【2nd Day】


 翌朝、目を開けた時、晴美は自分がドコにいるのか思い出せなかった。真っ白なシーツの心地よさに、
つい二度寝したくなる。寝返りをもう一度だけ打とうとして、そこで晴美は飛び起きた。

「いけない!」

 差しこむ日差しの中で部屋の時計を確かめると、時刻はとうに自分の予定を過ぎていた。
 大わらわで着替えようとして、自分の服が無いと思い出し、いっそう焦る悪循環に陥る。

「ど、ど、どうしよう、どうしよう!?」
「おはよう!」

 客間のドアが開き、香が顔を覗かせた。

「良かった。目の隈も取れたみたいね。はいコレ晴美さんの服。今日のところはゆっくりしなさいって
黒田さん言ってたわよ。仕事には獠が行ってくれたわ」
「冴羽さんが?」
「本人は、ものすっごく嫌がってたけどね」

 まさかの展開に香も驚くしかないが、黒田は今朝一番に車をこのアパートに乗りつけてきた。
あまりの熱意に、獠が試しに「せめて酒おごってくれるなら」と持ちかけると、
「構わん構わん、全部終わった暁には好きなだけ振るまう!」と黒田は会心の笑みで答えた。
その瞬間、香は見た。獠の顔が悪魔のそれになったのを。
 ああ、言質とられちゃって可哀想に黒田さん。
 心の中で合掌しつつ晴美を見ると、なぜか彼女は思いつめたような顔でうつむいていた。

「晴美さん?」
「すみません。私、そういうの、イヤなんです」

 シーツを指先で握りしめて言った。

「皆がんばってるのに、私だけ、蚊帳の外なんて。メンバーには、女性も、年下の子もいるし。
ワガママかもしれないけど、でも、私は……」

 それ以上の言葉に詰まる晴美に、香は破顔した。

「そうよね」
「え?」
「その気持ち、ちょっと分かるわ。仲間が戦ってるのに、自分だけ仲間外れにされたら、
あたしも同じ事を言うと思う」

 一瞬遠くを見るようにしてから、ベッドの晴美に身を乗り出した。

「そうだわ! ね、今から一緒に行っちゃいましょうか。会社」
「今から、ですか」
「そうと決まったら、早く支度。あたしはご飯作ってくる。今から出れば、午前中には着けるでしょ」

 言うだけ言って、香はすたすたと出て行った。何だかお母さんみたい、と晴美は少々不謹慎な感想を抱いた。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 いざ家を出るまで、晴美は気が急いでならなかった。香は何とも優雅に朝食を用意していたし、
銀色のフォークを使って護身術の講義までする余裕ぶりだった。エンジンの温まったミニクーパーで、
運転席に着いた香が助手席を見ると、晴美はせっせとスマホの画面を触っていた。香は素朴に問いかけた。

「何やってるの?」
「地図検索してるんです。ここから会社も、けっこう遠かったはずですから」
「それなら大丈夫。昨日は買い物とかで寄り道したから、そう感じるだけよ。
 任せて、最短最速で送ってあげる」
「でも。この車、カーナビとか、付いてないですよね」
「本当は付いてるんだけどね。獠が使うなってうるさいのよ」

 正確には、ハイテク過ぎて香には手に負えないという理由もある。

「じゃあ行くわよ。しっかり、つかまってて」
「へ? ……きゃわっ!?」
「声出してると舌かむわよー!」

 そう言い放つ香の忠告は正しかった。急発進と急カーブの連続に、晴美の体は後ろに横に
ひんぱんに揺すぶられた。が、危うく取り落としそうになったスマホに出ている現在地表示を見て、
晴美は抗議せずにいられなかった。

「か、か、香さん! ここ、道、無いはずですけどっ!」
「それじゃ、今あたし達が見てるコレは何! 普通に道でしょ!」
「でも、でもー!」
「昨日、工事が終わったから通れるの! もう危ないから黙って!」
「はひぃ!」

 そんなやり取りを二、三度繰り返しながら、香たちは目的地に到着した。

「ほらね」

 言ったとおりでしょ?と香は胸を張ってみせる。時刻は予告どおりのお昼前。晴美の予想より
遙かに早かった。

「信じられない。ホントに、着いちゃった」
「この街は、あたし達にとって庭みたいな物だから。これくらい出来ないと生きてけないわ。獠ならもっと」
「え?」
「ううん、何でもない。それより獠に連絡しなきゃ。何で晴美さんを家から出したーって怒られたら
たまんないもの」

 そこで香は、深呼吸してからスマホを取り出した。続いて出した物は、小さな棒。
いわゆるタッチペンである。
 香は再び深呼吸をして、ペンを振りかぶった。

「せえ、の!」

 大げさに声を上げながら画面に触れる。やっと通話ボタンを押すと、香はスマホをぶら下げるような持ち方で
顔に近づけた。

「もしもし獠? 今、晴美さんの会社の前にいるの。晴美さん送ってきたから」
『来るんじゃない!』

 偶然スピーカー状態になっているのだろう。獠の怒声が晴美にも聞こえた。

『今のココは戦場だ。素人の入る場所じゃない』
「シロートって……あんたが晴美さんに言うのそれ?」
『っていうか今は目ぇ閉じさせてくれ。この休憩逃したら、網膜が終わる』

 鬱々たる語調に、香も恐ろしくなってきた。晴美は苦笑いして香に言った。

「黒田さんって、出来る人には怖いんです。期待されてるんですね冴羽さん」
「そ、そうなんだ」
「きっとその分、報酬も弾んでくれますよ」
「報酬? お金もらえるの? 獠はゲームやってるだけなのに」
「ゲームじゃなくてデバッグ。作業の速い人は貴重なんです」
「聞いた獠? スゴい、臨時収入じゃないの、どんどん稼いで!」
『簡単に言うなっ! だいたい何で俺がこんな』
「はいはい。それじゃお仕事がんばってねー」

 まくしたてる獠を無視して、香は通話を切った。と、晴美の視線に気がついた。

「どうしたの晴美さん。あたしの顔に何か付いてる?」
「香さんて、本当に、冴羽さんの事、うまく操縦してますね。お付き合い、長いんですか?」
「おつっ!?」

 我ながら意味不明の返しをしてしまった。

「な、な、な。何言い出すの晴美さん。あたし達はそんなんじゃ」
「ですよね。時間の長さと仲の良さは、関係ないですよね。いいなあ」
「あぅ、あぅぅぅぅ……」

 無邪気きわまりない晴美の言葉を、勘違いだと正す事さえ出来ずにいる香の頭は、沸騰するも同然だった。


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 ビルの中も外も賑やかな一方、一室だけ例外があった。最上階、ブラインドの閉められたその部屋では、
二人の男性が向かい合っていた。一人は肘掛け椅子に腰を下ろし、いま一人はその前に直立している。
 沈黙を破り、肘掛け椅子の人物が口を開いた。

「君、例の件はどうなっている?」
「現在、プロジェクトは順調です。優秀な人材が手に入りましたので」
「そうじゃない。それに、あのハッカーの件もだ。奴を一刻も早く特定したまえ。
データを流出させた上、あのような文章を隠すなど、質の悪い真似を」
「お言葉ですが。私は、ルーク氏がそこまで行なったとは思いません。
 彼は他者から託された真実を見破り、それを白日の下にさらしただけではないかと」
「他者? 誰だそれは」
「さあ。誰でしょうね」
「確か君は、子供も産まれたばかりだったな。今、不祥事の告発などあれば、厄介な事態になる事は
分かっているね?」
「……」
「まあいい。君が当てにならないなら、手段を変えるまでだ」
「それはどういう意味ですか」
「残念だよ。我が社の有能な社員が失われるのは」
「……!?」


* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *


 昇っていた陽もすっかり暮れて、獠と晴美は連れ立つ形で、歩いて駅へ向かっていた。
 当初は車で帰るつもりだったが、もう少しだけと引き止められた結果、ここまで帰宅が
ずれ込んでしまったのだ。

「……痛ぇ」

 こりゃ運転も危険だな、と獠は冷静に自分の身体を分析していた。今の自分が要するのは
嗜好品ではない。休眠だ。

「おっそろしい世界だなアレは。正直もう、こりごりだよ」
「そうですか? 冴羽さん、皆でご飯してる時、かなり話が弾んでましたよね。
銃の部品ごとの消耗のパラメータって、面白いアイディアですよ」
「そういう晴美ちゃんだって、熱く語ってたじゃないか。銃の音の話」
「ええ。あの効果音は、敢えて、入れてるんです。現実の銃は、あんな風に、かしゃんかしゃん鳴りません。
アレは、ロマンなんです」

 撃つ仕草の真似までして、晴美は快活に笑った。

「香さんにもお礼言わなくちゃ。本当は電話したいけど、香さん、機械苦手そうですし」
「ん? 別にアイツ、機械に弱くなんかないぜ。テープレコーダーとか自力で直せるし」
「て……? 待ってください、香さんて、何年生まれなんですか?」
「さーねー」

 煙に巻くような含み笑いをされると、それ以上は聞けなかった。

「でも、本当に冴羽さんて凄いですよ。あれで資格を何も持ってないなんて。
今からでも勉強してウチに入れば、もっといい待遇に」
「そうだな。今の時代なら、そうやって表舞台で生きられる奴もいるかもしれない。
 けど、そんな夢を見るには、俺は長く生きすぎた……かもな」

 どこか寂しげに言う獠に、晴美は首を傾げつつも話を続けた。

「私ももっと努力します。冴羽さん達に無理をさせなくて済むように」

 ガッツポーズを作る晴美に、しかし獠は眉をひそめて言った。

「分かってないな」
「え?」
「今日も本当は、上司から休めって言われてただろ。だから俺が代わりに出たんだ。
 もしかして君、何でも全部一人でやればいいなんて思ってないか?」

 言われた晴美の顔にも険が差した。

「何ですか、それ。冴羽さんは、本来、部外者なんですよ。そんな人に頼ってたら、
それこそ問題じゃありませんか。
 黒田さんだって、二言目には、あんな詐欺師を仲間に入れたいなんて言って」
「詐欺師?」
「決まってる。あのルークです。知ってます? ルーク(rook)って『詐欺』って意味なんですよ。
そんなフザケた名前で、ハッキングなんてして」

 言いつのられた獠は、僅かに目を見開いた後、ため息混じりに言葉を返した。

「そうか。君はそっちの意味で考えてたのか」
「そっちの……って、どういう意味ですか?」

 晴美が何の気なしに尋ねた時、獠の顔色が微かに曇った。

「悪い。ちょっとだけ、ここで待っててくれるかな」
「どうか、しました?」
「忘れ物しちゃってさ。くれぐれも動かないでいてくれよ」

 踵を返した獠は、駆け足で路地の角を曲がって突き進む。慌てて逃げる不審者の行き先を、
長いコンパスで先回りして立ちはだかった。

「見ない顔だな。新入りか?」

 この界隈の連中なら、どの組の者も一通り把握している。鉄砲玉を寄越すとは舐められたものだと、
獠は人知れず慨嘆した。
 相手の男は、形だけは威勢よく、こちらに短銃を向けてきた。が、その程度で獠が二の足を踏むわけもない。

「お前さん、撃つのは初めてか? 悪いこた言わん。怪我するぜ」
「う、うるせえ! あの女を寄越せ!」

 逆上気味にオートマチックを連射する男。が、本人の身体が定まってなければ、当たるものも当たらない。
獠はステップを踏むように弾を避け、距離を詰めていく。男は、化け物でも見るような表情でたたらを踏んだ。
直後に鳴った耳障りな音と妙な手応えに、男はパニックに襲われた。弾が出ない!

「そこまでだ」

 獠は左の手刀で、男の銃をはたき落とした。流れる動きで、自分のリボルバーを抜き、男の前に銃口を
つきつけた。

「覚えとけ。そういうのをジャム、弾詰まりっていうんだ。そうなったらオートは、もう役に立たない」
「あ……あ」

 全身が熱にうかされたように震える男に、獠は淡々と語る。

「伝言だ。次は、もう少し話の通じる奴を連れてこい。お前程度じゃ埒があかん」

 そう言ってから、一歩前に踏みこんだ。

「分かったら行け。俺の気が変わらんうちに」
「……!!」

 男は、半ば腰の抜けてしまった体を、引きずるように逃げて行った。男の行方を視認できない位置まで
見届けてから、獠はパイソンを服へ戻した。そんな彼らの一部始終を、壁越しにたたずむ人影が
愕然と見つめていた。



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