紗代の結界の周りに、小さな黄金蝶たちが集まり、群がっていく。
「紗代。あなたの後ろを、ご覧なさい」
「……何ですか?」
 言われた通り紗代が振り返ると……、そこには彼女の愛する譲治が、血に濡れて倒れ伏していた。
「こ、………れは…………」
 愕然とそう言ったのは、当の譲治本人である。
 戦いは、一番最初に決していたのだ。
 譲治が攻撃を振り切って蹴りを繰り出すよりも遥かに前。
 ワルギリアの放った槍は、とうの昔に譲治の胸を貫いて殺していたのだ。
 それを彼女が無限の力によって蘇らせ、命を長らえさせていただけだったのだ。
 逃れようの無い譲治の死を目前にして、紗代の集中力が殺がれていく。
 結果、彼女を中心とした見えない円柱の壁が、一斉に真っ赤な波紋を描き始める。
 目に見えない悪意が全方向から侵食しようとしているのを、壁が懸命に堪えているのだ。
 紗代たちの周囲を覆う黄金の暴風が徐々に、彼女たちを守る円柱の壁を削っていく。
 必死に真っ赤な波紋たちが抵抗の模様を描くが、それはむしろ絶望の赤い壁となって
二人を包みこもうとしていた。
 その場から動けない紗代は、譲治を介抱する事も叶わず、背後に声を投げるしかない。
「譲治さん、ごめんなさい……。やはり………私には、無理でした……」
「君は僕のために戦ってくれた。それだけで嬉しいよ」
 口の端からも血を零しながら、それでも譲治は優しく微笑む。
「譲治さん、お願いが」
 紗代は涙を堪えて、譲治に言った。
 だから譲治も同じくらい力強く、言葉を返した。
「何だい」
「最後に、愛してるって、聞かせて下さい」
「ああ。紗代、僕は君を永遠に



 朱志香の部屋では、ロノウェは笑みの中に神妙な物を浮かべ、うずくまる嘉哉にひざまずいていた。
「あなたは、よく頑張りました。もう休む時間です」
 今までとは打って変わった、芯から憐れむ物言いだった。
 嘉哉は無言でロノウェを睨んでいたが、やがて憑き物が落ちたかのような顔で答えた。
「はい。ありがとうございます」
 ロノウェはその手で、まずは嘉哉の両目を、そしてもう片方の手で、鎖骨の辺りも優しく覆った。
 すると、その左手を当てた所から、真紅の染みが広がった。
 鎖骨に置いた手を、まるで羽を思わせる軽さで取り払うと、そこから真っ赤な鮮血が湧き出していた。
 それは最初の一瞬だけ、真紅の薔薇模様にも見えた。
 嘉哉は、まるで操り人形の、その糸が切れただけと錯覚するくらいに、あっさりと伏し、
誰にも呼び戻せない眠りに落ちた。
 一方、薔薇庭園でも、紗代の赤き結界の中に、ワルギリアがすっと足を踏み入れていた。
 ワルギリアは、そっと紗代を背後から抱きしめ、右手で彼女の目を覆った。
「あなたの心、充分に見せて頂きました。後は任せ、先にお休みなさい」
「はい。ありがとうございます」
 やはり憑き物が落ちたかのような顔で、紗代も答えた。
 それからワルギリアもまた、左手を紗代の鎖骨辺りに優しく押し当てた。
 ワルギリアが手を離すと、そこには真紅の薔薇模様が浮かんでいた。
 が、その模様はすぐに真っ赤に溢れ出す血の染みと化した。
 そして紗代の目を覆っていた右手を離すと、紗代も安らかな表情を浮かべて、音もなく倒れた。
 もう、悪意ある魔女や悪魔などが、どれほどの邪悪で彼女を苛もうとも、決して届かない世界へ、
彼女の魂は送られて行った。



「くっくくくくく、はっははははははははは!
 それ、戦人はどこだ? 戦人ああ、どうだ、この一大スペクタクル愛憎活劇、その目ぇかっぽじって
よおおおく見たかあああぁぁぁ?」
「……い、いや、だから、その。何なんだよもう畜生……。
 魔女はいるも何も! あんなどっかんどっかん、凄まじいバトルシーンを見せつけられて、
いまさら俺は何を否定すりゃいいんだよ!!」
「だぁ~よなぁ~!? こんなの見ちまったらもう言い逃れは出来まいなああ??
 さぁ戦人、そなたの推理を聞かせてくれよ、くっひひゃっひゃっひゃっひゃッ!!」
「ふざけるなッ! 何をどう反論すりゃいいってんだ!?
 光のブレード、光のバリヤー! それにアレだ、槍だの槌だの飛んでくる辺りなんてもう滅茶苦茶だろうが!
 マジで訳わかんねえよ!! 俺に話しかけるんじゃねええぇぇ!!」
「ほらほら泣くでない。そなたが望むなら、魔法で月だって砕くし、彗星を雨のようにだって降らすさぁ!
 新キャラだってガンガン増やすぞ、お前好みの姉ちゃん達が、イケてる巨大ロボットで
暴れ回るなんてものいいかもなあああああッ!
 さぁさぁ、妾の手番は終わったぞ? 受け手を指せよ、反撃しろよ!
 出来まいなァアアァ? 出来ないのは千兆も承知よ!
 そなたは、こういう荒唐無稽な話、本当は大好きなんだもんなああぁ??
 知ってんダヨ、今時こんなの巷にいくらでも溢れていようが!
 漫画に小説、アニメに映画! 少年少女が特殊能力いっぱい持ってて、世界の命運かけてドッカンバッカン!
 どうして漫画やアニメのそれは信じてくれるのに、妾のだけ信じてくれぬのだ?
 返事をせよ、思考は要らぬ、素直にごめんなさいベアトリーチェさまと言えば良い!
 くっききききかっかかかかっひゃっひゃああっはっはっはっはっはっひゃああぁッ!!」



 気がつくと、俺はまた、いつもの茶室に戻っていた。
 窓の外からは、薔薇庭園の様子が見える。
 相変わらず雨は降っていて、風も吹いていて。
「俺はひょっとすると、あいつとの勝負(ゲーム)にとっくの昔に負けているのかもしれねえな」
 何しろ俺は、少なくとも一度は屈服した事があるのだから。
 その結末や惨憺たるもので、おびただしくあふれ返った魔物の群れに揉みくちゃにされ、
啜られ齧られ千切られた。
 何度も何度も断末魔を叫ばされ、骨の一つ残らず砕かれて、その癖こうして平気の平左に戻ってる俺がいる。
 だから、もう世界は魔女と魔法で染まってしまったのだ。
 今や六軒島では、魔女や悪魔が堂々と闊歩し、おかしな魔法をバンバンぶっ放す異世界だ。
 認めるとか否定するとかそういう域は既に超えた。
 俺は既に敗北して、これはその、降伏の調印式なだけなのかもしれない。
 俺はもう一度、薔薇庭園の東屋を見やった。
 ついさっき、あの薔薇庭園で凄まじい戦いが繰り広げられた。
 俺はそれを目の当たりにした。
 こうして見れば見るほどに、そんな事はあり得ないと実感できる。
 だからこそ、もう魔法だとしか説明できない。
「密室に鍵が閉じこめられて、とかってヤツなら、普通の推理小説の延長さ。
 でも、あれはなぁ……。あのどっかんどっかんってのはなぁ……」
 何だかもう、何もかもどうでも良くなって、意識が希薄になりかけた時。
 どこか懐かしいような、甘い匂いが漂ってきた。
 その匂いを辿るように、俺は自然と振り返った。



「失礼いたします。戦人さま、紅茶とクッキーはいかがですか?」
 あのロノウェとか名乗った悪魔が、どこからともなく現れて立っていた。
 手に持つ銀のトレーには、美味しそうに湯気を立てる紅茶とクッキーを盛りつけた皿が置かれていた。
 源次さんと違って、こいつの笑みは、客を歓待する物じゃない。
 どこか小馬鹿にしたような感じなのだ。
 それにそもそも、コイツは郷田さんと朱志香と嘉哉くんを殺したんだ。
 あの得体の知れないバトルを殺人と呼べれば、の話だが。
「要らねえよ。俺は今、取りこみ中なんだ。放っておいてくれ」
「おやおや。それはそれは美味しく焼けたクッキーなのに、とても残念です。
 ニンゲン如きには勿体無いくらいに素敵に焼きあがった、それはそれは素敵なクッキーなのに」
「気が向いたら食ってやるぜ。その辺に置いて、とっとと失せな」
「左様でございますか。それではそのようにいたしますよ。
 冷めてからお召し上がりになって、焼きたてを召し上がらなかった事を存分に後悔なさると良いでしょう」
「いちいち、うるさい奴だな。…まぁ、耳元で気色悪くケラケラ笑うあの魔女野郎よりゃ数段マシだがよ」
「いえいえまったく。お嬢様の笑い声は時折、実に品がありません。
 それを聞く度に、なぜ私ほどの高貴な悪魔が、あのような者を主にしなければならないのか、
理解に苦しむのでございますよ。ぷっくっくっく」
「変な奴だな。そんなに嫌なら仕えなきゃいいだろうが」
「それでも尚お仕えするのが、家具の喜びなのでございますよ。それでなくては家具は務まりません」
 たとえ人外だろうが、仮にも執事か。
 何だかんだ言って、相手の気分を悪くさせないテクニックを持ってるようだ。
「これより今一人、お客様が参られます。是非ともご一緒にお召し上がりを」
 ロノウェがこの上なく恭しい様子で頭を下げてみせた、まさにその時。
 黄金の蝶と共に、南條先生と譲治兄貴と紗代ちゃんを殺した魔女――ワルギリアが姿を見せた。



「可哀想に。私の弟子が迷惑を掛けていますね。謝ります」
「……弟子?」
 俺は意外な単語を聞いて、思わずオウム返しに言い返していた。
「私は、あの子の師匠に当たります。かつては私がベアトリーチェを名乗っていました。
あの子が私を継ぐ時、無限の魔力と併せて、名を贈ったため、今はまた別の名となりました」
「やっぱり何だかよく分からねぇが……あの魔女の師匠だって事は、あんたも魔女ってわけか」
「ええ、そうですよ」
「ちぇ。って事は、やっぱり魔女はいるって事で決まりだ。俺はもうお役御免さ」
「おやおや。すっかり屈服してしまいましたか?」
「屈服も何も! あれをどう説明すりゃいいんだよ?
 ああ思い出すだけでも気が変になりそうだぜ、もう推理もヘチマもあったもんじゃねえ!
 トリックとか人間犯人説とか、そんな領域をとっくに超えてるだろ!!」 
「あなたが望むなら、あなたに魔法の一端を教えてあげてもいいですよ」
「そりゃあ願ったり叶ったりだぜ! 舐めんなってんだ」
「日本の魔法に、雨乞いの儀式という物があるそうですね」
「雨乞い? バンバン火をくべて、演舞を奉納して雨を祈るっていう?
 あれは魔法じゃねえだろ。火で上昇気流が出来て、その結果、雨雲が集まるっていう、
れっきとした科学現象だ」
「それでは、太古の人々が、その科学現象を完全に理解していたでしょうか?」
「ああ……そういうのは結構あるかもな」
 さっきこいつが言ったように、原理を知らない当時の人々は、雨乞いによって、天に願いが届き雨を降らせたと
信じていただろう。
「電気のスイッチを押せば灯りがつく。人は電球がなぜ発光するのか、その科学的原理を知らずとも、
スイッチを押す。原理を知らずとも結果を得られるならば、それもまた“魔法”なのではありませんか?」
「面白い話だな。例えば俺も、テレビのブラウン管にどうして画像が映るのか、正確な理屈は説明できない。
 でも、テレビに物が映るのは当たり前だと思ってる」
「あなたは、ブラウン管の構造がどうなっているか知っていますか? 分解してその中身を見た事は?」
「ねぇよ。本で構造を読んだ事もあるが、難しくて覚えてねえぜ。
確か、電子が蛍光物質にぶつかる時、発光して……」
「それは偽書です。真実は、ブラウン管の中に小人が閉じこめられていて、魔法で仕事をしてくれているから
なのですよ」
「はぁ!? 何を馬鹿な事を」
「ブラウン管の中を覗いた事もないのにどうして否定を? 今ここにブラウン管がない以上、実証不能ですよ」
「た、確かに今この瞬間は実証不能だが、後でどこかのテレビをバラしてみれば!」
 俺はそこまで言ってから、苦い気持ちで口を噤んだ。
 この期に及んでまで、水かけ論や揚げ足取りをしてる場合じゃないのは明白だ。
 俺の目の前にいるこの魔女は、俺にヒントを与えようとしてる。
 その思惑がどこにあるのかは分からないが、乗ってみなけりゃ、受けてみなけりゃ、何も始まらない。



 ワルギリアは笑みを深くして、コックリ頷いてから話を続けた。
「あなたの訴える科学的説明と、私の訴える魔法的説明。
 それはブラウン管の中を覗いた時に確定する。
 しかし、それを確かめる瞬間まで、私たちは互いの説を否定できない。
 つまり、真実は一つであるとしても、観測されるまでは、異なる真実が同時に複数存在できるのです。
 今この瞬間の六軒島もまた、確かに魔女も魔法も、あらゆる事象が真実として存在し得る。
 言うなれば、不確定に拡散された波動関数の世界。
 世界とは、人間に観測される事で初めて収縮、確定し、唯一の真実になるのです」
 何故なら。世界はそういう風に出来ているから。
 そうでなければ、人間は世界を観測できないから。
「………………つまり、あいつがどんなすげぇ魔法の世界を俺に見せようとも。
 それは、あいつの“魔法説”の主張でしかなく、俺の“科学説”の主張を否定する根拠にはなり得ない、
って事か」
「そうです。ある種、今のこの世界は、双方にあまりに“公平”なのです。
 いわゆる客観的事実というのは、主観の延長に過ぎません。
 いかなる“客観”にも、それを主張する観測者の“主観”が大いに含まれるのです。
 だから、あなたはあなたの思う通りに主張できる。
 だから、あの子はあの子の思う通りに主張できる」
「…………」
 そうか。
 実は単純な話なんだ。
 少なくとも俺が起きていた時までは、俺の“主観”がこの世界には含まれていただろう。
 だが、その後はどうだ?
 あいつは、本当の意味での証明責任を果たしているか?
「どうか落ち着いて。あの子なりの“解釈”による演出に惑わされないで。
 あなたは今夜、いつどこで何をしていましたか?
 その自らの目で何を見て、その自らの耳で何を聞いて、その自らの心で何を感じましたか?」
「…………ああ……」
 そうだ。
 どうして思い当らなかったのか。
 あまりにも、まことしやかな世界、その虚実を区別できなくなってた。
 何もかもが、まやかしである可能性は、最後まで捨てちゃいけない。
「もしもあなたが望むなら、更なる助言を与えましょう」
 そう言って、ワルギリアは茶室の扉を開いた。
「扉?」
 いつの間にか、当たり前のように、外へ出られる扉があった。
 俺はワルギリアに続く形で、薔薇庭園へと歩いて行った。



 久しぶりに、建物の外を歩けたような気がする。
 俺たちは当てもなく、薔薇庭園をさまよい歩いた。
 雨は降っていて風は苛むのだが、俺たちの体は濡れない。
 その理由は既に察していたが、それでも何となく変な気分だった。
 ただ、傘も指さず風雨の真っ只中にいるという、荒涼感だけはあった。
 ベアトリーチェの事を考える。
 碑文の謎を解けば、碑文殺人を止める事が出来ると、あいつは言った。
 だが、その謎は、まだ俺たち親族の誰も解く事が出来ずにいる。
 こうして碑文殺人が進んでいる限りは、碑文の謎は解かれていない。
 明確な対偶だ。
 それにしても、どうしてあいつは、碑文の謎を俺たちに解かせたがるのだろう。
 解いて辿り着いた先には黄金の山がある。
 俺たちは万々歳だ。
 けれどあいつは?
 黄金を俺たちに見つけられて、何か得するのか? あるいは損するのか?
「人は自らが損になる一手は打たない。だからあいつは、俺たちが碑文を解く事で、何か得をするはずなんだ」
「いいえ。誰かが碑文を解いても、あの子は何も得られません」
 ワルギリアは、俺の疑問にあっさりと、答えを与えた。
「俺は、あいつが碑文を俺たちに解かせようとするのは、黄金の隠し場所を見つけさせて、横取りするためかとも
推理してるが………それも違うのか」
「はい。第一、もともと黄金郷の黄金はあの子の物。見つけさせる必要も、横取りする必要も有りません」
 まあ、当然だな。
 あいつは、黄金の魔女ベアトリーチェ。
 黄金郷の主で、右代宮家顧問錬金術師。
 しかし、だからこそ一層わからない。
 碑文の謎を誰かが暴いたとて、あいつは何も得られない。
 どころか、自分の黄金を奪われてしまうかもしれない。
「碑文殺人はまだ分かる。右代宮家に対する復讐とか、あるいは魔女としての力を復活させるための儀式とか。
あいつなりの理由や目的があって、やってるんだろうからな」
「…………………………」
「だが、“碑文の謎を解け”というのにはどんな意味があるんだ。
 もしかして、あいつにとっては碑文の謎自体、何の意味も無いんじゃないか?」
「そうですね。その点については、言い返せないかもしれません」
「……………………………」
 ベアトリーチェ。
 あいつは俺たちに、どうして碑文の謎解きなどを課す?
 あいつという魔女を天秤に見立てた時、片方の皿には碑文殺人が、もう片方の皿には碑文の謎が乗っかる。
 碑文殺人と碑文の謎の価値は、あいつにとって同じ物。
 しかし、あいつにとって碑文の謎は、無意味で無価値。
 なら、天秤のもう一方にあり、それと価値を等しくする碑文殺人は、どういう価値になるか。
 ……考えろ、思考を止めるな……。
 そして……認めろ。
 どんなにあり得なく思えても、導かれた結論を受け入れろ。
「つまり……碑文殺人もまた、無意味、無価値って事になる。
 あいつは、ご丁寧に予告状を出し、碑文に沿うように順番に、バレないように次々殺していくという、
めちゃくちゃ面倒な手間を払ってまで、あのおかしな連続殺人事件を起こしてる。
 その意味が、なくなっちまうんだ」
 なぜ、魔女の碑文を再現するように連続殺人を犯すのか。
 右代宮家を復讐のために皆殺しにするというなら、晩餐の料理に毒でも盛るか、寝静まった深夜に一人ずつ
殺して回る方が、よっぽど簡単で安全、確実だ。
 しかし、あいつは最初の晩に予告状めいた手紙を送りつけ、第一の晩に6人、第二の晩に2人、
第四の晩以降に5人と、大きく分けても三度の連続殺人を行なってみせている。
 俺たちも馬鹿じゃない。
 最初の殺人が起こった時点で篭城を始め、次なる殺人を抑止しようとしている。
 また、内部犯行を早くから疑い、相互のアリバイを疑い始める。
 犠牲者が増えれば増えるほど、自動的に容疑者の数は減り、あいつが連続殺人を完遂できる成功率は、
ゼロに近付いていく。
 碑文殺人の全てが、連続殺人を遂行する上で自ら首を絞めるような、無駄な装飾、虚飾に満ちている。



「あいつは、自分で自分の目的の難易度を上げている」
「そうなりますね。おかしな子ですね」
「世間のミステリでは、ああいう碑文殺人を“見立て殺人”っていうな。
 この見立て殺人が行われる理由は、差し当たって三つほど有るが」
「……伺いましょう」
「一つ目。碑文に沿う事で、証拠やアリバイを誤魔化し、犯人に利するため。
簡単なのは、自分が死んだふりをして犠牲者に混ぜるとか。碑文に沿わずに殺人を犯し、
その発生順序を誤解させて、アリバイを作るのもある」
「なるほど。碑文に沿って儀式的に殺していると見せかけて、誤誘導(ミスリード)していくわけですね」
「二つ目。意図せずして行なった連続殺人が、たまたま碑文をなぞる形になり、目撃者たちが勝手に
見立て殺人だと誤解するケース。
 人間はどんな出来事にも因果性を求めてしまう生き物だからな」
「それも面白いですね。ですが、あの子のゲームでは、第一の晩の殺人以前に、事件が予告されています」
「ああ、そうだ。あいつは、始めから碑文殺人を見せつける目的で遂行している。だからこの理由は弱いだろう」
「となると、最後の一つの理由とは?」
「三つ目。見せ付ける事そのもの。つまり恐怖だ。碑文に沿うという事は、連続殺人だという明白な予告だ。
生存者たちは、ずっと怯えさせられる事になる」
「つまりあの子は、死の恐怖を味わわせるために、碑文殺人を?」
「と思うと、割と収まりがいい。グロい遺体損壊も、悪趣味な装飾も全て、俺たちを怖がらせるための演出だ」
「誰を怖がらせるためですか?」
「え? だから、それは俺たちを…………………………」
 ワルギリアのさり気ない一言に、俺の思考が再び立ち止まった。
 右代宮家の人間は、あれだけ大勢いる。
 当主やその跡継ぎの肩書きを持つ祖父さまや蔵臼伯父さん達。
 財界に影響力を持つ親類たち。
 その一方、せいぜい年に一度しか訪れない未成年のいとこ達や、たまたまその日にシフトが当たってしまった
不幸な使用人たちなどがいる。
 つまり、俺たちの中の、特に誰に復讐を、恐怖を与えたいのか、考えてもいいはずだ。
「じゃあ、最も恨んでいる人物を、最後まで残したがるって事になるな。
 俺の好きな小説の好きなキャラが言ってたぜ。“そいつの親しい者から先に殺していって、
悲しみを味わわせてから、最後に本人を殺す”ってのが、一番恐ろしい殺し方なんだ、みたいな事を」
「おやおや、恐ろしい小説もあったものですね。くわばらくわばら」
「つまり、最後まで生き残るヤツが、最もあいつに恨まれてるって論法になる。
しかし毎回、殺される人間も順序も滅茶苦茶だ。
 最終的には死ぬにせよ、最後の晩まで毎回生き残る奴なんて………………」
 見つめてくるワルギリアを前にして、事に気づいた俺は途方に暮れた。



 参ったな。
 俺しか、いねぇぞ。それ。
「先に申し上げておきましょう。あの子のゲームにおいて、戦人くんは犯人ではありませんし、
誰も殺していませんよ」
「なら尚更、俺って事になる。あいつが碑文殺人を起こす唯一の理由は、俺に見せつけるためって事になる」
 あいつは毎回、誰から今度は殺そうかと、殺人順序をルーレットで決めるとうそぶく。
 しかし、そのベアトリーチェが、いつも俺だけは殺さない。
 最後には殺すにせよ、一番最後まで残す。
 気まぐれなはずの全てのゲームにおいて、それだけは不変にして普遍だ。
「あいつは俺に復讐を? 俺に恐怖を味わわせるために、碑文殺人を行なっているのか?」
「それは違います。今ここにいるあなたに、恐怖を味わわせるのが目的ではありませんし、復讐するための
物でもありません」
「なら! やはり、碑文殺人には意味なんてない事になる。碑文の謎も無意味、対となる碑文殺人も無意味。
だが、その無意味をあいつは、明白に俺に対して見せつけている!
 無意味な事と同価値の何を、俺に求めているんだ!?」
「………………………………」
 無意味、無価値な連続殺人を犯す、気紛れな魔女、ベアトリーチェ。
 その魔女が連続殺人を中止する条件とする碑文の謎も、無意味、無価値。
 そして、その無意味、無価値を、俺に突きつける。
 俺があいつに復讐されているのだろうという想像は、ワルギリアが否定した。
 碑文殺人にも碑文の謎にも、あいつには意味がない。
 しかし、それを俺に突きつける以上、意味が、きっとある。
 “碑文の謎が解けなければ、碑文殺人を実行する”という天秤を、俺たちに、提示する。
 つまり、碑文殺人も碑文の謎も、個々では確かに意味がない。
 両端に、重みを持たぬ無意味が乗せられた天秤。
 しかし、その天秤自体が――意味を成す。



「まるで、本当に、遊びだな。子どものジャンケンみたいな」
 何かの権利を賭けて、勝負する事も多いが、子どもなどは、ただの遊びとしてもジャンケンをする。
 勝っても負けても、天秤の両端は無価値。
 そのどちらに傾くかという、その行為そのものが、遊ぶ目的となっている。
 子どもは、ジャンケンでのコミュニケーションを楽しんでいるのであり、勝敗に固執してはいないのだ。
「それじゃ、あいつにとって碑文殺人は、成功してもしなくてもいいって事になっちまう。
 まるで、その過程そのものを楽しんでいるかのようにさえ、思える」
「……………………」
「最初の頃の俺なら、無意味な殺人を繰り返す非道な魔女だと決めつけて、それで終わったろうさ。
 だが、今の俺にはそうとも思えなくなってきた」
「ありがとう。ならば教えましょう。ベアトは、快楽殺人を目的としている事はありません」
 快楽目的でもなく、恐怖を味わわせるためでもない。
 碑文殺人に得る物はなく、完遂できようが、失敗しようが構わない。
 それはまるで、気まぐれな子どもの遊びのよう。
「違う。意味があるんだ。あいつには」
「………意味とは、何ですか……?」
「分からない。天秤の両端は無価値でも、あいつにとってこの天秤自体は、しっかりと重みあるものなんだ」
「私は………この物語が、戦人くんに、絶対に解けるものだと約束する事は出来ません。
 しかし、これだけは約束できます」
「………何だ」
「ベアトは、あなたに解いて欲しいと願って、解けるようにこのゲームを、この物語の謎を生み出しました。
 それだけは、私が保証します」
 ワルギリアは、高らかに宣言する。
「戦人くん。言わば、あの子の謎は、大きな牡蠣のような物。
 割り開くには鋭いナイフが必要です。
 いずれ時が満ちれば、あなたなら必ずナイフを得るチャンスを得る。
 その頃にはきっと、この島にも安らぎが訪れる事でしょう。
 そう、うみねこのなく頃に」



【2nd Game  I am a liar. (後編) 】へ続く






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