2.
教室を飛び出して、一気に階段を駆け下りる。
彼女と一緒に見つけた抜け道を通って、中庭に出た。
思った通り。待ち合わせ場所である木のそばには、彼女の方が先にいた。
「ちいちゃん!」
「あ。リュウちゃん。…………ごきげんよう」
ぼくの声に、彼女は深々と頭を下げて挨拶した。
それから、その顔を上に向けて呟いた。
「それにしても……。何度見ても、見とれてしまいますわね。この綺麗な木」
「うん……」
言われるままに、ぼくも上を見る。
見えるのは、抜けるような青空を埋めつくすように広がる、淡い桜色。
まさかこんな隠れた所に、これほど大きな木があるなんて。
ぼく自身も、最近まで知らなかった。
後で聞いた話だと、ここの生徒でも、知っている人はあまり多くないとか。
でも、そんな大木に咲きほこる花さえも、今のぼくには霞んで見える。
ぼくは改めて、彼女に目を向けた。
ちいちゃんは可愛い。
「可愛い」なんて単純な言葉じゃ全然足らないくらい可愛い。
丁寧に編みこんでいる、少し明るい色の長い髪。
ふわふわとした、雪みたいに真っ白なワンピース。
何もかも似合っている。
ううん、きっと彼女なら、どんな格好でも似合うだろう。絶対そうだ。
「あの……リュウちゃん?」
「え? な、何?」
「如何なさいました? リュウちゃんたら、先程から私の顔ばかり、ご覧になって。
まさか私の顔に、何か……?」
「あ! いやいやいや、違うよ。別に何でも。あのその」
……ちいちゃんに見とれてて……。
「え、えっと……そうだ! ゴメン、待たせて。今、場所の準備するから」
「あら。私の事でしたら、どうぞお気になさらないで。
私も今し方、参りましたところですから」
……そんな言葉を言ってくれるのが、また嬉しい。
でも、それでも急がないと。
彼女の持っている荷物、見るからに重そうだし。
ぼくは、持って来ていたビニルシートを、木の下に広げて敷いた。
「ハイ。どうぞ」
「…………お邪魔します」
彼女はまるで家の中に入るみたいに言ってから、行儀よく靴を脱いで、シートの隅に正座した。
「ああ、そうですわ。…………申し訳ございません。私の方こそ、お待たせしてしまって。
すぐに、お食事の支度を致しますね」
「あ、いいよ別に慌てなくて。ぼくなら大丈夫だから」
って、ぼくは一応落ち着いた言い方で答えてみるけど。
本音を言えば、おなかはとっくにペコペコだった。
彼女と一緒に食べるランチ。
まして、ソレが彼女の手作りなんて日には。まさしく最高のひとときだ。
彼女は、持って来ていた布の包みを解いた。
黒色の重箱のフタを開けると、目にも鮮やかな色たちが飛びこんでくる。
「わあ! 今日はまた、一段と凄いね。コレ」
「今日は、お外で召し上がると伺いましたので。腕によりをかけましたの。
いつもの玉子焼きも、少し多めに作りましたし……」
「あ、ホントだ。じゃあ、さっそく…………いただきます!」
きちんと手を合わせてから、箸を取って、一口。
「……あー……」
美味しい。
ほっぺたが落ちる前に無くなっちゃいそうなくらいに。
「本当に料理が上手いよね。ちいちゃんて」
「そんな。私なんて、まだまだ未熟で。少し夢中になって、作りすぎてしまいましたし」
「そんな事ないって」
こんなに美味しいんだもの。幾らでも入っちゃうよ。
そんな事を考えながら、一心に食べて。ちいちゃんと一緒に食べ終えて。
そうすると…………ぼくは途端に落ち着かなくなる。
こんな事、言うのも恥ずかしいけど。こうして付き合っている彼女と、ぼくは何を話せばいいのか、
未だに分からないからだ。
沈黙が続くのが勿体なくて。ぼくは自分の頭の中を探り続ける。
何か、話題、ワダイ……と。
「あ!」
大事な事、思い出した。
「ちょっと、ゴメン。…………訊かれた事、調べておかなくちゃ」
「……?」
小首を傾げる彼女の前で、ぼくは手荷物から、今一番頼りにしている本を取り出した。
彼女は目を見開いて、ぼくに尋ねた。
「いったい何ですの……? ソレは」
「コレはね。『六法全書』っていうんだ。
この国を支えている法律の全てが、この1冊に書かれてるんだよ」
「まあ……、それは大変な物ですのね……」
心底から感心しているような様子の彼女に、ぼくは少し不思議な気持ちになった。
「って。そう言えば、あの時もぼく、きみに同じような事、言わなかったっけ」
「え?」
「ホラ。あの時だよ。ぼく達が初めて出会った日。ぼくの持ってる本を見てさ」
「え……、そ、そうでしたかしら」
と、彼女は戸惑っているような声で答えた。
「ご、ごめんなさい、リュウちゃん。私、あの日の事、よく覚えてなくて。
その……とっても舞い上がってしまってましたから」
「ああ……、そっか。そうだったね」
この前の時も彼女、そう言ってたっけ。
それにぼく自身も、あの日の出来事は、正直に言ってロクに覚えてない。
とにかく嬉しかった、って事くらいしか。
「こんな素敵なプレゼント、貰っちゃったものね。あの時は」
ぼくはセーターの首元から、その記念の品を取り出した。
金の鎖の先。陽の光を受けて、キラキラと輝く、ガラス細工の小瓶。
揺れる度、どこか謎めいた色合いの水が、ゆらゆらと動く。
「あ、あの。リュウちゃん。重ねて申し上げますが。そのペンダント、どうか人目にさらさないで下さいな。
恥ずかしいですし、もし壊れたら大変ですし。その」
途端、彼女は真っ赤な顔で、どもりながら訴えてくる。
「で、ですから、その。やっぱりソレ、返して……頂けません?
お願いですから……どうか……その……」
「もう。ちいちゃんてばホントに、照れ屋さんなんだから。
大丈夫。ちゃんと大切にしてるよ。コレは、ぼく達の愛の証なんだもの」
「そんな。証だなんて……。ソレは、そんな大層な物ではございませんわ。
だって、ソレは……ソレは…………」
………………参ったな。
今日に限って彼女、随分と食い下がってくる。
いつもなら、こうしてぼくが返す言葉で、引き下がってくれるのに。
そんな彼女の必死の様を見ているうちに、何だか可哀相に思えてきて。
「…………分かったよ。そこまで言うなら、返してあげる」
「本当ですか?」
「でも……、出来たら今は、まだ待っててほしいんだ。
少なくとも、ぼくが弁護士になれる日までは、預からせてほしい。
大切な“出会い”を招く……お守りとして、ね」
「出会い……?」
「うん」
ぼくは、彼女の目を見て頷いた。
「会いたい奴が、いるんだ。…………どうしても助けたい、友達が。
そいつは今、たった一人で苦しんでる。
けど、それでも急げば……まだ間に合うはずなんだよ」
だから決めた。今までの進路を切り替えて、知らない世界に飛び込む覚悟を。
「とにかく。今のぼくにとって、一番大事な夢なんだ。弁護士になる事は。
今抱えてるこの夢だけは、一刻も早く叶えたい。
その夢のためのお守りとしても、持っていたいんだ。この、ペンダントをね」
そんなぼくの話を聞いていた彼女は、ふと目を伏せて、呟いた。
「……凄いですわね、リュウちゃんは。
そんなご立派な夢を、お持ちになっていて。羨ましいですわ」
「何言ってるのさ」
ぼくは苦笑しながら、冗談交じりに言ってみた。
「そういう、ちいちゃんだって有るだろう? 叶えたい夢の一つや二つ」
「私は…………」
つと顔を上げて、彼女は答えた。
「私は、ただ……いつまでもこうして居られたら……それだけで幸せです」
「?」
「こうやって……普通に学校に通って、普通に皆様とお話をして、普通にお食事をして、そして……」
ぼくを見返して、言った。
「あなたとずっと、ずっと……このまま、この桜を見ていられたら、それだけで…………」
不意に、強い風が吹いた。
盛りを過ぎかけている花びらが、ざあっと散って降りそそいだ。
――何となく、変な気分になった。
花びらと一緒に、彼女もどこかへ飛んで行ってしまいそうな――そんな気分に。
だから、ぼくは、ことさら陽気な声で彼女に言った。
「それなら大丈夫だよ! だってこの花、また来年も、そのまた来年も咲くだろうし。
その時もまた、一緒に見よう。
何なら、お互いの知り合い、ぜーんぶ集めて。大勢でさ」
「ええ。そうですわね。……また、この桜の花の、咲く頃に」
その時を楽しみにしていますわ。
そう言って微笑む彼女に、ぼくはホッとした。
「それでは、本日は私、そろそろ失礼致します。家の用事が控えてますので」
「あ。そうなんだ」
それじゃあ、無理に引き止めちゃマズイよな。
彼女は荷物をまとめながら、ぼくに訊いてきた。
「ところで、リュウちゃんは、この後いかがなさいますの?」
「ぼくは、まだココに居るよ。友達が、夜桜見物したいって言っててさ」
つまり。今日ココに来たのは、場所取りのためというのもあったワケで。
「けれど、大丈夫ですの? 確か天気予報では、夜は冷え込むと伺いましたけど」
「平気平気」
そのためにも、このセーターを着てるんだもの。
何せ、彼女の手編みの品。もう春だからって脱いじゃうなんて、勿体ない。
シートから立ち上がって靴を履く彼女に、ぼくはいつも通り挨拶した。
「それじゃ、また明日! 何かあったら連絡してね」
「はい。それでは……また、明日に」
最後まで礼儀正しく、頭を下げる彼女。
その彼女の姿が見えなくなるまで、ぼくは手を振っていた。
……さて。アイツが来るまで、勉強の続きでもするかな……。
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