≪SCENE 7≫


平次は階段を駆け下りて、雑居ビルから飛び出した。
当然ながら、それらしい人影は見えない。とにかく行こうと思った時、
視界の隅に見覚えのある物が映った。

「相当パニックになっとるな、アイツ」

愛らしくデフォルメされたカエル(だと平次は思うのだが、自信はない)のヌイグルミを
拾い上げ、付いた埃を払った。懐に入れて、駆けだした。
蘭の言った言葉を頭の中で反芻しながら、平次は走った。

『ちょっと分かりにくい場所なんだけど、米花公園の中に、
特別に1本大きな木があってね。コナンくん、よくその根元で本読んでるの。
そのまま、うたた寝しちゃってる事まであるのよ。
あの場所が世界で一番落ち着くんだって、昔の新一と全く同じこと言うから、
何だかおかしくって。ほんとコナンくんて、新一と変に似てるトコあるのよねぇ』

……ああまで自分で言うといて、何で正体見抜けへんねん……。

幼い頃から、ずっとそばにいるのに。あれほど鋭い勘をもっていながら、
こと新一とコナンの関係について蘭は鈍感だ、と平次は思う。
いっそ彼女が「コナン=新一」の方程式を解いてさえくれたなら、
物事は全てうまくいくのではないか、とも。

……イヤ、それともまさか。何もかもとっくにお見通し、やったりしてな……。

そんな考えが一瞬だけよぎったが、すぐに消えていった。
目的の地に、着いたのだ。





「何や、やっぱりココに居ったんやな」

平次の陽気な声を耳にして、新一は背を向けたまま肩を震わせた。

「ねーちゃんの言うてた通りや。確かにちょお分かりにくいな、ココ。
お前の取って置きの場所っちゅうわけか」

「……」

「けど、いつまでもこんなトコ居てたら風邪引くで。夜は冷えるよって」

「……」

「あー、そか。そやな」

と、平次は独りで何度か頷いてみせて、

「オレ、お前に嘘ついてしもたもんな。ねーちゃんの言うてたように、
アイツ今えらい事件抱えててな、どうにも抜き差しならん状態なんよ。
けどな新一、アイツかて色々と事情があって」

「いいよ、もう」

平次が早口で話すのを、新一は途中で遮った。

「オレの方こそゴメンね。黙ってるって約束破って、平次にもヒドい事言っちゃって。
子供っぽかったって反省してる」

平次の方に振り向いた。眼鏡は顔から外されていた。

「平次は悪くないよ。平次はオレを喜ばせようとして言ってくれたんだもん。
蘭といつも一緒にいるって聞いた時、オレとっても嬉しかったから。だから」

「新一……」

「だから、許せないんだ」

新一の語調が荒くなった。

「10年後のオレの事、オレどうしても許せないんだ。
オレ大きくなったら絶対に、父さんや母さんみたいになってやるって思ってた。
蘭や皆を護れるような、立派な人になりたいって。
なのに、こんなのって無いよ。オレそんな自分の事しか考えてない奴になんか
なりたくない。そんな卑怯者になんかなりたくない」

自らをかき抱いて、震える声で言葉を紡ぐ。普通の子供なら
とうに濡れそぼっているだろう両の瞳は、新一に限っては乾いていた。

「だからオレ、ココに来たんだ。ココに来たら、もしかして10年後のオレに
会えるんじゃないかって。会っちゃいけないって思ったけど、結局会えなかったけど。
会ったら言ってやろうと思ったんだ。『あんたなんか最低だ』って!」


「やめい!」


平次はそう諌めると同時に、新一の小さな身を抱き寄せた。

「もう、やめい工藤。オレ、お前の口からそないな台詞聞きたないわ」

「平次……?」

「ホンマかなわんな。ずーと昔から、お前はお前やったのに。
んな当たり前の事にオレ、なかなか気づかへんかったんやな」

戸惑う新一に構う事なく、平次は半ば独り言のように言葉を続けた。

「けどな工藤、お前はお前が思とるほど、自分勝手でもなければ卑怯者でもない。
オレに言わせたら、お前は今のまんまで充分立派な人間や。
たとえ誰も気づいてのうても、お前は精一杯頑張っとるよ。
このオレが保証するやねんから」

今でも鮮やかに思い出せる。犯人の仕掛けた罠に陥りかけた自分を、
魔法使いのように救ってみせたあの勇姿。風のように現れて、
そして消えた男の面影を、平次は追いかけ続けていた。
けれどその正体は、神でもなければ悪魔でもない、自分と同じ人間だった。
ただ違うのは、あまりにも心が純粋すぎるだけ。あまりにも眩しすぎるだけ。

「勝った負けたに熱なるな、もっと大事な物がある。そうオレに諭してくれたんもお前やん。
せやのにそんなお前自身が、んなアホなチョンボかましててどないすんねん。
少なくともオレは、んな情けない奴をライバルや思うた覚えはないで」

「……」

「せやからな、工藤。そない自分を責めんなや。たとえ元の姿になれへんかったとしても、
オレは一生お前を見捨てへんから。お前は、ずーとお前やねんから。な、工藤?」

「……だから『工藤』じゃないってば」

「!?」

相手の困ったような声に、平次はようやく正気に返った。パッと新一から手を放して、

「あ、あー! そやったな、お前工藤やのうて新一やったっけ。
イヤ逆か、新一やのうて工藤……ってせやからソレが逆やんけっ!」

「いいよ、もう。どっちでも」

混乱している平次の様子が面白かったのか、新一はクスクス笑いながら平次に言った。

「やっぱり平次って、いい人だね。平次の話、細かいところはよく分かんなかったけど、
嬉しいこと話してくれてるって事は分かったよ。ただ」

新一は小首を傾げて、素朴な質問を口にした。

「『モトノスガタ』って、何なの? 探偵の親戚?」

「は?」

この後、新一の執拗な尋問から逃げきるまでに、平次は小1時間ほどの時を費やした。





「――ああ、そや。心配さしてスマンな。――せやから謝っとるやろ? ――そうそう、
オレらの事は気にせんと、ねーちゃんはオッサンと仲良うし。ほな、また明日な」

ほぉっ、と息をつきながら、平次は自分の携帯電話をOFFにした。

蘭が指摘していた通り、平次と新一が工藤家に戻ってみても、
阿笠の姿は見当たらなかった。取りあえず、既に欠伸をし始めていた新一を
ベッドに寝かしつけてから、平次は蘭の(厳密には小五郎の)携帯電話に連絡した。
次は阿笠に連絡しようかと思った時、計ったようなタイミングで電子音が鳴り響いた。
ただし鳴ったのは平次の方の電話機でなく、新一の方の物だった。
平次は慌てて、新一の枕元に置かれていた電話機をつかんだ。

「ハイもしもし。――何や、やっぱ博士か。――ああ、今日は一日問題無し。
工藤の方も変わり無しや。7歳児のまんまやで。――そうそう、ジイサンも悪いんやよ。
あん時アホみたいにアッサリ切ってしもて。――しゃあないやろ、こっちから電話しようにも
工藤が目ぇ光らせとったやねんから。――ええよ、もう遅なっても。明日の朝帰ってき。
――ほな切るで。こっちが切ってから切れよ。じゃ」

そう言ってから通話を切る。更に、電源から完全にOFFにしてやった。

「ったく、肝心な時に役に立たん奴っちゃの」

「平次」

「あ、何や新一。起こしてしもたか?」

「ううん、平次のせいじゃないよ」

新一は横になったまま、顔だけ動かして平次を見やった。

「今の電話って、博士からだったの?」

「ああ。帰って来んのは明日になるて言うてたで」

「ふぅん。じゃあオレ、今夜はずっと平次と一緒なんだ。まだお別れじゃないんだね」

「え?」

「だってオレ、早く元の世界に帰らなきゃ。父さんや母さんも心配してるだろうし。
でもまだもうちょっとココに居たい気もするし」

「……」

平次は唾を飲みこんだ。

そうだ。重大な事を忘れていた。誤解を解かねばならないのだ。
お前がいるのは未来ではなく、現在なのだと。お前は記憶を失っているだけなのだと。
もちろん今ココにいる新一に対して、その「真実」はあまりにも痛すぎる。
出来るものならば、決して知らせたりしたくない。けれど。

「どうしたの、平次? また怖い顔して」

「なぁ工藤、例えばの話やねんけどな」

「また『工藤』って言ってる。せめてどっちかに揃えてよ」

「ええから聞けや。例えばの話」

平次は努めて明るい口調で訊いた。

「お前が実は、記憶喪失になっとるだけの17歳の工藤新一本人やて、
オレが言うたらどないする?」

「どういう事、ソレ? オレと10年後のオレとが同一人物だって言いたいの?」

「まぁ、そうとも言うな」

「そんなのあり得ないよ。第一に、オレは記憶喪失なんかじゃない。第二に、
オレが17歳なら体が育ってないのはおかしい。第三に、平次はオレにそんな嘘つかない」

「だーから、例えばの話ゆうとるやろ。どうなんや?」

「どうって言われても、前提がムチャクチャなんだもん……」

暫し文句を言っていたが、やがて訥々と話しだした。

「そりゃ、もしもソレがホントなら、困るよ。とっても困る。
どうしたらいいか、見当もつかないもん。悩んじゃうよ」

「そ、そか」

「でもね」

と、新一は破顔して言った。

「ちょっと嬉しいな、ソレって」

「何でや」

「だってもしもそうならオレ、平次と『マブダチ』になれるもん」

「!」

「昼間言ってたでしょ。平次、10年後のオレと『マブダチ』だって。
あの時の平次、とっても楽しそうな顔してたから」

「そうか? そう……なんかな」

「そうだよ。ところで一つ訊きたいんだけど」

「ん?」

「『マブダチ』って何?」

「ハイ?」

「何となくは分かるよ。ただ細かいニュアンスがつかめなくて。
普通の『友達』とは違うんだよね? どう違うの?」

「やれやれ。困った名探偵さんやな。言葉の意味分からんと話してたんかい」

「これから覚えるからいいの。ねぇ教えてよ」

「そやな。一言で言うたら」

新一の耳に口を寄せて、囁くような小声で告げた。聞いた新一は目を丸くして、

「何ソレ。気障なの」

「笑うなよ。教えろ言うたのお前やで」
ぶっきらぼうに言う平次。浅黒い肌ながら、赤面しているのが見て取れる。

「ホレホレ。アホな話しとらんと、さっさと寝い。続きはまた明日や」

「ハーイ、おやすみなさーい」

礼儀正しく返事して、布団に入り直した。瞼を閉じながら、最後に言った。

「でもオレ好きだよ、その言葉。オレ、やっぱり平次に会えて、良かっ……」



「新一?」

呼びかけたところで聞こえる声は、もはや寝息だけである。

「何や何や。もう寝てもうたんかい。早すぎるでオイ」

と悪態をついてから、平次はベッドの上にヒジを乗せて頬杖を突いた。

天使のような、という比喩でもしたくなるその寝顔。どこまでも無防備なその姿は、
たとえ何時間眺めていても飽きる事はないだろう。

「こういうの……何ちゅうんやろな。父性本能、イヤ兄性本能か?」

んな日本語あるんかい、と自分に自分でツッコミを入れた時、平次も欠伸が一つ出た。

……まぁええわ。細かい事は明日博士と考えよ。ねーちゃんにも話つけんとな……。

頭の中では色々な事を考えながらも、体の方は勝手に舟を漕ぎ始めていた。





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