3rd Game  I am a detective. (前編)

 果たして何が拷問なのか?
 長く続いた小説を読み終えて、俺が最初に思った事がそれだった。
 「2nd Game I am a liar. 」と題されたこの小説は、決して難解ではない。
 いつどこで誰が何をしているか分かりにくいのは、あくまで意図的な事であり、やむを得ないと判断すべきだ。
 俺自身を含む、身内の名前を使われているのは不謹慎かもしれないが、逆に言えば、
おかげで人物関係を把握しやすくなっている。
 ただ、とにかく長い。
 一族の人間たちが死に続け、探偵を名乗る語り手も理不尽に殺されたと思ったら生き返り、
犯人を名乗る魔女を殺す。
 あらすじを述べれば、これだけで終わる出来事が何と長く続いた事か。
 俺が最速で読んですら、相当の時間がかかっている。
 並の奴なら、一晩かかっても目処が立つまい。
 ああ、そうか。だから、この小説を渡された時に言われたのか。
「これを読む事が、そなたには拷問に値するかもしれぬ」と。
 俺にそんな言葉を向けた相手は、会った最初と変わらぬ面持ちで、俺の様子を眺めていた。
 どこか遠くを見るような、茫漠とした表情で。
 こうして向かい合わせに座っていると、何だか御伽話の中にでも迷いこんだかのようだ。
 装飾はどこをとっても煌びやかな黄金色に満ちており、中央に位置する机と椅子も、
特に彼女の出で立ちに、白地のドレスに相応しい、豪奢な作りだ。
 例えるなら、それはまるで玉座のような。
「して、どうだ。右代宮戦人よ。そなたは、妾の書いたその物語を読み、何を思う?」
 彼女がそう言って、軽く首を傾げた時、透けるように真っ白な髪がさらりと揺れた。
 俺は、率直に感想を言った。
「……ぶっ飛んでる話だな。ノックスやヴァンダインが呆れてるぜ、きっと」
 すると、彼女は微かに顔を曇らせて、俺に尋ねた。
「ノックスやヴァンダインとは、何か」
「え?」
 俺としては、意外な反応だった。
 まさかコイツが、その名前を知らないなんて……。
「すまぬ。そなたの知る“彼女”ならば、それは自明の言葉なのだろう。
 だが、妾は知らぬのだ。その言葉の意味を」
 真顔を寄せて、こう言われた。
「教えてもらえるか。その言葉は、どこか懐かしい。妾も聞けば、何やら思い出すやもしれぬ」
「そう、言われてもな……」
 俺みたいな古臭いマニアなら常識ではあるが、こんな何も知らないと主張する相手に、
わざわざ時間を割くような話題じゃない。



 が、結局俺は押し負けた。
「分かったよ。お前にも付いて行ける程度に説明してやる。その代わり、話を途中で止めさせるなよ。
 俺はそういうのが一番好きじゃないんだからな」
「うむ」
 粛々と頷く相手に、俺は苦笑しながら、改めて席に腰を落ち着けた。 
「ノックスとヴァンダインってのは、昔の推理小説家の名前だ。
 イギリスのロナルド・A・ノックスと、アメリカのS・S・ヴァン・ダイン。
 どちらも昭和初期……1920年代に作品を発表してる。
 その活動の中で二人はそれぞれ、推理小説における独自のルールを制定した。
 ノックスはカトリックの聖職者でもあった事から、彼は『推理小説の十戒』という題でルールを作った。
 このタイトルセンスの時点で、コレ実はその場のノリで作ってんじゃないかって俺個人は考えてる。
 一方、ヴァン・ダインは、当時の推理小説を読みまくり、探偵『ファイロ・ヴァンス』シリーズを発表する傍らで、
『推理小説作法の二十則』を作った。正直言って、20も出すのは多すぎる気がするけどな。
 と、この辺りまでが、最低限の説明だが……どうだ?」
 調子に乗って喋りすぎてるかと思いながら、俺は彼女の反応を窺った。
 彼女は両手を膝に置き、俺の顔を真っ直ぐに見つめていた。
「実に、興味深い。妾は驚いている。それほど昔に、それほど明確なルールが敷かれていたとは。
 ならば、妾もそのルールを知った上で、この小説を書くべきだった。
 だからこそ、そなたは呆れたと申していたのだろうから」
「ああ……、それなら早めに言っておくけど」
 誤解は正しておかなければ。
「こんな物、無理に知ろうとしなくて構わないさ」
「構わない、のか」
「ルールってのは最終的に破られて変わっていく物だ。
 電電公社も専売公社も、それから国鉄まで変わるって話まで出てるこのご時世で、
50年以上昔のネタにこだわるのはナンセンスだ」
「しかし……そなたはこだわるのだろう?」
「へ?」
「さもなくば、わざわざ口に出してまで言うわけがない」
「そりゃあ、どうせなら守られてる作品の方が俺は好みさ。
 だけど、お前が読ませたこの小説自体、そういうルールを破ってる事が特徴になってる。
 厳格に照らし合わせたら、本当に滅茶苦茶だぞ、これは」
「ならば、どう滅茶苦茶なのか、教えてくれ」
 相手は、紙の束を押し抱いて、変わらぬ眼差しを投げかけてくる。
 どうやら、俺の話の番は、まだ終わってくれないようだ。
「じゃあ、俺の覚えてる範囲で、十戒と二十則を挙げてみる。
 資料がなくて正確じゃないから、あくまでも参考程度に聞いてくれ」
 と、俺は念を押してから、うろ覚えの記憶を探った。
 まさか今更、こんな初歩中の初歩について語らなくちゃいけなくなるとは思わなかった。
 “アイツ”とこの話題を話したのも、知り合って間もない頃だったと思うぞ、確か。



1条。犯人は物語当初に登場している人物でなくてはならない。

 つまり、この小説で言ったら、真犯人は島に明確に存在している人物でなくてはならない。
 右代宮家以外の、招かれざる未知の客人が紛れているとかじゃあ駄目って事だ。
 ならば、魔女ベアトリーチェは何者なのか?って点が、この小説の要点となる。

2条。超自然的要素を持ちこんではならない。

 この点も、この小説の要点に含まれる。
 死んだ人間が歩きまわれるわけがない。
 だからと言って、例えば実は六軒島に住む蝶には謎の幻覚作用があって、なんてアイディアが唐突に
出るのも駄目。
 勿論、探偵役が魔法を使って事件解決なんて言語道断。その魔法にもまた、具体的かつ実際的な論理を
構築、提示する必要がある。

3条。秘密の通路が一つ以上存在してはならない。

 人によっては、隠し扉そのものを否定する過激派もいるようだが、俺はある程度は容認したい。
 現にこの屋敷にも、小説同様、暗号に基づいた隠し通路が存在している。
 もっとも、後から後から、あちらこちらに、ぽこぽこ通路が生えてくるのは願い下げだが。

4条。未知の薬物、及び、難解な科学装置を使用してはならない。

 未知のウィルスによる未知の病気を引き起こす未知の薬物が事件の鍵を握ってる、なんてのは、
書き手が上手く調理できればいいが、なまじ後付説明を長くやると苦しくなる。
 あくまでも常識の範囲内に収めるべきだ。

5条。中国人を登場させてはならない。

 何だそりゃ、ってツッコミが入るのは覚悟の上だ。
 これはルールの作られた時代背景を考える必要がある。
 つまりは、胡散臭い術を使いそうな奴を出すなって事だ。
 言い換えるなら、そもそも推理小説には魔女や魔術師を出しちゃいけないって理屈になる。
 これを言ったら、この小説は全否定されてしまって成立しない。
 よって、深く考慮するべきではないだろう。



6条。探偵方法に、偶然と第六感を使用してはならない。

 怪しいから怪しいんだとか、あり得ないからあり得ないんだ、なんて探偵が言い張るのは見苦しい。
 単なる偶然にも頼らず、あくまで推理で真相を語るべきだ。

7条。探偵が犯人であってはならない。

 探偵役は客観的視点の責任を負っており、虚偽を述べるのは義務に違反している。
 確かに正論ではあるが、そもそも何をもって「探偵役」とするかという時点で論議が生まれる。
 探偵役が実は犯人っていう推理は、今時はむしろ外せない鉄板だ。

8条。提示されない手がかりで解決してはならない。

 即ち、謎を解決できるように、手がかりを用意しなくてはならないという事。
 あらかじめ描写されている内容だけで勝負しろって事だが、これもそもそも「手がかりとはどこまで
提示するべきなのか」という問題が生じる。
 第一、本当に全部バラしたら、事件解決時のカタルシスが無くなってしまう。

9条。物語の語り手は、自分の考えを読者に隠してはならない。

 これは、8条とほぼ同じ内容だ。
 ただ俺個人としては、これはこうも言い換えられると思う。
 つまり、語り手は自分の判断・解釈を主張する事が許される
 こうすれば、叙述トリックを用いる事もルール違反じゃなくなるわけで。
 この通り、ルールなんてのは解釈次第でどうにでも変えられる、デリケートな物なんだ。

10条。手がかりなしで、双子や一人二役などを登場させてはならない。

 俺の好きな小説が、双子ネタをかましてたなあ。
 「手がかりなしで」と断ってる以上、手がかりさえあれば、他の登場人物に変装するのも違反じゃなくなる。



「以上。ノックスの十戒については、一応こんな所だ」
「ヴァンダインというのも、同じような形で説明してもらえるのか」
 今や興味津々といった印象で、彼女は身を乗り出している。
 が、生憎だが、流石にあの長々しい二十則を話せるほどの余力はない。
 というか、あんまり覚えてない。
「悪いが、こっちは、思い出せる範囲だけな。番号も飛ばすぞ」

推理小説では、手がかりは全て揃っていなくてはならない。

 これは、ノックスの場合と同じ、基本中の基本だろう。
 ヴァン・ダインは特に、推理小説を作者と読者の勝負として真剣に考えていたきらいがある。

推理小説では、死体が絶対に必要である。

 殺人事件以外は一切認めないっていう、何とも強気な言い分だ。
 でも確かに、例えば長編で散々引っ張っておいて、実は誰も死んでなかったってオチだったら、
俺も読んでて怒るだろう。

推理小説では、探偵は複数いてはならない。

 謎に挑む選手は、あくまでも一人きりに限ると。
 個人的には、現場の皆で謎に挑むのも自然な流れだと思うけどな。

推理小説では、使用人が犯人ではならない。

 これは注釈が必要だな。
 このルールが作られた当時は、バリバリの階級社会だ。
 だから、ここで言う「使用人」とは、本筋に関わらない些末な人物という意味。
 通行人Aみたいなモブキャラが犯人じゃ駄目って事。
 使用人が重要キャラなら無論、犯人候補になり得る。

推理小説では、真犯人は単独でなければならない。

 たった一人が綿密に計画したという方が、物語の形として美しい。
 安易な共犯説は慎むべきだ。

推理小説では、必要以上の描写をしてはならない。

 これは、最初に挙げた「手がかりは全て揃っていなくてはならない」と、意味が近いな。
 描写される以上は、謎を解くのに必要な要素だという事だ。



「今挙げた奴で、6則。実際にはコレの3倍以上の項目があるわけだが、この辺で勘弁してくれ。
 流石に全部は、現物と照らし合わせなきゃ説明できねえ」
「いや、もう充分だ。感謝する、右代宮戦人。
 もはや過去の遺物となった代物であっても、妾には価値があった」
 と、彼女はこっくりと頷いて言った。
「まあ、過去の遺物と言えばそうだけど。このルールが出された当時は、ミステリが大ブームになってて
粗製乱造が目立ったっていう背景もある。
 それに、こうした分かりやすい形でルールが敷かれたからこそ、そのルールを意図的に破ろうとする作品も
多く生まれた。言うなれば、推理小説のバリエーションを増やす原動力になったんだ」
「そうなのか」
「ああそうさ。特に果敢に挑んだ人が、アガサ・クリスティだ。
 一番にまず、当時最大の問題作とうたわれた『アクロイド殺し』。
あれは、まさにノックス第9条に真っ向から立ち向かった作品だろう。
 更に続けて出された『オリエント急行殺人事件』に至っては、ヴァン・ダイン二十則への強烈なアンチテーゼと
言っていい。たとえルール上では反則だろうが、あれは間違いなく『美しい推理小説』の傑作だ」
「そんなにも、素晴らしい作品なのか。妾も一度、読んでみたいものだ」
 ……って、今更なに言ってるんだ? こいつは。
「ちょっと待てよ。そもそもコレは、お前が俺に教えてくれたネタじゃなかったか?」
 すると彼女は、またもどこか遠くを見るような顔に戻って言った。
「そう、言われても。困ると言っているだろう。今の妾は、そなたの知る“彼女”とは違うのだ」
 そう、言われても。俺の方こそ困る。
 声も口調も表情も服装も、髪の色も違っていても、俺にはどうしても認められなかった。
「………………………………紗代……」
 俺がもう一度そう呼びかけても、彼女は改めて首を振った。
「違う。妾は、今の妾は、魔女ベアトリーチェである。
 認めてくれ、右代宮戦人。
 さもなくば、この妾の――我らの告白は、何も意味を成さない」


 そんな彼女を見ていると、俺自身の昔の事も頭をよぎる。
 あの日の事は、今も忘れられない。
 妹の縁寿が生まれたその日に、親父に長年裏切られ続けていたと知らされて、俺はこの世界の
あらゆる物への興味を失った。
 引っ越した、お袋の実家にこもり、一時期は学校に通う気力さえ失っていた。
 別居してる間、親父は養育費は常に送り続けていたし、俺たちに会いたいとも言っててくれた。
 それを俺たちが、絶対に来させるなと祖父ちゃん――母方のだ――に言って、来させなかっただけだ。
 俺たちはただ、親父に謝ってほしかった。
 そうしてくれれば、全部水に流すつもりだった。
 その後やがて、祖父ちゃんが死んだ。大往生だった。
 そしたら、葬式の日、親父は畳に両手をついて詫びたんだ。
 お袋の前で、叔母さん(お袋の妹さん)の前で、信じらんねえくらいに情けない格好だった。
 あの格好つけた親父が、本気で頭を下げやがったんだ。
 それで結局、夫婦は元の鞘に収まったが、俺の中には行き場のない感情がずっと渦巻いていた。
 そんな折、あの親族会議に両親から誘われた時に、俺はやっと、あの島での出来事を思い出した。
 来年また会おう、そう言って別れた時から、既に3年が経っていた。
 約束と言うには、あまりにも漠然としたやり取り。
 もしかしたら、もう“アイツ”も忘れているかもしれない。
 でも、それならそれで構わない。
 俺は俺なりの決着を付けるために、六軒島へと足を運んだのだった。



 目的を果たす機会は、なかなか得られなかった。
 何せ、3年ぶりの帰郷だ。
 譲治の兄貴、朱志香、真里亞、それに他の親族も、代わる代わるに俺を捕まえては話を振ってきた。
 背が伸びただの、顔つきが変わっただの、面影はあるだの、中身は変わってないだの。
 される質問は、どれもこれも予想の範囲内の繰り返しだった。
 大人たちが屋敷に入っても、いつまでも終わりそうにない子供同士のじゃれ合いを、少し一人になりたいと
俺は断って、敷地内をさまよった。
 相変わらず、薔薇庭園は見事な作りだった。
 灰色の重い空の下でも、まるで輝くかのような鮮やかさを放っている。
 気づくと俺の足取りは、知らず知らずの内に速くなって行く。
 庭の目ぼしい所を一通り確かめてから、屋敷の中へ足を踏み入れた。
 客間近くの廊下に立ち寄った時、やや高い声の会話が耳に届いた。
 絵羽伯母さんが、盛大にため息をつきながら言った。
「それにしても、やっぱり信じられないわ。お父様が、既に亡くなっているなんて、そんな馬鹿な事が……!」
「まあまあ。例えの話や。
 武田信玄は、その死を3年の間、秘密にするよう遺言した。
 秀吉かてそうやで? 主君、織田信長の死を敵方に知られんように、徹底的に情報規制を行った」
 戦国武将に強い憧れを持つ秀吉伯父さんは、ここぞとばかりにウンチクを語り出す。
 絵羽伯母さんはやや辟易としながら、話を戻させている。
「早い話が、わしは去年の親族会議から、ずっと違和感を持っとったんや。
 あの時、夏妃さんや使用人たちは、どこそこにお義父さんがいた、不機嫌そうやったと口を揃えたが、
 わしら親族は、誰一人、お義父さんを見てへんのやで」
「でも、本当に兄さんがお父様の死を隠すなんて大それた事をするかしら。
 傲慢なくせに、おかしなところで小心な人なのに」
 考えあぐねる絵羽伯母さんに言葉を挟んだのは、俺の親父だった。
「その点に関しては、非常に良くない噂がある。
 どうやら兄貴の事業は、俺たちの想像を超えて手酷く失敗してるらしいぜ」
「つまり蔵臼さんにとって、経済的に困窮している事は、ある種の弱みになるというわけよね」
 と、お袋が言葉をつなげた。
「蔵臼さんが大きな損失を出していると言っても、私たちの急場を凌ぐためのお金くらいは
充分用意できるはずよ」
「楼座も覚悟は決まってるな?
 俺たち三人が全員結束してる事が、まず大事なんだ」
 親父に話を向けられた楼座叔母さんは、おずおずと答えた。
「約束して。その話は、私も得をする話よね?」
「ああ。俺たち三人で2億ずつせしめる。うまく行けば、それ以上も引っ張れるかもしれない。
 お前の借金、それでチャラだろ?」
 ……彼らの作戦会議も、順調に進んでいるようだ。
 お互いのお手並み拝見といったところだな。



 「しかし、ある夜、紫の雷が鎮守の社を打ち砕いたのです。島々の者たちは、凶兆だと囁き合いました。
 今思えば、あれこそがベアトリーチェさま復活の徴だったに違いありません」
 そう言って熊沢さんは、大階段に掲げられている肖像画にまつわる話を締めくくった。
 聞き終えた俺は、ふと覚えた違和感から、手を挙げて質問した。
「あの、ちょっといいですか」
「はい?」
「確かあの鎮守の社は、悪食島の悪霊を封じるために、旅の修験者が建立したんでしたよね?」
「さようでございます。強い神通力をお持ちだったという事で、その力を鏡に込め――」
「霊鏡として社に奉納し悪霊を封印した、ってのが変なんですよ。
 悪食島の悪霊を封印する社が、どうしてあの森の魔女のベアトリーチェも封印するんです?」
「…………それはその、霊鏡の神通力が……」
「なるほど。そこはひとまず折れましょう。
 けれど、どうしてベアトリーチェが蜘蛛の巣も嫌うのかって話も、謎です」
 伝説では、悪食島の悪霊は蜘蛛の巣を嫌ったため、魔除けとして近隣の島々でも尊ばれたらしい。
 実際、蜘蛛は益虫。
 島の農民が大切にしたとしても何も不思議はない。
「しかし、そもそもベアトリーチェの魔女伝説は、この島に引っ越してきた祖父さまが始めた物だ。
 悪食島の悪霊と、魔女ベアトリーチェは本来、全く異なる存在のはず。
 なのに、何故か設定が同じになってしまっている」
 そう指摘された熊沢さんは、困惑していた。
「祖父さまの書斎のドアノブは、サソリの魔法陣が描かれていて、それは西洋魔術では魔除けを意味する。
 だから西洋魔女のベアトリーチェは、ドアノブに触れられない。これは理解できる。
 でも蜘蛛の巣に限っては、ベアトリーチェが嫌う理由がないんだ」
「は、……はあ……」
「悪食島伝説の悪霊と、魔女伝説のベアトリーチェ。
 この二つの伝説が、もしかしたら融合しているのかもしれない」
「どうでございましょうねぇ……。……ほほほ……。この老いぼれには、少し難しい話にございます」
 熊沢さんは、取り繕うような様子で笑った。
 だが、そのじつこの人は、俺の話を理解できているはずだ。
 この島の歴史をずっとその目で見ている、この人なら。



 食堂は、郷田さんによる素晴らしい晩餐も終わり、コーヒーとチーズが並ぶ、和やかな食後の
ひと時になっていた。
 俺は3年ぶりの客という事で、やっぱり結果的に注目を浴びていた。
 どうにも照れ臭かった事から、昔の趣味について話し始めたら、意外にも南條先生が食いついてきた。
「確かに、興味深いですね。嵐の孤島、富豪の一族、そこに久しぶりの来客。
 物語のお膳立ては揃っていますよ」
「ならば、戦人くんにはせいぜい頑張ってもらわねばな。もっとも、私は、怪事件の犠牲者役は御免被りたいが」
「あなた、不謹慎です」
 話に乗った蔵臼伯父さんを、夏妃伯母さんが厳しい顔でたしなめた。
「ミステリーってジャンルは、百年前に登場した最初から、ほぼ完成されてると、俺は思うんです。
 既に確立された様式を、如何にして演出するか。
 恋愛小説の起源が、シェイクスピアのロミオとジュリエットに帰結するようなものでね。
 古典も良し! 新書も良し! この世の中で、書かれた物に無駄な物は決してないッ!」
 ……って。しまった。
 目立ちたくなかったのに何でこんなに力説してるんだよ俺は。 
「ふうん。そんなに本好きなら、クイズとかパズルとかも得意そうだね。戦人くん」
「あー、真里亞さ、ほら、クイズとかの本、持ってなかったっけ」
「うん! ある!!」
 気恥ずかしくなってるところに、譲治の兄貴が話題を変えてくれた。
 真里亞は鞄から、クイズやパズルの書かれた本を何冊か取り出し、それを皆に出題する。
 やはりというべきか、その本たちにも昔見覚えがあった。
 例えば、こういう問題だ。

「107チームでトーナメント試合をしたら、何試合が必要か?」

 知ってる人は知ってると思うが、この問いには式がある。
 「参加チーム数マイナス1」を答えればいいのだから、正解は「106回」だ。
 ピンと来ない人は、もっと少ないチーム数に置き換えればいい。
 4チームなら3試合、8チームなら7試合……ほら、合ってるだろ?



 というわけだから、俺は他の皆が一通り考えた後の解説役に収まっていた。
「よーし、今度は負けねえぞ。真里亞、次の問題を頼む!」
 と、朱志香が息巻いて真里亞を促す。
「えっと、……大きなチーズが1個あります。それをナイフで1回切り分けると2つになります。
 では、ナイフで8個に切り分けるには、最低何回、切ればいいでしょう?」
「あ、僕もこれは知ってるよ。だから今は黙っとくね」
 と、譲治の兄貴は周りに言った。
 夏妃伯母さんは首をひねりながら答えた。
「……8個なら、4回で切り分ければ良いのでは?」
「馬鹿ね。それが答えだったら問題にならないじゃない」
 と、絵羽伯母さんが呆れ顔で言った。
「はっはっは。そういう事だな。こういうのは、想定の回数より少なく出来るものと相場が決まっている。
 しかし、どうすればいいやら」
 と、蔵臼伯父さんは腕を組んだ。
 数分して、俺の両親が笑顔になった。
「……あー、分かった分かった。こりゃチーズだから出来る事だな」
「そうね。バースデーケーキでこれをやったら大喧嘩になるわね」
「わっはっはっは! そやなあ。ケーキを切るには、その切り方じゃあかんなあ」
 と、秀吉伯父さんも腹を揺すって笑った。
「あー、わーかったぜー! なるほどね、三次元で考えなきゃ駄目なんだ」
 と、朱志香が両手を打った。
「きひひひひひ、真里亞、答えわかるよ。ここに書いてあるもん」
「こら、真里亞だって答え見るまで分からなかったでしょ」
「なるほど、私にも分かりました」
 と南條さん。
「これで全員が答えを分かってる事になったね。
 それじゃ、僕が代表して答えてみるね。
 上から2回切って4分割。その状態で側面から切れば、上段と下段に分かれて、倍の8分割」
「立体で考えないと出せない答えだな。つまり、正解は3回!」
 譲治兄貴の言葉を継いで、朱志香がえっへんと胸を張った。



「あれ? 1回じゃなかったっけ。それ」
「へ!?」
 つぶやいてしまった俺の言葉に、朱志香を含め全員がこっちを向いた。
「わっはっはっはっは! そらどんな魔法や! いくら何でも1回は無理や」
「くすくす。これはなぞなぞじゃなくて、普通に算数的な問題よ」
 秀吉伯父さんと絵羽伯母さんが、口を揃えて囃してくる。
「あ、ああ……、そうですよね。簡単に考えたら3回ですよね」
 って、正直に言えば言うほど、皆の目が丸くなっていく。
「戦人お兄ちゃんの答えの方が、本の答えより少ない。どういう事?」
「もう観念した方がいいよ、戦人くん。説明して」
「ええと……たぶん皆は、大きなチーズが1個って聞いて、カマンベールみたいな、
平べったい円筒形を想像してると思う。
 けど問題文では、【ナイフで8個に切り分ける】としか言ってない。
 逆に言えば、それ以外の条件は一切ない。チーズの形さえ決められていないんだ。
 ただし、その本自体には、ちゃんとカマンベールチーズが描いてあったと思う」
「うん、あるよ。ほら」
 俺の記憶通り、真里亞の見せるページにチーズの挿絵があった。
「俺、昔から文字以外は読み飛ばす癖があってさ。
 だから俺は当時、朝食のトーストの上に載せるスライスチーズを想像したんだ。
 ナイフで切り分けるような立派なチーズとは、普段、縁がないし」
「……確かにそうだな。真里亞ちゃんが出題した時には、チーズの形も柔らかさも言ってないもんな」
「そういう事ね。どうやら、チーズも頭も、戦人の方が私たちより柔らかかったみたいね」
 俺の両親は、早くも納得の行った顔をする。
 朱志香はそんな俺たちを交互に見ながら、おたおたと聞いてきた。
「わ、ワケ分かんねえぜ。スライスチーズだったら、どうしてナイフ1回で8個に分けられるんだよ?」
「つまりよ。例えばこうしてさ、丸めるんだよ」
 俺はペーパーナプキンを手に取って広げてから、筒状に巻いていった。
 巻いた数を、横から何度も確かめて調整する。
 くるくると巻かれているのを見ると、まるでロールケーキのようだ。
「まあ、普通のチーズなら、こんなにいじったら千切れちまうところだが。そこは子供の考えって事で許してくれ。
 で、この丸めたのを立てて、真上からばさっと一刀両断にすりゃあ、8分割でも何でも出来る」
「ちょ、ちょっと待てよ。これじゃ、等分にはなってないぜ!?」
「だから、【ナイフで8個に切り分ける】が成り立ってればいいんだよ。等分にしろとは言われてない」
「は、……はぁぁぁぁ…………ううううんんんん……」
 しばらくの間、朱志香は釈然としない顔で考えこみ、他の面々も呆然となっていたのだった。



 パズルの本で、真里亞が懐いてくれたのは好機だった。
 俺は食堂のテーブルの隅で、彼女に密かに声をかけた。
「なあ、真里亞。その、ベアトリーチェについて詳しく教えてくれないか?
 ベアトリーチェに会って、魔法を見せてもらったって聞いたけど」
「うん、ベアトリーチェは、魔法でお菓子を生み出せるの! いつもプレゼントしてくれるの! 
 空っぽのカップの中から、一杯のキャンディーが湧き出すんだよ!」
 真里亞は、にこにこと無邪気に答えてみせた。
 俺は極力、声を潜めて囁いた。
「真里亞。これは本当は秘密なんだがな。
 俺も実は、ベアトリーチェの友達なんだ。そして、本当は……魔術師なんだ」
「魔術師?」
「魔女には、女の人しかなれないだろう? 男の場合は、魔術師になるんだよ」
「本当……?」
 目を瞬かせている真里亞に、俺は目顔で頷いた。
「幸い、ここに今、中身が空っぽになったばっかりの紅茶のカップがある」
 俺は、それを静かにテーブルに伏せた。
「さあ、飴玉を生み出す呪文を唱えるぞ。真里亞も一緒に唱えてくれ」
 言われた真里亞は、半信半疑ながら、自分の知ってる呪文を唱え始めた。
 両手の指を組み合わせて。両目をしっかりと閉じて。
「さぁさ、思い浮かべて御覧なさい。カップの中にキャンディがいっぱい。
 そんな素敵なところを思い浮かべて御覧なさい……」
 間違いない。これは、俺が“アイツ”に見せてもらった“魔法”そのものだ。
 俺は厳かに、真里亞の肩に手を触れて、託宣を告げた。
「さあ、もういいぞ。魔法は終わった。目を開けて確かめてみろ」
「う、うん……」
 真里亞は恐る恐る、伏せられているカップを持ち上げた。
「………………あ」
 そこには一粒の、可愛らしい包み紙に包まれた、キャンディが転がっていた。



 真里亞は、信じられないという表情をしてから、俺に羨望の眼差しを向けた。
「戦人お兄ちゃんも、魔法が使えるの?」
「お前が魔法だと思うなら、な」
 俺は敢えて、全部は語らなかった。
 身も蓋もない言い方をしてしまえば、単純な手品だ。
 カップを伏せる直前に、隠し持っていた飴玉を中に仕込んだだけ。
 ずっと目を閉じさせているのは、あくまでフェイクだ。
 というのも、“アイツ”が目を閉じていろと言ったのに、それを拒んだ者こそ、この俺自身なのだ。
 それで最初から最後までカップを凝視しているつもりだったのに、それでも当時の俺は“魔法”を
見破れなかった。
 どうか答えを教えてくれと懇願しても、“アイツ”は笑って答えようとしなかったのだ。
「凄い、凄い! 戦人お兄ちゃん凄い! ねえ、戦人お兄ちゃんは何の魔術師なの?」
「え?」
「ベアトリーチェは黄金の魔女にして無限の魔女。真里亞は原初の魔女。
 戦人お兄ちゃんもベアトの友達だって言うなら、そういう名前を貰ってるでしょ?」
「な、名前、ねえ……」
 俺は頭を掻いて時間を稼ぎながら、思いついた言葉を挙げた。
「………………真実」
「真実?」
「ああ。俺は『真実の魔術師』だ」
 口にしてみると、なぜか妙にしっくりと馴染んだ。



 食後の語らいを終え、俺たちは蔵臼伯父さんと夏妃伯母さんと別れ、玄関ロビーを通る。
 俺は改めて、例の肖像画を見上げつつ、客間へと向かった。
 親族たちは、各々の寝室に散会するのはまだ早かったのか、ロビーでおしゃべりを続けていた。
 話題は、噂には聞いていた、魔女の碑文である。
「……ああ。これはまだお前には詳しく話してなかったっけな。
 親父は200億相当の黄金を隠し持っていて、その隠し場所を、あの碑文に記したって言われてる」
 と、親父が説明した。
「誰にでも見られる所に堂々と張り出して挑戦する、か。
 それなら、祖父さまはあの碑文で、一家の跡継ぎも選ぼうとしてるんだろうな」
 俺の相槌に、大人たちは動きを止めた。
「どうして、そう思うの?」
 絵羽伯母さんが、猫なで声で聞いてきた。
 確かに、碑文自体には、家督を継承できるとは一言も書かれていない。
 希望的憶測に過ぎない。
 だからこそ、他の者から根拠を聞きたくて詰め寄るのだ。
「大富豪が、謎を解いた者に富を譲るってうのは、割とよくあるシチュエーションだが……
祖父さまはその碑文を新聞とかじゃなく、この屋敷に掲げた。
 つまり、この屋敷の人間にこそ、祖父さまは挑戦をしてるんだと思うんです」
「なるほどな……。屋敷の人間に読ませるためってのは、確かに道理や……」
「まして、その謎を解いて得られる、隠された黄金の価値は200億」
「そうね。それはまさに右代宮家の財産そのものだわ」
 と、絵羽伯母さんが言葉を引き取った。
「ま、待てよ。一応はウチの父さんが次期当主なわけだぜ?
 隠し黄金を誰が見つける云々はともかくよ、見つけたら当主って話は、私は聞き捨てならねーぜ?」
 朱志香にそう言われると、俺としては口を噤まざるを得ない。
 だが残念ながら、演繹的に考えて、あの碑文自体が祖父さまが何を考えているかの証拠になってしまうのだ。
 そんな俺の逡巡を、絵羽伯母さんはあっさり言葉にして語る。
「そうよねぇ。うちの人の好きな戦国武将の話でもよくあるわ。
 跡継ぎ候補が複数いたりすると、大抵、お家騒動の火種になるって」
「そやな。だからトラブルを未然に防ぐために、しっかりと後継者を指名しておくのが大切なんや。
 時には、競合する後継者を粛清する事さえあるんやで」
「チェス盤を引っ繰り返せば、確かにそう言える。
 当主は継承するけれども、 200億の黄金は解けた誰かに譲る、というのはおかしな話だわ」
 と、お袋も言い添えた。
 確かにこれは、朱志香以外の家には朗報だからだ。
「まあ、その、後継者云々の話は置いといてもやな。
 いずれにせよ、お父さんからの、ビッグクエスチョンやというのは間違いないやろな。
 ……わっははは! 200億やで! 真里亞ちゃん、もし見つけたら何に使う~? わっはははははは!」
「黄金郷は黄金だけじゃないの! もっと神聖な場所なの!」
 秀吉伯父さんは、真里亞に反論されてもなおもげらげらと無理に笑い転げ、空気を変えようとする。
 周りもそれに同調するが、朱志香の機嫌は容易には直らなかった。
「くすくすくす。いいわ。せっかくだから、また去年みたいに、皆で謎解きをしてみましょうよ。
 楼座、あなたもやるわよね?」
「ええ……。私、コーヒー淹れるわ。欲しい人は手を挙げて。
 真里亞は駄目よ! 眠れなくなっちゃうでしょ……!」
「真里亞もブラック飲む、飲むー!!」



 謎解き大会の第2部が始まった。
 絵羽伯母さんは、もう何杯目か分からないコーヒーを乾しながら唸っている。
「とにかく、“懐かしき故郷”なのよ。
 これは何かの比喩とかじゃない。そのまま、お父様が過ごした故郷のはず。
 お父様が唯一懐かしむ過去は少年時代だけだもの」
「そうね。聞いた話では、とても楽しい少年時代だったそうよ。
 小田原に移ってからとは、天と地の差があったそうよ」
 と、楼座叔母さんが言葉をつなぐ。
「それで、次にあるのが“鮎の川”。川……家系図? それとも……」
「いっそ鮎って言葉を忘れた方がいいのかしら……」
「何言ってるのよ。立派なヒントよ、これは。鮎から連想される何かが必要なのよ。きっと」
 確かに、そうなんだ。
 一つの言葉から何かを連想できれば、自動的に次の行の意味も分かり、
それで“黄金郷の鍵”が手に入る寸法なんだ。
 そして、その“鍵”っていうのは、あるいは何らかの言葉か数字か文字列か。
 だからこそ、“鍵の選びし六人を生贄に捧げよ”となる。
 俺が自分の考えをお袋に打ち明けると、お袋は大きくうなずいた。
「そうね。この碑文が、例えばアナグラムを用いる可能性は、私も考えてたの」
「そういや以前、そんな事を言ってたな。
 しかし、だとしたら――いったい何から6文字を抜くんだ?」
 と、親父が当然の疑問を言った。
 “第一の晩”に、6文字以上の文字列から、鍵である6文字を殺す――消す事で残った文字を
どうにかするなら、“第一の晩”の時点で、何らかの文字列が存在するはずだ。
 しかし、“第一の晩”じゃ4文字しかない。他の読み方か? 祖父さま風に英語で読むのか?
「この考え方を進めると、“第二の晩”“第三の晩”も同じ要領で文字を動かしていく事になるわね」
「と、そうなると……“第一の晩”にあたる大元の文字数は……11文字くらいだって想定できる」
「ど、どうしてや戦人くん? どうして11文字なんて言えるんや!?」
「……その後の“第四の晩”から“第八の晩”にかけて5回、“殺せ”っていう記述が出るでしょう?
 そしてその次の“第九の晩”で、誰も生き残れないと書かれています。
 魔女が蘇る、って部分を取り敢えず無視するなら、“第一の晩”に6文字消し、寄り添った文字を割いて、
更に5文字消したら、ぴったり文字が無くなる計算になります。
 もしも、“第二の晩”が2文字消せという意味なら13文字になりますけど」
 問題は、その11文字やら13文字やらが何なのかって事だ。
 こればっかりは、祖父さまの故郷と同じで、親父たち四兄弟でなければ分からない単語なんだろう。
 でなければ、暗号としての意味がない。
「いずれにせよ、“第一の晩”が分からない限り、これ以上はお手上げだな」
 色々な角度から検討したが、結局、そこで行き詰まったまま、それ以上の進展はなかった。



 「くぁ、……ふわぁあああぁぁぁあぁぁ……」
 真里亞が、特大のあくびをする。
 それにつられ、他の何人かもあくびをする。
 頭を使ったので、みんな眠くなってしまったのだ。
 不愉快そうに、ずっと沈黙していた朱志香が立ち上がった。
「私は、真里亞と一緒に上へ行ってるぜ。テレビでも見てる」
「そうだね。僕も上がるよ。そうだ、皆で上でトランプでもしようか」
 譲治がそう提案すると、真里亞はさっきの大あくびも忘れ、トランプやるやるーと元気に騒ぎ出す。
 時計を見れば、もうじき夜の10時だ。
 そろそろ、風呂に入ったりして、寝支度を始めても良い時間だった。
 大人たちも、多少の旅疲れはある。
 続きはまた今度にしようと、解散する事になった。
 皆はぞろぞろと二階に上がっていくが、楼座叔母さんだけはまだ眠らず、皆が飲んだカップを片づけていた。
 お袋たちも手伝うと申し出たのだが、楼座叔母さんが大丈夫と断ったのだ。
 それでも俺は拝み倒して、自分も洗うのを手伝った。
 俺はまだ誰かと、碑文の推理を続けたかったのだ。
「第一の晩、第一の晩。……うーん。楼座叔母さんは何か思いつく文字列とか言葉、ありますか?」
「さあ、私には全然。でも、第一の晩じゃなくて、第十の晩は、ちょっと気になったかしら」
「第十の晩? 何ですか」
「うん。黄金郷って単語、何度も出てくるでしょ?」
「出てきますね」
「なぜか第十の晩だけ、旅は終わり、黄金のキョウ、いえ、サトね。
 “黄金の郷”へ至るだろうって書かれているの。
 どうしてここだけ違うのか、気になってね」
「……確かに」
 第十の晩だけ、わざわざ“の”が入って、“黄金の郷”になっている……。



「それにしても、戦人くん凄いわね。
 今日の、鍵の選びし六人は、6文字を間引けという意味だ、という推理は見事だったわ。
 私なんかはもうオバサンだから、頭が全然回転しないのよ」
「そんな事ないですよ。楼座叔母さんだって頭、充分柔らかいです。
 その“黄金の郷”って発見は、何かの鍵になるかもしれませんし」
「とんでもない。私なんて、ついこの間までは、“第一の晩”というのは黄金郷までの道中の、
十分の一の場所だとか思ってたんだから」
「何ですか、それ。面白そうだから聞かせてくれませんか」
「だって、“第一の晩”の前の行に、“黄金郷へ旅立つべし”って書いてあるでしょう?
 そして十日をかけて旅をするわけだから、これはその、旅の途中のお話なんだろうと思ったの」
「……旅………………」
「それで、旅を始めて、最初の一晩目のキャンプで、6人を生贄に捧げて。
 それに叔母さん、黄金の郷の事、ずっと黄金のキョウって読んじゃってて。
 ほら、キョウって言うと、京都みたいでしょ? 
 だから、お父様の故郷から京都までの旅路の、最初の十分の一の地点に、何か秘密が
隠されてるんじゃないかって思って」
「いや、めちゃくちゃ斬新ですよ、その発想。
 十日をかけての旅の、最初の一番目の場所。……そこの地名……」
「問題はゴールの黄金郷ね。一体、どこの事なのかしら。
 でも……今日の戦人くんの推理を聞いてて、やっぱり私の恥ずかしい勘違いだったって思い知ったわ」
「スタートとゴール、十日間の旅。……その、最初の一晩目の到達点……」
「案外、戦人くんなら、ぽろっと解けちゃったりしてね。
 もし叔母さんのヒントで解けたら、1割の半分でもいいから分けっこしてね。約束よ」
 叔母のはずなのに、思わずドキッとしてしまうような笑顔でウィンクをくれる。
 俺はコーヒーカップの洗い物を手伝いながら、無言で、碑文の謎を検討し続けるのだった。



 楼座伯母さんの手伝いを終えて、廊下に出た。
 部屋の一つへ向かい、扉を開けた。
 途端、すえた埃の臭いが、むわっと溢れ出してくる。
 その部屋は書庫というべきだろう。
 図書室と呼ぶには、あまりに本棚と本棚の間が狭い。
 本を読むための部屋ではなく、本をしまい込むためだけの部屋。



“鍵を手にせし者は、以下に従いて黄金郷へ旅立つべし。”



 十日の旅の初日に辿り着く場所。
 つまり、その土地、もしくは地名が鍵になるんじゃないか。
 俺は目当ての品を、ゆっくりと引き出し、埃を吹き払った。
 それは、古びた地図帳だった。



「足を抉りて、殺せ。……これで、完成だ」
 仕掛けの最後の手応えは、これまでのと比べて明らかに異質で、何かを作動させたに違いないと感じさせた。
 しかし、ぱっと見る限り、何かの入り口が開いたりという劇的な変化はない。
 ふと、俺はここまで至って初めて、自分のしている行為の意味を実感した。
 俺は、あくまでも、謎解きごっこが面白かっただけだ。
 だが、もしかしたら、大変な事をしてしまったのではないだろうか。
 謎を解けば、次期当主は誰かを巡って親族たちは大騒ぎをするだろう。
 発見した俺が次期当主だと親父たちは騒ぐだろうし、それでは面白くない親族たちは反対するだろう。
 碑文の謎を解いた者を次期当主とするという記述は、どこにもないのだ。
 だからこそ、認める認めないで激しい争いをする事になる。
 蔵臼伯父さんと、それ以外の親族が、醜くぶつかり合う事になる。
 朱志香は謎を解いた俺を、感嘆するだろうか、罵るだろうか。
 ……今はそんな事、考えたくない……。
「………………っ」
 その時、俺は、遠くにぼんやりと灯る外灯に、人影が浮かび上がっているのに気づいた。
 顔立ちまでは、よく分からない。
 ひらひらした服をまとったその人物は、おもむろに腕を伸ばし、どこかを指差した。
 そちらの方向を見ると、そこにあったのは――恐らく、次の場所への道標。
 さっきと向きが変わってる。間違いない。
「分かったよ。見せてもらおうじゃないか。黄金郷ってやつを」



 そして、見つけた。
 見つけてしまった。
「は、はっはっはははは……!! ヒャッホゥ!! はっはっはっはあああああ!!!!」
 我ながら興奮を抑えきれず、意味の分からない奇声を上げて笑ってしまう。
 無骨な地下トンネルの果てにあった、不似合いなほどに美しい貴賓室には、確かに黄金の山が積まれていた。
 200億円の価値を一切疑わせぬ、荘厳なインゴット。
 確か、平均的なサラリーマンの生涯賃金は2億円だと言われていたか。
 この黄金の山の、僅か百分の一で、人間ひとりが、生涯、働かずに生きていけるのだ。
 勤労って何?
 働かざる者、食うべからずで、そして人生そのものなのでは?
 だとしたら、2億円というお金は、ヒト一人の人生を、完結させる事さえ出来るもの。
 それが、200億円!
 100人分の、いや、100回分の人生の生涯の勤労を、完結させてしまう。
 もちろん、働きたければ働けばいい。
 その結果、得られるお金は、全て遊びに使っていいのだ。
 何しろ、生きるためのお金は、もう生涯分、いや、未来永劫分、足りているのだから。
 いやいや、独り占めはいけない。100人に分配したらいい。
 そして、100人もの人間が、生涯、働かなくてもいい世界って、それはどんな世界なんだ……?
 ああ、紛れもない。
 それこそが、それこそが……。
 こうして見つけてしまった以上、無かった事には出来まい。
 この発見を秘密にする事も僅かに考えた。
 だが、俺の功績は、既に見届けられていたのだ。



 黄金の山の、更に向こう。そこにある椅子に、一人の人物が腰かけていた。
 その人物を一言で表すなら、「白」だった。
 長い髪も、きめ細やかな肌も、着るドレスも、何もかも真っ白。
 何色にも染まりそうな、それでいて何物も拒むような白。 
 部屋を満たす黄金色を弾くような、いっそ白銀というべき色は、まるで冷たい雪のようで。 
 だから、形よい唇から零れる声もまた、凍えるように冷たいのも当然の話。
「………ようこそ、黄金の部屋へ」
「君、は……」
「妾はベアトリーチェである。
 妾は待っていた。そなたがこうして、この地に来る時を」
  白い女は、氷のような声でそう言った。
 後は、既に俺が語った通りだ。
 彼女は、件の分厚い小説もどきを俺に見せ、ひとしきり俺の話を聞いた後、
腹を決めたような様子で、再び口を開いた。
「………聞け。我こそは我にして我等なり。我が語るは我等の物語。
 されど此処は聞く者なき、硝子とコルクに封ぜられし小さな世界。
 それは誰の目にも触れる事なく、我が物語の全てを封じ、我が心をたゆたいて、海の藻屑と消えていく。
 此処とは何処か。我とは誰か。我等にとってそれは、とてもとても些細な事。
 少なくとも、この日を迎えるまでは。
 なぜに我等は新しき運命に投ぜられねばならぬのか?
 それは常に突然にして唐突たる宣告。
 今こそ時をさかのぼり、我は語ろう。朽ちた空気と隙間風が、我らを苛んだあの頃からの真実を。
 我等の物語終わりし時、全ての闇は祓われよう。この島の雲も嵐も消え去ろう。
 そう、うみねこのなく頃に」



【 3rd Game  I am a detective. (後編) 】へ続く





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