或る真実の記録

≪SCENE 1≫


その部屋に、彼女は独り立っていた。
黒のローブをまとい、杖を構えて、彼女は静かに立っていた。腰まで届く長い黒髪の
一本さえ、全く動く様子はなかった。

より正しく表現すれば、彼女は――動けなかった。
何故なら、これから彼女が唱えようとしている呪文は、あまりにも力の強い物だから。
制御に失敗すれば、この世界は破滅する。そう言っても、過言ではなかった。

彼女の名前は、小泉紅子。
17歳の高校2年生女子にして、この世で唯一無二の、赤魔術の正統継承者である。




そもそも紅子にとって、異性というものは支配する対象でしかなかった。
自分が一度目を向けて微笑めば、どんな相手もそれで籠絡される。
彼女の魅了(チャーム)の能力は強力だった。何とかして止めようとした時代も
ない事もないが、もはや無意識レベルで発されているためか、ソレはまず無理だった。

だが、そんな中、紅子は生まれて初めての「例外」と出会った。
月光に晒すなどの儀式によって作った魔鏡――普通は、単に不可思議な細工を
施した物を差すが、コレは違う――に映し出された白ずくめの男の通り名を、
彼女は一応知っていた。

怪盗キッド。
18年前から活動を始めたものの、8年前から最近まで謎の沈黙をしていた彼。
狙う獲物にも共通点はさほど見られず、目的は不明。正体など、言わずもがな。
マスコミでは、やたらに派手に暴れているというニュースばかりが、
強調されて報道されている。

そう、世間は何も知らない。もし知ったら、どう反応するのだろう。彼が、まだ17歳の、
普通の手品好きの高校生なのだと知ったら。
細かい事はさておき、紅子は彼に興味をもった。その後、縁あって彼女は彼と
或る意味において深い関係になった。

今でも鮮明に覚えている。雪の降りしきる夜、自分は彼を魅了しようと試みた。
呪をかけた人形で彼を呼び寄せ、紅き魔法陣に閉じこめた。右手を掲げて、
魔法使いにしか発音できない「ことば」を唱えた。

強いて日本語に翻訳すれば、こうなる。





   猛る炎を染めしもの 深き闇を染めしもの
   平たき この地に宿りし 静かなる汝の名の下に
   我 汝に誓わん
   我等が前に並びし あらゆる憐れむべきものに
   汝が全ての力もて 正しき裁きを与えたまえ





コレが結局どのような意味なのか、と問われても困る。紅子自身、ソレを長年研究している
最中なのだから。
とにかくこの呪文は、紅子が信奉している最大の神――
もしくは魔王と呼ぶべきだろうか――の力を借りる、彼女の使える最強の物である。
つまり、この呪文を受けて無事でいられる人間など居ない……………………はずだった。

結論から言って、彼は紅子の術を打ち破った。差し当たっては、積もった雪が
魔法陣のラインを消したのが直接的な原因だったが、勿論ソレだけではない。
真の理由は、彼の意志が強かったから。彼が「例外」だったから。それだけの事だ。

けれど当初は、その事実を受け入れる事がなかなか出来なかった。
学校では、あんな飄々とした態度を貫く彼。とてもではないが、
あの時の華麗なる泥棒と同一人物とは思えなかった。

自らのプライドと、目の前の現実とのジレンマに、紅子は悩んだ。
或る時ついに思い立って、彼女は作戦を決行した。

魅了できないならば、消去してしまえばいい。
心を盗めないならば、命を盗んでしまえばいい。

今思えば、実に愚かな作戦だった。自分は彼を殺すどころか、その身を彼に救われた。
その夜の彼は、イタズラ好きな少年のように笑っていた。



大人になろうと背伸びをして、空ばかり見ている。



彼のその台詞を耳にした事をきっかけに、紅子は思い出した。
絶対に使ってはならない、と代々言い継がれている、更なる呪文の事を。

この世界には、神よりも魔王よりも遙かに強大な「何か」があるらしい。
その呪文は、その「何か」に干渉する事で、不可能を可能にするという。
成功すれば、如何なる望みも叶うのだと。

紅子は自宅の書庫にこもり、ソレについて書かれている古い文献を探し出した。

当時の彼女の望みは、ただ一つだった。
ソレは、自分から発されている魅了の能力のベクトルを”反転”させる事。
単純に能力を消すというだけでは、紅子は納得できなかった。
この世の誰にも気づかれる事のない人間になって、その上で彼の心を
奪ってみせる。そう決意した。

紅子は、自宅にある本格的な儀式を行うための部屋で、その「ことば」を唱えた。





   永遠なる空を染めしもの 深き闇を染めしもの
   愛すべき この地に宿りし 穏やかなる汝の名の下に
   我 汝に誓わん
   我等が前に並びし あらゆる護るべきものに
   汝が全ての力もて 正しき裁きを与えたまえ






その時に、果たして何が起こったのか。実は紅子も覚えていない。
闇色の「何か」が自分に襲ってきた、という記憶しか残っていない。

が、結果的に術は成功した。その日を境に、学校でも街でも、
紅子に声をかける異性は消えた。
あの背の高い英国帰りの転校生さえ、紅子に対する注意力はゼロだった。
名探偵という定評にも関わらず。

逆に同性の寄って来る率は、上がっていった。女同士の付き合いも悪くない……
そんな余裕も持つようになっていった。

ただし。あの呪文はもう二度と使うまいと、紅子は心に誓っていた。
あの呪文は恐ろしすぎる。この世界の全てを護る――それほどまでに強い存在を
召喚するなどという行為は、危険極まりない。一歩間違えば、この世界全てが
崩壊していたかもしれなかったのだと気づいた時は、総毛立った。

だから永久に封印しようと決心していた呪文を、しかし今の紅子は自らの意志で
唱えようとしていた。



その理由は――。





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