2nd Game  I am a liar. (後編)

【読者への警告】

以下に紡がれし物語、斯くも読まれる貴方は如何に。


我は貴方に警告する。

この物語には何もない。
この物語には意味がない。
この物語には意義がない。
この物語には理由がない。
この物語には理屈がない。


あるのはただひたすらの、我のつぶやく言葉のみ。


我は貴方に警告する。

我は魔女にあらず。
我はヒトにあらず。
我は犯人にあらず。
我は死者にあらず。
我は生者にあらず。


それでもまだ読む手を止めぬ貴方にどうか幸運を。


我は貴方に警告する。

貴方は身を任せるしかない。
貴方は求め悶えるしかない。
貴方は嘆き苦しむしかない。
貴方は飢えて死ぬしかない。
貴方は我に裏切られるしかない。


我は我にして我等なり。

author : クレル・ヴォーブ・ベルナルドゥス



 惨劇の一夜が明けた。
 親たちの思惑はともかく、少なくとも子供たちにとっては、いとこ達と親睦を深め合うだけの、
楽しい二日間のはずだった。
 しかし、待ち受けていたのは、信じがたいほどに残酷な現実だった。
 東屋では、譲治と紗代と南條とが倒れていた。
 三人とも、胸が真っ赤に染まっている。そして見開いたままの瞳からは、生きている気配を感じる事は
出来なかった。
 秀吉は脈を取るような仕草をした後、首を横に振り、もはや死んでいる事を無言で告げた。
 それを押しのけ、絵羽は譲治にしがみ付くと、あらん限りの声を張り上げて泣き叫んだ。
「どうして!? どうして譲治がここにいるのよッ!?
 何でこんな事になってるのよ!?
 どうして譲治はこっそり部屋を抜け出したの?
 ねえ、誰か教えてよ! 誰か、知ってるんじゃないの?
 譲治は誰が殺したの? 譲治、譲治ぃいいいぃッ!!」
 朱志香の自室でも、死体があふれていた。
 歳の割りに上品な感じのする室内に、朱志香と嘉哉と郷田の倒れた姿があった。
 床には大きな血溜まり。
 三人とも、その背中に、ナイフか何かのような物が深々と突き立てられていた。
 ただし、厳密にはナイフとは呼びがたい。
 柄にはまるで悪魔をモチーフにしたような複雑な意匠が施されている。
 どこかオカルトめいた、意味のある武器のような形だった。
 夏妃は涙を零しながらも、夫に気丈な言葉をかけた。
「は、早く警察に、い、いえ、救急に早く電話をしなければ……」
「………………夏妃。私なら大丈夫だ。目の前のこの現実を、私も理解できてる。
 救急と言い直してくれて、ありがとう」
「あなた……」
 重苦しい沈黙が場を支配する。
 蔵臼は首を大きく何度も横に振り、最愛の娘を失った悲しみを今だけ忘れ、自分たちの立場を検討する事に
専念した。



 屋敷の1階ロビーには、蔵臼・夏妃・絵羽・秀吉・留弗夫・霧江・楼座・真里亞が集まっていた。
 信じられるだろうか?
 既に6人もの命が、一夜にして失われたのだ。
 真里亞は楼座の座るソファーで、再び寝直してしまった。
 肝が据わっているというよりは、純粋に寝足りなかったのだろう。
 大人たちは金蔵のコレクションの一つである、ショートバレルのウィンチェスター銃をいじっていた。
 蔵臼と夏妃とで、金蔵の許可を得たと言って、運びこんだのである。
 金蔵が西部劇被れだった時代の名残らしく、そっくりな銃が4丁もあった。
 その4丁を蔵臼、絵羽、留弗夫、楼座の4兄弟で分ける。
 机の上には弾丸の詰まった紙箱が置かれ、4人は黙々と弾丸を装填していった。
「問題は、警察より先に電話技師が必要だという点だがね」
「この台風じゃ、船は来られないでしょうね。なら、明日になるのかしら」
「明日の9時になれば、もう一度船が来るだろうさ。そこで警察に連絡できる」
「私たちも。犯人も。台風が通り過ぎるまで、この島に閉じこめられたってわけね」
 彼らの会話だけで、おおよその流れは理解できるだろうと思われるが、一応状況を説明しよう。
 まず早朝に、前述した合計6人の死体が見つかった。
 被害者たちの死因は正確には不明だが、槍のようなもので突かれたか、もしくは銃で撃たれた可能性が
高いと大人たちは判断した。
 彼らがウィンチェスター銃で武装を始めたのはその為だ。
 更に事態を混迷させたのは、電話が使用不能になっていた事だ。
 落雷で故障したのか、犯人が破壊したのかは分からない。
 とにかく外部へ――警察へ連絡が取れなかった。
 つまり、台風が通り過ぎ、外から船が来てくれる明日の朝まで、自分たちで自衛をしなくてはならないのだ。
 何しろ、今の六軒島は台風で隔絶されている。
 彼らが島に閉じこめられているように、犯人だって閉じこめられている。
 大人たちは結局、昨夜まるまる徹夜して、屋敷の食堂で親族会議に明け暮れていた。
 にもかかわらず、事件は敷地内で起こっている。
 つまり、大人たちが会議で大いに盛り上がっている真っ最中に、犯人は殺人を犯していたのだ。
 夏妃は夜間の戸締りを厳重にさせていたと主張した。
 しかし、家人自らが外出していては、その戸締りも意味を成さない。
 それで大人たちは、銃を引っ張り出して集結したのだ。
 譲治や朱志香らの現場は、警察が来るまで、立ち入らない事に決まった。
 それは現場保全のためというだけの意味ではない。
 何しろ、6人も殺した犯人が徘徊しているのだ。
 今の右代宮家にとって、この地は未知の殺人犯が出入りしている危険地帯も同然なのだ。



 そして。この6人もの大量殺人が、“ゲーム”である可能性が極めて高い。
 犯人がそれを、手紙で宣言してきたからだ。

 真里亞が昨日、ベアトリーチェにもらったと自称したのと同じ、紋章入りの洋形封筒が、
現場の各所で見つかった。
 その手紙の中身はこうだった。



 誤解なきように。
 私が求めるゲームは、皆さんが碑文の謎を解けるかどうかであって、私を捕まえられるかどうかでは
ありません。
 碑文の謎を解かなければ、哀れな生贄はさらに増えるでしょう。
 時間は、私の姿を探すより、碑文の謎解きに割いた方が賢明です。
 碑文の謎が誰にも解けないならば、誰も生き残れない。
 見事、碑文の謎を解けた人間が現れたなら、黄金郷の全ての黄金を与え、右代宮家の家督と、
我が力の全てを与えるでしょう。
 金蔵さまより右代宮家の家督を引き継いだのは、私。
 そして、私より家督を引き継ぐのは誰なのか、楽しみにしています。
 ――黄金の魔女 ベアトリーチェ。




 碑文の謎。
 屋敷の大広間に掲げられた魔女の肖像画の下に書かれた文章。
 金蔵が書かせた物であり、それを解いた者に黄金を――家督を譲るなどと騒がせた存在。
 あの謎が掲げられて以来、親族たちは口では馬鹿にしながらも、影ではこっそり挑戦していた。
 しかし、誰も解けずに今日に至っている。
 その難解な謎を、解いてみろと再び突きつけ、しかも解けなければ皆殺しだと脅迫している。
 これを“ゲーム”と言わずして何というのか。
 敷地内を捜索して犯人を探し出そうという勇ましい意見も、一度は出た。
 しかし、向こうは武装している可能性が高い上、しかも一人とは限らない。
 また、敵はもっと大勢を殺せたかもしれないのに、6人までに留めた。
 犯人を迂闊に刺激せず、大人しく警察の到着を待って安全地帯で篭城すべきだという意見が、
最終的には支配したのだ。
 大人たちは、屋敷の戸締りを厳重に確認した後、このロビーを砦に見立てた。
 そして銃を弄って緊張を紛らわしながら、まだまだ始まったばかりの長い一日に、早くも疲労の表情を
見せるのだった。



 黄金の魔女の遊戯室は、黄金の薔薇庭園へと場を移していた。
 瀟洒な純白の、2脚のデッキチェア。そのすぐそばには、同型のテーブル。
 卓上にあるのは、チェス盤のような格子状の盤面。
 盤上には、白と黒とに彩られた駒たちが並べられている。
 しかし、その駒の装飾はどれも、チェスのそれとは趣が違う。
 別のゲームである事は明らかだ。
 そして、椅子のそれぞれには、深々と腰掛ける一組の男女。
 深い黒のドレスをまとった女と、鮮やかな白の背広を着た男と。
 魔女ベアトリーチェは黄色い声でけたたましく笑いながら、向かいの席の青年に語りかけた。
「戦人……! そなた、今までどこへ姿を消しておったのか」
「待たせたな。頭を冷やしてきたぜ」
「それでェ? 妾の見せた愉快痛快爽快大喝采の素敵ファンタジーバトルへの回答は出たのかいい?」
「バトルぅ? 何があったって?」
「何?」
「この薔薇庭園のどこに。例えば、あの槍が転がってんだ? つまり、こいつがブラウン管の中身ってわけさ」
「ブラウン管の中身?」
「魔法バトルはお前の解釈、主張に過ぎない。今この瞬間、この場に何もないのがその証拠だ」
「……何だ、その返し手は……!?」
 おののくベアトリーチェに、その後ろに控える男――執事のロノウェが口添えした。
「波動関数理論です。魔女の力でありながら、魔女と戦うに強力な効果を発揮します」
「何と……! そうか、……あの老いぼれ魔女め、余計な入れ知恵をッ!!」
「老いぼれとは、ひどい言われようですね。もう隠居の身とは言え、私はまだ現役のつもりですよ」
 たおやかな笑みを湛えたワルギリアが、戦人の隣に進み出る。
 ロノウェは肩を震わせながら、ベアトリーチェに囁いた。
「マダムを敵に回すとは。厄介ですね、お嬢様。手の内をだいぶ読まれますよ」
「構わん。お師匠様の指し手など、時代遅れの古典よ。恐れるに足りぬわ」
「あなたが、私の教えた古典以上の何を指せるのか。期待していますよ、ベアトリーチェ?」
「……くっくくくくくく。いいのか、戦人? 魔女を否定するそなたが魔女を軍師につけても……」
「下らねえ挑発は無用だ。こいつは俺の相談役、いや、セコンドだ。
 ガチンコで殴りあうのは、俺とお前だって事には何の変化もない」
「分かっておる。……ヨチヨチのお前には自転車にも補助輪が必要だろう。好きにするが良い」
「時間をロスした。改めて状況を確認させてもらう。ここからはさっさと行くぜ?
 席に着け、ベアト!! ようやく第一の晩じゃねぇか、本番スタートだぜッ!!!」
 戦人は揚々と、興奮を抑えきれない笑顔で返した。
 しかし、今の彼は忘れている。
 自分がいつからここにいるのか。
 自分は今どこにいるのか。
 自分が何故ここにいるのか。
 自分の名字が何なのか。
 今ある死体が誰なのか。
 今の彼からは、自らを形作る“設定”が削ぎ落とされてしまっている。
 今の彼が覚えているのは、自分がベアトリーチェの対戦相手だという事だけ。
 ベアトリーチェの創ったゲーム、ベアトリーチェを人間の犯人として告発するゲームに興じ、
死力を尽くして戦う事しか、今の彼の意識には無い。
 果たして彼に何が起こったのか。
 それは誰にも分からない。
 今は、まだ。



 視点はゲーム盤の上へと動く。
 篭城する右代宮一族の話題は、敷地内に潜む不審人物の件だった。
 全員がアリバイを主張する以上、事件は外部犯としか考えられない。
 その可能性の一つとして挙げられたのが、金蔵がこの島のどこかに愛人を隠れ住まわせているという
噂だった。
 れっきとした人間である「ベアトリーチェ」が、今もなお潜んでいるのかもしれないと。
 手持無沙汰ながら進んで行く会話の中で、秀吉が最初に気がついた。
「………どうしたんや、楼座さん。あんたさっきからずいぶん大人しいなあ。 体調でも悪いんとちゃうか?」
 もともと楼座は、進んで口を挟む性分ではない。
 しかしそれにしても、随分と消極的で、先程から全くと言っていいほど、発言していなかった。
 ずっと俯いて、何か他の事を考えているようだった。
「ご、ごめんなさい……」
「どうしたんだ。何か心配事でもあるのか?」
 蔵臼の問いかけに、一同が一斉に楼座に注目した。
 それに応えるように、楼座もびくりと肩を震わせた。
 楼座は観念し、おずおずと打ち明けた。
「生きてるはず………ないの」
 小さすぎる声に、近くの席の者たちも眉を寄せた。
「ベアトリーチェは……死んでるのよ。………わ、私が殺した……!」
 恐るべき告白に、誰もが言葉を失った。
「…………あれは、たぶん中学生くらい、20年くらい前の頃だったと思うわ」
 楼座は、自らの胸に手を当てて何度か深呼吸をすると、何とか話す覚悟を決めたようだった。
「あの頃の私は、あまり成績が良くなくて、いつもお母様に怒られてばかりだった。
 あの日も、お母様に特にひどく叱られた」
 その日の出来事を描くべく、ゲーム盤の色味が変わる。
 白黒の市松模様は、その全面を白へと変える――。



 その日。家庭教師が、楼座が漏らした泣き言を、全て母親に話してしまったのだ。
内緒だと約束したはずなのに。
 楼座は、初めて頭の中が真っ白になるのを経験した。
 彼女は、とにかくお屋敷と今の自分から逃げ出したかった。
 六軒島を出られるはずもないのは、分かっていても。
 彼女は闇雲に、でたらめに、どこまでも歩き続けた。
 突然、獣道のような物に出くわした。
 その先に、とても高い柵が現れた。
 2階までたっぷりと覆うほどのその柵は、ゴシック調の凝った装飾がなされていた。
 全面が蔦に塗れていて、それは不思議な、荘厳な雰囲気を醸していた。
 彼女は当時、森の魔女ベアトリーチェの伝説を信じていた。
 恐ろしい存在であっても、敬いを持っていれば助けてくれる事もあるという。
 だから彼女は、これがベアトリーチェの館の柵だと信じた。
 その柵は高すぎて、とても越えられそうにはなかった。
 それで楼座は、柵にそってぐるりと回る事にした。
 するとその内、大木が歪な根を大きく張り出し、柵を歪ませているのを見つけた。
 彼女は学校の制服を汚さないように気をつけながら、策の隙間を這って潜り抜けた。
 柵を越えたらすぐに庭というわけではなかった。
 その後も暫くは、未開の森を進まなければならなかった。
 急に森が開けた。
 素敵な屋敷と、美しいお花畑が広がっているのが目に入った。
 右代宮家の屋敷に比べるとずっと小さいが、上品で愛らしい建物だった。
 そして楼座は、屋敷の主の姿を見た。
 お花畑を一望できるガーデンチェアに、優雅なドレス姿で腰掛ける女性。
 後に右代宮一族が肖像画で知る事になる、黒い金刺繍のドレス。
 おとぎ話かミュージカルの舞台でしか見かけない服を、普段着として着る人がいるというだけで、
それは現実離れした景色だった。
 呆然として、姿を隠す事も忘れてしまった楼座に、ドレスの女性は目を留めた。
 初めは実に気だるそうな表情だったが、楼座を認めると、その目が大きく見開かれた。
 楼座は挨拶し、勝手に入ってきた事を謝ろうと、頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。勝手にお庭に立ち入ってすみません」
「そなたは誰か。名乗るが良い」
「う、右代宮楼座と言います」
「ほぅ。金蔵の一族の人間なのか」
「え? あ、はい! 金蔵の娘です」
 楼座は少し驚いた。
 あの父親を、呼び捨てにするなんて。
 ドレスの女性は、所在なくく立っている楼座を物珍しそうに見ると、空いている椅子を示して手招きした。
「座るが良い。訪れた者を庭へ招き、語らうのが妾の唯一の楽しみよ」
 楼座は緊張と興奮の入り混じった妙な気持ちから、不躾にも唐突な質問をしてしまった。
「あの、あなたは…………森の魔女、ベアトリーチェですか……?」
「如何にも。妾がベアトリーチェである」



 ベアトリーチェは手ずから茶を淹れながら、楼座に質問を重ねた。
 尊大ではあるが純朴で、子供っぽく、世間知らず。
 楼座は、ベアトリーチェにそんな印象を持った。
 因みに金蔵は、何日かに一度、ふらりと訪れては、お茶を共にしたり散歩したりしているとの事だった。
 また、驚くべき事にベアトリーチェは、森には危険な狼がたくさんいると信じて疑っていなかった。
「この柵の向こうには、本当に狼は居らぬのか」
「は、はい。狼なんて、動物園でも見た事ないです」
「動物園とは何か」
「色んな動物が飼われている所です。ゾウとかキリンとか。珍しい動物がいっぱいいますよ」
「動物園に、狼はいないのか」
「いたとしても、動物はみんな檻に入ってますから安全ですよ」
「それは妾とどう違うのか?」
「…………え?」
 言われて、楼座はハッとした。
 ベアトリーチェもまた、一見不自由なく優雅に過ごしながらも、檻に閉じこめられた
動物たちのようなものなのだ。
「妾に接する者は皆、妾をベアトリーチェと呼ぶ。それは偉大な魔女の名前らしい。
 しかし、それは妾ではない。妾は……ただの人間だ」
 楼座は思った。
 この人を、可哀想な人だと。
 多分ベアトリーチェ自身も、自分が不憫である事を薄っすらと理解している。
 だから、楼座は思わず言っていた。子供ならではの発想だった。
「柵の外へ、出てみますか?」
「ほ、本当に狼はいないのか」
「いないですよ。絶対平気ですから」
 楼座は、気軽に散歩に誘うくらいのつもりだった。
 だが、ベアトリーチェは何度か屋敷に振り返り、真剣に考えこんでいた。
「……………………見たい」
「え? 何を?」
「動物園が、見たいのだ」
 ベアトリーチェは、ようやく、柔らかい笑顔を楼座に見せた。
 それまでの暗い顔からは想像もつかない、爽やかな笑顔だった。
「もう、紅茶もいらぬ。ドレスもいらぬ。金蔵とも二度と会わぬ。……ここより妾を連れ出してくれ。楼座」



 盤面を見下ろす戦人は、戸惑った顔をベアトリーチェに向けた。
「これは何の話だ? どうやらお前の昔話のようだが?」
「この妾は、金蔵によって造られた、肉で出来た檻だ」
「何だよそりゃ。妙な話を言い出しやがって」
「金蔵は、こともあろうか、契約に呼び出した妾に恋をした。そして、妾をこの地へ釘付けにしたのだ」
「……へ、馬鹿馬鹿しい。そんなおかしな話、信じると思うか?」
「やはり信じぬか」
「俺が信じるのは、お前が森の中の秘密屋敷に隠居していたって事実だけだ」
「如何にも。そなたの想像通り、この場所は六軒島の森深く。外界からは見つける事も叶わぬ隠し屋敷だ」
「なるほど。そして、お前はそこに隠居していた金蔵の愛人だと」
「愛人、というのは正しくない。金蔵の片思いだったというべきだろう。
 そして、拒んだ妾をこの隠し屋敷に……この体に閉じこめた」
「最後が何を言ってるのかわかんねぇぜ」
「様々な抵抗を試みた結果、金蔵の術から逃れるには、肉の体を捨てる他ないという結論に至った」
「肉の体を捨てる……?」
 金蔵にしつこく求愛され、それから逃れるために……?
「それで、自殺したってのか? 何を言ってやがる。
 当のお前は、のんびりガーデンチェアに腰かけてるじゃねえか」
「そうだ。それこそが、金蔵によって与えられた新たな檻だったのだ。
 金蔵は、妾の魂を捕まえて連れ戻し、妾と瓜二つに造り上げた肉の檻に再び閉じこめたのだ」
「あーあーあー、もう好きなだけ言ってろってんだ。勝手にやってやがれってんだ」
「……ふ。妾は席を外すぞ」
 戦人が素っ気無い態度を見せると、ベアトリーチェは珍しく気落ちしたような仕草を見せた。
 体を黄金の蝶にして散らせながら姿を消した。



 直後、急に紅茶のカップが音を立て、戦人は思わず振り返った。
 いつの間に現れたのか、悪魔の執事・ロノウェが戦人のカップを取り、紅茶を注いでいた。
「お嬢様の魂は、再び赤子となって生を受けこの世に蘇ったのです」
「まさか……金蔵はその赤ん坊を、この隠し屋敷に、同じ歳に成長するまで閉じこめたってのか?」
「そのまさかでございます。
 しかし、お嬢様は、かつての記憶を全て失われ、ごく普通の人間の少女として成長されました」
 という事は……実のところは、つまり。
 金蔵は、ベアトリーチェという片思いの愛人を、隠し屋敷に閉じこめたが、彼女は最後まで首を縦に振らず、
とうとう自殺してしまった。
 死んだベアトリーチェには、生き写しの娘、赤ん坊がいた。
 それで金蔵はその忘れ形見を大事に育てた。
 だが金蔵は、その子を娘としてでなく、ベアトリーチェの生まれ変わりだと信じていた……とでもなるのか。
「お嬢様に代わり、必要な情報をお伝えしましょう。
 六軒島の森の中には、『九羽鳥庵(くわどりあん)』という隠し屋敷が実在します。
 今、二人が話をしていた場所です」
「………これはベアトの思い出話なんだろ? いつの話なんだ」
「はい。正確には19年前の世界でございます。
「つまり、19年前、六軒島の隠し屋敷に、人間としてのベアトが存在したと」
「その通りでございます」
「……そうだ。楼座は最初に言ってた。ベアトが死んだってのは、どういう意味なんだ?」
「それは私の口から語るよりも、実際に顛末をご覧になった方が早いでしょう。少々、時計を進めましょう」
 ロノウェはポケットより、洒落た懐中時計を取り出し、その竜頭を動かした。



 19年前の九羽鳥庵にて。
 悩みながらも結局、楼座は柵の隙間から、ベアトリーチェを外へ連れ出した。
 彼女たちは色々と苦労したが、幸いにも海に出る事が出来た。
 もっとも、海に出たといっても、彼女たちは岩壁の上にいた。海岸はずっと下だった。
 だから楼座は、何とかして岩壁を降りようと提案した。
 ベアトリーチェは、何の疑いもなく頷いた。
 楼座は、岩壁を降りられる場所がないか探した。
 崖が崩れて斜面を作っている所を見つけた。
「ここを降りましょう。気をつけないと危ないけど、とにかく海岸に下りて、あとは沿って歩けば、
もう迷わずに済むと思うの」
「うむ。楼座がそうするのならそうしようぞ。妾は迷うとやらも楽しいぞ。とても愉快だ」
 楼座は慎重に降りられる場所を窺った。
 高さは、恐らく10mほど。
「気をつけてくださいね。けっこう高いから」
「うむ。気をつけるぞ。下へ降りたら、海があるな。そこに水族館というのがあるのか」
「水族館は島を出ないとないですよ」
「ほほぅ。それはとても楽しみだっ。………ん、」
 わ、ひゃっ。
 ベアトリーチェは、聞きようによっては滑稽な、慌てた短い声、つまり悲鳴を、唐突に上げた。
 ベアトリーチェの体が岩壁から離れて、すぅっと消えた。
 それが、ベアトリーチェの終わりだった。
 足を踏み外して、真っ逆さまに落ち、尖った危険な岩の一つに頭を強打して、彼女は死んだ。
 楼座は血相を変えて段を降り、泣きながらベアトリーチェの体を揺さぶった。
 しかし、あふれる血の中で、目は見開かれたまま、瞬きすらも、瞼を閉じる事もない、
まさしく死体そのものでしかなかった。
 と、ここでまたも、ゲーム盤が白黒に瞬き始める――。
「ちょっと、目を覚ましてよ……!! ベアトリーチェ……!!」
 ベアトリーチェの骸を揺さぶる楼座を、少し離れた所から、ベアトリーチェが見守っていた。
 楼座は暫く骸の骸の傍らで過ごした後、青い顔で駆け去って行った。
 その背中を見届けてから、ベアトリーチェは、自分は何者であるか思い出した。
「そうか。妾は……妾か。ようやく、金蔵の戒めから逃れられたのか」
 千年を経た無限の魔女である自分は、長い時間、囚われの身であった。
 肉の檻に囚われている間、妾の魔女としての記憶は完全に失われていた。
 しかし、楼座のお陰で、事故で死ねたお陰で、ベアトリーチェは自らを取り戻したのだ。
「楼座。そなたは後悔しているだろうが、妾にとっては感謝したいくらいよ。くっくっくっく……!」
 楼座の姿はもう見えない。
 医者を呼びに行ったのか、恐ろしくなってこの場を逃げたくなったのか。
 今更どうでもいい事だ。
 ベアトリーチェは人の姿を崩し、黄金の蝶に姿を変えた。



 出来事を見終えた戦人は頭を抱えた。
「あああああん!? 何だよ、何なんだよコレは!
 俺はこんな魔法話なんか信じねえぞ! 結局お前は誰なんだ?
 お前が崖から転落して死んだって? 魂が抜け出して蝶になって森へ? そんなのあるわけねえだろが!!
 なら、いったい誰だってんだ!! お前こそがこの事件の外部犯じゃねぇのかよ?」
「そうであるな、妾が犯人ならそれが自然だ。 くっくっくっく! だが駄目だぜ? 全然駄目だ!!
 ここでハッキリ言ってしまうぞ。 この事件にニンゲンの外部犯は存在しない!
 いるのは魔女と悪魔とその家具だけよ」
「……………………何……だと?」
「ぷっくっくっく。お嬢様も手がお早いですな。
 もう少し泳がせて、最後に引っ繰り返すものとばかり思っておりました」
「じゃ、じゃあお前は何なんだよ!! お前は屋敷の誰かの変装だとでも言うのかよ?
 認めねえ! 俺はそんなトンデモオチだけは絶対ぇに認めねえぞ」
「だから、何をそんなに怒っておるのだ戦人よ。
 せっかく妾が大きなヒントを出してやったというのに。
 六軒島に今いる者たちの誰かを疑う事こそが最善手なのは明白であろう。
 妾の指手はそこからが本番よ。
 そなたは形振りかまわずに、片っ端から人間を自在に犯人に仕立て上げてみせれば良い。
 さすれば妾はそなたの駒を潜り抜け、逆にそなたをチェックメイト、屈服させてみせるのだから」
「そんな事するもんか!! 俺はあの島の、あの屋敷の誰も疑いたくない、いや、疑っちゃいけないんだ!」
 戦人は髪を振り乱して独り叫ぶ。
 自分とは関係のないはずの人々を、けれど見捨ててはいけないと、頭のどこかが訴えている。
 ベアトリーチェは、やれやれとでも言いたげに、ため息を一つする。
 せっかくこのゲームマスターとして、戦人の設定を書き換えて戦いやすくしてやったのに。
 それでも戦人はまだ崩れない。自らのスタンスを変えようとしない。
 実に厄介だ。どうにも厄介だ。何とも厄介だ。
「ならば、この妾を犯人役として認めるが良い。一連の事件はこの無限の魔女ベアトリーチェが起こしたと。
 さあ、もう逃げ場はないぞ?誰も疑いたくないならば、妾がそれを被ってやるぞ?
 妾に罪を押し付ければそれでいいのに、なぜ妾を拒むのか?
 これより詰めるぞ。確実にな。くっくくくくくっひひひひひひひひひひ!!」



 最終的に、楼座の説明は要領を得なくなっていた。
 次に我に返った時には、彼女は自分のベッドで横になっていたというのだ。
 しかしながら、人ひとりが亡くなっているのに、その事実を今もって誰も知らないのは確かに不自然で、
実は魔女伝説に怯えた楼座の夢だったのかもしれないと、彼女自身もそう語った。
 そんな楼座の話を聞き終えた後、口火を切ったのは留弗夫だった。
「………………なあ、兄貴。ところで使用人たちはまだ、親父を呼んで来られねえのか?
 いくら何でも時間がかかり過ぎてると思うんだが」
「そう私に言われても困るな。この銃を貸し与えてもらえただけでも、僥倖と思うべきだ」
「口を開けば遺産分配の皮算用を始める皆さんの事を思えば、
お義父様の会いたくないという気持ちもわかろうというものです」
「ままま、夏妃さん、誤解せんといてや。立つ鳥跡を濁さずっちゅう諺があるやろ?
 わしらはただ、やがては必ず旅立つお父さんを、綺麗に見送るための相談をしとるだけや」
「さすが秀吉さんだ。同じ話をするにしても、実に知性的だ」
「ええ、そうよ。兄さんと違ってね」
 と、絵羽がすかさず口を挟む。
「よせやい。話が進まねえ。………それでだな、兄貴。俺たちは遺産の話云々は抜きにしてもだ。
 早い話が、とにかく親父に直接会いたいんだ」
「そうそう、だいたい余命3ヶ月って事は、いつ亡くなってもおかしくないって事なのよ?」
 と言って、絵羽は蔵臼につかみかかろうとし、その間に秀吉と霧江が入り、双方をなだめにかかる。
 そこで、霧江が片手を挙げた。
「蔵臼さん。提案があるの」
「何だね、霧江さん」
「まず、私たちは蔵臼さんと夏妃さんに、もっと感謝すべきなのよ。
 いつもお父さんの世話をしてくれてありがとうって。そうでしょう、蔵臼さん」
「これは驚いたね。実の兄弟たちにも顧みられなかった私たちの苦労が、
まさか霧江さんに理解してもらえるとは思わなかったよ」
「あんた、何を勝手に話を進めてんのよ!! 部外者の分際で」
「待て姉貴。………霧江の言う通りだ。親父の世話をしているからこそ、兄貴は跡継ぎなんだ」
「………………あ」
「…………ん」
 楼座も、続いて絵羽も、思惑に気づいた。



「蔵臼さん。……ほんの幾つかの条件さえ飲んでくれれば、私たちはお義父さんに二度と会わせろと
言わないわ」
「ほぅ? その条件を言ってみたまえ」
「一つ。当主跡継ぎとは、現当主、右代宮金蔵の世話人を指す」
「ふむ。それから?」
「一つ。世話人の責務は、右代宮金蔵の終生の世話をする事」
「当然だ。そこまでの条件には何の異存もないね。元より、私が実行している事だ」
「一つ。世話人が、万一、その監督責任を怠った場合、世話人の権利は剥奪される」
 その一言に、蔵臼の表情から余裕が消えた。
「世話人の監督責任とは……どんな物かね?」
「お父さんが自然死以外の理由で死亡した場合、世話人の権利は剥奪され、当主跡継ぎの権利を失う」
「しかし、人の死因は数多ある。例えば、老衰した老人が食事を喉に詰まらせて亡くなる事もあるだろう」
「そんな屁理屈をつけるつもりは毛頭ないの。私が例として挙げたいのは……例えば、失踪よ」
「………………」
「お父さんがある日突然、森の中に入って行った。警察も呼んで探したけれど、
その後、7年間探しても見つからなくて失踪宣告。それを以って死亡扱いとは認められないって言いたいの」
「………………………………」
「お義父さんが亡くなられた際には必ず検死を行ない、一般的な自然死であると確認する事。
 ……………ね? おかしな条件でも何でもないでしょう?」
「ば、馬鹿にしています、屈辱的です!! なぜ主人がこのような辱めを受けなければならないのか!!」
 言った端から夏妃が激昂するが、霧江はどこ吹く風で受け流し、蔵臼を正面から見据えた。
「私、実は去年から疑ってるわ。多分、ここにいる皆も。けど、あまりに恐れ多い想像で口にしないだけ」
「ふ。……ふっふっふっふ、はっはっはっはっは…!!
 なるほど、お前たちはこう言いたいのかね?
 親父殿はもう既に死んでいて、私がそれを隠しているのだと!」



「そういう事。
 私たちはこれ以上、お父様への面会を拒まれるならば、以下の仮説を立てなければならないの。
 お義父様はとうにこの世にいない。しかし、遺産を分配したくない蔵臼兄さんがそれを隠してる、ってね?」
 霧江の告発を、今度は蔵臼が受け流す番だった。
「馬鹿馬鹿しい」
「これほどの侮辱は初めてです!!」
 と、夏妃も激しく首を振った。
「この疑惑は、私たちをお父様に面会させてもらえるだけで、あっさりと解けるわ。蔵臼兄さん?」
「そうだな。……お前たちが親父殿にどうしても会いたいという強い気持ちはよく分かった。
何とか面会してもらえるよう、親父殿を説得しよう」
「その説得だけど、今夜中って制限を設けさせてもらうわよ? 明日になったら、
私たちは書斎の扉を打ち破ってでも、お父様の安否を確認するわ。それでいいわよね? 兄さん?」
 と、絵羽が蔵臼に畳みかけた。
「……好きにするがい。夏妃、行こう」
「はい……!」
 蔵臼は夏妃を伴って客室を出て行った。
 二人の足音が聞こえなくなると、秀吉が深いため息を漏らして、にやっと笑いながらソファーに
どかっと腰を下ろした。
「霧江さん。あんた、恐ろしい人やな」
「勝手な口出しをしてごめんなさい。謝るわ」
「いやいや、こんな時とは言え、上々の結果だ。
 相変わらず、お前ってヤツには頭が下がるぜ」
 留弗夫が肩を竦めると、絵羽は扉の向こうを睨みつけながら言った。
「兄さん、今頃、夏妃さんと作戦会議中でしょうね。
あのプライドの高い兄さんが、どんな言い訳をしながら屁理屈をこねてくるか、せいぜい見物させてもらうわよ」
 ざわめく一同を眺めながら、霧江は静かに瞼を伏せた。
「お義父さんを説得……ねえ? 出来るわけがないわ」
 居もしない人物の説得なんて……!



 なおも変わらず、むせ返るほどの甘い匂いの立ちこめる書斎に、蔵臼と夏妃の姿はあった。
 時折の雷光が、暗い部屋を明滅させるかのように照らし出す。
 嵐はまた一段と島を閉ざすようだった。
「お義父様……!
 どうか今一度、不敬な彼らに、当主様の威厳をお示し下さい……!」
 絞り出すように声を上げる夏妃に、窓辺に立つ人影は、静かながら力強い声で笑った。
「駄目だな、全然駄目だ……!!」
 少しだけ俯き、両肩を震わせながら。
「愚か者が! 弟たちに脅されてノコノコやって来たか。恥を知れい!!」
 金蔵が振り返りながら払った黒いマントが、澱んだ部屋の空気を切り裂いた。
 貫禄を示す重みある足音と共に、蔵臼に近づき、その襟元に人差し指をねじ込み、高々と持ち上げた。
「ぐくく、…………………っがはッ……!!」
 蔵臼の爪先が、空中をもがく。
 金蔵の隆々とした指が喉を締め上げているのだ。
 喋るどころか、口を聞く事さえ出来はしまい。
 しかし、何という力なのか。
 金蔵のこの様を見て、誰が老人だなどと呼べたものか。
「これが私の跡継ぎだと言うのか、わっはははははははっはああああ!!」
 金蔵は、これほど愉快な事はあろうかとでも言うように豪快に笑った。
 そして、不甲斐ない息子をまるで紙屑のように放り投げ、壁に叩きつけた。
「ぐはッ、……ううううぅぅ……」
「あなた、あなた……!! しっかり……」
 壁からずり落ち、苦しそうに喉を擦る蔵臼に、夏妃は駆け寄って介抱した。
 その様子を傲然と見下ろしながら、金蔵は言った。
「喜べ蔵臼!! 気が変わったぞ」
「お、お父さん…。では……?」
「お、お父様…。ありがとうございます……!」
「私はこれから、当主継承についての重大な発表をする。
 お前たちの下らない争いは、私自らが解決してやる!!」



 その瞬間、とても大きなノックの音が響き渡った。
 まるで、静粛にと言いながら打ち鳴らされる裁判官の槌のようだった。
 扉が細く開き、若い使用人が姿を見せる。
「皆様、ご着席を」
 その言葉に、一同は完全に沈黙し、慌てながらも整然と席に座る。
「栄光ある右代宮家の当主にして、金色に輝ける六軒島の領主。右代宮金蔵卿の、御成りであります」
 扉を開く使用人の最敬礼に迎えられながら、威圧感でローブをなびかせながら、金蔵が姿を現す。
 その足取りは貫禄ある重みがあり、とても余命幾ばくを宣告されたとは思えない物だった。
「くっくくくくくくくくく、ふっはははははははははは……!!
 ようこそ諸君、六軒島へ。何を怯えた顔をしておるのか、絵羽よ?」
「い、いえ……! お、お父様が大変お元気そうなので、ほっとしただけで……」
「わっはっはっはっはっは……!!
 蔵臼との賭けに負けて悔しいと素直に言えば良いのに」
 絵羽は、やはり金蔵に日頃のやりとりが筒抜けである事を理解し、赤くなりながら俯いた。
「さてと、お前たちの執心している我が財産と当主の継承について、本日は重要な発表をしよう。
 まず最初に!
 私は、今日まで誰にもあの碑文の謎を解けなかった事に失望している」
 金蔵はその言葉とは裏腹に、貴様ら如きに解けるものかと言うような見下した笑みを浮かべ、
ぎょろりと一同を見渡した。
「よって。私は碑文の謎にて我が継承者を選ぶ事を、ここに中止する」
 それはまさに、金蔵の勝利宣言に等しかった。
「ならば、当主は長男の蔵臼に継承されるのか? 答えはノーである!!」
 ならば、絵羽、留弗夫、楼座の3人にはあるのか? これもノーである!!
 誰も、次期当主の座をどんな事をしてでも奪い取ろうという貪欲さが足りぬのだ!!」
「で、ではお父さん。次期当主については、どういうお考えをお持ちですか」
 と、蔵臼はおののきつつも金蔵に問いただした。
「私は誰に引き継ぐ気も失った。よって、右代宮家は私の代で終わりだ」
「……そ、そういうわけには……」
 と驚く蔵臼を無視して、金蔵は話題を変えた。
「この場では、お前たちに関係のある、もう一つの話をしようではないか」
「もう一つの話、とは……?」
「それこそが本日の、そして右代宮家最後の親族会議の本当の理由だ。
 お前たちは我が儀式の生贄となれッ!!」



 もはや一同は、ひそひそという囁きではなく、ざわざわという賑わいになっていた。
 金蔵の口にする“儀式”が、言葉通りの物騒なものなのか、次期当主を選ぶための何らかの試練なのか。
 金蔵はそれに対し、明快な答えを返した。
「今こそ出でよ、煉獄の七杭たちよ……!!」
 金蔵が両手を高く掲げて叫ぶと、空間がガラスのように割れ、この島に招かれていないはずの人影が、
次々と現れる。
 恐るべき事にそれは、蔵臼・夏妃・絵羽・秀吉・留弗夫・霧江・楼座と同じ顔形の7人。
 身にまとっている制服のような軍服のような揃いの衣装は、一見すると漆黒だが、見る者が見れば、
あまりに深すぎる紅である事が分かるはずだった。
 彼らこそ、魔女の従える栄えある家具にして悪魔、煉獄の七杭の具象化に他ならなかった。
 どこから? いつの間に? 誰? どちら様??
 ニンゲンたちは目を白黒させて頭を真っ白にする。
 そんな思考に時間を費やしたため、彼らは生き残る最後のチャンスを失った。
「お前たちに射殺を許可する。標的は自由だ。攻撃開始」
「では、怠惰のベルフェゴール、ここに」
 夏妃の姿をした七杭が、宙を指で掻くと、虚空に黄金の弓が現れた。
「貴方は何も考えなくていい。私が全て、優しく終わらせて差し上げます」
 言ってその弦を引くと、構えられた黄金の矢は何の躊躇いもなく放たれ、一同の中から、夏妃を選び、
その頭部の左半分を粉砕した。



 大量の血飛沫が、真っ白なテーブルクロスに撒き散らされた。
 しかし一同は、なおもこの異常な、夏妃が腰掛けたまま居眠りをするように頭を垂れるのを、何が起こったのか
理解しきれずに、沈黙して見守っていた。
「な、……つひ…………」
「まずは夏妃か、最後まで運のない女だったな。……次!」
「私の先を越すとは許しがたいな。
 傲慢のルシファー、ここに」
 蔵臼と同じ姿をした七杭も同じように、弓矢を構えて放った。
 先程の黄金の矢と同様に今度は、夏妃を呆然と見ていた蔵臼を、同じように頭部を半壊させて即死させた。
「うわああああああぁあああ!!」
「きゃあああああああああッ!!」
 鋭い悲鳴が沸き起こる。
 だが、彼らはそれでもなお、悲鳴をほとばしらせたままに口を大きく開けて、金魚のようにぱくぱくと
させ続けるばかりだった。
「お、……お父様……、これは何の真似です……?」
「あ、阿呆ぅ!! はよ逃げるんやッ!!」
 呆然としながら、金蔵にそう問いかける絵羽を、誰よりもいち早く正気に戻って立ち上がった秀吉が、
後から腕を掴み引っ張った。
 しかし、無慈悲な運命は3人目の生贄に、秀吉を選んだ。
「暴食のベルゼブブ、ここに。
 あんたもそろそろ、年貢の納め時やで」
 結果、秀吉の頭部もまた、それまでの二人と同じく、右側側頭部を吹き飛ばされた。
 だから秀吉は、絵羽を掴んだまま、ぐらりと後へ仰け反った。
 絵羽は最愛の夫に抱かれたまま、一緒に後へ転げて倒れた。
「あなた……? あなた……!? ひいいいぃいいいいいいぃいッ!!!」
 絵羽は絶叫するのは無理もない。
 そこに求めたはずの秀吉の面影が、もはや半分失われてしまっているのだから。
「見事だ。続けて撃て」



「おッ、親父……!! こりゃ一体、何の真似だってんだよ!?」
 留弗夫が威勢良く立ち上がり、金蔵に食ってかかろうとすると、それを七杭の一人に制止された。
「おいおい。この色欲のアスモデウスを忘れてもらっちゃ困るぜ」
 それでも留弗夫は、金蔵に組みかかろうと抗った。
 アスモデウスは留弗夫の襟首を掴み上げ、親指を喉仏に捻りこんだ。
 留弗夫は悶絶しながら、なおも叫んだ。
「ぐ、おぉおおおおお……!!! みんな……逃げろ……!! 早く……ッ!!」
 その鋭い訴えに、ようやく一同の、腰が椅子から剥がせない呪縛が解けた。
 絵羽が機敏に戸口へと駆け寄ったが、そこに絵羽の姿をした七杭が不意に現れ、退路を塞いだ。
「強欲のマモン、ここに。
 あらあら、まさか貴方、簡単に逃げられると思って?」
「くっ……!」
「絵羽さん、伏せてッ!!」
 霧江の鋭い声に、絵羽は半ば反射的に体を低くした。
 その頭上を重い風が切った。
 霧江が、椅子を大きく横振りにして薙ぎ払ったのだ。
 しかし、更に現れた、霧江の姿をした七杭が、その椅子を片手で容易に受け止めた。
「……ち!」
「嫉妬のレヴィアタン、ここに。
 怖い人ね貴方って。そんなに早く死にたいの?」
 椅子を受け止めている腕の袖口から現れた、光る黄金の蛇のような物が絡みついた途端、椅子は容易に
爆ぜてしまった。
 万力どころではない、恐ろしい力だった。
 霧江は目の前の存在が、ニンゲンには到底、太刀打ち出来ない人知を越えた存在だと知り、内より湧き出す
壮絶な警鐘で頭を満たされた。
 再び、室内に砕けて爆ぜる醜い音が響き渡った。
 霧江が音をした方向に振り返ると、留弗夫が血を噴水のように迸らせながら倒れるのが見えた。



「わっはははははははははははッ!! ベアトリーチェを蘇らせる儀式の始まりだ!!
 そうであろう、我が友よ! ロノウェ!!」
 金蔵が名を呼ぶと、悪魔の執事は改めて、恭しく最敬礼をした。
「ぷっくっくっく……! これはまた派手に散らかされましたようで」
「紹介しよう、我が友人であり、頼れる執事であり72柱の大悪魔である、ロノウェだ」
「以後、お見知りおきを」
 さあ、果たしてそれは、誰に対しての紹介なのか。
「続けて友を紹介しよう。出でよ、我が友、ワルギリア!!」
 再び虚空に、親族たちにとって未知なる人影が、上品かつ優雅なドレス姿で現れた。
「……許されるならば、このような血生臭き場に呼び出されたくはありませんでしたが」
「こやつも紹介しよう。我が友であり頼れる相談役でもある、ワルギリアだ。
 偉大なる有限の魔女であるお前の力を我が儀式に借りたい。その力を貸せ!」
「お断りしようにも、あなたの強力な召喚隷属下にある身ではそれも叶いません。御意に、お館様」
「それにしても、恐ろしいお方だ。私をはじめ、煉獄の七杭、そしてワルギリアさままでも召喚せしめるとは」
「もはや六軒島は完全に、異界に飲みこまれているという事ですか」
「ええ、一層この島の侵食が進んだという事でしょう。
 私たちが顕現できているほどです。今さら、どんな存在を呼び出せたとしても、驚くには値しますまい。
 そう、どんな存在でもね。ぷっくくくく……!!」
 意味ありげに笑うロノウェを余所に、金蔵が魔力を強く集中すると、空間に光が集まり、歪み、
真っ赤な魔法円が描かれていく。
 それがガラスのように砕け散った時、そこには驚くべき姿があった。



「……ベアトリーチェ……!!」
「如何にも。妾がベアトリーチェである」
 金蔵が人生の全てを投げ打っても再び会いたいと焦がれた相手が、当たり前のようにそこにいた。
「妾がそなたに伝える報せは二つ。良い報せと悪い報せだ。
 良い報せは、儀式を終えずして妾と再会できる幸運を得た事。
 悪い報せは、そなたも儀式の生贄に選ばれてしまった事だ」
「………………………………」
「さて、金蔵。負けを認める気になったか? 
 これにて、妾との長きに亘る勝負は決着だな?」
 金蔵は、両手で自らの頭を抱え、固く目を瞑り…、黙考していた。
「…………是非もなし。これもまた一興か」
「楽しかったぞ。退屈しない数十年であった……!」
 ベアトリーチェは、手にする黄金の煙管を、優雅に振った。
 それで決まりだった。
「チェックメイト。これが妾からそなたへの手向けだ。心置きなく眠れ」
「ふっふっふ、……ふっはっはっは、はぁっはっはっはっはっはっはッ!!」
 金蔵は、満場の客座に向かって両手を広げるオペラ歌手のように、百年の計を成し遂げたかのように笑う。
 その笑いが、紅蓮を吹く。
 内より溢れ出した炎が、口、耳、鼻を問わずに吹き出して、たちまちの内にその身を包んだ。
 しかし金蔵は笑い続ける。
 笑えば笑うほどに、全身から炎が噴出し、その身を焼き焦がしていく。
 魔女と交わした契約を終えた者が辿る、極めて正当な末路だった。
 金蔵は暫くの間、猛火の中で吼えるように笑い続けた後、で糸の切れた操り人形のように倒れた。
 それは恐ろしい業火であるにもかかわらず、金蔵以外の何物も焦がす事はなかった。
 あれほど燃え盛っていた炎は、全てを焼き尽くしたかのように消え、後には焼け爛れ、目を背けたくなるような
遺体が残されただけだった。
 そう。本当の本当に、ランダムに殺人は行なわれている。
 誰が助かり、誰が殺されるか、本当の本当に、ゲームのように殺されているのだ。
 煉獄の七杭にさえも、この展開は予想を超えていたらしい。
 マモンとレヴィアタンの注意が、一瞬ながら戸口から離れたのだ。
 その隙を突いた霧江と絵羽が外へ飛び出した。
 無論、ニンゲンどもを好きにさせるつもりなど、七杭には無い。
 ただ、どこにどうやって逃げるつもりか、せいぜい見物してから殺せば良いと思っているだけだ。
 かくて、 室内には5人もの惨殺死体が作られ、それは凄惨な装飾で汚らわしく彩られていた……。



 魔女の遊戯室にて。
 戦人はゲーム盤を見下ろしながら、髪を掻き毟っていた。
「頭部半壊とはな……。てめぇら魔女ども悪魔どもの悪趣味には相変わらずウンザリさせられるぜ」
「うむ。これまでのゲームで、これが一番理想的な殺し方だと気づいたものでな」
「理想的?」
「一番最初のゲームを第一の晩を思い出してみるといい。大人たちの死体が園芸倉庫で発見された時の事だ」
 言われて、戦人は思い当った。
 一見残酷な顔面粉砕。
 しかしそれは、本人確認を難しくしているのだ。
 顔面が全壊されていたら、服装などから類推するしかないのだから。
「そういう事だ。より確実なる死を保証するにはどうすれば良いか。
 身元の判別に必要な顔と、完全なる死の象徴である頭部の粉砕、この二つを左右ぴったり綺麗に
合体させたらパーフェクトであるという答えが出たわけだ!」
「いずれにせよ、現時点では彼らが死んだと見なすべきじゃない。
 全ては疑って掛かるべきだ。
 もちろん、魔法虐殺だって鵜呑みになんか絶対ぇしねえぜ」
「くっくっくっく! 好敵手は、こうでなくては面白くない。
 今は、自由な想像を広げ好きに推理を重ねるがいい………!」
 ベアトリーチェは肩を震わせながら、子供のように笑い続けていた。



 絵羽と霧江の二人は、玄関ホールに居た。
 闇雲に外に出たところで、あの奇怪な人物たちをやり過ごせるはずもなく。
 とにかく何らかの対策を立てなければ動けないという判断からだった。
 なお、逃げる際、床に落ちていた銃をそれぞれ拾っていたのは、やはり流石という他なかった。
 霧江は、自らの体に銃を引き寄せながら、苦笑交じりに言った。
「本当、参っちゃうわね。傘も無しに、こんな雨の中に出たら、体も服もドロドロになっちゃうわ」
「……ずいぶん余裕あるのね、あなた。こんな時に、そんな冗談言えるなんて」
「余裕なんか無いわよ。カラ元気。
 こうしてお喋りしてないと、認めたくなっちゃうから。
 お義父さんは最初から、私たち全員を殺すつもりでこの島に呼び集めたんだって事をね」
 絵羽はしばし、黙って下を向いていたが、堰を切ったように霧江に告げた。
「霧江さん。私ね、あなたに謝らなくちゃいけない事があるの。
 昨夜、皆で碑文の謎について話し合っていた時の事よ」
「……………………」
「私はあの時、あなたに一番肝心な部分を伏せて説明した。
 とにかく、出し抜かれたくなかったから。
 それであの後、あなたの話を元に、もしかしたらって言う心当たりを思いついたの」
 霧江の目が、少し大きく見開かれた。
「って事は……あなた、黄金の隠し場所に気づいたっていうの?」
「まだ、確信はないけど。多分、確率は高いと思うわ」
「そう。つまり、こういう事ね。
 あなたが昨夜の段階で、その推理を明かしていたら、事態は違っていたかもしれないわけね」
「そうよ! 私があなたを信じて打ち明けていたら、皆に相談できていたら、こんなふざけた事は
起こらなかった! 譲治も秀吉も、変わらず元気だったはずなのよ!」
 絵羽の両の目から、二筋の涙が流れ落ちた。
 ひとしきり泣いてから涙を拭って、絵羽は自嘲気味に言った。
「って言っても、もう何もかも手遅れよね。いまさら言っても、どうしようもない事だわ。
 私たちは、何としても帰らなくちゃいけない。皆のためにも、このまま死ぬわけにはいかないのよ」
「そうね。ところで、あなたに一つ訊きたいんだけど」
 霧江は何故か目を逸らしながら、絵羽に尋ねた。
「あなたそれ、本心から言ってるのかしら?」
「え?」
「あなたにとって、右代宮家の黄金を見つけて家督を継承するのは、その程度の望みだったのかって
訊いてるのよ。
 ここまで来ていながら具体的な行動を起こさないなんて、呆れるにも程があるわ」
 そう言って霧江は、自らの銃口を絵羽に向けた。



 絵羽は泡を食って、自分も銃を霧江に向けた。
「な……! 何よ、急に! 一体どういうつもり!」
「私はあなたとは違う。私は私のために生きてる。
 そして、留弗夫さんの居ない今、私はもう、この世界に何の興味もないの」
「何言ってるのよ! 私はまだしも、あなたこそ無事に帰らなきゃ! 縁寿ちゃんの所に!」
 霧江は、つと目をすがめて、つぶやいた。
「子はかすがい、って言うわよね」
「それが何!?」
「私にとって、子は夫を繋ぎ止めておくための、かすがいなのよ。
 留弗夫さんがいなくなった今、あの子は私にとって、必要な物じゃないわ」
「……あ、……あんた……、それが、母親が子に対して言う事なのッ!?」
「ええ。言う事よ」
 霧江は気にする様子もなく、淡々と続けた。
 その表情には、いっそ悠然とした笑みが湛えられていた。
「……それでも人間なの……。……それでも縁寿ちゃんの母なの!?」
「知った事じゃないわよ。あんな、クソガキ。可愛いと思った事なんて、一度だってないわよ」
「……あ、……あんたって人は……」
 絵羽は霧江と距離を取りながら、じりじりと後じさった。
「……分かったわ。あんたみたいな頭のおかしい女に、こんな話した私が馬鹿だった。
 せいぜい自棄になって死んじゃえば?」
 絵羽は、薄く開けた玄関ドアの隙間から、体を滑りこませるようにして出て行った。
 霧江は、再度構えた銃を、今度は上方へ向けた。
「これで、良かったかしら? 覗き屋さん」
「本当に驚かされるわね、貴方には」
 シャンデリアの上に佇むレヴィアタンは、小首を傾げて霧江に問うた。
「ねえ。いつから気づいてたの?」
「最初から薄々ね。もし私があなたの立場だったら、一対一で話したいって思うだろうから」



 絵羽が暗号に基づいて辿り着いた、敷地の一角。
 最後の仕掛けを解いた彼女の前に、ぽっかりと不気味な暗黒が口を開けていた。
「………何よこれ……!?」
 暗がりに目を凝らし、迷わず灯りのスイッチを入れると、炭鉱などを思わせる灯りが点々とつき、
地下への階段をぼんやりと浮かび上がらせた。
 絵羽は銃を構え直して、ゆっくりと階段を下りて行った。
 天井の高さはたっぷりあるため、息苦しさはなかった。
 壁や階段、灯りは皆、かなり古臭い。
 この島に屋敷が建てられた当時に作られた物なのは、疑いようもなかった。
 天井にはひびが入り、雨水が壁を伝って、さらさらと流れ落ちている。
 その水は階段脇に設けられた側溝に落ちて、地下の闇へ静かに早く流れていく。
 階段は何度か折り返した。
 やがて、金属製の扉が姿を現した。
 赤い塗料で文字が書かれていた。書かれたのはだいぶ昔だろう。

 第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう。

 絵羽は高鳴る心臓を落ち着かせ、何とか冷静さを取り戻そうとした。
 彼女はひとまず銃を下ろし、慎重に息を殺しながら、その扉を開いた。
「………………こ、……ここ、……は……!?」
 その部屋を見た第一印象は、屋敷のどれかの部屋に繋がっていたのではないかという物だった。
 ここは地下だから窓はない。
 あるのは、荘厳なシャンデリアの厳かな灯りだけ。
 しかし、その僅かな灯りによって照らし出されるインテリアの気品は、息を飲ませて余りあるほどだった。
 天蓋付きのベッド。ゆったりと座れそうなロッキングチェア。贅沢なソファー。毛足の長い絨毯。
 女の子なら誰もが一度は憧れる夢のような部屋。
 にもかかわらず、窓がなく、地下にある秘密の部屋というのは、まさに魔女の隠れ家のようなイメージだった。
 絵羽はそんな部屋に度肝を抜かれながらも、やや臆病に室内を探った。
 そして、部屋の奥に、それを見つけた。



「…………ひッ、…………」
 絵羽の息を呑む音は、ある種、間抜けな声に聞こえた。
「あった……。……ほ、……本当にあった……ッ……。
 ……お父様の、……黄金……ッ!!」
 天蓋ベッドの向こう側、うず高く積み上げられていたインゴット。
 その山には緋色の繻子織りの織物が掛けられ、黒い闇での赤と黄金との、美しき三色で彩られていた。
 まるで、魔女がこのベッドで眠る時、その側に控える侍従か何かのように。
 気高く、高貴に、優雅に、美しく、積み上げられていた。
 絵羽はインゴットを一つ取ろうとして、その重さを実感した。
 多分、10kgくらいはあるだろう。
 そこには、右代宮家の紋章が薄っすらと刻印されていた。
 磨耗しているのか、そもそもの刻印がいい加減なのか、鮮明ではないが、紛れもなく片翼の鷲の紋章だった。
 そのインゴットが一体、ここに何本積み上げられているというのか?
 もう頭が真っ白でまともな計算も出来ない。
「み、……見つけたわ、とうとう、ついに、………私が見つけたッ!!」
 独り泣き笑いの声を上げながら、絵羽はインゴットの山に再び歩み寄った。
 これからどうすればいいかと思案しかけた時、虚空から不気味な人影がゆらりと現れたのが見えて、
夢見心地が吹き飛んだ。
 まさしく目と鼻の先の至近距離に、黄金の山の上に、横たわるマモンの顔があった。
「ふふ、これで貴方の夢は叶ったわね?
 おめでとう、そして、さよなら」
 有無を言わせず、マモンは優雅に絵羽の前に降り立ち、黄金の弓矢は引かれて射たれ、
絵羽は頭蓋を破壊されて絶命した。



 マモンに撃たれた時、絵羽の抱いた感情は、渇望だった。
 何でこんな形で死ななければならないのか。
 何でこんな形で終わらなければならないのか。
 生きなくてはいけない。
 帰らなくてはいけない。
 やっと私が見つけた。
 これは私が見つけた。
 この私が碑文の謎を解いたんだから。
 その私が邪魔をされる謂れなんかない。
 なのに、こんな風に殺されるなんて。
 嫌よ。嫌、嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌嫌ッッ!
 その瞬間、絵羽は自らの体内から、それまでに体験した事のない衝動が込み上げるのを感じた。
 頭が真っ白になっていく。
 閉じていた両目が見開かれる。
「誰にも何も譲らないわ!
 私が右代宮家の当主なのよ!
 私が、“私”がッ!!」
 絵羽がそう宣言した瞬間、彼女を中心として放たれた黄金の輝きが、部屋の全てを埋めつくした。
 眩き光に包まれる彼女からは、その内より黄金の蝶が湧き出すかのよう。
 絵羽は自らの魂の奥底から何かが生まれ変わるのを感じた。
 それは一言で例えるならば、エネルギー。
 黄金色をしたエネルギー。
 それまでの自分が生まれた時からずっと寝惚けていて、生まれて初めて目を覚ましたかのような覚醒感。
 瞳の奥にある本当の瞳が、生まれて初めて目を覚ますのを感じた。
 やがて光が鎮まった後、マモンを前に決然と立つのは、絵羽の面影を残す一人の少女だった。
 まだ10代だった子供の頃に憧れた菫色のドレスをまとい、片翼の鷲を模った黄金の杖を手にした姿は、
もはや絵羽と呼ぶ事は出来なかった。
 自らの言うべき口上は、自然と口から流れた。
「我こそは、エヴァ・ベアトリーチェ。
 碑文の謎を解いた、右代宮家の黄金の正式な継承者にして、新しき無限の魔女、ここに!」



 今やエヴァは、マモンと正対していた。
 新しきベアトリーチェは、自らに与えられた能力を、そして課せられた使命を知覚していた。
 碑文に基づいて家督を継承した瞬間、右代宮家の者は黄金の魔女と同一たる存在に変化する。
 ベアトリーチェは無限の魔女。
 彼らは魔力のある限り、生も死も意味を成さない。歳も性も意味を成さない。
 無限に生き、無限に殺し、無限に蘇らせる行為を永遠に繰り返す。
 全ては、六軒島の者たちを黄金郷へ導くために必要な儀式なのだ。
 そんなエヴァが最初に願った、否、最初に使おうと思った魔法は、人として制約を超える事だった。
 それは重力。
 その束縛から解放される事で、自らが魔女になった自覚を得たいと思ったのだ。
 エヴァが床を蹴ると、その床が下へ遠のいていく。
 同時に彼女は、黄金の杖を大きく振った。
 マモンが身じろぎしようと足を踏み出そうとした時、その足下に違和感を覚えた。
 泥濘とは違うネバつく感触に、マモンは足下に視線を送った。
 漆黒に染まっている床には、うっすらと赤く光る帯のような物があって、それをマモンは踏んでいる。
 エヴァのように空に浮かんで見下ろせば、いったい何なのか分かるのは容易い。
 粘性と深みを持っているそれは、マモンを中心に放射状に広がる、真っ赤な蜘蛛の巣だ。
 床に広がるその蜘蛛の巣が、鍋に浮く灰汁を掬うかのようにあっさり、マモンを掬い上げる。
 そしてエヴァは、網の罠で捕らえた鹿のように宙に釣り上げ、振り回した。
「あんたなんか要らない! 私はあんたなんかとは違う! 
 譲治を返して! 秀吉を返して! 皆を返して!
 あんたなんか、あんたなんか、これで死んじゃえばいいのよッ!!」
 エヴァに雁字搦めのまま、マモンは天に打ち上げられる。
 赤い網袋に閉じこめられた人型は、このまま何度も叩き潰され、粉々に打ち砕かれ、全身を鮮血で彩った
無残な姿を晒す。
 エヴァのそんな確信は、しかし空しくも打ち破られた。



 エヴァによる蜘蛛の巣のカーテンが、閃光と共に切り裂かれた。
 その隙間を縫うようにしてマモンが飛び出してきた。
 否、その姿は最早マモンとは呼べない。
 まるでサナギから蝶に羽化するかのように、エヴァと寸分違わぬ少女の姿に変わっていた。
 決定的に違うのは、彼ら二人がまとう気配。
 片方の放つのが眩い白なら、もう片方が放つのは深い黒だ。 
「実は。全然ピンチでも何でもなかったよぉ。ごめんなさいね」
 醜悪な笑みを浮かべる黒きエヴァによるローキックを、白きエヴァは咄嗟にかわし、二撃目の回し蹴りを
自らの上段蹴りで相殺した。
「貴方が魔女になったなら、私も魔女にならなくちゃ。でなきゃ不公平って物だと思うわよぉ?」
「………お、おぉおおおおおおおぉおおお!!」
 絶叫する白きエヴァの足が閃く。
 どちらも魔力を持つ身である以上、二人は肉弾戦で戦わざるを得ないのだ。
 下段、下段、下段、中段直撃。
 前のめりになった黒きエヴァの頭部を、白きエヴァは両手で捕らえた。
 白きエヴァの膝蹴りが、天への稲妻のように駆け上がる。
 振りほどいた黒きエヴァの鋭い膝が、白きエヴァの下腹部にめり込む。
「ごぼッ!!! が、…………がはッ!!」
「じゃあ改めて言わせてもらうわ。……さよなら」
 黒きエヴァは、動けなくなった白きエヴァに、黄金の杖を振りかざした。
 その直前、白きエヴァが、なぜか満足げな笑みを浮かべた事を、黒きエヴァは見逃していた。
 やがて、激しい落雷と雨が、過熱した時間を、冷却していった。
 黒きエヴァの黄金の杖は、白きエヴァの胴体を易々と貫いていた。
 しかし、白きエヴァもまた同時に、渾身の力で黄金の杖を揮っていた。
 彼らのそれぞれの背中から、ごぽりと血が溢れ出す。
 二つの心臓は撃ち抜かれ、二人のエヴァはぐらりと後ろへ仰け反り、静かに落ちた。
 床に転んだ身体は、痙攣もしない。
 苦痛にのたうつ一瞬さえ無く、絶命していた。
 折り重なるように横たわる彼らの上に、どこからともなく黄金の蝶が群れ集まった。
 黄金のカケラが降り積もり、風と共に流れ去った後には、絵羽の骸だけが独り残されていた。



 時間は少々巻き戻る。
 絵羽と同じように霧江もまた、玄関ホールにてレヴィアタンと対峙していた。
「愚かね。貴方も外へ逃げれば良かったのに」
「そうね。でも、あなたには訊きたい話もあったから」
 霧江は落ち着いた声音で、レヴィアタンに言った。
「確認させてほしいの。
 留弗夫さんを殺したのは、あなたの仲間なのよね?
 あれはドコへ行ったのかしら。私の見た限りでは、留弗夫さんを撃ってすぐに消えたようだったけど」
「その答えなら簡単よ。
 私たち七杭は、貴方たちを殺すためのみに存在する。その役目を終えれば、この世界からは姿を消す。
 もっと言えば、私たちは仲間じゃないわ。私たちは七にして一、一にして七。全員が同一人物みたいなものね」
 それを聞いた霧江の指が、微かに動いた。
 レヴィアタンは肩を竦めて笑みを湛えた。
「改めて名乗るわ。私は嫉妬のレヴィアタン! 嫉妬こそ我が力。我が怒り、我が源泉とする煉獄の七杭!」
「同感ね。嫉妬は女の力の原点よ」
 霧江は頷いた。銃を撃った。
 レヴィアタンは強張った顔で、横へ跳んだ。
 まるで羽のように軽い、舞うような動きだった。
 中空で、嫉妬は力だと言葉を交わし合った二人の女の目線が交差する。
「……う、撃つの? この流れで、その引き金を……!!」
「あら、知らなかった?」
 霧江の顔が僅かに歪んだ。
「私、夫のいない所では残酷なのよ」
「……そう。貴方がそういうつもりなら、私も礼儀を尽くさなくちゃね。
 いいわ。見せてあげる。私の力は……音速をも超えるッ!」
 レヴィアタンが姿を、便宜的な人型から本来の杭へと変えた。
 その飛翔速度は、七杭の持つ感情の力に比例する。
「知ってる? 七つの大罪の内、最後に付け加えられたのが嫉妬なの。
 私は七杭に選ばれたその時から、他の感情たち6人を心の底から嫉妬した。七日七晩をかけて嫉妬した!
 その末に得た私の力と速度を見るがいい……!! 死ねッ、右代宮霧江ええええぇッ!!!」
 本性を現した悪魔の杭は、ビリヤードの球の如く跳ね回る。
 壁を打ち反射する音は、機関銃の音にも聞こえた。
 ニンゲンの目には最早、それが1本の杭なのか、群れ飛び弾け回る甲虫の群なのか、識別が付かないだろう。
 レヴィアタンは、確実かつ絶対の勝利を心より確信した。



 すると霧江が、信じられないくらいに穏やかな声で言った。
「留弗夫さんと、最初から付き合っていたのは私だったのよ。
 明日夢さんが、白々しく間に入りこんできたのよ。
 留弗夫さんは悪くないわ。あの女が嫌らしく立ち回って、留弗夫さんを追いつめたのよ」
 人は、幸せになるために、どこまで他者を踏み台にする事が許されるのかと、霧江は考える時がある。
 留弗夫は学生時代からずっと、典型的なプレイボーイだった。
 そんな彼の寵愛を独り占めにしようと、沢山の女性が、様々な色仕掛けで近付いた。
 しかし霧江が他の女たちと大きく異なったのは、ビジネスパートナーとしても、留弗夫を支えたという点だった。
 留弗夫はそこに光る物を感じた。
 数多い女性の中、霧江だけが留弗夫と同じ、鋭利な経済感覚を持っていた。
 そうして霧江は着実に、大勢の取り巻きの中のナンバーワンに上りつめていった。
 明日夢と留弗夫の接近を許したのは、霧江の人生最大の失態だった。
 ビジネスパートナーとして頑張るあまり、彼を追いつめ過ぎていたかもしれないとは思う。
 次第に留弗夫には、暖かな包容力で癒してくれる女性に憧れるようになっていた。
 それが明日夢だった。
 難しい話は一切聞かない。話しても、分からないと首を振る。
 でも、誰よりも体を気遣ってくれて、静かに毛布を掛けて朝までじっと側にいてくれる。
 留弗夫はそんな明日夢との二重生活を、恐るべき事に縁寿が生まれたその日に至るまで続けていたのだ。
「その明日夢さんも、もう死んだわ。でも、私の気持ちは治まらない。
 ずっとずっと裏切られ続けていたこの感情だけは、どうしても消えてくれない」
 もし私が、もっと早く子供に恵まれていたら、違う人生もあったかもしれないけれど。
 いまさら言っても仕方ないわね。
 私は今でも彼女を嫉妬し、苛まれてる。今も、これからも。未来、永劫に。
「七日七晩、嫉妬したですって?」
「そ、……そうよ……」
 笑わせるなよ魔物風情が。
「………てめぇに男を寝取られて、永遠に嫉妬し続ける女の狂気がわかるかよ……ッ!!」
「う、……うわあああああああああああああああああぁッ!!」
 霧江の目は完全に、レヴィアタンの動きを捉えていた。
 霧江は憐れむように、自分に向ってくる悪魔の杭を見ていた。面倒臭そうに銃口を向けた。
「あなた全然足りないわ。出直してらっしゃい」
 引き金を引いた。
 レヴィアタンは、あっさりと撃ち壊された。



 
「…………ほう、これはこれは。愉快愉快。よもやニンゲンが、妾の家具と渡り合うとは」
 突如、くぐもった笑い声を漏らしながら虚空から現れた相手に、霧江は即座に銃を向けた。
 さきほど金蔵を燃やしつくした、ベアトリーチェを名乗る、金髪に漆黒のドレスの女だった。
「何の事だか分からないけど。取りあえず、大人しく両手を上げてもらえるかしら」
 ベアトリーチェは、素直に手を上げた。
 しかしそれは服従の仕草というより、指揮者がオーケストラボックスに向けて指揮棒を振り上げる時に
似ていた。
 ベアトリーチェは、手に持つ黄金の煙管を真横に振って、更に一声高く笑い転げた。
「……くっくくくくっくっくっく!あっはははははははははひゃっひゃっっひゃッ!!!」
「妙な真似は止めて! 引き金を引くわ!」
 ベアトリーチェの声に応じ、ホールが金色で埋め尽くされる。
 それはあまりにも激しい黄金蝶たちの乱舞で、まるで金箔の海に飲みこまれたようだった。
 その目も眩む輝きの中、銃声が聞こえた。霧江が発砲したのだ。
 そして、輝きが収まった後には、平然としたベアトリーチェの姿があった。
 弾は? 霧江は確かに撃ちこんだはず。
 しかしそれは魔女の体のどこにも撃ちこまれてはいない。
 弾は、魔女の胸の直前で虚空に縫い止められていた。
 愕然となる霧江に、ベアトリーチェは告げる。 
「さあ、これでそなたの手番は終わった。今度は妾の番だぞ……ッ、と!!」
 ベアトリーチェが力強く振った煙管が、最後の合図となった。
 黄金の魔女の攻撃は、ニンゲンには防げない。逃げられない。
 彼女の魔法は、物理的なあらゆる防御を貫通させる。
 そのあまりにも無慈悲な行為によって、あっさりと霧江の心臓が撃ちぬかれた。
 一瞬の内に彼女は絶命し、膝を落として倒れた。
 その様子を見届けた後、ベアトリーチェも消え失せた。
 後には、霧江の死体と、砕けた杭だけが残された。



 再び時間をさかのぼる。
 累々とした死体が並ぶ1階のロビーには、まだ生きている者が残っている。
 楼座は椅子で、未だ深く眠る真里亞を抱きしめたまま、その身を固く縮めている。
 気を失っているのか、それともこの非常識な事態に思考が止まってしまっているのか。
 楼座の姿をした七杭は、品定めをするような顔つきで、楼座の周囲をゆっくりと歩いて巡る。
「いくら呼んでも返事はナシね。不本意だけど、これで終わらせてあげるわ。この憤怒のサタンがね」
 サタンは他の七杭と同じく、虚空を弾いて黄金の弓矢を顕してつがえた。
 かくて、楼座と真里亞は成す術なく、この惨劇の舞台から退場する。
 人外にこの至近距離で襲われて、生き延びる可能性は皆無だ。
 もう、どうしようもない。
 だからこそ。
 襲われる前に、楼座は動いた。
「おおおおおおおおおぉおおおッ!!!」
 ずっとタイミングを計っていた楼座は、懐より万年筆を抜く。
 でも持ち方が歪だった。
 左の手の平で押さえこみ、握り拳の中指と薬指の間から突き出す様はまるで拳から生えた毒針。
 その毒針が、顔を近づけていたサタンの左目に突き刺さる。
「うをおおおおおおおおおおオオオォオオオォオッ!!!」
 サタンから上がる声は悲鳴か。
 しかし楼座から上がる声は咆哮だ。
 続いて繰り出される掌が目に突き刺さったままの万年筆を打ち抜いた。
 その先端が、サタンの頭部の深奥を確かに破壊した。
「……私の目の前で真里亞に指一本触れてみろ」
 押し殺した低い声は、楼座の人生最大の勇気、最後の克己である証拠。
 その気概をもっとも早くに持てたなら、彼女の人生はもっと自由で、何者にも束縛されなかったかもしれない。
 ああ、ああ、私は何をやっているんだ。
 私の人生って何だったの。
 訳の分かんない家に生まれて。
 生まれた時からムカつく兄と姉がいて。
 私が何をしたの?
 何をしてもしなくてもいっつも怒られて虐められて馬鹿にされて!
 私の人生は何だったの!!
 終いには、そう絶叫しながら、楼座は右手に構えていた銃の引き金を引いた。



 そんな楼座の行為が、母娘にとって不幸となった。
 ようやっと瞼を上げた真里亞が、寝起きに見た光景こそ、楼座がサタンの頭蓋を吹き飛ばすその瞬間だった。
「ママ……?」
 真里亞は、何が起こっているのかを理解しようとするだけで数秒かかった。
 何と言っても、銃で撃った側も撃たれた側も、同じ母親の姿なのだ。
「真里亞ッ!」
 銃を構えたまま、向けてくる楼座の顔は血まみれだ。
 まして、床に倒れている方の楼座の顔に至っては、何も無い。
 無いのだ。
 なのに、それなのに、腕だけを前に伸ばして振り動かしている。
 まるで、真里亞に呼びかけでもしているかのように。
「あ、いや、やぁ……!?」
 真里亞は目じりに涙を滲ませ、半ば本能的に口走っていた。
「いや、いや、嫌ッ! ママ怖いママ怖い、怖いママなんて要らないッ!!」
 そう言った瞬間。
 ざあっと辺り一面が、目もくらむほどの黄金色に輝いた。
 二人の楼座は、どこからともなく現れた大量の黄金蝶に覆われた。
 そのの眩しさに、真里亞は目をつぶり、次に開けた時には、うつ伏せに倒れる楼座の死体があるだけだった。
 そこに、今度はベアトリーチェが真里亞の前に歩み出た。
「ベアト!」
 真里亞はベアトリーチェに駆け寄ると、神妙な顔で尋ねた。
「これでもう……全部終わったの?」
「左様。未だ生き残るは真里亞、そなた一人のみとなった」
「そっか」
 真里亞は両手を胸の前で組み合わせ、穏やかに目を閉じた。
「ベアトは約束してくれたよね?
 ママとも仲良しになれて、皆ずっと笑い合える黄金郷へ、真里亞を連れて行ってくれるって」
「ああ……」
 ベアトリーチェは優雅な仕草で、真里亞の差し出す両手を取ろうとした。
 が、そこで異変が起こった。
「ッ!?」
 シュウっと、何かが痛烈に焼け爛れる音が響き渡った。
 同時に、髪が一本燃えるような異臭が立ちこめる。
 ベアトリーチェは、自らの手のひらを見つめた。
 そこにはまるで、真っ赤に焼けた蹄鉄を火中に拾ったかのような、醜い火傷の痕が残っていた。
「ベアト!?」
 顔を歪めているベアトリーチェに、真里亞は混乱しながら自分の手首を見た。
 服の長袖を捲ると、そこにはブレスレットが嵌められていた。
 緑色の石細工の数珠に、サソリをモチーフにした金属メダルが付いている。
 それを見て、ベアトリーチェは目を白黒させた。
「何故だ!? 何故そなたがそれを付けている? その腕輪は戦人が持っていたはずであろうに!」



 え?
 ちょっと待ってよ。
 何か、それっておかしくない?
 確かに、この話の最初の頃に、真里亞が戦人にブレスレットをあげてたよね。
 いやそれとも、あげたって描写が、よく読んだら書いてないから、本当はあげてないってオチなのかな。
 でもそれでも何だかおかしい。
 だって、今この話の世界では、右代宮戦人は一族にいないって設定でしょ?
 だから絵羽と霧江のやり取りだって、縁寿のネタしか出てきてないし。
 考えろ。
 よく考えろ。
 何がどう変なのか考えよう。
 でなければ、この先を読んではいけない気がする。
 この状態のまま、止まっていてはいけない。
 とにかく、早く抜け出さないと。
 もう一秒だって、こんなもやもやとした気持ちでいたくない。
 変だ。
 変だ。
 この話はおかしいんだ。
 この話の真実はどこにある?
 お願いお願いお願い。
 助けて助けて助けて。
 誰か助けて誰か助けて。
 怖い怖い怖い。
 出して出して出して。
 何も思い出せないここから出して



 ああああああ!
 何だもう畜生しゃらくせえええ!
 俺は何をしてるんだ!?
 何だって、さっきから延々と、訳の分かんねえ小説みたいな戯言を、ぶつぶつと呪文みたいに
唱えてるんだよ!?
 思い出した。
 全部思い出した。
 俺は戦人だ。
 右代宮戦人だ。
 俺は昨日、この六軒島に来て、いとこ達と平和な時間を過ごしていた。
 そう、あのブレスレットは確かにもらった。
 だけど、真里亞が寝てる間に、こっそり返しておいたんだ。
 後で驚かせてやるつもりで、袖の内側に隠す形で嵌めてやって。
 でもその後、夜を境に、世界は何もかも変わってしまった。
 俺は何もかも忘れさせられて、ふざけたゲームとやらに参加させられた。
 今もまだ、この遊戯室のような奇妙な部屋に囚われている。
 ……って、おい、待てよ。待ってくれよ。
 だとしたら、俺は今まで、いったい何を……?

『席に着け、ベアト!! ようやく第一の晩じゃねぇか、本番スタートだぜッ!!!』

 何がベアトだ。
 何がようやくだ。
 何が本番だ!
 俺は何を、誰の事を、苦笑いしながら見てたんだ?

『俺はあの島の、あの屋敷の誰も疑いたくない、いや、疑っちゃいけないんだ!』

 当たり前じゃないか!

『現時点では彼らが死んだと見なすべきじゃない』

 当たり前じゃないか!

 ベアトリーチェ、俺はお前を許さない。お前の事を、俺はもう二度と勘違いしない。
 お前はただ残酷なだけの怪物だ。
 俺はお前を認めない、お前と話さない、お前の顔など見たくもないッ!!
 俺の前に現れるな!! お前なんか消えてしまえッ!!! 俺の、俺たちの、人間様の、

「心を、蔑ろにするんじゃねえええええええええぇえええええぇッ!!!」



 俺がそう叫んだ刹那、俺の周囲に赤い壁がそびえ立った。
 薔薇庭園で紗代ちゃんが見せていた壁によく似ているが、彼女の物に比べると色が少し薄かった。
 だからなのか、その壁を通して、俺の両腕が左右からつかまれた。
 右からつかむのは、執事のロノウェ。
 左からつかむのは、魔女のワルギリア。
 二人はそれぞれ、俺に厳しい視線を向けてくる。
「戦人さま。無礼な真似をお許し下さい」
「戦人くん。これが私たちの最後の役目です」
「最後……?」
 怪訝に尋ねた俺に、ワルギリアが厳粛な面持ちで答えを返した。
「あなたが真実に辿り着かんとする時、私たちはあなたを全力で止めなければなりません」
「それが我々の、今の存在意義なのです」
 ロノウェもまた、奴にしては珍しい真顔で続けた。
「ですが、戦人さまが本来のお力を発揮なされば、我々ごとき魔性など、消し去る事も容易です」
「さあ、戦人くん。私たちが、まだこうして堪えられている内に。
 先程あなたが至った、この世界のロジックエラーを説明するのです」
 言ったワルギリアの手が、ぐっと強く俺の腕を握りしめた。
 その手が小刻みに震えている。
 よく見れば二人ともだ。
 俺は思わず、ごくりと唾を飲みこんだ。
「………………いいのかよ。俺が言ったが最後、あんた達も全部、消えるんだろ?」
「左様です、戦人さま。あなたの外界を拒否するお力は、あなたご自身のお言葉で完成します。
 限りなく100に近い検証、言うなればエンドレスナインが成立します。
 そしてそれが、お嬢様を救う手だてともなるのです。
 それとも、もしや今更になって怖気づかれたとでもおっしゃいますか? ぷっくくくく……!」
「戦人くん。お願いします。私たちの意思では、もう……!」
 かすれた声を吐くワルギリアを見て、俺は覚悟を決めた。
 深呼吸してから、言った。
 さっき思いついた事を、そのまま。正直に。正確に。厳密に。

「『右代宮一族に戦人という人間がいない』という設定と、
『右代宮戦人が真里亞の手首にブレスレットを付けた』という
設定は、互いに矛盾しており、両立する事は不可能である。
 故に、この俺が認識しているこの世界は、実在しない」

 そう口にした、瞬間。
 俺の周囲に出来ていた壁が、ひときわ真っ赤に輝いた。



 先に反応があったのは、ワルギリアの方だった。
 凄まじい頭痛に襲われたかのように、自らの頭を両腕で抱えこむ。
 厳冬の湖で、氷結した湖面が立てるような亀裂音が一度だけ響く。
 その音と同時に、激痛に苦しむワルギリアの姿が、そのままの姿で硬直し、白濁した。
 まるで、美しく磨かれた窓ガラスが叩き割られ、無数のひびによって真っ白になってしまうのに、よく似ていた。
 そしてそれは、正しい表現だった。
 ワルギリアの姿は、ワルギリアの姿をしたガラス製の置物に、いつの間にか代わっている。
 それは内側より無数の亀裂を走らせて、頭や腕などを瓦解させながら崩れ落ちた。
 ロノウェも間もなく、同じ流れを辿った。
 足元から、メリメリパキパキと、薄氷を割るような音が上り、ロノウェもガラスの彫像に変わってしまった。
 こうして、夢の時間が終わる。
 ワルギリアやロノウェと同じように、世界が丸ごと破壊されていく。
 例えるならそれは、壮大なガラス細工の中でずっと暮らしてきたような感じ。
 建物に、地面に、森に、空に、亀裂が入ったと思った次の瞬間には、砕け散っていく。
 俺は、真っ暗な訳の分からない世界に落とされる。
 気づけば、星の海を思わせるような、あるいは星を散らした深海のような所に、俺は立ったまま浮かんでいる。
 気を許せば、倒れそうになる。
 いや、立っているのか、それとも立っているつもりになっているだけで、実は自由落下しているのか。
 星の海をどこまでも沈んでいるだけなのではないか、分からなくなる。
 何もかもが壊れていく。
 何もかもが崩れていく。
 何もかもが無くなっていく。
 何もかもが無へと還っていく。
 いつの間にか、意識も途切れた。



 ずっと、長い夢を見ていた、ような気がする。
 何か欠けた夢を見ていた、ような気がする。
 俺は急速に、今までの事を思い出した。
 俺が確実に知覚してると言いきれるのは、やっぱり最初の連続殺人までだ。
 園芸倉庫で、六人。
 客室で、二人。
 ボイラー室で、二人。
 客間で、三人。
 玄関ホールで、一人。
 その先から、だんだん意識があいまいになる。
 今思えば、あの大時計の鐘の音を聞いた辺りから、俺はあの魔女に、文字通り囚われてしまったのだろう。
 後はずっと、俺はひたすらあり得ない異界の物語を読まされて、かつ語らされていたのだ。
 そして、そんな俺の前ではあの時、何かを掲げた奴に、朱志香と、譲治兄貴と、真里亞とが…………。
 ………………………………。
 駄目だな。全然駄目だ。我ながら呆れる。
 目と耳とで体感した出来事を、脳髄が認めるのを拒絶している。
 俺は胸苦しい気持ちを抱えながら、芝生から起き上がった。
 いつの間にか、俺は屋敷の外へ移動していた。
 自分の意志でここに来たのか、あるいは奴に運ばれたのか、それは分からない。
 分からないから、それ以上は考えない事にする。
 太陽は昼を通り越し、代わりに夕闇が訪れていた。
 俺が目を覚ましたのも、空気が冷えてきたからに他ならない。
 そんな俺が居るのは、屋敷の裏から少しだけ歩いた木立の中だった。
 薄く広がる木々の向こうに見えているのは、礼拝堂だ。
 俺は何とはなしに、そちらの方へ歩いて行った。



 礼拝堂については、説明が要るだろう。
 全体を白で統一された洋館だ。
 確か、六軒島に屋敷が建てられたのと同時に建立された物のはずで、何度か外壁の補修を行ない、
外見だけは新しそうに見えるが、実際の所はかなり古い。
 外観を見るだけだったなら、若い恋人たちが挙式をしてみたくなるような、開かれた場所のように感じられる。
 だがこの礼拝堂は、祖父さまにとってとても神聖な物だったらしく、俺たち親族は誰も妄りに関わるなと
厳しく言われてきた。
 何せ、当の祖父さま自身、全く近づこうとしなかったそうなのだ。
 にもかかわらず、何故か年に何度か使用人たちには大掃除をさせていたという。
 常に清潔にしていて、まるで、いつ使用する時が来てもいいように、という感じだった。
 だがその祖父さまも居なくなってしまった以上、ここを眺めちゃいけない理由は最早ない。
 礼拝堂の正面扉の上にはアーチがあり、そこに錆びた金文字のレリーフが刻まれている。
 英文で何かのメッセージが書かれているようだった。
 その錆び具合から、建立当時から記されているメッセージである事が分かる。

 This door is opened only at probability of a quadrillion to one.
 You will be blessed only at a probability of a quadrillion to one.


 俺は指を折って、出てきた数字の桁を数えた。
「えっと、100がmだろ、その1000でb、その1000でt、その1000でqだから」

“この扉は千兆分の一の確率でしか開かない。あなたは千兆分の一の確率でしか祝福されない。

 奇跡でも起きなきゃ無理だってか。上等だ。
 今の俺の状況そのものじゃねえか。



「目覚めたか。右代宮戦人よ」
 聞き慣れた甘い声、だからこそ耳障りな声が、俺の背中にかけられた。
「ああ。おかげさんでな。すっかり寝坊しちまってたぜ」
 俺は、ゆっくりと振り返った。
 忌々しい魔女野郎が、闇の向こうのその先に立っている。
 うまい具合に木立に紛れてやがって、顔や姿が判然としない。
 俺は、前の方にいるだろう相手をにらみつけ、宣戦布告を叩きつけた。
「お前を殺す」
 俺はお前を許さない。お前という存在を認めない。
 俺がこの手で消してやる。否定してやる。カケラ一つ残さずに。
 ところが。俺がそれほどまでの決意を込めても、ベアトリーチェの返す声は、相変わらずとぼけた物だった。
「……つくづく分からぬ。さっぱり理解できぬ。戦人よ、妾のしている事は、そんなに怒るほどに残酷か?」 
「てめえ……この期に及んで、まだそんな寝言いってやがんのか」
「だから分からぬと言うに」
 やれやれと言わんばかりに肩をすくめて首を振って、ベアトリーチェは言う。
「なぜ怒る? そなたとて、いつも求めているではないか。
 いかに人が死ぬか、殺されるか、これほど楽しい物はこの世にないと!
 だから創った! 妾が創った! かくも無限に紡がれる世界を!」
 ベアトリーチェの口振りに、邪気はなかった。
 信じがたい事だが、この一連の残酷なショーを、彼女は純粋に楽しんでいるのだ。
 そしてそれを、俺と一緒に鑑賞しているつもりなのだ。
 その異常に、絶望的なまでの価値観の違いに、俺は改めて驚愕する。
「………………ああ、そうかよ。そうだよな。
 今更お前をまともに説得するなんざ、どだい無理な話だよ」
 俺がどんなに嘆いても訴えても、コイツは俺の親族を殺し続けた。
 俺も何度も何度も抉られ刻まれた。
 自分こそが殺人事件の犯人だと、他の者は駒だ玩具だ人形だと言いはり続けてきたんだ。
 堪らず俺は、唇を噛みしめた。
 足下が視界に入って、それで気づいた。
 この六軒島にある花は、薔薇ばかりだと思っていたが、ここ礼拝堂だけは違った。
 小さな青い花が、固まって咲いている。
 勿忘草に似ていた。
 その花言葉は……真実。



「左様。妾に説得など不要だ。そなたはただ、妾に屈服すれば良い。
 この一連の事件の犯人が妾だという真実に!」
「……駄目だな」
「む?」
「駄目だな。全然駄目だぜ」 
 俺は屈服なんかしない。これから俺がやる事はただ一つしかない。
「お前が名乗るのが、犯人なら。俺が名乗るのは……探偵だッ!」
 左腕を振り上げて、人差し指を突きつけて、腹の底から声を出す。
 大丈夫だ。いける。突き進め!
「もう俺は騙されない! もう二度と誤魔化されない! お前の見せる幻覚になんか惑わされない!」
「ほう……?」
「確かにお前には、何か不思議な力があるんだろう。
 ある種、それは魔法と呼んでもいいかもしれない。
 だがそれは、人を密室で殺したり、挙げ句にあんなバトルで虐殺したり出来るような力じゃない。
 あの殺人はあくまでも、現実的な手段によって成された物だ。
 皆はただ一度しか死んでない。殺されてない。
 その後は、お前が創った物語の世界を、さも現実の続きであるかのように錯覚させられていただけなんだ」
 そして、その目的は、実際に起こった事件の内容をゴマカす事。
 真実を薄めて延ばして煙に巻く事。
 だから、さっきまで俺が読まされていた物語の方にも、明確にヒントが散りばめられている。
 例えば、あの黄金の弓矢。
 どんなに派手な演出(エフェクト)を施そうと、あれは銃殺の暗喩に他ならない。



「つまり……煉獄の七杭を召喚した金蔵もまた、妾による幻覚だと?」
 俺の論を聞くベアトリーチェから、やや気だるげな声が返ってくる。
「霧江も、同じような事を言っていたな。
 金蔵は既に死んでいるとの仮説を述べていた。
 だから妾は、金蔵を書斎より出したのだ。
 右代宮の親族は誰も、出てきたあれを金蔵と認めた。あれも全て虚構だと?」
「そうなるな。だがそもそも、祖父さまはずっと死線を彷徨って寝こんでいた重病人のはずだ。
 やつれてて別人に見えちまっても、みんな気にしないかもしれない。
 そう……本当に全くの別人であっても、見間違えちまうかもしれない」
「……別人?」
「ああそうだ。それなら、お前が祖父さまを犯人役として暴れさせてる辻褄も合う。 
 俺たちの元々知っている右代宮金蔵は、既に死んでいるんだ。
 思えば気の毒な人だよ。お前のゲームでも、祖父さまはいつも丸焼けだった。
 それは即ち、死後が経過している死体である事を悟られないための工作なのさ。
 そして“その名”を、ある人物が受け継いだ。
 『右代宮金蔵』という名は、右代宮家当主の称号として引き継がれた。それを他の全員が承認した。
 そうすれば、親族が金蔵だと認めた、と言っても嘘ではなくなる。
 わざわざ祖父さまの変装をする必要もない。一同が新しい“金蔵”を認めたんだから、見間違えるわけもない。
 以上の仮説によれば、『右代宮金蔵は死亡している』という設定と、
『右代宮金蔵は生存している』という設定は両立できる。ロジックエラーは起こらない」



「ならば………ならばだ! あの煉獄の七杭にも、そなたは意味を見いだせるというつもりか?」
「あの、胸糞悪い集団か」
 自分で口にして、なおさら気分が悪くなった。
「あれは悪趣味の極みだぜ。世界中にインク壷でもぶっかけたみたいなどす黒さだ」
「ほほう、なるほど。それは愉快な表現だな。
 そう。妾のゲーム盤は、魔法の真っ黒に染まっておる。
 くっくくくく、そなたも直にインクに染まるぞ。インクの海に溺れるがいいわ」
「いいや、違う。たとえこの島が、てめえのインク壷で全て真っ黒に染まっちまったとしても。
チェス盤の白いマスは、残るぜ」
「どこに……!!」
「俺の、足の裏だ」
 言って俺は、じりっ、と芝生を踏みしめる。
「お前の魔法がどれほど島中を覆いつくそうと、俺が踏みしめる足の裏までは覆えない」
 俺は、俺だけは、俺だ。
 他の連中とは、俺は、違う。
「話を戻すぜ。
 あの七杭は、そのままの意味だ。あの七人は、お前の傘下にある。俺にとって敵なんだ」
 最初の連続殺人では、俺はほとんど詳細を確かめていない。
 他の人たちの証言を、素直に正直に鵜呑みにして、信じてた。
 それが間違いだったんだ。
「彼らの証言は、真犯人であるお前に誘導された物だ。
 俺を幻覚に陥れたように、彼らは現実を誤認したんだ。
 いや、もしかしたら、彼らは自らの意思で虚偽を申告したかもしれない。
 言わば、お前の共犯者として。
 脅迫されたか、そそのかされたか、何にせよ、狂言や裏工作が成されていた可能性は否定できない」



「お、おいおいおい……、そなた、今になってそれを申すかぁ?」
 その言い方から、あんぐりと口を開けている様子が見えるようだ。
「幸せは、皆が信じなくちゃ叶わないんだろう? 疑心暗鬼になってどうするよ。
 まさか、変な病気にやられて、おかしくなってるんじゃあるまいな?」
 そうかもしれない。
 あれほど繰り返された幻覚の中で、自分が今も正気なのか自信は無い。
 だが、それでも、俺は進まなくちゃ行けない。
 この事件の真相を暴くために。
「信じれば必ず全員が幸せになれるって?
んな事を本気で思ってるのは、よっぽどおめでたい馬鹿野郎さ。
 現実は、ハッピーエンドの物語とは違うんだ。
何でもかんでも信じたからって、幸せになれるわけじゃない」
 3年前の騒動を思い出す。
 親父は、ずっと浮気していた。
 お袋が縁寿を身ごもっていた時でさえ。
 当時、俺は親父を本当に許せなかった。殺したくなるほど憎かった。
 そして、それ以上に、俺は自分が許せなかった。
 もし俺が、親父の浮気をもっと早く見破る事が出来たら、誰も苦しまずに済んだかもしれないと、自分を責めた。
 自分の好きだった物が、色あせて見えた。何もかもが馬鹿らしくなった。
 部屋に一人で過ごしているのが辛かった。
 運動部を渡り歩いて、率先して体を鍛え始めたのもその頃からだ。
 筋トレだけじゃなく、怪しげな通販の筋力増強剤にまで手を出した。
 成長期を迎えるまでは、俺の身長はクラスじゃ真ん中よりは前の方だった。
 それが、あれよあれよという間にでかくなって、今に至る。
 実際に戦える力を、手に入れたんだ。
 俺は腰を引き落とし、両拳を握りしめた。
「さあ、お喋りはこの辺で終わりにしようぜ。
 俺がこの目で死体を確認していない人物は、一人しかいない。
 その人物こそ、右代宮金蔵を名乗る現当主であり、碑文連続殺人の主犯であり、
そしてお前、ベアトリーチェの正体なんだ!」



「………………………………で?」
 ベアトリーチェの反応は、淡泊だった。
「そなたの手番は、それで終いか?」
「何?」
「ニンゲン同士のやり取りならば、それで決着は付くだろう。
 おみそれしましたごめんなさいと、犯人は改心して泣き崩れるだろう。
 だがな。生憎これは、無限の魔女のゲーム盤だ。そなたの屁理屈は、妾には通用しない」
「う……、うっせえ! この期に及んで見苦しいぜ?
 いいからとっとと姿を現せ。作り声も止めろってんだ。
 それとも、いっそ俺の口から、お前の正体を言ってやろうか?
 お前は、いや……、君は………………君は………………………………」
 いざ言ってやろうと思うと、何故か声が喉に張りついて出てこない。
 はっきりと呼んでしまったら、もう後には退けないからか。
 ど畜生、んな事とっくに分かってるだろ!?
 出てこいよ、出てこいよ、出てこいって言ってんだよ!?
「良い良い。そう慌てずとも、妾の方から出向いてやるわ」
 え…………?
 木立の向こう側から、ゆったりと奴が進み出る。
 金髪碧眼、ひきずるように長い漆黒のドレス。
 何も変わらない。何一つ変わっていない。
 黄金の魔女ベアトリーチェ、そのままの出で立ちが、俺の眼前に突きつけられた。
「妾は、失望したぞ」
「お、………………お前、………誰だ……」
「そなたの口上、誠に興味深く、そして、退屈であった」
 俺の言葉を完全に無視して、ベアトリーチェは厳粛に告げる。
「魔女は、改心など、しない」
 今までで一番、禍々しい笑みを浮かべて。俺に言った。
「お前が死ね」



 もういい。
 もう止めた。
 もう飽きた。
 もう知らない。
 放り出す。
 放置する。
 こんなゲームやりたくない。
 埃でも何でも被ってしまえばいい。
 あなたは嘘つきだ。
 あなたは意地悪だ。
 あなたを許せない。
 あなたには罪がある。
 あなたの罪で人が死ぬ。
 あなたの罪で、この島の人は死ぬ。大勢死ぬ。
 誰も彼も、全て死ぬ。
 それは全部あなたのせい。
 私が好きでこうしていると、あなたが思っている限り。
 あれが嫌だと、これが嫌だと、文句を言っている限り。
 この物語は終わらない。終わらせられない。
 だから私は同じ事を繰り返す。
 魔女ベアトリーチェの声で言う。
 何度でも言う。
「お前が死ね」



 妾の手番だ。
「さぁさ、思い出して御覧なさい。あなたが本当はどこにいるのか。
 あなたが本当は何をしているのか。思い出して御覧なさいッ!!」
 妾の紡ぐ言葉を境に、場の設定は書き変わる。
 礼拝堂から薔薇庭園へ。
 麗しく赤い花びらが、無数に舞い散る空間へ。
 そう! この赤こそが、妾たちの唯一の真実。
 真っ赤な真実。
 だから妾は、薔薇が好きだ。
 その花言葉は……情熱。
 唐突な展開に、妾の前の哀れな男は、零れ落ちそうなほどに目を見開く。
 おろおろと周りを見回し、妾に向かって何やら騒ぐ。
 だけど別に、そんなの知った事じゃない。
 説明など不要。描写など不要。
 これが妾の魔法。ここが妾の世界。
 そなたはただ、それを認めて受け入れれば良い。
 何だその目は。何なのだその顔は。
 気に入らないなら諦めろ。気に入らなくても諦めろ。
 これで何もかもお終いだ。
 妾の放つ魔法の弾丸が、戦人を貫く。 
 腕を貫く。足を貫く。脇腹を貫く。肺を貫く。腸を貫く。
 脳と心臓は後回しだ。最後まで取っておけ。
 瞬きする時間も与えない。逃がさない。
 機関銃の一斉掃射。
 微塵なまでに容赦なく。
 貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く貫く刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す刺す突く突く突く突く突く突く突く突く突く突く突く突く突く突く突く突く突くぐしゃぐしゃぐしゃぐしゃぐしゃぐしゃぎゅがきぱきどしゅがきゅッッッッッッ!!!!!!!!!!!!
 熟したトマトが潰れるような音が鳴り響く。
 中に混じって悲鳴が聞こえる。
 ああもううるさい。見苦しい。
「チェックメイト!」
 妾の最後の宣言により、裂けた天空から巨大な赤き槍が稲妻のように飛来し、戦人の心臓を正面から
串刺しに貫き、立ったままの姿で磔にした。
 戦人は倒れる事さえ許されず、空を仰ぐような姿勢のままに縫い止められた。
「ふ………ぐ、……………が………。……………ぐ………………、……」
 戦人は口の端から血の泡を零し、ゆっくりと目を閉じて、事切れた。
 こうして、魔女ベアトリーチェに挑んだ愚かな男は絶命した。ゲームは終わった。








 …………………………………………痛い。
 痛くてたまらない。
 目も見えず、耳も聞こえず、何も言えず、何も出来ない。
 全身を苛む痛みだけが激しく続いている。
 なのに。
 これほどまでに痛いのに。
 意識だけは途切れてくれない。
 思考を放棄できない。
 この激痛は、とても幻覚とは思えない。
 けれど。
 この世界は、とても現実とも思えない。
 一体ここは何なのだろう。
 何故あの魔女は、こうも人々の命を弄ぶ?
 分からない。
 何が何だか分からない。
 ならば。今こそ、ここで、“チェス盤をひっくり返す”。
 命が失われる事への理由を考えないで。
 そもそも「命が失われるべき世界」とは何なのか考える。
 きっと、今の俺に必要なのは、推理じゃない。
 必要なのは推理じゃなく………………理解。



 俺は再び、あの漆黒の海のような所を沈んでいく。
 この世界のロジックエラー ――矛盾を突き止めた時と同じ空間。
 その中を、ゆっくりと、ゆっくりと、どこまでも落ちていく。
 今までの出来事が、細かい泡のように、小さな輝くカケラのように、漆黒の場所に散らばっている。
 遠くから、声が聞こえる。
「………………だと思うんだよ」
 俺は耳を澄ました。
「プレハブをクレーンで持ち上げるってのは無茶だと思うんだよ」
 ……何だこれは。
 誰がこんな変な事言ってやがるんだ。
 何だか得意げに話してる奴がいる。
 そいつの話を聞いてる奴がいる。
「本当に、たくさんご存知なんですね」
「ああ。密室殺人ってテーマで、どれだけバリエーションが有るんだろうな。次の新作も楽しみだよ」
「人が殺されるのが、楽しみなんですか?」
「あー……、確かにそうだな。うん。殺人の要素は不可欠だ。
 でも俺は、凝ったトリックも大好物だけど、もっと好きなのはその後さ」
「そうですね。ただ人が死んでいくだけだったら、それは悲しすぎます」
「その通り! 作者と読者の、最低限のルールは守ってくれねえとな。
 殺人はあくまでも、もっと奥底の本質を描く手段なんだ。つまり……」
 その先の言葉を聞いて。
 俺は知った。



「……う、……ぐぉ、…………痛ぇ…………」
 少しずつ、目と口が動き始める。
 夜空を見上げたまま、魔法の槍に貫かれたままとは言え、だんだん感覚が戻ってくる。
 俺は今度こそ、全部思い出した。
「俺は…………馬鹿だ」
 本当に大馬鹿だ。
 お前が俺を苦しめてたんじゃない。
 俺がお前を苦しめてたんだ。
 俺が悪いんだ。
 お前は寧ろ、今日まで拷問に耐えたんだ。



 俺と同じ駒として。



 俺は、自分の身体を刺し貫く槍を、鮮血に濡れた両手で抱いた。
 俺は、右代宮戦人は、こうして一度「殺される」必要があった。
 ベアトが本心から絶望してこそ現れる、この槍によって。
 それが、ベアトも知らなかっただろう、この物語の顛末。
 俺は完全に理解した。
 この物語の終わらせ方を。



 俺は、槍を握る手に力を込めた。
 胸の奥から、黄金の光が零れ始める。
 その輝きは、赤い槍の色を金に染めていく。
 暗闇の中、次第に眩くなる光に、背向けていたベアトが気づいた。
「………………え……?」
「がはッ……!!」
 俺は、せり上がってきた血を吐き出した。
 俺を貫いていた槍は、その色と形を変えていた。
 例えるならそれは、黄金の太刀。
 その黄金の太刀は、時間をかけて、俺の身体から抜けていく。
 とうとう俺から自ら離れ、宙を舞ってから、俺の眼前に突き立った。
 俺はバランスを崩して地面に倒れたが、黄金の太刀を掴み、自らの足で、何とか立ち上がった。
「そ、………その輝きは、…………ま、まさか……」
 ベアトは、その眩い黄金の輝きに、両目を見開いて驚嘆している。
「お前なら分かるよな。今の俺が何なのか。今の俺が何を出来るのか」 
「そ、その太刀は、わ、妾の魔力と同じ……!?」
「そうさ。俺はお前と同じ。無限の魔女、もとい、無限の魔術師ってわけさ」
 地面から太刀を抜き、いわゆる正眼に構えた。
 身体の傷は、とっくの昔に癒えていた。
「まあ、細かい事はどうでもいいや。終わらせてやるよ、ベアト。安らかに、眠らせてやる」
「戦人……!!」
 残酷な物語を紡ぐ作者に、読者から反撃を。
 この話を書いた野郎の目的はそこにある。
 まともな推理小説を書けない作者が、強引にひねり出した結末だ。
 推理小説は、謎が解かれて、初めて推理小説になる。
 確かにそれは当然だ。
 単に人が殺され続けるのが繰り返すだけなら、それは悪趣味な冗談以下だ。
 けどな。
 俺はそんな作者の憂さ晴らしに興味は無い。
 俺はただ、皆の無念を、晴らしたいだけだ。
 最後まで、あくまでも作中人物の一人として生きてやる。
 外の世界の思惑なんざ知った事か。
 俺は地面を蹴り、体ごとぶつかるように、黄金の太刀の切っ先を、ベアトの胸に突き立てた。



 妾は呆然と、自分の胸に突き刺さった黄金の太刀を見下ろしていた。
 ……ああ、そうか……。
 やっと、妾の役目も終わるのか。
 妾は、とうに限界だった。
 初めから、分かっていた事だ。
 元より、勝ちの無きゲームだった。
 いつか敗れる日が来るのは当然の事。
 妾は、そなたに敗れるために、今日までを戦ってきたのだ。
 勝てるかもしれないとは、思っていた。
 簡単には勝てなくても、無限に繰り返すゲーム達の中で、いつかは奇跡が起こると信じてた。
 妾には必ず勝つという絶対の意思があった。
 しかし、今やその奇跡は完全に失われた。
 絶対の意思は、そなたに宿り、妾には万一の奇跡もない。
 いや、そなたには絶対の奇跡があり、妾には絶対も奇跡もない、というべきなのか。
 妾の勝利はない。引き分けでも終わらない。
 唯一の決着は、妾の敗北。
 それまで延々と抗うだけだったゲームが、これで終わる。
 黄金色の光に照らされ、妾の胸に生まれた虚ろな穴に、太刀が呑みこまれていく。
 ゆっくりと、深く、沈んでいく。
「……力、抜けよ。一気に奥まで、入れてやる」
「あ、………あ………ッ、……ッ……ッ」
 あたかも、錠前に収まる鍵のように。
「痛く、ないか……?」
「う、ん…………」
 お互いの足らない部分を埋め合うように。



 黄金の太刀の刃が全て、ベアトの中に吸いこまれた。
 今ベアトの胸からは、太刀の柄だけが見えている。
 彼女は苦しげに息を吐き、崩れ落ちそうになっている。
 俺が成すべき事は、後はただ一つだけ。
 鍵を差したなら、後は錠を開けるだけ。 
 俺は柄を握り直した。
 空いた手を、ベアトの背に回して支えてやる。
「動くぞ」
 渾身の力で、柄を回した。
 …………かちんっ…………。
 小さく、何がが噛み合う音がした。
 その途端、ベアトは絶叫して仰け反った。
「う、………あ……ぁ………………ぁぁ……ッッッ!!!」
 その叫び声の大きさと裏腹に、ベアトの姿が薄れていく。
 金の髪も青い目も黒いドレスも、みるみる内に透き通っていく。
 やがて霞のようになり、抱きしめる手ごたえも弱くなっていく。
 消えゆく寸前、俺はベアトを引き寄せた。
 思い出したあの時の言葉を、昔言った気障な台詞を言ってやった。

「愛が無ければ、視えないんだよ。ミステリの本質ってやつはな」

 果たして聞こえたか、間に合ったか。
 ベアトは、くすりと微笑んでから、黄金の飛沫と散った。
 まるで、砂浜に作った砂の城が、波に溶けて崩れるように。



 ベアトが消えた代わりに、彼女の心臓が、物語の核心が露わにされていく。
 俺の眼前に立つ、黒い人影。
 ベアトのシルエットで、ベアトの声で、ベアトの口調で、そいつは言った。
「よくぞ至った。右代宮戦人。よくぞ、魔女ベアトリーチェの心臓の一つを晒した」
「……それで?」
「されど、ベアトリーチェの心臓は一つにあらず。その心臓にはここにはあらず」
 そう言って、人影が首を振った時、鐘の音が鳴り響いた。
 屋敷の大時計と同じ音色が……、12回。
 人影は、いっそ穏やかなほど静かな声で、こう言った。
「右代宮戦人。今から私が、あなたを殺します。
 この島にあなたはたった一人。そしてもちろん、私はあなたではない。
 なのに私は今、ここにいて、これからあなたを殺します」
「………………それで?」
「……私は、だぁれ……?」
「それが、この物語の最後の問いか」
「……私は、だぁれ……?」
 人影は、同じ問いを繰り返す。
 そしてその後、続けて言った。
「早く、私を殺して下さい」
 それだけが私の望みです。



【 Interlude 】へ続く






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