【3rd Day】


 翌朝、香は起きてすぐ、人の気配のない事を悟った。客間も空なら、獠の部屋も空っぽ。
しかもそのベッドの上には、無駄に達筆な字のメモ書きが1枚。


今日は晴美ちゃんと一緒にオフの時間を楽しみます。
 夕飯までには帰ります。獠



「まったく。アイツ、ガードしてる自覚あんの?」

 強いての救いは、食事は食べると律儀に書いている点か。不発になった料理ほど悲しい物はない。

「まあ、いざとなったら晴美さんも何とかするでしょ。一応教えたしね」


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 穏やかに晴れた空の下、獠は弾むような足取りで繁華街を闊歩する。
 そこから数歩遅れて、とてとてと晴美が続く。

「冴羽さん。私たち、何で、こんな所、歩いてるんです?」
「何で、って。散歩するのを楽しむのに理由が要るかい?」
「散歩、ですか」
「今日こそ君には、仕事から離れた時間を過ごしてもらう。俺も昨日で、一応お役御免になった事だし。
 こういう風に気分転換するのは、美容と健康のためにも必要だよ?」
「でも、私、こういう事、苦手で……きゃわっ!?」
「おっと危ない」

 絶妙なタイミングで抱きとめた。同じミスは二度しないのが信条だ。

「すみません。私、すぐ転ぶから」
「だから謝らなくていいって。っていうか君、いつも謝りすぎ」
「あ。すみません」
「だからー……。まあいいや。ホントに申し訳ないって思うなら、ちょーっと俺の頼みに付き合って
くれないかな?」
「頼み、ですか。私に出来る事なら」
「出来る出来る出来る! じゃ、さっそく行ってみよー!」
 獠は晴美の背中を押しやるような姿勢で、足早く歩き始めた。


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「こんなの、買うんですか?」
「だいじょぶだいじょぶ。似合ってるって」

 一度も入った事のなかった駅周辺の服飾品店で、晴美は獠に、全身の服を新調するよう促された。
 ヒザの出るミニスカートも、ヒールのあるパンプスも、生まれて初めての体験だった。

「歩く時にはヒザを伸ばす。それに、足の小指に体重が寄ってるから転ぶんだ。親指で歩くのを意識して」
「こうですか?」
「そうそう! いやー、やっぱ獠ちゃんの見立ては正しかった。素材はいいと思ってたんだ最初から」

 この世の春のような顔で獠は何度も首を縦に振る。

「よし、第一段階はクリアしたな。次は眼科と、それから美容院と」
「って、まだ続けるんですか、コレ?」
「当たり前ー! これからが本番じゃないの」
「えええええ!?」

 その後、目については黒縁眼鏡から、明るい色調の金属フレームに変えるという答えに落ち着いた。
 美容院では、晴美の癖毛が丁寧に櫛けずられた。
 百貨店の化粧品コーナーでは、色とりどりの品を並べられる中、晴美は石像のように固まって
座り続けていた。
 化粧のレクチャー(と実演)を一通り終わらせた店員は、上機嫌で晴美に言った。

「この度はお時間を頂き誠にありがとうございました。ところでお客様、ネイルの方に
ご興味はおありですか?」
「あ。私、それは」
「ただいま限定の特別サービス期間でして。是非」
「あー悪い。俺のカノジョ、ネイルやらないんで。行こう」

 獠は晴美の手を引いて歩き出した。そのまま二人で、再び繁華街を練り歩く。
 道でも店でも食事の際にも、行き交う人々が視線を向けてくる事を感じ取れた。

「ぐふふ、これで獠ちゃん謹製のもっこり美女完成! ……さあ晴美さん、今日の最終目的地を目指そうか」

 入った小道で、やおら声色を低くして、晴美の耳元に囁きかけた。

「まだ、どこか行くんですか? 私、ちょっと、歩き疲れて」
「そうだろう、疲れたら是非とも休憩するといい。今の時間帯なら、どのホテルだって入れるよ」
「ほて……っ!?」

 これまた人生で初めて聞く言い回しに、晴美は喉を詰まらせた。

「大丈夫。怖がらなくていい。誰だって最初は初めて……ひゃぶっ!?」

 台詞は最後まで続かなかった。抱きすくめたと思った晴美は見事に逃げおおせ、対する自分は地面に
打ちつけられている。どこかで慣れ親しんだこの動きは、香のそれだ。

「よ、良かった。おかげで、何とか」
「くぅ……香の奴め、晴美ちゃんに野蛮な技教えやがってー」

 いてててて、と声を出して身を起こす。
 晴美は、はっと思い立って、ハンドバッグからハンカチを出そうとした。

「すみません。顔、汚れちゃいましたね。……あっ」

 ハンカチを出した弾みで、バッグから白い小瓶が転がり落ちた。
 獠は首尾良くそれを拾い上げ、晴美に手渡した。

「駄目だろ、こいつは奥に入れとかなきゃ。大事な物なんだから」
「は、はい。って、ご存知なんですか? この、スポーツ用のマニキュアの事」
「……」

 問われた獠は、無言で目を逸らした。

「そうだわ。さっき、ネイルを止めてくれたのも、私がコレ使ってるのを、知ってたから」
「それ、剥がすの面倒くさいから。時間かかるのが嫌だっただけだよ」

 晴美は腑に落ちた顔を見せた。

「そうか。冴羽さんも使ってるんですね。指先の保護で。私はキーボードのために。冴羽さんは銃のために」
「何の事?」
「とぼけなくていいです。私、見ちゃいましたから」
「……」
「これは、本当にごめんなさい。待ってろって言われたのに、心配で、付いて行っちゃったんです。
 そうしたら、冴羽さんが、銃を持った人と、一緒にいて」
「……」
「私、いつか本物の銃で戦う人を見てみたかった。リアルな銃の世界を知りたかった。でも、本当に見たら、
怖かった。だって、あの小さな弾が当たったら、それだけで、人が死ぬんだって、分かっちゃって」
「そうだな。君の考えは正しい。あれは人を殺せる道具だ」
「けど……変なんです」
「変?」
「同じ銃でも、冴羽さんが構えてるのは、違った。うまく言えないけど、冴羽さんが戦ってるのは、
見ても、怖くなかった」
「ふぅん。そんならお言葉に甘えて、今日の芝居の幕を下ろしますか」
「え?」

 獠は、またもUターンして駆け、自分たちを尾行している者たちの前に躍り出た。相手は四人。
 が、彼らは急展開に泡を食う暇もなく、獠の肘、拳、脚、そして掌底を叩きこまれた。

「まだ夜じゃないから、近接格闘スキルで勘弁な」

 獠は、あっけに取られる晴美にウィンク一つしてから、前方の物陰に声を投げかけた。

「かくれんぼの方も終わりにしようぜ。出てこいよ」
「……まさか、ここまでとはな」

 驚きを隠せない様子で現れたのは、黒田だった。

「黒田さん!? どうして、黒田さんが私たちを?」
「落ちつけ晴美ちゃん。これから教えてもらえるさ。このタヌキの口からね」
「その呼び方、そのまま君に返そう。複数アカウント所持のハッカーさんにね」
「へぇ、やっぱ全部お見通し? まあ、俺も大して細工してなかったし」
「君こそ、はじめから計算済みだろう? 正体が知れてもいいと踏んでいる」
「あの……何の話ですか?」
「あ。すまん」

 このままだと晴美が置いてきぼりを食らってしまう。獠は咳払いをして、改めて黒田に言葉を向けた。

「話を戻そう。あんたは知ってるんだろ? 晴美ちゃんが狙われてる事情を」
「ああ。私は、桜木さんを襲うように命じられたんだ。安岐さんに」
「安岐さんが?」
「誰それ」
「ウチの社長です。ルークは大犯罪者だから、何としても捕まえるって言ってて。その安岐さんが、私を何で」
「私も詳しい部分までは教えられてないんだが。どうも桜木さんが持ってる、或る『鍵』のソフトを
探しているらしい。だが、密かに調べても見つけられずにいる。家捜しも無駄だったそうだ」
「だから奴は、晴美ちゃんから直に聞き出そうとしたと。で、あんたの立場は、言ってみれば二重スパイ。
社長の下につきながら、裏では事件の真相をリークして、暇人プレイヤーに暴かせた。
そして俺を雇い、晴美ちゃんをこっそり守ろうとした。ま、大体こんなところか」
「名推理だな。やはりウチのチームに欲しいよ君は」
「それはどうも。となると、問題は晴美ちゃんだな。その『鍵』ってやつ、何か心当たり、あったりしない?」

 話を向けられた晴美は、口許に手を当て、思案顔で言った。

「それは……もしかして、ですけど」
「あるんだな」

 晴美は獠の目を見て、こくりと頷いた。




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