その名は……

   しゃぼんだま とんだ
   やねまで とんだ
   やねまで とんで
   こわれて きえた





≪SCENE 1≫


後で思えば、初めから変だったのだ。
はるばる大阪から東京まで、足しげく通っている自分を、しかし邪険に扱うアイツ。
ソレが彼の本来の行動パターンである事を、その時は何故か失念してしまっていた。
事件やトラブル抜きで招待されたのが、ほぼ初めての事だったというのが、
原因かもしれない。

「やぁ、いらっしゃい」

花咲くような、とさえ例えたくなるような完璧な笑顔を向けられて、
高校生の服部平次は、開いたドアの前で固まってしまっていた。

「どうしたの? ボーッと突っ立って。早く入ったら?」

「あ。ああ」

と、我に返った平次は玄関をくぐり、家主に従って進んだ。
そうやって歩きつつ、つくづく不思議な状況だと平次は思う。

自分を促すように、2階への階段をのぼっていく少年。どう見ても小学1年生でしかない
彼の、その正体を知る人物は少ない。
「江戸川コナン」という、冷静に考えれば奇妙極まりないフルネームは、
もちろん偽名である。
本名は「工藤新一」。平次と同い年の、やはり同じ高校生探偵である。

詳しい事情については敢えて述べないが、ともあれ二人は互いを深く知る関係である。
相手の危機を救った事も数多い(もっとも中には、成功とは言えない物もあるが)。
そんな安堵感が、その時の平次の勘を少々、鈍らせていたのかもしれない。





彼の自室に通されて、数分後。一旦部屋から出た本人が戻って来た。盆を手にして。

「お待たせ」

ちょっと時間かかっちゃったかな、と苦笑しながら、
部屋中央にある小さなテーブルの上に、コーヒーカップを二つ並べた。

「こういう事、あんまり慣れてなくってね。味とか、問題ないといいんだけど」

「ふぅん」

おおきに、とステロタイプな礼を述べつつ、平次は自分の分のカップを取った。
飲もうと口に運んだ時、手が止まった。

頭脳明晰・博学多才・眉目秀麗……と、相手の能力値は平均して一般より高い。
が、そんな彼の希有な(?)欠点の一つ。ソレが調理に関する事柄である事を、
平次は以前から薄々気づいていた。
そのじつ今自分が口に含んだコーヒーは、お世辞にも上質とは言えない。
明らかに濃すぎるし、何より温度が低すぎる。
コレが店なら、「金返せーっ」と平次は抗議しているところだろう。

だが、平次も決して鬼ではない。折角のもてなしを無駄にするのも失礼だ。
結局、自分をジッと見つめている相手の前で、平次は一息にカップを乾した。

「……ごちそうさん」

「あっ、良かった。飲んでもらえて。何ならもう1杯、入れて来ようか?」

「イヤ、ええてええて。もう充分やから」

あんな代物、2杯以上は飲みたくない。もとい、飲めない。
それに平次も流石に、確実な違和感をおぼえ始めていた。
確かめなければいけない。非常に大事な事を。
自分のカップをテーブルに戻してから、平次はおもむろに問うてみた。

「なぁ工藤。ところで今日は、オレに何の用あってんや?
お前の方から誘って来るなんて、珍しいやんけ」

「あ、その理由なら単純。今日は特別なんだ」

肩を竦めて、そう返答する。

「ずっと待ってたんだ。今日みたいな日。まず、隣が無人であるって事。
阿笠博士も灰原も出掛けてる。その上、更に探偵事務所の方も留守なんだよね。
小五郎のおじさんも蘭ねえちゃんも、今日は家に居ないんだ」

「!?」

聞いた平次の顔から、血の気が引いた。



言った内容に、ではない。遣われた語彙に、である。



「おじさん」や「蘭ねえちゃん」などという単語を、彼が平次に言うはずが無いのだ。
そんな日頃の、子供じみた演技をする必要性も必然性も全く無いのだから。
それでも平次は冷静に頭を働かせ、そして的確な行動を取ろうと立ち上がった。

「ほぉ、そうなんか。そら寂しいな。どうせならボウズだけやのうて、
他の皆とも話したかったんやけど」

努めて明るく大きな声を張り上げつつ、足音を殺して壁に近寄る。
慎重に、かつ丁寧に掌を走らせていく。しかし。

「何してるの? 盗聴機も盗撮機も仕掛けられてなんかないよ。この前の仮装パーティの
事件の後に、この家も改めて大掃除したんだから。念のためにね」

「!」

自分よりも一段と大きな声をかけられて、平次は動作を止めた。
首を後ろに回すのが、ぎこちない動きになったのは、仕方ない事だった。



相手は変わらず、愛らしく微笑んでいた。――どこまでも、無邪気に。



「子供だからって、バカにしないでほしいな。ボクだって、その程度の注意力くらいあるよ。
一応、探偵なんだからさ」



「お前……………………」



続けようとした声が、出なかった。言語を発する事が、出来なかった。
ソレは、あまりにも無意味なセンテンスのはずだから。意味を成さないはずだから。



「……………………お前、誰や?」



「イヤだなぁ、今更なに言ってるの?」

クスクスと笑いながら、相手は決定的な言葉を平次に投げた。





「ボクの名前なら、とっくの昔に知ってるじゃない。ねぇ……平次にいちゃん?」





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