2nd Game  I am a liar. (前日譚)

★前日譚――譲治と紗代――★

「ほら譲治さま、見てください!」
 紗代は水槽の中に仲良く泳ぐ熱帯魚を見て、まるで小学生のようにはしゃいでいる。
 はじめは言いつけ通りに世話できないと零していたが、もうすっかり慣れたのだろう。
 客間に据えられた大水槽を、彼女は夢中になって眺めている。
 こう言っては何だが、かつてはこんな場にいる事は恥ずかしくてならなかった。
 今時、漫画の中にも出てこないだろうと思っていた。
 古風な言い方になってしまうが、これこそまさに薔薇色の日々だ。
 僕の眼中に、大水槽はもはや映っていない。
 紗代が魚たちと戯れて一喜一憂する姿を映し続けるのみだ。
「本当に素敵ですね。まるで、海の一部をナイフですっと切り取ってここに運んできたみたい」
「そうだね……」
 僕は相槌を打ちつつも、紗代の独特な感性に驚いていた。
 水槽がどんなに大きかろうとも、水槽である事自体には変わりない。
 海の一部をナイフで切り取ったみたいな、という彼女の表現は興味深かった。
 人間というのは、どんなに見聞を広めようとも、所詮は自分ひとりの価値観しか持てない。
 だからこそ、異なる価値観を持つ人間と交流する事が大切なのかもしれない。
 僕は正直に、そういった意見を口にした。
 すると彼女は答えた。
「確かに、これは本当の海ではないかもしれません。
 でも、ここに泳ぐ彼らが海だと信じたなら、確かに海なんです。
 そこが、完成された世界だと信じられるなら。たとえ狭い井戸の底だったって、立派な世界なんです。
 そこに住むカエルにとっては」
 六軒島という、全周が10km程度の小島で使用人として日々を過ごす彼女は、微笑みながらそう言った。
 傍から見ていたなら、僕たちは何とも微笑ましくも恥ずかしい二人なのだろう。
 しかし二人になってみて初めて分かる。
 僕たちにとっては、このやり取りが全てで、世界なのだ。
 だから世界の外側の人がどんなに白い目で見たって、僕たちは気づかない。
 なるほど、カップルがTPOを弁えずにイチャつきたがる心情を、この歳にしてようやく理解した。
「せっかく海を一望できる部屋なのに、曇天が悔やまれるね」
 客間の窓は、視界に収まりきらないほどの雄大な海の景色を見せてくれる。
 しかし、生憎の空のため、本来の美しさには程遠かった。
「あ、でも、お仕事の最中に見る海は、どんなに青くても灰色と同じです。
 でも、今は休憩中ですから、その……」
 紗代なりに精一杯、恥ずかしいセリフを言ってみたらしい。
 ……惜しいな。譲治さまと二人きりで見る海なら、たとえ灰色でも真っ青に見えます、って言えたら、
百点満点だったんだけど。
「この後、少し海岸を歩いてみないかい?
 ひょっとすると雲が晴れて、素敵な海が見られるかもしれないよ」
 至福の時間を出来るだけ延ばそうと、僕はそう提案した。



 彼女を初めて意識したのは、2年ほど前の事だった。
 僕たちの一家が、六軒島の本家を訪れた日。
 僕たちは客間で、蔵臼伯父さん一家と、近況を報告しながら談笑していた。
 僕たちの到着を、源次さんはお祖父さまに伝えたはずだったが、なかなか降りて来ない。
 恐らく、自分の「研究」に没頭していて、手を離す気がないのだろう。
 それはよくある事なので、僕たちはのんびり待っていた。
 蔵臼伯父さんは身を乗り出して、僕から話を聞きだしていた。
「それは頼もしい。お父さんの所でたくさん修行して、早く手助けができるよう、頑張りたまえ」
「ありがとうございます。今は父の紹介で、貴重な勉強をさせて頂いています」
「学校で習うのは国語算数やない。モノを学ぶ姿勢と態度を学ぶんや。
 国語算数で満点取れても、会社じゃ役に立たへんからな!」
「譲治はいっつも一生懸命、頑張ってるわよ。ねえ?」
「本当に立派ね。うちの朱志香にも爪の垢をわけてもらいたいわ」
「ちぇ。まだテストの結果を根に持ってるのかよ。
 受験勉強は私なりにやってるって」
 僕の話題は大抵、今度は朱志香ちゃんに流れていく事になる。
 やっぱりこっちに振られたかと、朱志香ちゃんは露骨に嫌そうな顔になった。
「私ゃ席を外させてもらうぜ」
「朱志香……!」
 朱志香ちゃんだって、受験を控えたナーバスな年頃なのだ。
 最近は教育熱心な母親――夏妃伯母さんと衝突する事が多かった。
「失礼いたします……。きゃ!?」
 不機嫌に客間を出て行こうとする朱志香ちゃんと、お茶を積んだ配膳台車を押してきた紗代が鉢合わせした。
「紗代、お茶が冷めます。配膳を急ぎなさい」
「しっ、失礼しました」
 すっかり萎縮してしまった紗代は、おどおどとしながら紅茶の準備をする。
 萎縮すると、ミスが多くなるのは彼女の気の毒な癖だった。
 震える指は、カチャカチャと食器を鳴らしてしまい、お世辞にも優雅とは言えない。
 僕は敢えて、愉快そうに言ってみた。
「これはいい香りだね。アールグレイ、かな?」
「譲治くんは紅茶に詳しいのかね?」
 と、蔵臼伯父さんが僕に顔を向けた。
「お世話になっている社長さんに紅茶の詳しい人がいまして。
 講釈を聞いている内に少しだけ分かるようになりました」
「ああ、小此木食品の社長さんかい。あの人、そういうウンチクは得意やな」
「因みに、この特徴的な匂いは茶葉の物ではなくて、ベルガモットというミカンの親戚に当たる果物で
付けた物なんだって」
「そうなの。初めて知りました。そういう知識を持っていると、紅茶もより美味しくいただけますね。」
「酒も煙草も同じや。嗜好品はロマンを嗜むもんやで。こういうウンチクが、味わいを深めるんや」
「薬の能書きと同じよね。夏妃義姉さんも、愛用してる頭痛薬の説明書、今度はじっくり読んでから
飲んでみなさいよ」
 紗代は、何とか気を取り直し、無事に配膳を終える事が出来た。
 彼女は落ち着きさえすれば、何事も卒なくこなせるのだ。
 テーブルの上に紅茶が並び、優美な香りを漂わせる頃には、場はすっかり元通りになっていた。



 お茶の時間の後、僕と紗代と、そして時間を潰していた朱志香ちゃんと三人で、それぞれの近況を
語り合いながら、薔薇庭園を歩き回った。
 僕は、いとこの最年長者としての人生経験について。
 朱志香ちゃんは、最近の六軒島での生活について。
 紗代は、最近の仕事ぶりについて。
 そう、これは毎年10月恒例の親族会議ではなかった。
 僕たち一家が、本家に事業用の借金を申しこむために訪れたのだ。
 お祖父さま莫大な資産を持っていて、それを息子たちに貸し与えている。
 その借りた金を使い、どのように事業を拡大するか。
 どれほどの利子を付けて、いつまでに返済できるのか。
 お祖父さまは、資産を貸し与えるに値するか審査し、その後の運用についても監視した。
 だからこうして、六軒島に親族が訪れて、お祖父さまに事業説明を
行なう光景は、しばしば有る事だった。
「譲治、さっきから呼んでるわよ? 聞こえないの?」
 突然、現れた母さんに、僕たちは慌てて身を硬くした。
「お祖父様にあなたの話をするからいらっしゃい」
 朱志香ちゃんは小首を傾げて考えこんだ。
「何の話だよ? あ、分かった! 譲治兄さん、アレでしょ、お見合いだ!」
「ん、まぁね。はははは」
 僕としては、力なく笑うしか術がない。
 それでも僕なりに、反論はさせてもらった。
「お見合いというのは、もっと年齢が成熟してからする物じゃないのかな。
 僕はまだ一人前になったって自覚すらないというのに」
「もちろん、即結納、即結婚なんて焦る気は全然ないのよ? 
 親睦を深めて、年齢的にもう少し落ち着いてから籍を入れる形でも問題ないの」
 母さんの強引な雰囲気から、このお見合いの図式は垣間見えるだろう。
 つまるところ僕たちの家にとって、ビジネス的に価値のある相手なのだ。
 籍を入れないまでにも、婚約関係になってでも両家に縁を持たせたいという、ある種の政略結婚だ。
「あなたは私の自慢の一人息子よ。そして、お父様の血を引く嫡男。
 あなたに相応しい相手は慎重に選ばなくてはならない」
 母さんが僕に目をかけている事は、右代宮家に縁のある者なら誰もが知っている事実。
 だが、そんな母さんから紗代への態度は、人として尊敬できる物ではなかった。
 母さんはくすりと微笑むと、紗代に言った。
「だからね。低学歴の無能無資格無教養な使用人風情じゃ釣り合わないの。身の程を知りなさい」



 それから色々あって、今の僕たちの関係がある。
 大水槽の観賞を終えた僕らは、海岸を歩きながら、貝殻を拾ったり、波から逃げたりして、はしゃぎ合った。
 結局、空は曇天のままだった。
 でも、僕たち二人の目には、共に真っ青な海が映っていたと信じてる。
「何だか、幸せ過ぎて、怖くなります」
「たまに言うね。何を怖がる事があるんだい?」
「私、右代宮家にお仕えする使用人です。そんな私が、右代宮家に連なる方と、こうしてご一緒してるなんて」
「僕もびっくりしてるよ。君とこうして一緒に過ごせる関係になるなんて、全然想像できなかったよ。
 それは紗代ちゃんもでしょ?」
「えっと、私は、想像だけは、してました。いつも紳士的で思いやりのある、譲治さまとご縁が
あったらなって……」
「じゃあ、僕たちの縁は、君のその信じた心のお陰だね。
 想う力には魔法が宿るんだよ。だから、その魔法がきっと、僕らを巡り合わせてくれた」
「そうですね。本当に魔法だったんだと思います」
 彼女は海の向こうを見ながら、波打ち際に足を止めた。
「魔法。あったんです」
 たまに見せる、彼女のちょっぴりミステリアスな表現が僕を戸惑わせる。
「聞いて、頂けますか。 私の――告白を」
 紗代は、真剣な眼差しを僕へ向けた。
 僕が頷いたのを見てから、彼女は話し始めた。
 以下、僕の聞いた彼女の台詞を、そのまま引用しておく。



 私が大広間の清掃をしていた時の話です。
 そこに飾られた或る肖像画が、使用人たちの間で、特別な意味を持つと考えられている事は、あなたも
ご存知でしょう。
 それは、魔女の肖像画です。
 正しい名称ではありませんが、屋敷の誰もがそう呼んでいます。
 優雅な金髪の婦人を描いた肖像画の主の名は、ベアトリーチェ。
 当主である金蔵さまのかつての愛人ではないかと囁かれている人。
 そして、金蔵さまに伝説の黄金を与えた偉大なる魔女だとも。
 魔女ベアトリーチェは、六軒島の夜の主。
 敬う者には寛大だが、蔑ろにする者には必ず呪いを与える。
 ですから私は、このもう一人の主の肖像画を本人そのものと思って、いつも丁寧に大切に取り扱っていました。
 そして、この肖像画の中にしかいない魔女に、心の中で密かに語りかけるのを日課にしていました。
 私は家具。
 家具は不平を言わない。言えない。
 だから、姿なき魔女に、こう訴えていました。
 ベアトリーチェさま、私の話を聞いて下さい。
 私は確かに絵羽さまの言う通り、無能で無教養な家具です。
 人じゃない。
 でも、だったらどうして恋を知る事の出来る心などが有るのでしょう。
 こんな苦しくて辛い思いをするなら、心なんて要らないのに……!
 目を閉じて、深々とため息をついたその時でした。
 声が聞こえたのです。
「人間は世界を構成する元素について、紀元前の昔から探求を続けてきた。
 古代ギリシャ人たちは風火水土の4つで世界の説明を試みたというが、唯一の真実である“一なる元素”を
説明する事は出来なかった。
 しかし、星の導きによって現れた一人の男が、ついにこの、世界を構成する一なる元素を説明した。
 何か分かるか?」
 何も見えないはずの闇の中に見えた物は、金色に光り輝く蝶でした。
「お前の悩みは愛ゆえよ。それは世界の一なる元素。この世の全てだ。
 知恵の実を口にしたアダムとイヴが知ったのは愛だった。
 それ故に、人は楽園を追われ『人』たりえた。
 愛を知り、苦しむからこそ人である。そなたは今こそ『人間』なのだ」
 難しい言い回しに戸惑いつつ、どこからか聞こえる朗々とした声に、私は身を任せました。
 見知らぬお客様ならば、名前を聞くのが最初の礼儀と思いました。
 ですが、私には彼女の名を存じていました。
「……ベアトリーチェさま……」
「いかにも。妾がベアトリーチェである。
 驚かせた侘びとして、妾の力でそなたのその願望を叶えてやっても良いぞ?」
「……え……」
「そなたを想い人と添い遂げさせてやっても良いと言っている」
 私にとって、その言葉の意味は、その声の主そのものよりも驚く事でした。
「……が、頼みがある」
 ああ、やっぱりそうなるのかと、私は自分に警告しました。
 小さい頃に読んで怯えた絵本の中で、何度も見てきたやり取りだと。
「この島のすぐ近くの海にある岩、そこに小さな鳥居と祠が設けてあるのを知っているか?」
 言われて、私はすぐにその場所に思い当たりました。
「早い話、参っておるのだ。あの祠の中に、納められている鏡。それをそなたに割って欲しい。
 あの鏡の魔力は、妾の魔女としての魔力と相容れん代物なのだ」
 それは、どうにも胡散臭い願い。
 仮にも鎮守の社に供えられた神聖な物を割ってほしいなんて。
 仮にも魔女を名乗る者が。
「お、お断りします……」
 私のその返事を聞き、ベアトリーチェさまは意外そうな声を上げました。
「理由があれば聞かせよ。誤解があるなら解こうぞ」
「そ、それは……。でもとにかく、今日までこの島は平和で、何も起こりませんでした。
 なら、鏡を割らなくても、今日までと同じ平和がこれからも続いていくはずです」
「なるほど、怯えるのももっともだな。そなたの言う通りだ。
 そう、あれを割らぬなら、今日までと同じ日々が続こうぞ。永遠に」
 ベアトリーチェさまの言葉の意味を、私は知りました。
 譲治さまと結ばれたかったら、鏡を割れと迫っている。
 割らないなら、絶対にその想いは叶わないと宣告している。
「我が力を借りたいと願ったなら、いつでも我が名を呼びながら、あの鏡を割るが良い。
 妾は必ず約束を守るだろう」



 結局、私はベアトリーチェさまの頼みを受け入れました。
 そぼふる雨の夕暮れ時、私は、教えてもらったばかりのモーターボートで、その小島――というより
岩礁を訪ねました。
 そこには変わらず、鳥居と祠がありました。
 由来は分からずとも、神聖な意味が込められている事は感じられました。
 私は、自分の姿を誰かが見咎めていないか、もう一度だけ見回しました。
 見えるのは荒れる海原と遠くに霞む新島、そしてそそり立つ崖に波を砕いている六軒島だけ。
 そして、私の耳を浸すのは波の音。荒れ狂う波の音。
 痛いくらいに冷たい飛沫をこの身に浴びて。
 私は意を決して、恐る恐る祠に近付き、納められている鏡を手に取りました。。
 古ぼけて曇っている、薄汚れた鏡でした。
 ベアトリーチェさまの声が聞こえてきます。
 知恵の実をかじりなさいと。
 あるいは、私はもうその実を口にしてしまっているのかもしれない。
 あの狂おしい感情を、知ってしまったから。
 だから私は、ここにいる。
 何かを得るには、失う覚悟がなければならない。
 何も失おうとせず、変えようともしない臆病者に、新しい未来を切り開く鍵は決して与えられる事はない。
 私の鍵は、既に手中にある。
 さあ、私を閉じこめる運命を、叩き割れ。
 私は、それを振り上げて、今日までの葛藤を僅かな時間で回想してから――、叩き付けたのです。
「約束は守りました。今度はあなたが約束を守る番です。
 ベアトリーチェさまあッ!!」



 話を終えた紗代は、トマトみたいに真っ赤な顔で震えていた。
 何から何まで、あまりにも非現実的な物語を、しかし紗代は真剣極まりない様子で話していた。
 だから僕は、ただ率直に自分の気持ちを言った。
「……信じるよ。……僕が信じなくて、魔法が解けたら嫌だからね」
「譲治さま……」
 その言葉は、紗代にとってとても嬉しい物のようだった。
 愛の魔法を、二人が信じてくれたなら、それは永遠の物だから。
「そうそう。その譲治さまって呼び方。もう無しにしないかい?
 もちろん、仕事中にまで強制はしないよ。でも、二人きりの時は無しにしよう」
「はい。譲治、さん」
「素敵な響きだね。嬉しいよ、紗代ちゃん」
「わ、私も、紗代と……呼んでいただきたいです。譲治……さん」
「そっか。立場はフェアじゃないといけないね。僕も、今から君を紗代と呼ぶ事にするよ。いいね、紗代?」
「は、はい」
 彼女の肩を抱き寄せる。
 華奢な体が、まるで人形のように僕の胸に飛びこできた。
 その頭を抱えこみながら、二人して水平線を見る。
「真っ青な海だね。この海を、二人で見られて、とても嬉しいよ」
「私もです。この真っ青な海を、あなたと二人で見る事が出来て、とても嬉しいです。」
 僕たちは、小雨すらぱらつき始めている灰色の海を眺めながら、互いの鼓動をいつまでも確かめ合うのだった。



★前日譚――朱志香と嘉哉――★

「ええ!? 何だよ!? じゃあ、紗代と譲治兄さん、まだチューもなければギューもないのかよ!?」
「は、はい。あの、……そんなにもおかしいでしょうか……?」
 おどおどと答える紗代の様子が焦れったい。
 私は、紗代の持ってきたチョコレートを頬張りながら絶叫してしまっていた。
「あ、その。チューについてはノーコメントです。でも、ギューはしてますよ? 譲治さんの胸、温かくて」
「そういう事じゃねーぜ! あーもう、何だってこんなカップルがいるんだよ?」
 紗代としてはとても幸せらしいのだが、私としてはあまりにももどかしい関係に思えた。
 私はしばらくの間、もぐもぐとお菓子を頬張りながら、ベッドの上で、人の恋路をあーだこーだと
グチグチ言いながら悶絶していた。
「もういい加減にさあ、色々と進展するもんがあるはずだぜ?」
「それはその、まだお互い独身の男女ですし。譲治さんが、そこをしっかりするのが男女のマナーだと仰って」
「だーから、それを踏み越えるのが恋人じゃねえのかよ?
 もはやチューとかギューとかのレベルは終わってんだよ」
「お、お嬢様がどういう意味で仰ってるのか分かりませんが……。
 譲治さんは本当に紳士でいて下さいますから。
 私も、そういう事があってもというか、でも私たち、お付き合いはしてますけど、結婚してるわけじゃないし。
 お嬢様が期待されているような事は、ちゃんと神様の前で誓いを立ててからするべきで、するべきで」
 紗代の顔は真っ赤っか。
 両手で輪っかを作り、鎖を作ったり切ったりハートマークを作ったりと忙しない。
 結局、私がどう妬こうが囃し立てようが、紗代に大きくリードされてしまった事実は変わらない。
「あーッ、私も彼氏ほしー! 紗代に先を越された! むがー!」
 私は、たくさんあるクッションを、ぽこぽこと投げつけた。
 その小さな一つが、丁寧にお辞儀をして退室しようとする紗代の頭に、ぽこんとぶつかった。
 私は不意に虚しくなって、最後の1個のお気に入りのクッションを抱いて、真っ赤な顔を半分埋めた。
 ちょっぴりだけ涙が浮かんできた。
「紗代。正直に言って。私、髪型とか、目とか鼻とか変かな。やっぱり喋り方が駄目なのかな」
 紗代は足を戻して、私の隣に座り直した。
「お嬢様はそのままで充分に素敵です」
「でも、私だけ彼氏できない。学校の皆ね、文化祭に彼氏連れてくるの。
 私いつも、彼氏いるって大見得切って誤魔化してて……」
 いつの間にか、私は大粒の涙を零していた。
 別に泣く気なんんて無かった。
 紗代の恋がうまく行ってる事を友達として応援したいのも本当だった。
 でも、囃し立てている内に、いつの間にか本音が混じり始めてしまったのだ。
「ご、ごめん。紗代、もう時間だろ? 早く行かないとまた源次さんや母さんに怒られるぜ。
 私は全然平気だから早く行きなよ。へへ、悪ぃな、泣いちゃったりなんかしてさ」
 私は敢えて背中を向けると、追い払うような感じで手をひらひらと振った。
 紗代は、ぺこりと頭を下げ、今度こそ退室して行った。
 その足音が遠くへ消えていくと、私はクッションを抱いたまま、そのままベッドに横たわった。
 まだ涙が湧いてきて少し神妙な気持ちだったけど。
 久しぶりに素直になれた自分の心と、静かに向き合って、つぶやいてみた。
「私も…………恋が、したい」



 右代宮家にとって秋にある最大の行事は、10月にある親族会議ただ一つだけれど、私にとってはもう一つ、
学校の文化祭がある。
 私にとって学校とは、堅苦しい生活を強いられる日々のストレスを発散できるお気に入りの場所だった。
 今日の文化祭でも、私は友達と一緒に、舞台で軽音楽の発表をする予定になっていた。
 そのために今日まで準備と練習を重ね、今日の当日を楽しみにしていたが、ある一点だけが悩みだった。
 私は時計を見た。
 まだ約束の時刻までは少しあるが、不安だった。
 ちゃんと来てくれるだろうか。
 ため息をつこうとしたら、友達が黄色い声を一斉に上げたので心臓が飛び上がった。
「うっそー、ヒナの彼氏、カッコいい〜ッ!」
「マジで凄いよ、マジで」
「リンの彼氏すっごい頭良さそう!」
「ダメダメ、うちの旦那なんて」
「きゃっきゃッ♪ きゃっきゃッ♪」
 少なくとも私の学校での文化祭は、彼氏の品評会と同じ意味だった。
 私には彼氏がいない。
 異性の友人は多いのだが、特定のオンリーワンはいない。
 のらりくらりと何とか今年までは誤魔化し通してきた。
 しかし、諸々の事情によりいよいよ逃げられなくなったのが今年の文化祭だった。
「ジェシ〜。彼氏来たあ?」
「ふぇッ? あ、いや、まだ来てねーみてーだぜ? 仕事忙しいのかな? あはははは」
「ジェシの彼氏、どんな人なの? せめてヒントだけでも出してよ」
「凄いよね、社会人なんでしょ? きゃーッ!!」
「ねえ、でも本当はいないんだよね? 今、素直に白状したら許してあげるって!」
「いやいやいや、いるいるいる、ホントにいるって、あははははははははははは!!」
 私は脂汗にまみれて苦笑いする。
 果たして勘の鋭い仲間たちを本当に騙せているのか、大いに怪しい。
「ジェシぃ、人が来てるよ? 聞こえてないの?」
「えッ、あ、あ、ごめん!! だ、誰……?」
 友達たちが身を寄せ合いながら、何とも形容し難い目でこっちを見て、
ヒソヒソ!と小声になっていない小声で囁き合っている。
 私はその声を向けられている相手を見つけて、それだけで頭が真っ白に燃えつきた。
 まさか。
 まさか。
 まさか。
 来た。本当に来ていた。約束通りに!
「ウソあれジェシの彼氏? かっわいいぃ!」
「ホントに彼氏いたんだ!? マジ、嘘、本当!?」
「朱志香の裏切り者オ!! すっごい素敵じゃん!」
「年下!? 年下なんて聞いてないよオッ!?」
「どこどこッ!? ジェシの彼氏ってどこどこどこッ!?」
「昇降口が分からなかったもので。遅くなって申し訳ございません」
 真っ黒なロングコート姿の嘉哉くんは、ぼそぼそ言いながらうつむいていた。
「いやその、その格好も似合ってるぜ? わははははは」
「紗代が、仕事着では良くないと言ったので。似合いませんでしたでしょうか」
「そ、そんな事ないよ!」
「何だかここは女の人ばかりで居心地が悪いです」
「だよなだよな! ささ、ここじゃなくてステージの方に行こうぜ? もうすぐ私たちの出番だからさ!」
 居心地が悪いのは私だって同じだ。
 黄色い声、ならぬ視線を全身に感じる。
 そんな様子を見て嘉哉くんは、何故か申し訳なさそうな顔になって言う。
「何だか迷惑をお掛けしているような気がします。お邪魔だったでしょうか?」
「そそ、そんな事ないって!」
「僕がお邪魔でしたら、いつでも言ってくだされば……」
「きゃーッ、うっそーー、僕だってーー!!」
「じゃじゃ、邪魔なんかじゃないよ嘉哉くん!」
「きゃああぁッ、彼氏、クン付けだあぁ!」
 ああもう、外野がうるさい。
「ごめん嘉哉くん、3秒でいいから、目、瞑っててくれるかな」
「では瞑ります」
 嘉哉くんが応じてくれたのを確かめてから、私は周りの女子を黙らせた。
 ……どんな風に黙らせたかは、あんまり言いたくないかな。 
 私は嘉哉くんが目を開く前にメリケンサックをポケットにしまった。



 教室からの廊下を進んだ先に、自動販売機のスペースを流用した仮設舞台がある。
 今日はグループやサークル単位で時間貸しされている。私たちもその一つだ。
 スタンバイを終えると、照明が切り替わり、立ち見の観客たちが大きな歓声を上げた。
 おおっ、予想したより大勢いる。男の方が多いかな。
 すごい人垣で、奥の方がよく見えないくらいだ。
 それでも目を凝らすと、嘉哉くんが薄暗い壁にひとり寄りかかっているのが分かった。
 女子生徒が何人か、ちらちらとうかがっているのも見える。
 だから私も、自分の晴れ姿を見せつけてやった。
 フリルたっぷりの黒ワンピースドレスに、とんがり帽子。
 ハロウィンパーティ用の、取っておきの衣装。そこにギターを構える。
 いつも隠れて学校で練習してきた相棒だ。
「ジェシ様あああ!!」
「今日は集まってくれて、ありがとオォ!!」
 スピーカーを経由して、私は威勢よくファン達に返事した。
 へへ、何だかランキング番組にでも出てる気分。
 マイクパフォーマンスをひとしきり済ませて、仲間たちと目を合わせ、それからはフルスロットルで流行りの
曲を歌い倒した。
 観客たちは、私たちの歌に合わせて、ペンライトを振って踊ってくれている。
 私は目に入りそうになる汗を振り払いながら、熱唱を続けた。
 皆、凄く楽しそうだった。
 私も本当に楽しかった。
 これが、本当の右代宮朱志香の姿なんだと私は思う。
 右代宮家の跡継ぎでない、一人の女の子として生き生きできるこの時間こそ、とてもとても大切な物なんだ。



 そんな大切な時間は、あっと言う間に過ぎ去ってしまう。
 家に帰ってした食事では、ろくな話が出なかった。
 父さんも母さんも、PTAとして出席した、生徒会主催の式典の事ばかり言っていた。
 私は一応、学校の生徒会長でもある。
 親がうるさいので立候補したら、当選してしまったのだ。
 その後、私は真っ直ぐ自分の部屋に戻る気になれなかった。
 自分の部屋というのはつまり、親にそこにいるよう指定された場所だからだ。
 屋敷の中にいる事にさえ息苦しさを感じ、私は薔薇庭園に出た。
「……お嬢様」
「わッ、嘉哉くんか。お、驚かすなよ、ははは…!」
「…………………、その」
「あ……、今日は文化祭、付き合ってくれてありがとうな。助かったぜ」
「お歌。お上手でした」
「え!? あ………あははははは!? そ、そうかよ、照れるぜ」
「僕には歌は歌えません。僕は家具ですから」
「嘉哉くん。その『家具』って口癖、本当に止そうぜ。私たちは同じ人間じゃないかよ」
 多分、今の嘉哉くんは戸惑っている。
 何か困ったような顔つきで、何て言おうか必死に考えてる。
 だから私は、先に自分の考えを口に出した。
「嘉哉くんは、自分の運命が全てだと思って諦めてる。
 でも私は、右代宮家のお嬢様をやらなければならない窮屈な自分と、
自分の好きな事に精一杯な自分というもう一人を作った」
「もう一人の、自分」
「うん。人はさ、自分の中に、自分が本当に好きになれるもう一人の自分をいつでも作り出す事が出来るんだよ」
「自分の中に、自分が本当に好きになれる自分を、作る」
「私さ、学校では『ジェシ』ってあだ名で呼んでもらってる。だからさ、『ジェシ』である時は、
自分に思い切り素直に生きてる。だからこそ、朱志香である時も頑張れるんだ」
 嘉哉くんの唇が、僅かに震えた。
 けれど、出てきた言葉は、あまりにも悲しすぎる物だった。
「僕が何者であったとしても、今のここだけが現実です。過去など何の関係もない。
 作られた家具の材料が、元は何という木の幹であったかどうでもいい事と同じです」
「だから止せって! 君は人間だぜ!?」
「僕は人間じゃない!」
 嘉哉くんは、はっきりと拒絶した。
 普段の彼が見せた事のない激昂だった。
 私は懸命に追いすがった。
「使用人としての嘉哉くんが家具だというなら、それでもいいよ。
 でも、なら、嘉哉くんは家具でない時の、人間の時の自分を作ってもいいとは思わない?」
「そんな可能性を抱けるのはお嬢様が人間だからです。
 僕はそうじゃない。僕には未来も可能性も、見るべき夢もない」
「何で……そんな事を言うんだよ」
「姉さん……紗代に聞きました。お嬢様は、僕の事をお気に入りになられているとか」
 言われて思わず頬が緩んでしまったが、今はそれどころじゃない。
「人は家具と恋などできない。紗代と譲治さまも必ず破綻する。
 僕にはお嬢様を愛する事が出来ないと、そう申し上げたいのです」
 淡々と語る彼の言葉は、私の今日一日の甘酸っぱい気持ち全てを打ち砕いた。
 気力は見る見る失われ、いつしか呆然と立ち尽くすだけになっていた。
「僕を人間だと思ってくれて、ありがとうございます。そのお気持ちだけで、僕は本当に嬉しいです」
 嘉哉くんは背を向けて、歩き去って行く。
 私は力なく屋敷の方へ戻ろうとして、けれど数歩で引き返した。
 嘉哉くんの背中が、薔薇庭園の奥へ奥へと進んでいくのが見えた。
 灯りのほとんど無い真っ暗闇で、嘉哉くんは立ち止まった。
「そんな所で見てたのか。最低なヤツだな」
 突然言われて、バレてたのかと焦ったけど、どうやら違ったようだ。
「今、理解した。お前は恋のキューピッドじゃない。お前は、結ばれぬ者たちを誑かしているだけの悪魔なんだ」
 さっきの激昂に劣らない激しい口調で、嘉哉くんは叫んでいた。
 頭を抱えて、身を悶えさせて、苦しそうに。
「やはりお前は魔女だ。消えて失せろ、黄金の魔女……!!」
 黄金の魔女?
 子供の頃に教わったおとぎ話が、どうしてここに出てくるんだ?
 私は尋ねたい気持ちに駆られながらも、体は逆に後ずさった。
 そして、がむしゃらに屋敷の方へ駆け出した。
 理由は分からない。
 強いて言えば、怖かったのだ。
 決して知ってはならない秘密に触れたような気がして。
 これ以上関わったら、嘉哉くんが永久に消えてしまうような気がして――。



★前日譚――黄金の魔女ベアトリーチェ――★

 ああ残念。後もう少しで、二組目の恋人たちが生まれていたものを。
 恋に狂え。黄金に狂え。そのどちらにも狂わぬ者など人間に非ず。
 かくて、蒔かれた恋の種は二つ。既に蒔かれた種と含めてこれで三つ。
 どのように実るのか楽しみだ。
 熟れに過ぎて腐り落ちる果実の液に、黄金の蝶たちは舞い降りる。
 今より収穫の日が待ち遠しい! 宴の時はまだかまだか!
 満ちぬ潮も月もないように、我が魔力も必ず満ちる。
 妾は必ずや力を得て蘇るであろう。
 その時にこそ、黄金郷の扉が開こうぞ!
 くっくくくはははははははははははははははははははは!!」




【2nd Game  I am a liar. (前編) 】へ続く





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